「既読はつかないか……」
休養という名の幽閉生活を強いられから、三日が経過した。
この三日間、祥子にメッセージを送るが反応はなかった。スマホの画面に映る無機質な「未読」の文字は、今の私と彼女の間に断絶を象徴しているようだった。
スマートフォンから視線を上げると目に入ったのは、敷地の境界線。その正門付近に人影があった。望遠レンズを構えた彼らは、獲物を狙う猛禽類のようでいて、その実、もっと卑近で不潔なものに見えた。
彼らは「野次馬」というよりも、腐ったものに群がる「虫」に近い。あのレンズの先にあるのは、姉の影を纏う私の傷か、それとも崩壊したAve Mujicaの残滓か。どちらにせよ、私のプライバシーを汚物で塗りつぶそうとする無礼な視線に、胸の奥で嫌悪が渦を巻く。
こんな状況では、バイオリンの弓を執る気になれない。この家の空気が、彼らの熱気で澱んでいるような気がしてならない。
現実から逃れるように目を背けた先、部屋の隅に置かれた真新しい姿見には、気怠げに佇む私の姿と、左瞼に刻まれた赤く生々しい傷跡があざ笑うかのように映し出されていた。
屋敷の空気に耐えかねて、私は自室を後にした。正門の喧騒を避け、屋敷の裏手にある中庭へと向かおうとする。静寂を求めて一階の広間に差し掛かると、常駐している使用人の一人が私の姿を目にすると、慌てたように歩み寄る。
「お嬢様、お顔色が優れないようですし、今は外に出られないほうが賢明かと存じます。門の外にはその……」
使用人の忠告は至極もっともだ。だが、今の私にはこの箱庭のような屋敷すら、息が詰まるほど狭苦しい。
幸いなことに祖父は理由は不明だが屋敷を不在にしている。彼が居ないという事実だけが、今の私にとって唯一の救いであり、この荒んだ日常におけるわずかな「安息」の源泉でもあった。
もし彼がこの屋敷に居たならば、私の心身の不調など「甘え」の一言で切り捨てられ、冷酷な叱責を浴びていただろう。
「大丈夫よ。庭を少し散歩するだけ。外の空気に触れるようお医者様にも言われているから」
私は彼女の言葉を軽く受け流すと、庭へと繋がる重厚な扉に手をかけた。
カチリ、と錠を外す音が静かな邸宅に響く。扉を開けると、湿り気を帯びた夕風がむき出しになった傷口をそっと撫でる。外の騒音から切り離されたその場所で、ようやく私は深く、深く息を吐き出すことができた。
高い垣根と裏口付近の柵。そこを隙間なく埋めるように植えられたコニファーに囲まれているため、この場所は通りからの死角となっており、外からの視線は届かない。庭に咲き誇る薔薇の濃厚な香りが、私の火照った鼻腔を支配する。裏口の錆びついた鉄扉に近づくと、その足元にひっそりと、しかし可憐に咲く白いヒナゲシが目に入った。
その脆弱な茎は、まるで風に折れそうなほど頼りない。私は膝をつき、その純白の花弁にそっと指先を伸ばした。
(確か、この花言葉は……)
私は喉元まで出かかっている言葉を探ろうと、目を細めた。
白いヒナゲシ。……どこかで、誰かに教わったはずだ。幼い日の母の柔らかな声か、あるいはもっと遠い、記憶の澱みに沈んだ誰かの教えか。
しかし、その記憶はひどく不安定で、まるで水面に映った月影のように、指で触れようとすると霧散してしまう。
「……っ」
焦燥感とともに、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚に襲われる。
バイオリンの楽譜なら、何万音もの旋律を完璧に暗譜できるというのに、たった一つの言葉さえ思い出せない。
私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、検索窓に『ヒナゲシ 白 花言葉』と打ち込んだ。
無機質な液晶の光が、私の顔を青白く照らし出す。検索ボタンを押すと同時に、幾つものサイトが瞬時に回答を提示してきた。
『白いヒナゲシの花言葉:眠り、忘却』
指先が止まった。画面に映し出されたその二つの単語は、あまりにも今の私に寄り添いすぎていて、冷笑を浮かべるしかなかった。
『忘却』
指先が震える。ヒナゲシの脆く儚い花弁を見つめていると、頭の中に響くのは、何度も繰り返されたあの人の言葉。
『我、忘却を恐れるなかれ』
その言葉は、何かに抗うための呪文か、あるいは自らに課した戒めのようだった。
