翌日の夕方。
初華との待ち合わせへ向かうため、人目を避けて裏口へと足を向けた時のことだった。背後から、凍りつくような低い声が私の鼓膜を震わせた。
「何処に行くつもりだ。ハル」
床を叩く硬質な革靴の音が、背後から無慈悲に近づいてくる。私は反射的に足を止め、振り返った。そこに立っていたのは、不在のはずの祖父だった。
(どうして、このタイミングに)
私のささやかな自由を許容する唯一の条件が、今、目の前で音を立てて崩れ去った。
「お帰りなさいませ。おじい様、少し外の空気を吸いに……」
私はフードを深く被り直し、左目の傷を隠すように顔を伏せた。しかし、彼はその程度の隠蔽など見抜いていると言わんばかりに、冷ややかな視線を私の顔面に突き刺す。
「その顔はどうした」
「不注意で、部屋の鏡を割ってしまって……」
祖父は何も言わず、ただ私に背を向けた。
「話がある。私の書斎へ来なさい」
拒絶を許さない絶対的な命令。私は抵抗の意思を肺の奥深くに沈め、「はい」と短く答えてその後ろをついて行くしかなかった。
「祥子が起こした、あの一連の報道は知っているな?」
書斎の扉が閉まると、重苦しい沈黙の後に祖父が口火を切った。
「はい、全て知っています」
「あれも、いい勉強になっただろう」
「勉強……それはどういう意味ですか?」
感情の欠片もない声色に、私は眉を寄せた。
「そのままの意味だ。あの一件で、多額の賠償請求が発生している。関係各所への違約金、ツアーの中止による払い戻し、運営の失墜。……祥子の個人的な責任としては、あまりに重すぎる額だ」
祖父は淡々と、しかし容赦なく事実を並べ立てる。
「今まで自由にしていたが、そろそろ潮時だろう。既にこちらで、関係各所への損害賠償を全額肩代わりした。これで祥子は、何も気にする必要なく戻ってくるだろう」
脳裏に浮かぶのは、初華のマンションで、人知れず膝を抱えているかもしれない姉の姿。私は二つの選択肢の間で激しく揺れ動いた。
祖父の元へ戻せば、経済的な破綻や社会的制裁は回避できるかもしれない。だが、音楽家としての彼女の心は死を示している。
一方で、初華の場所に留まらせれば、彼女は祥子という「個人」として生きられる。しかし、彼女はたった一人で莫大な損害賠償に立ち向かわなければならない。
──どちらが、彼女にとっての「救い」か。
祥子という人間は、何よりも自らの矜持を重んじる。翼を失った彼女はもう二度と羽ばたくことを諦めてしまうかもしれない。
「ハル、聞こえているのか?お前も祥子と同じ目に合わぬように──」
私は奥歯が折れそうなほど強く食いしばった。迷いは、もう消えた。私が進むべき道は、たった一つ。
「……おじい様。姉様の件、私に任せていただけませんか?」
「お前に何が出来る。お前も知っているだろう「豊川」の恐ろしさを」
祖父は容赦なく父を切り捨てた。地面師に金をだまし取られた父は一度のミスで「豊川」から永久的に追放された。今度は、姉も同じ目に遭おうとしている。
「私が!その賠償金……全て私が背負います!」
私は震えを抑え、言葉を紡いだ。
「今はまだ微々たるものかもしれません。ですが、これからの私の演奏やその他にも得られるすべての報酬、契約金、それに伴う一切の利益と私の留学資金を、姉様の負債の返済に充ててください。足りない分は一生をかけて、必ず完済します」
「……正気か、ハル。お前が一生かけて支払う額ではないぞ」
「正気です。その代わりに姉様を──今の場所で、自由にさせてください」
私は震える声で、必死に懇願した。
沈黙が書斎を支配する。数秒にも数分にも感じられた静寂の果てに、祖父が小さく、重い溜め息を吐いた。
「……お前がそこまで言うのなら、一度だけその覚悟を見せよう。だが、一度でも期待を裏切れば……その時は覚悟しておくことだ」
「……ありがとうございます」
書斎を出た私は、冷たい廊下で荒い息を整えた。
心臓がまだ、喉の奥で小刻みに震えている。だが、後悔は微塵もなかった。
廊下の突き当りにある大きな鏡で、自身を見る。左目を覆うガーゼとパーカーのフードの影。その近くにある花台に飾られた、一年前に撮った「豊川の令嬢」としての私の写真は、もう別人のように思えた。かつての私が纏っていた純粋な光は、今の私には酷く眩しく、同時に滑稽な過去の残像にしか見えない。
「……別人ね」
私は小さく呟き、震えの止まらない手でフードを深く被り直し、再び裏口へと向かった。
手早く街へ出た私は、あらかじめ手配していたチョコレートと、厳選されたアールグレイの茶葉を受け取った。姉への唯一の「献上品」を壊れ物のように大切に抱え、私は花咲川女子学園へと急いだ。
