レコーディングスタジオの防音扉を閉め切った空間には、空気さえ凍りつくような静寂が漂っていた。
スピーカーから流れてくるのは、つい先ほど録り終えたばかりのカバー曲。粗を探すように耳を澄ませるが、何度聞き返しても、その音色はどこか薄っぺらく、魂を震わせるには程遠い未完の音。
「もう一度」
ミキシングコンソールを操作していたスタッフが、困惑したように顔を見合わせた。
「ハルさん、もうこれで同じ曲を十五回目ですよ。今までの二曲よりも良かったですし、技術的なミスは一つもありません。みんな満足していますよ」
「今の演奏は納得がいっていません。次はもっと、弦を深く、心臓を抉るような音を出します。もう一度だけ、テイクをください」
作者の意図を完璧に再現し、それを凌駕する。それはオリジナルに負けないためであり、何よりも、祥子たちが到達したあの高みへ届くための必須条件なのだから。
ヴァイオリンを構え、弓を弦に滑らせようとした瞬間、ガチャリ、とスタジオの重い扉が開く音が響いた。
「そこまでです。ハルさん」
背後から掛けられた制止の声に、私は苛立ちを隠せないまま弓を止めた。マネージャーが早足で歩み寄り、私の手からバイオリンを奪い取るようにして台座へ置く。
「スタッフの皆さんも限界です。貴女がここで無理を重ねても、祥子さんには決して追い付けませんよ。このままでは、貴女自身が自壊するだけです」
スタジオの隅に目を向けた。そこには、数時間もの間、交代もできずにコンソールに張り付いていたエンジニアたちと、疲労の色を隠せない照明スタッフたちがいた。彼らはみな、私の完璧主義に付き合わされ、その表情は一様に疲れ切り、どこか私を遠巻きに見ている。
「……すみません」
抵抗する気力すら削がれた私は、敗北を認めるようにバイオリンを収めた。スタジオ内にいたスタッフたちに短く謝罪の言葉を残し、足早にその場を後にした。
廊下に出ると、窓の外では夕暮れが高層ビル群を血のように赤く染め上げていた。
私は重いバイオリンケースを肩に掛け直し、歩きながら軽く左手の指を曲げ伸ばした。
何故か、先週のことがふと脳裏を過った。
あの喫茶店は、都会の喧騒から切り離されたかのように静かだった。初華と向かい合い、小テストの勉強をしていた時のことだ。窓の外、人混みの中に、見覚えのある背中が目に留まった。
「姉様……?」
私の声に、初華も窓の方へと視線を移し、瞬時に顔を輝かせた。
「祥ちゃん!」
初華が店を飛び出し、少し先を歩いていた祥子に駆け寄る。祥子は足を止め、初華の方を振り返った。
「初華……」
「偶然だね! もしよかったら、ここで少し休憩していかない?」
初華の誘いに対し、祥子は困ったように眉を寄せた。
「ごめんなさい。これから打ち合わせが……」
初華が残念そうに項垂れる姿を横目に、私は席を立った。
「少しぐらいいいじゃない、姉様」
私の姿を見た祥子は、わずかに目を細めた。
「ハル……貴女もいたの」
「ええ。それより、少し話がしたい」
「少しだけですわ」
祥子は諦めたように深く溜息を吐き、私たちは窓際の席に座り直した。
「何の用ですの? ハル」
「用ってほどじゃないけど、先ずはライブ初日おめでとう。これで解散の噂も消えたでしょう?」
「この程度で満足してはいられませんわ」
「えぇ、そうね。姉様はもっと、もっと高みに登れるものね」
隣に座る初華がいたたまれなさそうに身を縮める中で祥子は目を細めながら、冷ややかな視線が私を射抜いていた。
「でも残念。その日は動画撮影スケジュールが入ってしまって、現場を出られた頃には時間はとうに過ぎていた。ホント、あのスケジュールを考えた人に文句を言いたいくらい」
わざとらしく溜息を吐きながら、私はテーブルを挟んだ祥子の顔をじっと凝視した。
もし、上層部に圧力をかけた彼女なら、私がツアー初日に現れることさえも、その権力を使って事前に阻止することなど容易いはず。
「そう。それは残念ですわね。仕事が入ったのならそれに全力を尽くすのが最低限の義務。他人のせいにするような甘えは、この世界では通用しませんわ」
私の意図を察したのか、祥子は運ばれてきたダージリンに手を伸ばした。
もし彼女が私を遠ざけるためにスケジュールを操作したのなら、私の言葉に対してほんの僅かでも優越感や、あるいは拒絶のトーンが混ざるはず。
しかし、今の祥子の声にはそのどちらもなかった。
(祥子は無関係。だとしたら、あの嫌がらせのようなスケジュールを組んだのは、一体誰だというのか)
「祥ちゃん、そんな言い方しなくても……。ハルちゃんは本当に昨日、ギリギリまで頑張っていたんだよ?」
