忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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もう後戻りは出来なくなりました。


第二十一話:重荷の証明

 

既に面会時間を過ぎた病院は不気味なほど白く、静まり返っていた。

 

教えられた病室の重い扉をそっと開けると、幼い頃から嗅ぎ慣れた、あの忌まわしい薬品の匂いと共に、さらに深い静寂が私を包み込んだ。

 

「……ハルちゃん」

 

点滴のボトルが規則正しく雫を落とす枕元で、初華が座っていた。彼女の顔はひどく青ざめ、その瞳には拭いきれない不安が滲んでいた。

 

「初華ちゃん。姉様は……?」

 

「今は眠ってる。お医者さんは、極度の過労だって。命に別状はないけれど……」

 

初華はそこで言葉を切り、震える指先で祥子のカルテの端に触れた。そこには「心身の著しい消耗による急性ストレス反応」という、無機質な診断名が添えられていた。

 

「しばらくは安静が必要みたい。精神的にも、相当……」

 

横たわる祥子の顔は、月光に照らされて透き通るように白かった。舞台の上で見せる傲慢なまでの美しさは影を潜め、今にも霧となって消えてしまいそうなほど頼りなかった。

 

「初華ちゃん、ありがとう。後は私がついているから、もう帰っていいよ」

 

「でも……」

 

「ライブに移動で貴女も疲れているでしょう? もし、貴女まで倒れていたらどうするの?」

 

初華は力なく頷き、何度も振り返りながら病室を後にした。

 

再び訪れた静寂。祥子の傍らに腰を下ろし、彼女の細い手首に繋がれた点滴のチューブを見つめた。

 

「昔とは立場が逆転したね。姉様」

 

「……ハル?」

 

掠れた声。祥子がゆっくりと瞼を持ち上げていた。

 

「……わたくし、何を……。ああ、そうですわ。たしか駅で……」

 

祥子は天井を見つめたまま、記憶の断片を繋ぎ合わせるように何度か瞬きをした。そして、深く、重い溜息を吐き出した。

 

「気分はどう? 無理に動かないでいいから」

 

「無様……ですわね。わたくしとしたことが、このような場所で足止めを喰らうなんて」

 

「ライブで一体何があったの? 記事には詳しいことは書いていなかったけれど……」

 

「……睦が曲を間違えましたわ」

 

唐突な告白だった。祥子の瞳からいつもの鋭い光が消えていく。

 

「最初の一曲。睦が……ギターを弾く手を止めて、そのままステージで崩れ落ちた」

 

息を呑んだ。あのSNSの写真は、その決定的な瞬間のものだったのか。

 

「その場をどうやって収めたの?」

 

「わたくしがその場のアドリブで繋ぎましたわ。……観客には、それを『演出』だと思い込み、拍手を送った。けれど、ライブの後の打ち合わせで、運営側から何と言われたか……」

 

祥子の唇が微かに歪む。

 

「次のライブでも、同じ演出を取り入れてくれ……演奏を止めて崩れる姿が盛り上がる。曲の構成を削ってでも、その見せ場を固定してほしいと……。それは、Ave Mujicaに音楽など必要ないと言っているのも同然」

 

シーツを握りしめる祥子の指先が、白く強張っている。

 

「祐天寺さんは、それに賛同して。『客が求めていることをするのが、プロの仕事でしょ』と。睦は……何も言わなかった。反論もせず、ただ人形のように座っているだけ」

 

点滴の滴る音が、沈黙を際立たせる。

 

祥子の瞳にじわりと涙が溜まっていく。それは「豊川祥子」としても、「オブリビオニス」としても、決して人前で見せることのなかった、私も知らない剥き出しの弱さ。

 

「わたくしには、もうAve Mujicaしか……」

 

私はシーツの上にある彼女の細い手を握りしめた。点滴の冷たさが伝わってくる。かつて、暗闇の中で星を見上げたあの夜、彼女が私の手を引いてくれた時の温もりはなかった。

 

「姉様。もういい……今はゆっくり休めば、いい考えが……」

 

「その手を離して、ハル!」

 

「姉様?」

 

「貴女を見ていると……耐えられないのですわ!」

 

祥子が声を荒らげる。点滴の針が動いたのか彼女の顔が苦痛に歪む。

 

「貴女は、いつまでも『あの頃のわたくしたち』を、その純粋な瞳に映し出している。貴女の存在そのものが、わたくしに、二度と戻れない日々の眩しさを突きつける……!」

 

彼女は泣きながら私を真っ向から射抜いた。その瞳にあるのは、拒絶というよりも、もっと根源的な恐怖だった。

 

「姉様。何を言っているの?」

 

「貴女の存在自体がわたくしには耐え難い『重荷』でしかない!」

 

その言葉を口にした瞬間、祥子ははっとしたように息を呑み、自らの失言を悟ったように唇を震わせた。

 

