あの日から数ヶ月が経った。季節は巡り、私は新品に近い制服に身を包んでいた。
姿見の前に立ち、赤いリボンを整える。視線を少し上げれば、制服の襟元から覗くシルバーネックレスが、朝の光を鈍く跳ね返していた。あの日、姉様から手渡されたそのままの形で。
指先でその冷たい感触に触れるたび、あの中庭のバラの香りと、祥子の指先の体温が蘇るような錯覚がした。
「……行ってきます」
誰もいない部屋に、私の声が小さく溶けて消えた。
鞄を手に取り、静まり返った玄関ホールを抜けて屋敷の外へと踏み出す。
見上げる空はどこまでも高く、群青から白磁へと移ろうグラデーションの中を、一羽のイソヒヨドリが残酷なほど澄み切った鳴き声を残して横切っていった。
学校へと続く並木道は、瑞々しい若葉の香りに満ちており、道端に咲く名もなき花々や、登校を急ぐ生徒たちの、弾けるような賑やかな声。それらすべてが、透明な壁の向こう側で起きている遠い世界の出来事のように思えてならなかった。
花咲川女子高校まであと少しという、住宅街の静かな路地裏にふと、生け垣の隙間に動く影が見えた。
「……あ」
足を止めると、そこには一匹の野良猫が座り込んでいた。陽の光を吸い込んだような、柔らかな茶トラの毛並み。猫は琥珀色の瞳を細め、欠伸をしながら私を見上げている。
私は吸い寄せられるように、一歩、歩み寄った。
猫は逃げる様子もなく、ただじっと私を見つめている。その無防備な姿が、今の私には酷く羨ましく思えた。
私は膝をつき、猫の頭にそっと指先を伸ばした。陽だまりをそのまま形にしたような、確かな温もりが指に伝わる。
「ハルちゃん?」
驚いて顔を上げると、そこには私と同じ制服を着た一人の少女──クラスメイトの三角初華が立っていた。
彼女は淡い金色の髪がふわりと肩に落ち、その瞳は柔らかい光を宿している。明るく、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「あ、おはよう。三角さん」
「初華でいいよ」
「あ……」
私の指先から、陽だまりの温もりが不意にすり抜けていった。
茶トラの猫は、初華の声に驚いたのか、くるりと身を翻すと、生け垣の奥へと音もなく消えてしまった。
「あー驚かせちゃったかな。ごめんね、ハルちゃん」
初華は申し訳なさそうに眉を下げて笑った。その屈託のない表情を見ていると、不思議と責める気にはなれなかった。むしろ、彼女がまとう春風のような柔らかな空気が、私の周囲に張り詰めていた静寂を、優しく解きほぐしていくのを感じた。
「……ううん、大丈夫。ちょうど学校に行かなきゃって思ってたところだから」
私はスカートの土を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、一緒に行こうよ!」
初華が弾むような声で言い、私の隣に並びながら、若葉の揺れる通学路を歩調を合わせて歩き出した。
隣を歩く彼女の横顔に、私は思わず見惚れてしまった。
春の柔らかな光を吸い込んだような、淡い金色の髪。瞬きをするたびに、長い睫毛が繊細な影を頬に落とす。その姿は、どこか現実味を欠いた絵画のような美しさを湛えていた。
「あ、見て! ハルちゃん、あそこに可愛い花が咲いてるよ」
初華が不意に足を止め、民家の石垣の隙間に顔を覗かせた小さな白い花を指差した。それは、春の陽光を精一杯浴びて、零れ落ちるように群生している。
「これ、なんていう名前か知ってる?」
彼女が小首を傾げて私を見上げる。その曇りのない瞳に向けられ、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……アリッサム。和名だと、庭薺(にわなずな)っていうの」
「アリッサム……。へぇ、名前まで可愛いんだね。ハルちゃん、物知りだね」
初華が感心したように瞳を輝かせる。
私は少しだけ気恥ずかしくなり、視線をその白い花びらへと逃がした。
花に詳しいのは、決して高尚な趣味があったからではない。
体が弱く、外に出ることが許されなかった幼い頃。母はいつも私のベッドの傍らに座り、色鮮やかな花の図鑑を広げてくれた。
「ハル、これを見て。これはアリッサム。花言葉は『優美』や『飛躍』。今は外に出られなくても、いつかあなたの奏でる音は、この花のようにたくさんの人を包み込むのよ」
窓越しに見るだけだった外の世界。ページの中に閉じ込められた鮮やかな色彩と名前を一致させることが、幼い私にとって、いつか母と一緒に外を歩くための、密かな「予習」だったのだ。
(結局、その願いが叶うことはなかったけれど……)
胸の奥をかすめる寂寥感を振り払うように、私は小さく息を吐いた。
「ハルちゃん?」
私の沈黙を察したのか、初華が覗き込むように私の顔を見つめた。その眼差しは、どこか星を観察する天文学者のように真剣で、それでいて温かい。
「……ううん。ただ、この花の花言葉が『優美』だったのを思い出して。今の三角……初華ちゃんに、ぴったりだなって思って」
「えっ、わ、私に!?」