初華が私たちの間に漂う異常な緊張感を和らげようと、必死に祥子に声を掛けた。
「初華、甘やかすだけでは本人のためになりませんわ」
張り詰めた沈黙が卓上を支配する中、初華は私達二人の顔を交互に見つめ、いたたまれなさそうにアイスコーヒーのグラスを両手で包み込んだ。
「ねえ、祥ちゃん、ハルちゃん。今回のツアーが終わったら、三人でどこか遊びに行かない? 植物園でもいいし、少し遠出をして海を見るのも……」
「いいね。私は賛成。姉様、たまには羽を伸ばさないと」
祥子はグラスをゆっくりとテーブルに置く。
「わたくしは遠慮しておきますわ」
冷や水を浴びせられたように、初華の笑顔が凍りつく。祥子は視線を上げず、窓の外を流れる無機質な景色を見つめたまま続けた。
「今回のツアーが成功すれば、それ以上の仕事が舞い込んでくる。わたくし達に遊ぶ時間などありませんわ」
「祥ちゃん……」
「初華。貴女だって、分かっているはずでしょう? 『Ave Mujica』は、これから止まることなく飛躍する。……それに」
祥子はそこで言葉を切り、私へ視線を向けた。
「ハル。貴女だって遊んでいる暇などないはず。今まで温室で育った貴方にはそれ相応の仕事が次々と舞い込む。貴女が選んだのは、そういう道という事を少しは自覚しなさい」
「……そうね。姉様の言う通りかもしれない。でも、姉様。だからこそ、息抜きが必要だと私は思う」
「さっきも言ったはずですわ。わたくしにそのような時間は――」
「貴女だけじゃない」
私は言葉を被せ、今度ははっきりと祥子の瞳を射抜いた。
「初華ちゃんも、睦も……そして姉様も。今の『Ave Mujica』は、あまりにも張り詰めすぎている。解散疑惑が晴れたからといって、その内実が変わるわけではないでしょう?誰か一人が折れたら、すべてが瓦解してしまう。そんな危ういバランスの上に立っていること、一番分かっているのは姉様でしょう?」
祥子の眉がピクリと微かに動いた。
「ハルちゃん……」
初華が小さく声を漏らし、祥子は沈黙した。
「貴女が一番先に壊れてしまったら、私は妹として、それを黙って見ていることはできない」
私の口から出たその言葉は、嘘ではなかった。
もしも彼女が壊れてしまうなら、それは私の手によるもの。他の誰かや、目に見えない大衆の圧力によって、彼女が勝手に自滅することなど、私は絶対に許さない。
祥子は長い睫毛を伏せ、何かを押し殺すように深く息を吐いた。
「分かりましたわ。ツアーが無事に終われば……考えておきます」
カウベルが小さく鳴り、祥子の凛とした背中が外の光の中に消えていった。
****
「ツアーが終わったら、か……」
スマートフォンの画面に目を落とすと、デジタル時計の数字はまもなく午後五時を回ろうとしていた。地方都市の大きなホール。そのステージの幕が上がり、彼女達のマスカレードの時間。
「姉様たちは、今……本番の真っ最中かな」
ビルを出て、駅へと続く陸橋を歩いていると「ハルちゃん?」背後から掛けられたその声は、どこか自信なさげに震えていてた。振り返ると、そこに立っていたのは燈だった。
「燈ちゃん。久しぶり、どうしたの?」
私は咄嗟に痺れる左手をスカートのポケットへと滑り込ませた。仮面を貼り付けるように穏やかな微笑みを浮かべた。
「ハルちゃんが、歩いているのが見えたから……」
燈は気まずそうに視線を泳がせながらも、小さく歩み寄ってきた。その細い指先には、一枚の紙が、まるで宝物でも扱うかのように大切に握られている。
「何を持っているの?」
「あ、えっと……その……」
夕暮れの風に小さくはためくそれは、プラネタリウムのチラシだった。青いインクで描かれた星座盤のイラストが、西日に照らされて薄く光っている。
「プラネタリウム?」
「今日、特別な上映があるって。もし、よかったら、ハルちゃんも、一緒に……」
どうしても私を誘いたいという切実さが、その瞳が揺れていた。
「ええ、いいね。ちょうど私も、静かな場所に行きたいと思っていたところ」
私の返答に、燈の表情がふわりと明るくなった。
夕暮れ時のプラネタリウムのロビーは、驚くほど静まり返っていた。上映開始を告げる低いブザーが鳴り響き、私たちは吸い込まれるようにドーム型の施設へと足を踏み入れた。
リクライニングシートに深く腰を下ろすと、視界のすべてが巨大な夜空のスクリーンに覆われる。やがて室内を照らしていた琥珀色の照明がゆっくりと落ちていき、完全な闇が私たちを包み込んだ。
天井いっぱいに広がる、無数の星屑。都会の夜空では決して見ることのできない、圧倒的な光の群れが頭上でまたたいている。
燈が小さく息を呑む音が聞こえた。