検索結果のさらに下、関連植物として表示された『ナガミヒナゲシ』の項目が、ふと目に止まる。他の植物の養分を奪い、自らの繁殖のために周囲を支配し、勢力を拡大する。その強欲なまでの生存戦略。それは、まるで自分自身のように思えた。
私は、祥子という圧倒的な存在を「養分」にして、この業界で生きている。
彼女の思考を模倣し、彼女のおこぼれで延命しているに過ぎない。この僅かな休息を終えれば、私は再び消費される。そのことに気づいていながら、立ち止まることができない。
「忘却。全てを──」
あの人の音楽も、Ave Mujicaが紡いできた音も、私たちを取り巻くこの醜い狂騒も。もし忘却を司る彼女に全てを委ねたら、この不安から解放されるのだろうか。
気がつくと私はヒナゲシの細い茎を掴んでいた。指先に伝わる、今にも折れそうな脆い感覚に我に返り、慌てて手を離す。
「ごめんなさい……痛かったね、姉様」
唇から零れ落ちたその言葉に、自分でも驚いた。
なぜ、そんな言葉が出たのか。分からなかった。無意識に彼女をこの花に重ねてしまったのだろう。庭の奥から、風に揺れる木々のざわめきが聞こえる。まるで、私の愚かな独り言を嘲笑うかのように。
「……何を言っているの、私は」
その時だった。裏口の方から、聞き覚えのある二人の話し声が聞こえてきた。
「それでどうするの?」
「表があの様子だと出てこないし、仕方ないから明日の朝に出直すしか……」
そよと立希。彼女たちの声に確信を得て、私は左目を前髪で隠すと、裏口の扉を開け放った。
「その必要はありませんよ、二人とも」
私の言葉に、そよと立希は一瞬だけ絶句し、まるで幽霊でも見たかのような表情で立ち尽くした。無理もない。メディアが「療養中」と報じ続けていた人間が、突然、裏口の扉を開けて姿を現したのだから。
「立ち話もなんですから、こちらにどうぞ」
二人は怪訝そうな視線を交わしつつも、言われるがままに中庭へと足を踏み入れた。私はそのまま屋敷の裏手にあるガゼボへと案内した。
蔦に覆われた白塗りの西洋風東屋。手入れが行き届いているはずのその空間は、今の私と同じように、どこか冷たくよそよそしい空気をまとっていた。
「どうぞ、お掛けになって」
私は促すようにテーブルの席を勧めた。二人はわずかに戸惑いの色を見せたが、やがて重い足取りでベンチに腰を下ろした。
「療養中の割には、元気そうに見えるけど」
立希は腕を組みながら、私の顔を見た。
私は薔薇の棘が絡みつく支柱にそっと手を添え、少しだけ頬を緩めて微笑んだ。
「ええ、今日はとても気分がいい方よ。二人が来てくれたおかげかな」
そよが少しだけためらいがちに立希の方を見た。立希は制鞄の中から一通のA4サイズの紙封筒を取り出した。
「……これ。欠席してた分の課題と配布プリント」
「ありがとう。でも、どうして立希さんが?」
「……知らない間に押し付けられただけだから」
立希はバツが悪そうに視線をそらした。
「立希ちゃん、さっきまでハルちゃんが心配だってずっと言ってたのよ」
「……ッ! 言ってない!」
立希が顔を真っ赤にして反論する様子を眺めながら、私は小さく笑った。
「顔が赤いよ」
私の指摘に、立希はさらに動揺してそっぽを向く。
かつて、祥子もこの二人とこんな風に、他愛のない冗談を言い合っていたのだろうか。
視界の端に映る、そよの柔らかな微笑と、立希の不器用な照れ隠し。その光景は、今の私にはあまりにも眩しく、そして酷く遠い世界のように感じられた。あの人はかつて、この二人との間にあった「温もり」を、何を代償にして切り捨てたのだろう。
「……随分と静かな場所ね、ここは」
そよが手入れの行き届いた庭園を見渡して小さく呟いた。
「姉様はここが好きだった。彼女は睦と一緒に、この庭をよく歩いていた」
私の言葉にそよの表情がわずかに曇った。睦の名前を出すこと自体が、今となっては禁忌に近いのかもしれない。
「あんたは?」
立希の問いかけに私は、視線を足元の白いヒナゲシへと落とした。
「私は……そうね。私はこの庭園の『観客』に過ぎなかった」
あの日々、私はいつも部屋の窓から、二人の背中を追いかけていた。姉様と睦。あの二人の間に流れる、言葉を介さない独特の空気感。私には決して入り込めない、閉ざされた楽園。私はその光景をただ眺め、いつかあの中に入り込みたいと焦がれ、彼女たちの紡ぐ「日常」という名前の物語を眺めていた。
