じっとりと肌にまとわりつく、夏の重苦しい熱気。それなのに私の身体はまるで真冬の氷水に浸されているかのような寒気を感じた。
(寒い……っ、どうして、こんなに……)
急激な失血による貧血の所為なのか、それとも、さっき無理やり噛み砕いた薬の副作用の所為なのか。視界の半分を覆う白いガーゼが、じわじわと重くなっていく。脳の芯を強烈な眩暈が何度も駆け抜け、足元のアスファルトがぐにゃりと波打つように歪んでいた。
「ハルちゃん、しっかり……! 起きて、目を閉じちゃ駄目だよ!」
私の左手首を必死に抱え、細い肩で私の身体を支えながら、初華が必死に声を張り上げている。彼女の綺麗な声が、今の私には遠い水底から聞こえる微かなノイズのようで、まともに思考がまとまらない。
「ハルちゃん、今度、事務所の近くに新しいカフェができるんだって。落ち着いたら、みんなで美味しいケーキでも食べに行かない?」
初華も私の異変に気づいたのだろう。私の意識をこの世界に繋ぎ止めるため、彼女はわざとらしく、ひどく明るいトーンで話し始めた。
「ふ、……ふふっ……」
私の喉の奥から乾いた、壊れた玩具のような笑い声が漏れた。
ケーキ、カフェ、みんなで──。そんな絵に描いたような幸福な世界は、とっくの昔に崩壊しているというのに……
「……ハルちゃん?」
「そうね。苦いコーヒーにパンケーキ……食べたいね……」
喘ぐような吐息の隙間から言葉を絞り出した、その時だった。
前方の街灯の下。コンビニの袋を片手に、たむろしている数人の若い男たちの声が、夜の静寂を切り裂いて私たちの鼓膜に飛び込んできた。
「あ、これマジ? Ave Mujica、活動休止だってよ」
「うわ、マジじゃん。結局さ、あの『演出』とか言ってたやつも、ただのキャパオーバーだったわけ? ダサ」
「所詮はさ、お嬢様たちの『バンドごっこ』だったってことでしょ。ちょっと売れたからって調子乗って、限界が来たらすぐおねんねかよ。笑えるわ」
スマートフォンの画面を覗き込みながら、彼らは下卑た笑い声を上げていた。
──ドクン、と心臓が、悍ましいほどの速度で脈打った。
脳の芯が、一瞬で沸騰するような錯覚。全身の毛穴が逆立ち、視界を覆っていた白いガーゼの奥で、左目の傷口が再びドロリと熱い血を噴き出すのを感じた。
(今……何て言ったの?)
『お嬢様たちの、バンドごっこ』
『限界が来たら、すぐおねんね』
あの人が、豊川祥子がどんな思いで積み上げて、Ave Mujicaという絶対的な世界。彼女が人生のすべてを賭け、守り抜こうとした「豊川祥子の音楽」をそんなドブネズミのような奴らに侮辱されることなど、絶対に許さない。万死に値する。
「──殺してやる」
「ハルちゃん!? ダメ、行っちゃダメ……っ!」
初華が腰をがっちりと腕を回していた所為か身動きが出来なかった。
死人のような私の身体の一体どこにこれほどの力が残されていたのか。自分でも分からないほどの狂気に突き動かされ、私は初華に抑えられながらも、男たちを睨みつけ、一歩を踏み出そうとする。
「離して……! 離しなさい、初華ちゃん! 許さない!あの生ゴミたちの舌を引き抜いてやる……! 姉様を……姉様の音楽を、侮辱する奴は、一人残らず……っ!」
「落ち着いて、お願いだから……!」
騒ぎに男たちが気づき、怪訝そうな顔でこちらを振り返ろうとした、まさにその瞬間──。
キィッ、と、激しい制動音を響かせて、一台の白い軽自動車が、私たちの真横へと滑り込むようにして急停車した。
運転席のドアが勢いよく開き、飛び出してきたのは、息を切らせたマネージャーだった。
彼女は驚愕の表情で初華の姿を見つめ、瞬時に事態の異常性を察知した。
「ハルさん! 三角さん……!?見つけ──っ!!ハルさん、その顔は……とにかく病院に行きましょう」
マネージャーは男たちの視線を遮るように私たちの間に割って入り、私の身体を強引に抱え上げて、軽自動車の後部座席へと押し込んだ。車内に流れ込むエアコンの冷気が、私の火照った皮膚を容赦なく刺す。
「三角さん、貴女は私が責任を持って自宅へ送り届けます。さあ、助手席に──」
「いいえ! 私も病院に付いて行きます!」
初華はマネージャーの言葉を遮り、強い口調で言い放った。
「ですが、三角さん、これは──」
「分かっています。ですが、これ以上ハルちゃんを一人にできません……! お願いします!」
初華の普段の柔らかさからは想像もつかないほど固い決意の瞳に圧され、マネージャーは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに小さく頷いた。
