ちなみに、微グロがありますのでご注意。
「行かないでくれ……祥子」
アパートの一室の畳の上で、父はまた同じ泣き言を繰り返した。
酒に溺れ、路上で果てていたところを保護されていた。警察署を出る時に警官たちの憐れむような視線が、わたくしの肌を刺した。醜態を晒し、尊厳を捨て去った父を、それでも「父」として抱えなければならないという現実に、吐き気がした。
父を薄汚れたアパートに残して、逃げるように初華のマンションへ向かう。
これ以上、初華に迷惑をかけるわけにはいかない。彼女の純粋な善意に甘え、居候を続けることは、わたくしの最後の矜持が許さなかった。
Ave Mujicaが瓦解し、今のわたくしに与えられた唯一の役割は、誰にも気付かれないように沈んでいくことだけ。
ふと目に入ったのは、街角に貼られたハルのポスター。
バイオリンを携え、どこまでも澄んだ青い瞳で遠くを見つめる少女。かつてわたくしの隣で、同じ屋敷の空気を吸っていた「妹」の姿。
(……ハル)
その端整な顔立ちを目にした途端、背筋に寒気が走った。
もし今のアパートに帰れば、いつかハルがわたくしの居場所を突き止めてやってくるのではないか。あの無邪気な眼差しで、今のこの無様な姿を見られるのではないか。
ふいに、喉の奥からあの時の言葉がこみ上げてきた。病室で、追い詰められた末に、あの子に向かって吐き捨ててしまった、あの言葉。
『貴女は、わたくしの重荷なの』
どんな言い訳をしても、きっと、あの子はわたくしを許してくれない。いいえ、許されるはずなどない。
思考の澱に沈み込みながら歩いていると、不意に誰かと強く肩がぶつかった。
「……ごめんなさい」
顔を上げると、わたくしと同じくらいの身長の人物が残暑が残る夜だというのに、黒いパーカーに身を包み、フードを深く被って顔を隠していた。
「……いえ。こちらこそ、前を見ておらず申し訳ありません」
ぶつかった相手はそう言い残し、フードを深くかぶり直しながら足早に去っていった。
その声──。
得体の知れない既視感にその場に立ち止まり、振り返った。
(……誰?)
闇へと溶けていくその背中を、わたくしはただ呆然と見つめることしかできなかった。まるで、自分が捨て去ったはずの過去が、今のわたくしをすり抜けていったかのような、奇妙な不安が胸を掠める。
街灯の光が途切れ、周囲が再び闇に包まれる。震える両手を強く組み、何かにすがるようにして、また重い足取りで歩き出した。
「……ただいま戻りましたわ」
鍵を開け、気まずさを抱えながらリビングへ足を踏み入れる。
「おかえり、祥ちゃん。……お疲れ様」
初華はいつものように、咎めることもなく、温かな微笑みで迎え入れてくれた。彼女のその「変わらなさ」が、今のわたくしには何よりも救いで、そして同時に、重くのしかかる鎖のように感じた。
視線をリビングのテーブルへ移した瞬間、思考は一瞬にして停止した。
そこには、かつて日常的に嗜んでいたあのチョコレートが置かれていた。それも、ただのチョコではない。取り扱いが極端に少なく、専門店でしか手に入らないもの。
「……これは」
声がかすかに震えた。初華はキッチンからコーヒーが入ったマグカップを運びながら、少し照れたように頬を染める。
「それは今日、偶然手に入ったの。祥ちゃん、これ大好きだったでしょう?喜んでくれるかなって」
その言葉は、あまりにも純粋で邪気がない。だが、胸の奥では警鐘が鳴り響いていた。今のわたくし達の経済状況で、こんな高級品を口にする事は余裕はない。
「初華……これをどこで?」
追及するように問うと、初華は困ったように眉を下げながら視線を泳がせた。
「えっと……それは、ちょっと知り合いから貰ったの」
「知り合い……」
彼女の微妙な表情に誰かを庇っている。それも、わたくしが深く関わりたくない、あるいは深く関わってしまった、誰か。
「……そう。ありがとう」
喉の奥に熱いものが込み上げる。
今の自分には、これを受け取る資格がない。突き返すべきなのに、わたくしの指は、意志に反してパッケージを裏返していた。
そこに添えられた、小さなリボンの結び方。その端正なループの形。