「それが、姉様の本音……」

 

私は握っていた彼女の手をゆっくりと離した。シーツの上に残された祥子の指先が、居場所をなくしたように寂しく泳ぐ。

 

「ち、ちが……わたくしは、今のは……」

 

祥子は青ざめた顔で首を横に振った。必死に剥がれ落ちた「オブリビオニス」の仮面を拾い集めようとするが、一度割れてしまった鏡は、二度と元の姿を映し出しはしない。

 

私は立ち上がり、ベッドの上の彼女を見下ろした。

 

分かっていた。心のどこかで、ずっと気づいていたことなのに。いざ、最も愛する家族の口から言葉として放たれると、肺の奥が抉られるように苦しい。

 

「そうだよね。昔から私は、姉様の足を引っ張ってばかりだった」

 

私は静かにベッドから一歩、距離を置いた。

 

「バイオリンのコンクールで上手く弾けなくて泣いていた時も、身体が弱くて寝込んでばかりいた時も。姉様はいつだって自分の時間を削って、私の傍に居て、手を温めてくれた。私はずっと、姉様の優しさにぶら下がって、甘えて生きていただけの、ただの重荷という名の邪魔者だった」

 

「ハル、それは……!」

 

違う、と言いたげに手を伸ばそうとする祥子の動きはピタリと止まった。

 

「ごめんなさい……今まで気が付かなくて」

 

「は、ハル……まっ……」

 

私は祥子の言葉を最後まで聞かずに、重い防音扉を静かに閉めた。

 

無機質な病院の廊下に一人立たされた瞬間、足から力が抜けて、私はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

 

背中を預けた壁の冷たさが、衣服を透かして皮膚に刺さる。溢れそうになる涙を奥歯を噛み締めて強引に堪えた。

 

(バカみたい……本当に、何もかもがバカバカしい)

 

あの人のためにあの歪なバンドのために、色々と忠告をしたつもりだった。

 

初華にも、睦にも、これ以上張り詰めれば壊れてしまうと、あの危ういバランスを警告した。それなのに、彼女たちは私の言葉をほとんど無視して、勝手に暴走し、勝手に擦り切れ、こうして自滅するように疲弊している。

 

私の忠告に耳を貸さず、壊れていく睦。

 

それを利用して「演出」へと昇華させようとする悍ましい大人たち。

 

それに唯々諾々と従うにゃむ。

 

そして、すべてを一人で背負い込もうとして、無様に倒れた祥子。

 

そんな愚かな人間たちに、激しい怒りと共に、どうしようもないほどの愛おしさを覚えてしまう自分が、何よりも一番不愉快で、バカみたいだった。

 

「でも、姉様……私はどれだけ貴女に嫌われても、貴女がステージに立ってくれるだけで、私はそれでいいのよ」

 

膝を抱え、冷たいタイルの床を見つめた。

 

****

 

それから一週間後、マネージャー経由で祥子が退院したことを知らされた。それと同時に、あの時撮影したファッション誌が発売されると、世間は「宿命の麗しき姉妹」というセンセーショナルな見出しに一斉に飛びついた。

 

『オブリビオニスの祥子』と『天才ヴァイオリニスト・ハル』。

二人の写真は街の至る所に巨大な広告となって貼り出され、皮肉にも二人の名前をかつてないほど大きなものへと押し上げた。

 

しかし、現実はその華やかさとは対極にあった。

 

「ハルさん、次のスタジオへ移動しますよ」

 

祥子が退院してから数日後、都内の撮影スタジオの廊下を歩きながら、マネージャーが手元の資料をめくりつつ、私に話しかけてきた。

 

「今回の誌面、凄まじい反響です。上層部もこの路線をさらに推していきたいと考えていましてね。……ところでハルさん、今流行りのヘアスタイルに挑戦してみるのはどうでしょう?」

 

「どんな髪型ですか?」

 

「例えば、ハルさんは前髪も長いですし、『目隠れ』とかが似合うかもしれませんね。アンニュイな雰囲気がハルさんを引き立てると思うんです」

 

私がその言葉に困り、少しだけ視線を伏せるとマネージャーはふっと表情を和らげ、タブレットを胸に抱え直した。

 

「あなたは豊川の人間である前に、まだ多感な女の子。髪型くらいは、自分の好きなように自由にしていいのよ?」

 

その声には、ビジネスライクなマネージャーとしてのトーンではなく、どこか懐かしく温かく優しい助言の響きが含まれていた。

 

「自分の好きな、髪型……」

 

私は歩みを止めず、自分の前髪にそっと触れた。

 

自由にしていい、と言われても、今の私には自分がどうしたいのかさえ分からない。

 

その時、前方の角を曲がって、二人の人影がこちらへと歩いてきた。

 