夕暮れ時の校門の横、まばらに通り過ぎる生徒たちの喧騒から少し離れた場所に、空を見上げている初華の姿があった。
「初華ちゃん。お待たせ」
声をかけると、彼女はパッと表情を明るくして駆け寄ってきた。
「ハルちゃん! よかった、来てくれて」
「ごめんなさい、屋敷を抜け出すのに時間が掛かった。待たせてしまったかな?」
「ううん、全然! 今来たところだから。……顔、傷は大丈夫?」
初華は心配そうに私のパーカーのフードを覗き込んだ。私は視線を逸らし、首を横に振った。
「大丈夫。偶に痛むくらい……それより、これ、昨日連絡したチョコと紅茶」
手提げ袋を初華に差し出した。彼女はそれを丁寧に受け取り、愛おしそうな笑顔を浮かべる。
「ありがとう、ハルちゃん! 祥ちゃん、すごく喜ぶと思う」
「そうだといいけどね」
役目は果たした。私は早々に踵を返し、その場を離れようとしたその時、初華が私の袖をそっと掴んだ。その指先は、まるで折れそうな小鳥のように頼りなかった。
「……ねえ、ハルちゃん。もし良かったら、私の家に寄っていかない? 少しだけ……祥ちゃんのこと、話したいの」
その提案は、私にとって甘美な誘惑だった。今の私には、姉がどんな顔をして、どんな風に過ごしているのかを確かめたいという好奇心があった。
たとえ、その光景が私の心を引き裂くものだったとしても。
それに、これからは私が賠償を肩代わりするのだ。姉と直接顔を合わせずとも、その生活環境を把握しておくことは、私の責務に思えた。
「……分かった。少しだけなら」
私たちは人目を避けるように路地裏を抜け、初華が住むマンションへと向かった。
オートロックを抜けた先にある無機質な廊下を歩きながら、私は胃の奥がせり上がるような緊張を覚えていた。
初華が合鍵で扉を開ける。
「ただいま。……あれ?」
リビングは静寂に包まれていた。夕闇が差し込む部屋を見渡しても、人の気配はない。テーブルの上には一枚のメモが残されていた。
「祥ちゃん、帰りが遅くなるみたい」
私は安堵の息を漏らしたが、ふと、部屋の片隅にあるロフトへと視線が向いた。
「初華ちゃん……あのロフトには、何があるの?」
「あそこは祥ちゃんの寝室だよ」
「寝室?」
私は梯子に手をかけ、一歩ずつ慎重に上った。
そこには質素な寝具とローテーブル、そしてノートパソコンが置かれていた。視線を巡らせると、かつて姉が大切にしていた母の人形が目に入る。
「お久しぶりです、母様」
私は人形を見つめたまま、独り言のように囁いた。
もし、今の私たちを母が見たら、なんて言うのだろう。
運命に翻弄され、愛する娘たちがいがみ合っている私達を、彼女はどんな表情で見守っているのか。
「叱ってくれるかな……」
そんな甘ったれた感情が、不意に脳裏をよぎった。
祥子は、母の死を誰よりも深く受け止め、そして誰よりも早くその「喪失」を自分の中で葬り去ろうとしていた。
「……もし、母様が今の姉様を見たら」
私は母の人形にそっと触れた。指先が、人形の質素な布地に触れる。温もりはない。ただ、静かな静寂だけがそこにあった。
「姉様を、抱きしめてくれるでしょうか」
そう呟いた瞬間、母の顔を思い出し、涙が流れそうになった。
「ハルちゃん?」
下の階から、初華の困惑した声が聞こえた。彼女は私がなぜ梯子の上で沈黙しているのか、計りかねているのだろう。
私は急いで表情を整え、人形から手を離した。
「……ごめんなさい。少しだけ、昔の事を思い出してしまって」
私は梯子を降りながら、何事もなかったかのように振舞った。
「コーヒーを淹れてるから一緒に飲もう」
「うん……ありがとう」
リビングのテーブルを挟み、私は初華と対面して座った。初華が丁寧に淹れてくれたコーヒーの香りが、部屋にわずかな温もりを運んでくる。
「初華ちゃん。姉様は何時もあそこで曲を作っていたの?」
初華はカップを握りしめたまま、ロフトを見上げた。
「……うん。ほとんどの時間を、あの場所で過ごしてた。それにあの劇も」
その光景が容易に想像できた。深夜になっても作曲を続ける姿。いくら、こちらが心配しても姿勢を正し、パソコンに向かっている。
視線を横に向けるとソファーのクッションの隙間から、一冊の本が顔を覗かせているのが見えた。
『血縁と宿命』──。
今となっては笑い話のようだが、当時は「美しき姉妹」というプロモーションのために、過剰な演出とライティングで飾られた写真ばかりが並んでいる。
ページを捲らなくても、中身は鮮明に脳裏に焼き付いている。あの頃の私は祥子との撮影を心から楽しんでいた。
「──っ!」
初華は私の視線に気づき、弾かれたようにソファーへと向かった。彼女はまるで熱い鉄板に触れたかのように、素早い手つきで写真集を掻っ攫い、自身のトートバッグの奥底へ押し込んだ。