「あの頃はみんな居て……姉様は、いつも楽しそうだった。あの人はいつも睦にだけ、本当の顔を見せていた。……私がどれだけ手を伸ばしても届かない、音楽以外の場所でね」
「ハルちゃん……」
名前を呼ばれ、そよの方に目をやると彼女は何かを言おうとして口を開き、すぐにそれを閉じた。
彼女もまた、祥子に「何か」を求めて、そして拒絶された側だからだろうか。今のそよの目には、私と同じ色をした深い暗い澱が溜まっているように見えた。
「そよ。そろそろ」
「えぇ、そうね……ハルちゃん。私達そろそろ練習に行かないといけないから……」
そよが少し名残惜しそう立ち上がりながら告げた。
立希もまた、私には視線を合わせたまま無言で小さく頷く。
「そっか……ごめんなさい。変に気を使わせたみたいで」
二人が裏門へと向かう背中を見送りながら、私は白いヒナゲシを見た。その時、歩き出していたそよが不意に足を止め、こちらを振り返った。
「ねえ、ハルちゃん」
「なに?」
「祥ちゃんはいま、何処で何をしているのか知っているのかしら?」
空気が張り詰めた。立希が「そよ?」と困惑した声を上げるが、そよは真っ直ぐに私を見据えていた。その瞳には、無音の中に消えてしまった祥子の行方を必死に探るような揺れていた。
彼女は初華のマンションに身を寄せている。だが、そこで何を考えて、何をしているのか私は知らない。
私は視線を庭の奥へと逃がし、噴水の向こうを見つめたまま、滑らかにあまりにも自然に嘘を紡いだ。
「姉様は今は出掛けている」
私は冷え切った声で、まるで遠い異国の天気予報でも告げるように言い放った。
そよはそれ以上、何も言わなかった。ただ「そう……」と寂しげに呟き去っていった。
私は彼女達の姿が見えなくなると、裏口の扉を閉じ、再び屋敷に戻った。窓から差し込む夕日はもう、地平線の向こうへと消えかけている。
部屋に戻ると、私は手放していたスマートフォンをベッドの上に無造作に投げ捨てた。その時、通知のランプが点滅していた。
『祥ちゃんが、喜んでくれそうなものってなにかあるかな?』
それは初華からのメッセージだった。画面を眺めながら、私は迷わず返信を打つ。祥子が好んで嗜んでいたチョコレートと、厳選されたアールグレイの茶葉の名を挙げた。
数分もしないうちに返信が届いた。
『ハルちゃん、ありがとう! ……調べてみたけど、金銭的に私には厳しそう……』
その文字を読んだ瞬間、私はハッとして、自分の軽率さに舌打ちをした。
(しまった……。載せるサイトを間違えた)
私は少しだけ心を落ち着かせ、再び指先を動かした。
『ごめんなさい、これは予約専用の商品だった。明日、持っていくから何処かで待ち合わせしない?』
送信ボタンを押すと、ほどなくして既読がついた。
『本当? ……ありがとう。明日の放課後、校門のところで待ってるね!』
(今はこれが正解のはず……)
私はサイドテーブルの上にあるペンダントを眺めた。
もし、あの時の私に戻れたら。全てをやり直せるとしたら、違う未来を歩いていたのかも。
(……いいえ、そんな仮定は何の役にも立たない)
指先から逃げていくのは、姉の体温の記憶ではなく、虚しい金属の冷たさだけ。
「もし」なんて言葉は、今の私にはあまりに贅沢で、そして残酷な毒に過ぎない。過去の分岐点を想像するたびに、私は今の自分という「結果」を否定しなければならなくなる。
私はペンダントを胸元に落とし、ベッドに深く沈み込んだ。
(仮定なんて、弱者が縋る甘い蜜……)
やり直す必要などない。私が目指すべき未来は、過去の修正ではなく、姉を今のこの泥沼から引きずり出し、彼女が再び「音楽」という神聖な領域に立つための「踏み台」になること。それこそが、彼女の「半分」としての私の唯一の役割。
それがいま私がやるべきこと、それが終われば、今度こそ──
「姉様……」
誰もいない部屋で、名前を呼ぶ。その声はあまりに小さく、誰にも届かない。
私は左目の痛みを隠すように、シーツに顔を埋めた。眠りに落ちるまでの僅かな時間、私はこの冷たい屋敷の中で、かつて彼女が教えてくれた優しい旋律を、壊れた蓄音機のように脳内で繰り返し再生し続けた。
それは呪いのように美しく、そして切ないほどに冷たい、私だけの旋律。