初華は予想外の言葉に、頬を林檎のように赤らめてうろたえた。
その仕草が、先ほどまでの「美しすぎる少女」から、年相応の「可愛らしい同級生」へと引き戻され、私は思わず小さく微笑んだ。
「さあ、急がないと予鈴が鳴っちゃう」
「あ、待ってよハルちゃん! もう一回、その花言葉教えて!」
追いかけてくる彼女の足音と、遠くで鳴り響く始業の鐘。
シルバーネックレスを首に下げたままの私を、春の風がほんの少しだけ、前へと押し出した気がした。
放課後、校門を出た私は駅の反対側にある古い音楽店へと向かった。
重厚な真鍮のドアノブを回すと、カランという乾いたベルの音が響いた。
店内は、年月を重ねた木材と松脂の混ざり合った、落ち着く香りに満ちている。壁一面に掛けられたチェロやコントラバスのシルエットが、夕暮れの光の中で静かに呼吸をしているようだった。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。待っていたよ」
奥の工房から、眼鏡を額に上げた老店主が顔を出した。私は軽く会釈をして、カウンターへと向かう。
「一昨日預かったヴァイオリンだけどね、やっぱり
「弾き方、ですか?」
問い返した私の声は、少しだけ上ずっていた。
店主は深い皺を刻んだ手で、黒いケースを差し出した。蓋を開けると、そこには磨き上げられた愛器が横たわっている。
「音の芯が、以前よりも少し……鋭くなっている気がしてね。でも、調整は完璧だよ。鳴らしてごらん」
私は促されるままに楽器を構えた。顎当てに触れる感触、左指が弦に触れる感覚。軽くピチカートを鳴らす。
確かに、以前よりも音が引き締まり、どこか冷たさを孕んだ響きが指先に跳ね返ってきた。店主の言う「鋭さ」の正体は、私自身の心の変質なのかもしれない。
「……ありがとうございます。これでおいくらですか?」
「いいよ、今回は微調整だ。また何かあったらおいで。おや……」
店主がふと、窓の外に目を向けた。
乾いたアスファルトに、黒い斑点がポツポツと広がり始めている。次の瞬間、空が急速に鉛色に染まり、激しい雨音が屋根を叩き出した。
「ひどい降りだ。少し雨宿りしていきなさい」
「いいえ。この後、予定があるので……」
「しかし、楽器を濡らしては台無しだよ。もう暗くなり始めているし、危ない」
店主の制止を背中で聞きながら、私はヴァイオリンケースを制服の中に隠して、外へと飛び出した。
(あの時も……そう。すべてが壊れる前も、こんな雨が降っていた)
冷たい雨が頬を濡らす。
コンクールの結果は、金賞。
審査員からは「技術の端々に宿る情熱が素晴らしい」と、身に余る称賛を受けた。けれど、私の心を満たしていたのは賞状の重みではなく、胸元で揺れるシルバーネックレスの重みだった。これがあったから弾けた。彼女が守ってくれたから、私はあの舞台に立てたのだ。
早く、早くこの結果を伝えたい。
タクシーの窓を叩く雨音さえ、祝福の拍手のように聞こえていた。
けれど、屋敷の重厚な扉を開けた瞬間、私の期待は音を立てて崩れ落ちた。
祥子の部屋に入ると、そこには誰もいなかった。いつも置かれていた母の形見の人形さえも、消えていた。
「姉様……どこに?」
茫然と佇む私の背後に、冷徹な足音が響いた。振り返ると、そこには祖父が立っていた。
「戻ったか。ハル」
「おじい様、姉様は何処に行ったのですか?」
「あれが……お前たちの父が詐欺に遭い、豊川の家にあってはならない損失を出した。責任を取って身を引いたのだ。祥子にも同じことを伝えたが……あいつは、あのような男の元へ向かった」
「……え?」
「選んだのはあいつ自身だ。箱入りがどう生きていくつもりか……お前はここに残れ、あいつとは住む世界が違う」
あの日から、姉様とは連絡がつかなくなった。
なぜ連れていってくれなかったのか。なぜ何も言わずに消えてしまったのか。答えのない問いが、静かに重なり続ける。
不思議と怒りは湧かない。ただ、心にはぽっかりと、底のない穴が開いているだけ……
どれだけバイオリンを弾いても、どれだけ称賛されてもその穴から抜けていくようで、一向に満たされない。
むしろ、心に潜むのは言葉にできない負の感情ばかりだった。
(届けたいわけじゃない。誰に聴いてほしいわけでもない)
それでも──
もし、この痛みを、この欠落を理解してくれる人が、ひとりでもいたなら。
雨に打たれながら、私は今までの日々を思い出し、声を上げて泣いた。
激しい雨音は、私の嗚咽さえも無慈悲に飲み込んでいく。視界は涙と雨水で歪み、重く湿った制服が肌にまとわりついて、体温を奪っていく。
「……どうして……っ。どうして私だけを、ここに残したの……!」
コンクールの金賞。鳴り止まない拍手。そんなもののために、私はあの舞台に立ったわけじゃない。
ただ、彼女に「頑張ったね」と言ってほしかった。あの中庭で約束した、あの笑顔の隣で、一緒に音を重ねたかった。それだけだったのに。
私の「居場所」は、祥子が消えたあの日、雨の中に溶けて流れていった。