「綺麗……ね」
私は隣の燈に聞こえるか聞こえないかほどの声で呟いた。
(星の世界……か)
ツアーが終わったら、星を見に行くのもいいかもしれない。作り物の世界ではなく。本物の空を見に行く。
それが私達の最後の馴れ合いなるかもしれない。
「ハルちゃん……祥ちゃんは家で何をしているの」
燈の問いかけに、私は息を止まりそうになった。彼女は祥子が屋敷を出たことを知らない。ここで真実を打ち明けるべきではないと直感し、私はごく自然に唇を動かした。
「……最近、ほとんど帰ってきていない。仕事でずっと忙しいから事務所で泊っているみたい」
私の言葉に、燈は小さく肩を落とし、寂しげに瞳を伏せた。
「そっか……。祥ちゃん、忙しいんだ」
「あれだけの曲を作るには集中力がいるから、屋敷に戻る時間も惜しいだと思う」
ドーム内に響くナレーターの声が、星座の物語を静かに語り継いでいく。
その神話の断片を聞いていると、古い記憶を思い出した。幼い日の夜、高台で祥子と同じ星々を見上げた日の事。
互いに星座の名称など詳しくなかった。ただ、「あの星の並びは、なんだか私たちみたいね」と、無邪気な熱を帯びた声で語りかけてきた。彼女は誰かと見た星の伝説を、まるで自分の宝物のように瞳を輝かせながら、私に教えてくれたものだ。
当時の私は酷い熱に魘されていて、彼女の言葉にぼんやりと相槌を打つのが精一杯だった。あの頃の私は、彼女の眩しすぎるほどの純粋さを、どこか遠い世界のものとして眺めていた。
(……もし、ツアーが終われば。あの頃のように、また姉様と……)
そう思った瞬間、脳内で別の声が響いた。
──いや、違う。
『力ずくで書き込ませてあげる』
そうだ。私は馴れ合いをしたくてこの業界に来たわけじゃない。
あの日、あのステージで素顔を見た瞬間、私の人生の目的はたった一つに定まった。私という存在を、真正面から彼女の魂に刻み込み、塗りつぶすこと。
それ以外はどうでもいい。
「ハルちゃん……」
暗闇の中、燈の掠れた声が鼓膜を震わせた。
「私、祥ちゃんの曲を聴いた時……CRYCHICの時はあたたかくて、眩しかった。でも、あの曲は私の知らない祥ちゃんの叫び……」
「燈ちゃんは、今の姉様の音楽が怖いの?」
私の問いかけに、燈はしばらく沈黙を守った。天上の星座がゆっくりと回転し、銀河の渦が私たちの頭上でその形を変えていく。やがて、燈の小さな吐息が漏れた。
「怖い……のかもしれない。祥ちゃんが、どんどん遠くへ行ってしまうみたいで。私たちが知っている『祥ちゃん』じゃなくないるみたい……」
「そうかもしれない」
上映が終わり、館内の照明がゆっくりと点灯した。急激な光に目がくらみ、私は思わず手で顔を覆った。
ロビーを出ると、自動扉の向こうには、いつの間にか厚い雨雲が広がっていた。先ほどまで都会を赤く染めていた夕暮れは完全に覆い隠され、重苦しい灰色の闇が街へと垂れ込め、星々は顔を隠していた。
「ハルちゃん……また、誘ってもいいかな……」
「もちろん。燈ちゃん、今日はありがとう。少しだけ現実を忘れられた」
燈は去り際、何かを言いかけて、結局何も言わずに会釈をして人混みの中へと消えていった。私は彼女の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、それからふらりと屋敷への帰路についた。
重厚な門扉が見えてきた頃、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
SNSには『若葉睦のパフォーマンスに会場は圧倒』という扇情的な見出しが躍っていた。しかし、写真の中の彼女は、魂をどこかに置き忘れてきたかのように茫然としていた。
「大丈夫、これも姉様が描いた筋書きのはず……」
胸のざわつきを抑えきれず画面を閉じようとした瞬間、それを遮るようにして、激しい着信の振動が手のひらを叩いた。画面に表示されたのは『初華』の二文字。
「初華ちゃん? まだ、公演が終わった直後のはずじゃ……」
通話ボタンを押し、耳に当てた受話器の向こうから聞こえてきた声は完全に余裕を失い、切羽詰まった声だった。
『ハルちゃん……! どうしよう、祥ちゃんが……祥ちゃんが!』
「落ち着いて、初華ちゃん。姉様がどうしたの?」
『ライブが終わった後、東京に戻ってきて……解散した直後に、祥ちゃん、急にふらっとして……そのまま。えっと……とにかく今、病院に!』
「どこの病院!? すぐに場所を教えて!」
私は心臓を掴まれるような衝撃と共に、左手の痺れも、バイオリンの重さもすべて忘れて、雨が降り始まめそうな夜の闇の中へ、なりふり構わず駆け出した。