(……まさか)
この結び方は、幼い頃からハルに教え込み、彼女がずっと大切に守ってきた「しきたり」そのものだった。
「初華、その知り合いはここに来ましたの?」
初華は視線を逸らし、カップの縁を指先でなぞった。
「……ハルちゃんが、来たの」
その名前が告げられた瞬間、リビングの空気が凍りついた。やはり、という確信と、触れてはならないパンドラの箱を開けてしまったような戦慄。
「ハルが……ここに?」
「うん。……祥ちゃんのことを、すごく心配してた。チョコレートも、紅茶も……ハルちゃんが選んでくれたものだよ。祥ちゃんを元気付けるために、自分のお金を使って、わざわざ予約までして」
「そう……あの子は何か言っていました?」
「『待っている』って。どんなに時間がかかっても、またマスカレードの舞台に立つ日まで、ずっと。だから今は何も考えずにゆっくり休んで……そう伝えてほしいって」
「待っている」。あの子の前で堂々と解散させないと口にしたのに、結局はその崩壊を止める事が出来なかったのに……
「わたくしのことなど忘れていればよかったのに……」
ハルに吐き捨てた言葉の数々、あの病室での峻別、そして一方的な絶縁。それら全てを、あの子は許さないと覚悟していた。
「祥ちゃん、そんなこと言わないで。ハルちゃんはね、本当に祥ちゃんのことが大好きだし、今の祥ちゃんがどんな状態でも、味方でいたいって……」
初華の瞳が潤んでいた。
「わたくしには……音楽をする資格などありませんわ」
マグカップを置く指先が震え、中のコーヒーが微かに波打つ。
「わたくしのエゴが、ムジカと睦を自ら壊した。そんな人間に、もう一度舞台に立つ資格など……あの子が望む未来など、わたくしには一生届かない」
「そんな事はないよ……気にしないで」
初華が手を包み込もうとしたその手を振り払った。
リビングに重い静寂が降りる。初華は驚きに目を見開きながら見つめている。わたくしの呼吸は浅く、胸の奥から湧き上がるのは、激しい罪悪感と、それを凌駕するほどの自己嫌悪。
「ごめんなさい……。わたくし、少し……疲れているようです」
わたくしは、初華の返答を待たずに立ち上がった。
足元がおぼつかない。視界が急速に狭まり、頭痛が激流となって脳内を支配する。
「少し……休ませていただきます」
「うん……わかった。ゆっくりしてね、祥ちゃん」
初華はそれ以上、何も言わなかった。彼女の背中越しに、窓の外の夜空が暗く沈んでいるのが見えた。
ロフトの狭い空間に身を投げ出し、わたくしは硬いマットレスに顔を埋めた。
心臓が不規則に脈打ち、耳元で血が鳴る音がする。
(ハル……どうして、そんなに優しいの)
あの子が差し入れたチョコレートの香りが、どこからか漂ってくるような錯覚に陥る。
あの子は、わたくしが泥沼に足を取られている間に、ずっと遠くの光の中でバイオリンを弾き続けているはず。だというのに、なぜわざわざ自分を差し置いて、こんな沈没した人間のために動くのか。
「……愚かな子」
そう呟く声すら、自分のものとは思えないほど遠くで響く。泥のような疲労が、意識の奥底から迫り来る。
瞼を閉じると、そこは湿った土の臭いが立ち込める、色の剥げ落ちた世界だった。
「睦ちゃんなら、死んじゃったよ」
耳を塞ぎたくなるほど甘ったるい声が、背後から突き刺さる。振り返れば、モーティスが顔を歪めて笑っていた。
「ほら、見てごらん」
モーティスがふわりと横に退く。そこに置かれた古びた木製の椅子で、睦が眠っていた。
私は縋るように駆け寄り、彼女の手を掴んだ。……冷たい。凍りついた冬の川底に沈めた石のように、体温という概念が根こそぎ削ぎ落とされている。
「ごめんなさい……睦」
「どうして……どうして起きないの、睦」
耳元で、聞き覚えのあるの低い独白が響いた。
振り返ると、黒いパーカーに身を包んだハルが、影のように立っていた。その顔はフードの深い闇に覆われ、表情を読み取ることはできない。
「どうして、Ave Mujicaを解散させたの?」
「それは……」
「どうして、何も言わずに私を置いていったの? ねぇ、連れて行ってよ、姉様」
