忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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今回から四章が始まります。
それに合わせて過激な表現が含まれるようになります。


四章:アナタのいない世界
第二十二話:赫い血


 

「はぁー、あとは数学と歴史……」

 

私は提出期限ギリギリの課題を机に広げながら、何気なくスマートフォンの画面に意識を向けた。

 

画面にはネット配信のバラエティ動画が表示されていた。

何気なしにタップするとスピーカーから流れてくるのは、コメンテーターが流行の音楽を軽薄なトーンで紹介していた。そして、その中で当然のように、あの名前が読み上げられた。

 

──Ave Mujica。

 

先のライブで起きた『若葉睦の演奏中断と、ステージ上での演技』。 画面の向こうのMCたちは、それが先進的なバンドの「計算されたパフォーマンス」であるかのように、都合よく書き立て、熱弁を振るっている。

 

画面が切り替わり、SNSのタイムラインや音楽ライターによる解説が次々と映し出される。

 

『あの完璧な計算に基づいた演出には鳥肌が立ちましたね──』

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

クラシックの世界であれば、ステージ上で演奏を止めて崩れ落ちるなど、奏者としての生命を絶たれる致命的な醜態の他にならない。

 

そんな濁ったノイズすら「美しい演出」として都合よく消費し、熱狂してみせるこのエンタメ世界の底の浅さにバイオリニストとしての私の矜持が、脳内で冷ややかに嗤っていた。

 

「これは、本気で音楽と向き合い、命を削って演奏している人間への侮辱」

 

そこまで思考を走らせた瞬間、私は笑みを漏らした。 音楽に対するその絶対的な不妥協の姿勢。不完全なものを生理的に拒絶するこの頑なさ。

 

「……ああ、嫌になる」

 

私はあの人と考え方が気味が悪いほど似ている。 かつて屋敷で互いの音を重ね合っていたあの頃から、私たちの根底にあるものは何も変わっていない。

 

いつだったか、初華から聞いた祥子の言葉が脳裏に鮮明に蘇る。

 

『演奏を疎かにするバンドに、一体どのような存在意義がありまして?』

 

あの凛とした、一切の妥協を許さない声音が、まるで耳元で再生されたかのように生々しく響く。

 

演奏よりも過激なパフォーマンスや話題性、見栄えばかりを求める周囲の人たちを、彼女は冷徹に切り捨てたのだという。

 

世界を敵に回してでも自分の音楽を貫こうとする、あの頑ななまでのプライド。

 

私は液晶画面の中で明滅する「Ave Mujica」のロゴを、ただ静かに見つめ返した。

 

その時、スマートフォンが短い振動と共に電子音を鳴らした。画面に表示されたのは『マネージャー』。

 

私は小さく溜息を吐き、液晶をスワイプして耳に当てた。

 

「はい、ハルです」

 

『夜分に申し訳ありません、ハルさん。今、少しお時間はよろしいですか?』

 

「はい。ただ、提出期限が明日までの課題を広げているところなので。できれば手短に済ませていただけますか?」

 

バイオリンの練習時間を確保するために、学業のタスクは一分一秒を惜しんで片付けなければならない。少しだけ事務的なトーンを混ぜて牽制すると、受話器の向こうのマネージャーは、いつもより心做しか重い息を吸い込んだ。

 

『分かりました。単刀直入にお伝えします。落ち着いて聞いて下さい』

 

一拍の静寂を置いて、彼女の口から告げられたのは、予想だにしない一言だった。

 

『先ほどAve Mujicaが、正式に活動休止を発表されました』

 

思考が一瞬、空白に染まった。手元で滑らせていたシャープペンシルの芯が、ノートの上でパキリと高い音を立てて折れた。

 

「……活動、休止……?」

 

『はい。先ほど連絡がきました』

 

「どういうことですか? 姉様はどうしてそんな決断を……何があったんですか!?」

 

受話器を握る手に強烈な力がこもる。頭の中が真っ白になる。

 

その瞬間、私の脳裏に人生で最も昏い地獄のような記憶がフラッシュバックした。

 

一年前の、あの雨の日。いつもなら聞こえるはずのピアノの音も、衣擦れの音もしない。どれだけ名前を呼んでも、どこにもいなかった。私に何も言わず、何一つ残さず、ただ煙のように私の前から姿を消した、あの日を。

 

「──っ、あ、……!」

 

(息が……!?)

