忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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第十九話:偽りの調律

「ライブツアーか……」

 

窓外の薄明かりが差し込む練習スタジオの片隅で、私はスマートフォンの画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 

画面に表示されているのは、厳正なる抽選の結果、用意されたツアー初日の座席番号。一般の観客に紛れて、私は再びあの人の創り出した世界を凝視する権利を手に入れていた。

 

手元から視線を上げると、譜面台の上には、五線譜が載っていた。そこに並んでいるのはデビューに向けた、誰もが一度は耳にしたことがあるような、ありきたりな曲のバイオリンアレンジ。

 

その譜面を眺めていると、脳裏に過るのは、昨日行われた自己紹介動画の撮影後の、マネージャーとのやり取り。

 

『お疲れ様でした、ハルさん。ひとまずはこれで、ファーストステップとなる自己紹介の動画撮影は完了です』

 

カメラの赤いランプが消え、機材が片付けられていくスタジオで、マネージャーが満足げに頷いた。

 

『次は、本格的な演奏動画の公開に移ります。あなたのバイオリニストとしての技術を、最も効果的に大衆へアピールするための楽曲を選定しなければなりません。何か、あなた自身からリクエストはありますか?』

 

私は顎に手を当てながら、迷うことなく彼女の目を見据えて答えた。

 

『Ave Mujicaの楽曲を、カバーさせてください』

 

その瞬間、マネージャーの表情がぴくりと強張った。彼女は手元のタブレットから視線を上げ、どこか冷ややかな目を私に向けた。

 

『ダメです、ハルさん』

 

『どうしてですか? 同じ事務所のアーティストですし、今最も勢いのある彼女たちの楽曲をカバーすることは、私に注目を集めるプロモーションとしても、決して悪い話ではないはずです』

 

一歩踏み出して食い下がる私に、マネージャーは溜息すら吐かず、事務的なトーンのまま首を横に振った。

 

『これは上層部からの判断です。デビュー前の新人が安易にその楽曲を消費すべきではない、と』

 

『……』

 

『それにね、ハルさん。これはここだけの話ですが……』

 

マネージャーは少し声を潜め、スタジオの扉の方を気にするようにして言った。

 

『Ave Mujicaのリーダーである、あなたのお姉さんから直接、強い要望があったそうなのです』

 

――『ハルには、わたくしたちの曲を演奏させないで。あの子はまだ、その域に達していませんわ』

 

『……あの方に、そう言われたのですね』

 

『ええ。ですから、今は我慢してください。いつか、彼女達と肩を並べられるように調整します。それまではこちらで用意する曲でお願いします』

 

『わかりました』

 

私は感情を完璧に押し殺し、微笑みさえ浮かべてその決定に従った。

 

「まだ、その域に達していない、か……」

 

静まり返った練習スタジオで、私は譜面台の上の紙切れを、爪が白くなるほどに強く指先で弾いた。

 

彼女はどこまで私を拒絶すれば気が済むのだろう。私の音を空っぽだと切り捨てながら、その空っぽの器に、彼女たちの世界の残響を取り込むことすら許さない。

 

その時、スタジオの防音扉を静かにノックする音が響いた。

 

小さくため息を吐いて扉を開ける。 そこには、周囲の目を忍ぶように帽子を深く被った、初華の姿があった。

 

「初華ちゃん。どうしてここに?」

 

「ハルちゃんが入っていくのが見えたから……。ねえ、何しているの?」

 

私は何も言わず、無表情のままポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップし始めた。

 

「いや、ストーカーが不法侵入してきたから、とりあえず警察に……」

 

「ちょっと待って、警察はやめて!? 冗談でも事務所に知られたら大変なことになっちゃうから!」

 

初華が慌てて両手を振り、本気で焦ったように私のスマートフォンを覗き込んできた。その必死な様子に、私の口元から、ようやく今日初めての本物の笑みが零れ落ちた。

 

「ふふ、冗談よ。本当に呼ぶわけないでしょう」

 

画面を見せる。そこには警察のダイヤルではなく、ただのロック画面が表示されているだけだった。

 

「もう……本当に心臓に悪いよ、ハルちゃん」

 

初華はホッとしたように胸をなでおろし、大袈裟に息を吐いた。

 

「……心臓か」

 

彼女に聞こえないほどの小さな声で、私はその単語を唇の裏で呟いた。

 

ドクン、と。まるでその言葉に応じるように、胸の奥深くで、重く不規則な鼓動が跳ねた。冷たい鉄の塊が凝固していくような、鈍い痛みが肋骨の裏側を這い回る。

 

(……また、これだ)

 

屋敷で、完璧な演奏を求められて逃げ出したくなるような夜に、いつも私を苛んでいた感覚。当時は「精神的なもの」として片付けられ、深く吸い込もうとしても酸素が上手く行き渡らない窒息感に、一人で毛布にくるまって耐えていた。