「……分かりました。乗ってください」
車が走り出すと、車内は重苦しい沈黙に包まれた。私は後部座席で初華に身を預けたまま、ただ荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「……ごめんなさい、初華ちゃん」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。
「……え?」
私の視界は、半分が白いガーゼで遮られ、もう半分も涙でぼやけている。流れる景色をぼんやりと見つめながら、私は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
「あの人たち……あんなふうに、初華ちゃんや姉様、Ave Mujicaを侮辱されたのに私は、何も言い返せなかった」
「……いいよ、そんなの」
初華の細い指先が、私の乱れた前髪を優しく払う。彼女の手のひらは、驚くほど温かかった。
「私も悔しかった。でも、ハルちゃんが代わりに怒ってくれたこと、すごく嬉しかった」
私は目を伏せ、初華の肩に額を預けた。
「だから、今は体をゆっくり休めて……」
彼女は私の手を取り、冷え切った指先に自らの体温を分け与えるように、強く、強く握りしめた。
車が大きな交差点を曲がり、病院の白い建物が視界に入ってきた。
夜間救急の窓口から、私はすぐに奥の診察室へと案内された。
白い天井と、容赦なく視界を刺す蛍光灯の光。初華がずっと私の右手を握りしめているのを感じていた。
「……傷はそれほど深くありませんが、これは少し、痕が残るかもしれませんね」
医師は私の左目の上下に走る切り傷を慎重に消毒しながら、淡々と告げた。
『痕が残る』その無機質な宣告に対しても、私の心は驚くほど平穏だった。バイオリニストの命である右手と左手の指が無事なら、顔にどれほど悍ましい醜い傷跡が残ろうとも、私の価値は何一つ変わらない。
「それからハルさん、何か強いお薬を服用されましたか?」
医師の問いかけに声を出せずにいると背後に立っていたマネージャーが、何故か躊躇いもなくその質問を引き取った。
「ここに来る前に薬を数錠、本人が服用したと思います。成分はこちらになります」
彼女は手慣れた手つきで、スマートフォンの画面に保存されていた薬のデータを医師に見せた。
「なるほど……。この成分なら、今の意識の混濁や疲労感は、薬の副作用によるものが大きいですね。失血による貧血も相まって、症状をより重くしているのでしょう。今日はこのまま、点滴が終わるまですぐ横のベッドで休んでいってください」
医師の言葉を聞きながら、私はフードの奥でぼんやりとマネージャーを見つめた。
なぜ、彼女が私の薬の成分まで正確に把握しているのか疑問に思ったがすぐに答えが見つかった。
(ああ、そうか……。あの薬を用意したのも、おじい様……豊川の息がかかった医師なのだから、事務所が把握していて当然か……)
「ハルちゃん……」
処置を終え、搬送用ストレッチャーで病室へ移動する傍らで、初華が痛ましそうに私の手を握り直した。点滴の冷たい液体が、静脈を通じて私の身体に流れ込んでいく。
「大丈夫よ、初華ちゃん。頭がうまく働かないのは、ただの薬の副作用……。だから、そんな顔をしないで」
私は残された右目で彼女を見つめ、ひどく冷えた微笑みを浮かべた。
点滴が落ちる無機質な音だけが響く静寂の中、急速に強い眠気が押し寄せてくる。
視界がとろりと溶けるように狭まり、意識の輪郭が掠れていく。今すぐこの暗闇に身を沈めてしまいたい──そう思った瞬間、私の脳裏を最悪な現実がよぎった。
(……あ、学校の、課題……)
机の上に広げたままにしてきた、明日が提出期限の課題。
バイオリンの練習時間を一分一秒でも多く捻出するために、絶対に今日中に終わらせるはずだったタスクが、まだ半分も終わっていない。
「どうしよう……。課題、まだ、途中、なのに……」
思考のまとまらない、縺れた舌でぽつりと呟いた私に、初華は困ったように、けれどどこか愛おしそうに眉を下げて、私の手をより優しく包み込んだ。
「もう……。こんな時まで、学校のことなんて気にしなくていいから……」
彼女の細い指の温もりが、冷え切った私の右手へと伝わってくる。その心地よさに抗う気力はもう残されておらず、私はゆっくりと、残された右目の瞼を閉じた。
私はその温もりに身を委ねるように、ゆっくりと意識を失っていった。
****
どれほどの時間が経ったのだろう。カチ、カチと規則正しく時を刻む時計の音で、私は目を覚ました。