 

椅子から立ち上がろうとした、その瞬間、胸の奥を巨大な万力で強引に締め付けられたような、凄絶な激痛が走った。肺に溜まっていた空気が一瞬で引き抜かれ、目の前がチカチカと不気味に明滅する。

 

(しまっ、た、このタイミングで──)

 

全身の血の気が引き、指先から急速に体温が失われていく。私はスマートフォンを握りしめたまま、机の端にすがりつくようにして、その場に膝をついた。

 

『ハルさん!? ハルさん、どうしました!?もしもし! 落ち着いて、深呼吸をしてください!!』

 

受話器の向こうから、マネージャーの悲鳴のような声が聞こえるがの声すら遠い水底のノイズのようで、まともに脳に届かない。

 

喉の奥からヒュー、ヒューと、掠れた鳴き声のような音が漏れる。

 

「……は、ぁ、……だい、じょうぶ……っです」

 

冷や汗が額から流れ落ち、カーペットに黒い染みを作っていく。私は必死に浅い呼吸を繰り返し、胸元を強く押さえた。

 

「それ、より……姉様、は……。何故、そんなことに、なったの……? 理由を、教えて……っ」

 

声が震える。ゼーゼーと喘ぐような呼吸の隙間から、私は這い出るような声で問いかけた。

 

『分かりません……。私たちも、その真相を知らされていないのです。今、事務所には各メディアやスポンサーからの問い合わせの電話が殺到していて、完全に手一杯の状態で……』

 

「姉様、に……連絡は……」

 

『繋がりません。個人の携帯に何度か連絡をしていますが音信不通です』

 

受話器の向こうで、別のデスクの電話が鳴り響く騒音が遠く聞こえた。事務所が、たった一つのガールズバンドの失踪によって機能不全に陥りかけている。

 

『……ハルさん。あなたの体調のこともあります。これ以上、あなたに無理をさせるわけにはいきません』

 

マネージャーの声が、ビジネスライクなトーンから、痛ましいほどの懇願へと変わった。私の病状を誰よりも恐れているのは、私自身ではなく、この秘密を共有する彼女なのかもしれない。

 

『まだ未確定ではありますが、ハルさんのスケジュールも、三日から一週間ほど、すべて白紙に戻して空けることになると思います。今はとにかく……休んでください。これ以上、貴女まで倒れるようなことがあったら、私は……』

 

「……分かり……ました」

 

私はそれだけ答えると、力を失った指先で通話切断のボタンを押した。

 

「くす、り……っ」

 

視界が歪み、世界がぐにゃりと傾く。床を這うようにして手を伸ばし、立ち上がろうとしたその時だった。

 

鉛のように重くなった足が縺れ、絨毯の端に捕らわれる。完全にバランスを完全に崩し、私は床へ向かって激しく転倒した。その拍子に、身体がすぐ横に置いてあった木製の大きな姿見に激突する。

 

ガッ、と鈍い衝撃が走った直後、自重を支えきれなくなった姿見が、私の横に向けて恐ろしい速度で倒れ込んできた。

 

鼓膜を突き刺すような、凄絶な破壊音が狭い部屋に炸裂した。鏡面が床のフローリングに激突し、無数の鋭利な破片となって文字通り四方八方へと爆散する。

 

「っ……!」

 

反射的に目を閉じ、腕で顔を覆おうとしたが、それよりも銀色の閃光が飛び散る方が圧倒的に早かった。凄まじい衝撃と共に、ひとひらの巨大なガラスの破片が、私の顔面を容赦なく切りつける。熱い、刃物で切り裂かれたような痛みが遅れて走った。

 

恐る恐る瞼を開こうとするが、左の目蓋から溢れ出したドロリとした熱い液体が、視界をまたたく間に赤く染めていく。

 