 

あの頃の、弱くて哀れだった私の残滓が、ここ最近の激しい練習と、祥子への感情に呼応するようにして、最悪のタイミングで目を覚ましつつある。

 

初華に気づかれないよう、胸の上に添えそうになった左手を無理やりポケットの奥へとねじ込んだ。

 

 

「立ち話もなんだし、中に入ったら?」

 

私は扉を引いて、初華をスタジオの中へと招き入れた。 防音扉が重い音を立てて閉まると、外界の雑音が完全に遮断され、スタジオ内は再び奇妙な静寂に包まれる。

 

初華は帽子を脱いで、軽く髪を整えると、譜面台の上に置かれた五線譜に目を留めた。

 

「ハルちゃん。本当に同じ事務所でデビューするんだね。祥ちゃんから聞いた時は、驚いたよ」

 

「私もまさか姉様達と事務所になるとは思わなかった。それで、初華ちゃんも睦と同じように私を止めに来たの?」

 

私はわざと冷ややかな、相手を試すような声音で彼女を見据えた。

 

「ううん。私は、ハルちゃんを止めるつもりなんてないよ」

 

「……え?」

 

「だって、ハルちゃんが自分で考えて、悩んで決めた道だから、私が反対する理由なんてどこにもないよ」

 

誰のためでもない。「豊川ハル」としての意志を、彼女だけは最初から当たり前のこととして受け入れていた。

 

「それにね」

 

初華は一歩、私との距離を縮め、弾むようなトーンで言葉を続けた。

 

「同じ事務所にハルちゃんがいるなんて、私、すごく心強いよ。いつか一緒に、同じステージで仕事ができるかもしれないし」

 

「そうね、いつかそんな時が来ればいいね」

 

彼女の眩い笑顔を正面から受け止めながら、私は内側で冷酷な嘘を混ぜた微笑みを返した。同じステージに立つ時は、きっと、あなたたちが作り上げた世界を私が侵食する時。

 

「もうすぐ、ライブツアーね。今を注目のアイドルの初華ちゃんとなると緊張なんてしないでしょう?」

 

私の問いかけに、初華は「ううん」と小さく首を横に振った。

 

「そんなことないよ。私だって、ステージに立つ前はいつも、心臓が痛くなるくらい緊張するよ」

 

彼女はそう言って、苦笑交じりに自分の胸元に手を当てた。

 

「意外。Ave Mujicaの時はあんなに堂々と歌っているのに」

 

「ううん、そんなことはないよ。だから……こうして、ハルちゃんの顔を見に来たのかも」

 

「私の顔を?」

 

「うん。ハルちゃんの顔を見て、その、まっすぐな目を見ているとね……不思議と、自分の中心にあるものがブレずに済むような気がするんだ」

 

そう言って、彼女はスタジオの壁に背を預け、私に向かって悪戯っぽく微笑んでみせた。

 

「ハルちゃんの『目標』って、なに? この事務所で、ハルちゃんはどんなことをしたいの?」

 

目標──そんなものは決まっている。

 

「変なことかもしれないけど、いつか、Ave Mujicaと同じステージに立って、初華ちゃんや姉様達と一緒に音を重ねてみたい。それが今の、私の目標かもしれない」

 

口から出た言葉は、自分でも驚くほど滑らかだった。

 

耳に心地よい理想論。大衆が喜び、事務所の人間が満足し、そして目の前の心優しい少女を安心させるための、完璧に調律された音(言葉)の並び。

 

彼女は嬉しそうに目を細め、慈しむような眼差しで私を見つめた。

 

「ハルちゃんは変わったね」

 

初華の唇から溢れたその言葉に、ドキッとした。

 

――『ハルは、変わっちゃった』

 

楽屋の中で床を見つめていた睦の消え入りそうな声が、初華の言葉に重なって脳裏に蘇る。

 

「変わった?」

 

私は鏡に張り付けたような笑顔を維持したまま、譜面台のカバー曲の楽譜へと視線を落とした。

 

「うん、変わったよ。上手く言えないんだけど……」

 

初華はどこか遠い目をして、出会った頃の私たちを思い返すようにぽつりぽつりと語り出した。

 

 

「学校でのハルちゃんって、いつも教室の隅で、誰にも話しかけないように静かに本を読んだり、窓の外を見ていたし、クラスのみんながテストの事で話をしている時も、ハルちゃんだけは、どこか遠い世界にいるみたいで……。すごく物静かで、触れたら折れちゃいそうなくらい、頼りない感じがして」

 

 

初華の言う「かつての私」は、確かにそこにいた。

 

自分の意志など持たず、豊川家の……そしてクラシック界の「お人形」として生きていた、空っぽな私。

 