「ごめんね、ハルちゃん。……片付け忘れてて」
「別にいい。……ただ、買ってくれたんだなって思っただけだから」
「だって……二人の写真、すごく綺麗だったから。……いまでも、時々見返しちゃうんだ」
バッグの隙間から覗く初華の瞳は、潤んでいて、私の視線をまっすぐに受け止める。その純粋すぎる想いが、今の私にはあまりにも眩しすぎた。彼女にとって祥子は救いであり、憧れであり、そして今は守るべき対象なのだろう。
「初華ちゃんは、本当に姉様のことが好きなのね」
「……大好きだよ。ハルちゃんも祥ちゃんも、どんなに世界を敵に回しても。……私は二人の味方になるから」
私は直ぐに言葉を返せなかった。
「……ありがとう」
沈黙が支配するリビングで、私は冷めかけたコーヒーに揺れる黒い水面を見つめた。
「姉様のことばかりになってしまったけれど……他のメンバーは、今どうしているの?」
初華は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「海鈴ちゃんは、今は他のバンドの仕事に戻っているみたい」
「……そう」
彼女はプロとして活動が出来るなら、AveMujicaにこだわる必要はないのだろう。
「睦は?」
初華は暗い影を落としながら、慎重に言葉を選んでいた。
「……ハルちゃんは、二重人格を信じる?」
唐突な問いかけ。だが、私は彼女が何を指しているのかすぐに悟った。睦という少女の中に潜む、もう一人の自分の事を……
「……モーティス」
私がその名を口にした途端、初華は肩を震わせ、小さく頷いた。
「知っていたんだね……」
「ええ、彼女と一度だけ話をした事があるから」
私はコーヒーカップをソーサーに置いた。微かな金属音が、静まり返った部屋に硬質に響く。
「写真集の撮影の前日、睦を家に送った日の夜に彼女は現れた」
初華は息を呑み、カップを置く手さえ止めていた。
「姉様に話そうと考えた。でも、信じてもらえる確証がなかった。彼女がどれほど睦を大切に思っていたか、私には痛いほど分かっているから」
もしあの時、幼馴染の抱える危うさを口にしていたとしても、姉は私の頭がおかしくなったと一蹴しただろう。
「あ、ハルちゃん。もう一杯淹れるね」
初華は空になった私のカップを持って、台所に向かおうとしていた。
「いや、遠慮しておくよ。そろそろ屋敷に帰らないと祖父がうるさいからね」
そう言うと初華は暗い顔をした。そんな彼女を尻目に私は立ち上がり、椅子の背に掛けていたパーカーを羽織った。フードを深く被り、傷跡を隠す。
「祥ちゃんに会わなくていいの?」
「気持ちは嬉しいけれど、今の私にはまだ、あの人に会う資格も、あの人の顔を見て平静を保つ自信もない」
もし今の姿のまま祥子と対面すれば、彼女は私の怪我を問い詰めるだろう。そして、私が賠償を肩代わりしたことを知れば、彼女のプライドは音を立てて崩れ去る。それは、私が命を賭して防ごうとした破滅そのものだ。
「……送るよ。せめて、エントランスまで」
「大丈夫、一人で帰れる。……また、連絡する」
マンションのロビーを抜け、街灯が並ぶ歩道へ出る。
夜の帳が下りた街は、どこか不気味なほど静まり返っていた。時折通り過ぎる車のライトが、アスファルトの上に私の長い影を投げる。
(これで良かったのよ。今のあの人に、この無様な姿を見せるわけにはいかない)
生温い夜風に吹かれながら、道の角を曲がった、その時だった。
街灯の光を背負い、こちらへ向かってくる人影があった。深く沈み込んだ足取り。肩を落としたその佇まいに、私は背筋が凍るような感覚を覚えた。
目の前には祥子の姿があった。
私はそのまま彼女の横を通り過ぎるべく、肩の力を抜いて進路を変えた。だが、彼女は身をかわそうとはしなかった。狭い歩道の中央で、私たちの肩が鈍い音を立てて擦れる。
「……ごめんなさい」
伏せられた視線の先で、彼女は掠れた声で呟く。私だと気づいているはずもない。フードの奥で表情を凍りつかせ、私は喉の奥で喉を鳴らすような低い声で応えた。
「……いえ。こちらこそ、前を見ておらず申し訳ありません」
努めて事務的に、他人のフリをして。
祥子は私の返答を聞くと、ふらつく足取りで再び闇の中へと歩き出した。彼女の背中は、まるで何か重い呪いを背負っているかのように、一層小さく見えた。
(会いたい。……でも、会ってはいけない)
私は歩みを緩めなかった。
背後で、彼女の足音が遠ざかっていく。そのリズムを聴きながら、私はフードの下で、血の滲むほど唇を噛み締めた。
執筆の関係で次回は再来週に投稿になりそうです。