一寸の乱れもない足取りで歩く祥子。そしてその隣には、無表情のまま彼女の影のように従う海鈴の姿があった。

 

私は咄嗟に足を止めて姿勢を正した。

 

「ごきげんよう、姉様。体調はどう?」

 

隣を歩く海鈴の視線が、わずかに私の方へと動いたのが分かった。しかし、祥子は──。

 

「ごきげんよう」

 

祥子は立ち止まることもなく、ごく小さな儀礼的な会釈を一つ返しただけだった。

 

彼女は私の顔を一度も見ようとはせず、ただの「同じ事務所のタレント」とすれ違うかのように、私の横を冷ややかに通り過ぎていった。

 

今の彼女の動作は、私を「妹」ではなく、完全に「赤の他人」として必死に扱おうとしているように見えた。

 

「ハルさん? どうかしましたか?」

 

マネージャーが不思議そうに覗き込んでくる。私は胸の奥に広がる痛みを完璧に押し殺し、何事もなかったかのように微笑んでみせた。

 

「いいえ、なんでもないです。いきましょう」

 

 

控室に入り、用意された漆黒のドレスに身を包む。

 

それは大手化粧品メーカーがスポンサーについた、有名ファッション誌のタイアップ撮影だった。重厚なシルクの質感が、今の私の冷え切った肌にまとわりつく。

 

スタジオに入り、照明の真下に立つと、私はカメラのレンズを鋭く睨みつけた。

 

「ハルさん、視線をこちらに。――そう、もっと鋭く、レンズの奥を射抜くように!」

 

カメラマンが興奮気味に声を上げ、何度もアングルを変えて私をフィルムに収めていく。求められるままに「ハル」という虚像を演じきり、一時間の撮影は無事に終了した。

 

「お疲れ様でした、ハルさん。本当に素晴らしい仕上がりになりそうだよ」

 

カメラのデータをチェックしているカメラマンの元へ、私が挨拶へと赴くと、彼は感嘆の溜息を吐きながら画面を私に見せてくれた。

 

「ありがとうございます。綺麗に撮っていただいて光栄です」

 

「しかし、本当に良かったよ。一時はどうなることかと思ったけれど、ハルさんに代役を受けてもらえて、クライアントも大満足のはず」

 

カメラマンが感心したように呟いたその言葉に、私の思考が凍りついた。

 

「代役ですか?」

 

私の声音に混ざった僅かな冷たさに気づく様子もなく、カメラマンは手元の機材を片付けながら呑気に続けた。

 

「あ、聞いていなかったのかい? 本来、この化粧品メーカーのタイアップはね、君のお姉さんに直々にオファーが来ていたものだったんだよ」

 

「姉様に?」

 

「だいぶ前の段階で、クライアント側は彼女を指名していたらしい。でも何があったのか、上層部の方から断りの連絡があったって……理由までは知らないけど」

 

カメラマンは「大人の事情」を察してほしいと言わんばかりに肩をすくめた。

 

「それで、代わりにハルさんに声がかかったというわけ」

 

(そういうこと……。すべて、最初から繋がっていたのか)

 

なぜ、コンクール以外の実績がない私にこれほど都合よく大抜擢の仕事が舞い込むのか。私は祥子のおこぼれを貰ったに過ぎない。

 

彼女が拒絶した椅子。そこに豊川の血を引くもう一人の人形として、私がただ都合よく据え置かれただけの存在。

 

撮影の撤収作業が進むスタジオの片隅で、私は近づいてきたマネージャーを真っ直ぐに見つめた。

 

「マネージャー。さっきカメラマンが言っていたこと、本当ですか?」

 

「え……? ああ、その件ですか」

 

マネージャーは少し気まずそうに視線を泳がせたが、やがて諦めたように小さく頷いた。

 

「はい、事実です。本来はこのタイアップ、祥子さんの予定でした。しかし、彼女自身が『Ave Mujicaの世界観に合わない』という理由で、キャンセルを申し出たのです。上層部も彼女の頑なな態度に手を焼いていましてね……」

 

マネージャーは溜息を交えながら、私の肩にそっと手を置いた。

 

「ですが、ハルさん。これは決して『代役』という不名誉なものではありません。ハルさんというキャラクターが、クライアントの要望に完璧に合致したからこその結果です。上層部も、ハルさんのこれからの可能性に大きく期待しているんですよ」

 

必死に言葉を繕うマネージャーの顔を見つめながら、私はポケットの中でペンダントをゆっくりと握りしめた。

 

(姉様が捨てた席で、私は代わりに踊らされている)

 

どれほど惨めで、どれほど泥をすすろうとも、どんな姿になろうとも私はこの道を進むしかない。

 

私はマネージャーの背中を追って、再び歩き出した。




これにて三章は終了です。
次の四章はとてもシリアスでしんどい展開になる予定です。
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