「今のハルちゃんからは、ちゃんと『自分の足で立っている』っていう感じがする。誰かに言われたからじゃなくて、自分の意志で、ここに進んできたんだなって。私、今の凛としたハルちゃん、すごく格好いいと思うな」

 

それは、純粋な賞賛だった。初華は本気で、私が過去の殻を破り、自立した表現者として歩み始めたことを喜んでくれている。

 

あの日、縋るような手を払い除けたこの私を……

 

「……そう、ありがとう」

 

喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷淡に響いた。

 

違う──。

 

私はただ、豊川祥子という存在や彼女が作った世界に狂わされ、彼女への想いだけをガソリンにして動いているただの壊れた駆動体に過ぎない。初華が言うような、美しく自立した表現者なんかじゃない。

 

「でも、格好いいなんて、私にはまだ早い。……初華ちゃんや睦に比べたら、私はまだ、何も持っていないのと同じだもの」

 

私は少しだけ口角をあげながら、五線譜の端をそっと指先でなぞった。

 

「ハルちゃん。少し手を出して」

 

言われた通り、初華に向かって左手を差し出すと自身のカバンから一枚のチケットを手に乗せた。

 

「これ、あげる。息抜きに使って」

 

「植物園のチケット?」

 

「うん。スタッフの人から貰ったんだけど、私、最近ちょっとスケジュールが忙しくて行けそうにないから。それにハルちゃん、花が好きって祥ちゃんが言っていたから」

 

「植物園……」

 

チケットの表面には、色鮮やかな大温室の写真と流麗なフォントで『国立植物園:初夏の代特別展示』と印字されていた。

 

「もしかして、こういう場所はあまり興味なかった……?」

 

私がその文字をなぞったまま数秒間ほど、沈黙してしまったせいなのか。初華は不安そうに私の顔を覗き込んできた。

 

「ううん、いままで植物園という場所に、一度も行ったことがなかったから」

 

「えっ?一度も?」

 

「屋敷の庭にはそれなりに花が咲いていたし、それに、私は体が弱かったからね」

 

「そっか……。それじゃあ、なおさら行ったほうがいいかもね」

 

初華は私の両手を包み込むようにして握った。

 

「初めての植物園なら、きっと良い息抜きになるよ。温室の中は静かだし、綺麗な花をたくさん見たら、胸が詰まるような感じも……少しは楽になるかもしれない」

 

「そうね。せっかくだから、行ってくる。ありがとう、初華ちゃん」

 

私はスマートフォンの画面を脳裏に思い浮かべ、手元に残る紙切れの感触を確かめながら、初華を見つめた。

 

「それから、初華ちゃん。ライブツアー見に行くから」

 

「え……っ、本当!?」

 

初華の瞳が、パッと大輪の花が開くように輝いた。まさか私が自分たちのライブに足を運ぶとは思っていなかったのだろう。彼女は弾んだ声で、私の手をぎゅっと握りしめた。

 

「嬉しい! ハルちゃんが来てくれるなら、私、もっともっと頑張らなきゃ。絶対に、最高のステージを見せるからね!」

 

「ええ、楽しみにしている」

 

私はまた、完璧な微笑みの仮面を被って頷いた。

 

「……あ、そろそろ私も次の仕事に戻らなきゃ。またね、ハルちゃん!」

 

初華は再び帽子を深く被り、手を振りながら嵐のようにスタジオを去っていった。

防音扉が閉まり、再び訪れる完全な静寂。

 

一人きりになった瞬間、私は張り詰めていた糸が切れたように譜面台に寄りかかり、深く息を吐き出した。

 

「さて……練習を再開しましょう」

 

自分を奮い立たせるように呟き、譜面台からバイオリンの弓を手に取った。その木製の冷ややかな感触が指先に馴染んだ瞬間、ポケットの中でスマートフォンが短く、鋭い振動を刻んだ。

 

楽器を置き、画面を確認する。マネージャーからのメッセージだった。

 

『ハルさん、次回の本格的な演奏動画の撮影スケジュールが決定しました。四日後の午前十時より、当事務所の専用スタジオにて行います。遅れぬよう調整をお願いします』

 

「四日後……」

 

その日付を目にした瞬間、私の指先が凍りついた。

スマートフォンの画面を操作し、先ほど確認したばかりの「ツアー初日」のスケジュールを呼び出す。

 

「どうして、この日なの……」

 

Ave Mujicaのライブツアー初日、手早く終わらせたとしても開演時間に滑り込むには、あまりにもギリギリの撮影スケジュール。

 

「諦めるしかないか……」

 

まるで、私があの世界に近づくことを、目に見えない何かがあるいはあの人自身が、全力で拒絶しているかのように――。

 

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