這いつくばったまま、サイドテーブルの引き出しからどうにか目当ての薬瓶を取り出し、震える手で錠剤を数粒、水もなしに噛み砕いた。喉を焼くような不快な苦味が広がる。

 

床に転がったまま、荒い呼吸を繰り返すこと数十分。薬が効き始めたのか、胸を締め付けていた万力がゆっくりと緩み始めた。

 

「はぁ、……はぁ……」

 

身を起こし、洗面所へ向かって血を洗い流す。鏡を覗き込むと左目の上下に走る赤い切り傷から、まだじわりと血が滲んでいた。

 

救急箱から大きめのガーゼを取り出すと、左目を覆うようにして乱暴に顔に貼り付けた。視界の半分が白い布で遮られる。

 

(連絡が付かないなら……会いに行けばいい)

 

あの人が今、どこにいるのか確証はないがあの場所にいるに違いない。私たちは酷いほど似ている。ならば、すべてを投げ出したくなったあの人が向かう先も、きっと同じはずだ。

 

私は室内着を脱ぎ、洗濯前の黒いオーバーサイズのパーカーを引っ張り出して頭から被った。フードを深く目深に被れば、左目のガーゼも異様な顔の傷も隠せる。

 

夜の底へ溶け込むように、私は静まり返った屋敷を抜け出し、街灯の光がまばらな道を一人で歩く。

 

アスファルトを踏みしめる自分の足音だけが、静寂に響いていた。冷たい夜風がフードの隙間から入り込み、顔の傷をジリジリと刺激する。

 

公演の近くに差し掛かった時だった。

 

「──ハル、ちゃん……?」

 

前方から歩いてきた人影が、私の行く手を塞ぐように立ち止まった。フードの隙間から見えたのは、街灯の光に照らされた、初華の驚愕に満ちた顔だった。

 

(どうして、こんな時に彼女が……)

 

心の内で舌打ちをしながら、その場から逃げるように足早に立ち去ろうと彼女の横を通り過ぎた。今の私には、誰かとまともに言葉を交わす余裕などない。

 

「待って、ハルちゃん!」

 

背後から鋭い声が響くと同時に、私の右手首が強い力で掴まれた。

 

「人違いです……」

 

フードの奥で、声を極限まで押し殺した。

 

左目を覆うガーゼに血が滲み、ジクジクとした痛みが脳の芯を刺激する。掴まれた右手首を振り払おうとしたが、初華の指先は驚くほどの強さで私の皮膚に食い込んでいた。

 

「嘘……。ハルちゃんでしょう? その声も、その佇まいも……間違いない」

 

「……離して、初華ちゃん」

 

「離さない!何があったの?」

 

初華の自由な方の手が、私の頭を覆っていた黒いフードへと伸びた。

 

「やめ──」

 

拒絶の声は間に合わなかった。乱暴に引き下げられた布地の下から、街灯の容赦ない白光の下に、私の顔が剥き出しになった。

 

「っ……!」

 

初華は息を呑み、あまりの凄惨さに一歩、後ずさりした。その拍子に手首の拘束が緩む。

 

「ハルちゃん、その怪我……何があったの……? まさか、誰かに襲われたの!?」

 

「ただの事故。部屋の鏡が割れて、その破片を少し浴びただけ。バイオリニストの命である右手と左手の指が無事なら、顔の傷なんてどうでもいい」

 

再びフードを手繰り寄せてその異様な容貌を隠した。

 

「そんなことより、初華ちゃんなら知っているでしょう。姉様はどこ? あの人は今はどこで何をしている」

 

初華は痛ましそうに視線を落とした。しばらくの沈黙の後、彼女の唇から絞り出すような告白が溢れた。

 

「……祥ちゃんは今、私の家にいる」

 

「貴女の家に……?」

 

「うん。ハルちゃんのコンクールの少し前から……事務所に詰め切りで練習してて…… 祥ちゃん、あの頃は家が遠いから帰る時間も惜しいって……言っていたから。だから、私のマンションに住んでいるよ」

 

初華の言葉を聞きながら、私はフードの奥で小さく目を細めた。

 