点滴のボトルは既に空になっており、廊下の向こうの夜勤の看護師たちの話し声が微かに聞こえる。室内の明かりは落とされ、窓の外はいつの間にか、夜明け前の深い群青色へと移り変わっていた。
「目が覚めましたか、ハルさん」
カーテンの隙間から、パイプ椅子に腰掛けていたマネージャーが静かに立ち上がった。その顔には色濃い疲労が滲んでいる。病室を見渡すと初華の姿はなかった。
「……初華ちゃんは?」
「三角さんは、ハルさんが眠りについてから、私が責任を持って自宅まで送り届けました。あれ以上、彼女を病院に留めておくわけにはいきませんので、気分はどうですか?」
「まだ、身体が重たいです。でも、意識はしっかりしています」
「少しでもマシになったのならよかったです。ハルさん先ほど正式な決定が下りました。あなたは本日より二週間、正式に病気療養のため活動を停止となります」
「そうですか……」
不思議と何も思わなかった。むしろ、何故か活動休止を聞いて安心したような感覚があった。
「表向きの理由はそうですが、実際にはあなたの身を守るための措置です。Ave Mujicaが活動休止した今、各メディアは血眼になって情報を探しています。当然、祥子さんの妹であるあなたも、スクープの格好の標的になる。あなたをその狂騒から守るための猶予です」
「わかりました」
私はシーツの上で指先を軽く動かした。関節がわずかに軋む感覚があるものの、バイオリンを握ることに支障はない。これなら休止中でも演奏は出来そうだ。
活動休止を発表した今、祥子とAve Mujicaが動けないこの空白期間こそが、私にとって唯一にして最大の好機。
「Ave Mujicaという『絶対的な障壁』が動きを止めている今こそ、その差を埋める好機だと……そう思っているのでしょう?」
図星を突かれ、言葉に詰まった。
「……では、この二週間を、私はただ指をくわえて過ごせと?」
「いいえ。……練習は許可します。ただし、ハルさんは学生です、仕事の事よりも勉学に集中してください。もし、友達に何を聞かれても知らぬ存ぜぬを貫いて下さい。これが上層部から出された、妥協点ギリギリの指示です」
マネージャーの言葉に、私はわずかな安堵を覚えた。表向きは療養という名の監禁でも、この空白の二週間を自分の音を磨くことに費やせるのなら、それだけで十分だ。
「……分かりました」
フラつきながらベッドから立ち上がった私は、洗面所の鏡の前に立った。
昨夜の惨劇を物語るように、顔の左半分は分厚いガーゼで覆われている。私はその異様な姿を隠すように、長い前髪を指先で丁寧に掻き分けた。
「行きましょう、ハルさん」
マネージャーに促され、病院の自動ドアを抜ける。その入り口に制服を纏った初華がじっと佇んでいた。
「初華ちゃん、どうしてここに?」
私の声に、初華が弾かれたようにこちらを振り返る。その表情には、安堵と、隠しきれない不安が入り混じっていた。彼女は私の姿を確認するなり、駆け寄ろうとして――私の顔の包帯を見て、その足を止めた。
「ハルちゃん、……もう、大丈夫なの?」
「ええ。薬の副作用も抜けたし、あとは帰るだけ」
マネージャーの車に乗り込むと車内には昨日と同じ、ひんやりとした無機質な空気が流れていた。初華は私の隣に座ると手を伸ばし、私の手の上に自らの手を重ねた。
「……ねぇ、ハルちゃん」
初華は車内の緊張を避けるように、私の耳元で極限まで声を潜めて囁いた。
「祥ちゃんのこと……もし、ハルちゃんがどうしても会いたいなら、私が何とかするから。だから、あまり無理しないで……」
「ありがとう。でも、初華ちゃんも無理しないで」
私が静かに微笑むと、初華は困ったように、けれど何かを決意したかのように強く頷いた。
学校の正門前で車が停まると、初華は降りる間際、私の顔をじっと見つめた。その瞳の中に、昨晩の私の血に汚れた彼女の服の記憶が重なり、私は思わず目を逸らした。
「……またね。ハルちゃん」
初華が校門へと消えていく背中を見送りながら深く、静かな溜息をついた。
(……強いな、初華ちゃんは)
昨日、あの狂乱の夜。血に染まり、醜く顔を歪めて叫び散らしていた私を、彼女は最後まで見捨てず、支え続けてくれた。あの場面で、私のような激情の奔流に呑み込まれた人間に寄り添うことが、どれほどの精神的負荷を強いるものか。私なら、おそらく恐怖で一歩も動けなかっただろうし、誰かを──それこそ、祥子やAve Mujicaを罵倒するような男たちを前にして、あんなふうに守ろうとはしなかったはず。
「さて、ハルさん。次はあなたの番です」
「はい。お願いします」
マネージャーの言葉に私は深くシートに背を預けて、目を閉じた。