「ハルちゃん。私の家に来る? 祥ちゃん、きっとハルちゃんが来てくれたら……」

 

「いいえ。……今の私には、あの人に会う資格なんてない」

 

私は自分に言い聞かせるように言葉を区切った。

 

「会って、一体何を話せばいいのか分からない。 あの人を見て、今の私が冷静でいられる保証なんてどこにもない。会えば、またお互いを傷つける言葉を投げ合って、取り返しのつかないことになるかもしれない」

 

病室で私を『重荷』だと叫んだ祥子のあの狼狽した顔が、脳裏を過る。今の私は、彼女にとって過去の眩しさを突きつけるだけの残酷な鏡でしかないのだ。

 

「ハルちゃん……」

 

「だから、初華ちゃん。貴女に、言伝てを頼みたい」

 

夜風が私たちの間を吹き抜け、私の黒いパーカーの裾を小さく揺らす。視界の半分は白いガーゼに遮られたままだが、残された右目で初華の真っ直ぐな瞳を見つめた。

 

「私は、あの人が戻ってくるのを待っている。どれだけ時間がかかっても、あの人がもう一度、あの美しいマスカレードの舞台に立つその日まで」

 

ポケットの中で、また微かに痺れ始めた左手を強く握りしめた。

 

「……だから、今は何も考えずに、ゆっくり休んで、と。そう伝えて」

 

「ハルちゃん……本当に、それでいいの?」

 

初華の声は、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど微かに震えていた。

 

「ええ、これが最善のはず……今の姉様にとって、私は邪魔者でしかない。それから、初華ちゃん」

 

私は歩き出す寸前、フードの奥の鋭い一目を、彼女の瞳へと真っ直ぐに睨みつけた。

 

「この顔の傷のことは……絶対に姉様には話さないで」

 

「え……?」

 

「今の姉様にこの怪我を知らせて、これ以上余計な罪悪感やストレスを背負わせたくない」

 

「う、うん……分かった、言わない。祥ちゃんには、絶対に言わないから……!」

 

早くこの場を離れなければならない。これ以上、誰かにこの無様な姿を見せるわけにはいかない。しかし、一歩を踏み出したその瞬間、街灯の容赦ない白光が、私の残された右目の視界を鋭く刺した。

 

「──っ!」

 

世界がぐにゃりと歪み、強烈な眩暈が視神経を駆け抜ける。

 

よろけた拍子に、顔に貼ったばかりのガーゼの隙間から、堰を切ったように熱い液体が溢れ出た。どろりとした感触が頬を伝い、顎のラインを伝って、冷たいコンクリートの床へと音もなく滴り落ちる。

 

街灯の光に照らされたアスファルトの上に、小さな、けれど明確な赤黒い染みが広がっていく。

 

「ハルちゃん!?」

 

背後から初華の悲鳴のような声が響いた。彼女は弾かれたように駆け寄り、私の身体を支えようと手を伸ばす。

 

「来ないで……! 触らないでって、言っているでしょう……!」

 

フードの奥から這い出るような声で威嚇し、私は彼女の手を突き放そうとしたが、急激な失血と薬の副作用のせいか、私の身体にはもう、彼女を拒絶するだけの力すら残されていなかった。

 

「だめ、そんなの放っておけるわけない……! 屋敷の近くまで送るから。お願いだから、意地を張らないで……!」

 

初華は私の拒絶を完全に無視し、強引に私の左側へと回り込んだ。視界を失っている左目を庇うように、私の左手を自分の両手で包み込み、引きずるようにして歩き出す。

 

「……っ、離して……」

 

抵抗の言葉は、ただの虚しい呼気となって夜の静寂に消えた。

 

初華の細い肩に体重を預けながら私はただ、一歩一歩を足を運ぶしかできなかった。

 

ふと、視線を落とした瞬間に私は目を見開いた。

 

街灯の光に照らされた、初華の白いブラウスの肩口。そこに私の顔から流れ落ちた血が、べっとりと悍ましい赤色となって滲んでいた。彼女の純白な服を私の濁った血が容赦なく汚していく。

 

私はフードの奥で、そっと残された目を閉じた。

 

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