悲痛な懇願。
私は逃げ場を失い、ハルに向かって歩み寄った。距離が縮まる。あの子のパーカーの袖が、かすかに震えているのが見えた。
その瞬間だった。
「ごっふっ……!」
ハルが唐突に、喉の奥から汚泥のような血を噴き上げた。
視界が真紅に染まる。ハルの口から溢れた熱い塊が、私の頬を、首筋を伝って胸元へと流れ落ちていく。
「……っ」
右手に、悍ましいほどの重量感と手応えを感じた。
視線を落とす。手には、精巧な装飾が施された西洋の剣をしっかりと握りしめていた。銀色の刃はハルの腹部を深々と貫いていた。
柄を握る私の掌にドクドクと鼓動を打つあの子の体温と、生命を失っていく冷たさが混ざり合い、神経を逆なでる。
抜こうと力を入れるたびに、刃に絡みついた肉が軋り、ハルの口からさらに鮮血が溢れ出した。
足元が、あの子の腹から流れ出る血でみるみるうちに赤く染まっていく。その血だまりは生き物のように広がり、私の靴底を濡らした。
「どうして、逃げるの……?」
ハルは刺さった剣を掴み、私の手を自分の腹へと押し付けた。より深く、より致命的な場所へと、自らの意思でその身を貫かせようとしている。
あの子の瞳が、フードの闇の中から覗いた。そこには憎悪などない。ただ、姉の愛を求めて飢え死にしようとする、猛烈な「依存」だけがあった。
「あの日、約束したのに……みんなで一緒に演奏しようって……」
ハルは跪き、私の足元で崩れ落ちる。その拍子に、私の右手に残ったのは剣の柄だけではない。指先はぬるりとした独特の嫌な感触が、脳髄にまで伝わってくる。
「……あ、あぁ……」
血にまみれたハルは、折れた翼を持つ小鳥のような足取りで、床を這いずりながら私に迫ってきた。
「姉様……ねぇ……姉様……」
這うたびに、床には指先で描いたような赤い軌跡が伸びる。
顔を上げたその姿に、私は息を呑んだ。彼女の青い左目の切り傷から溢れ出した鮮血が、頬を伝い、顎先から滴り落ちる。
その眼差しには、私に対する恨みも、私を刺したことへの後悔もない。ただ、姉の愛を、その身のすべてで貪り尽くそうとする、空腹な野獣のような熱だけが宿っていた。
「どうして、そんな顔をするの……」
ハルが血濡れた手で私のスカートの裾を掴んだ。ぬるりとした嫌な感触が、布地を通して肌に伝わる。
「私がこれだけ求めているのに。どうして……」
彼女がそう口を開くたびに、傷口から新たな血が零れ、その唇を赤く染め上げていく。
反射的に一歩、また一歩と後ずさった。だが、背後には逃げ場などない。ただ、どこまでも続く泥の海が広がっていた。
「どうして、私の音を認めてくれなかったの?」
「――っ!」
絶叫すら出ないまま、私は冷たい汗に濡れたまま跳ね起きた。
手は震え、心臓は引き裂かれたかのように痛い。右手のひらをじっと見つめる。あの子の血のぬるつきが、まだそこにこびりついているような錯覚。
「祥ちゃん!」
初華は息を切らし、その場に動けなくなっているわたくしの肩を掴んだ。
「大丈夫?嫌な夢でも見たの?」
「……血」
「血って……怪我でもしたの?」
初華は顔を青ざめさせ、ロフトの明かりをつけた。眩いほどの白光が寝具と、怯えるわたくしの姿を容赦なく照らし出す。
「……祥ちゃん、何もないよ。血なんて、どこにも……」
初華は両手を取り、優しく開き、じっと見つめた。そこにはただ、少し赤くなった肌があるだけ。血の一滴も、傷一つも、そこには存在しなかった。
「……そう。そうでしたわね」
あれは悪い夢。頭では理解しているがそれでも鼓動は収まらない。あの子が最期に発した問い――『私が、姉様の重荷なの?』という言葉が、呪詛のように耳の奥で反響している。
「大丈夫……大丈夫だよ」
初華はわたくしを強く抱きしめ、背中をゆっくりと撫でた。彼女の甘い香りが、わたくしの混沌とした精神を少しずつ鎮めていく。
「初華。……もし、あの子がわたくしの前に現れたら、わたくしはどういう顔をすればいいのかしら」
「今は無理に会わなくていいよ、祥ちゃん。……心の準備が出来たら会いに行けばいいと思うよ」
「初華……」
「今日はここで一緒に寝よう。……一晩中、ううん。私がずっと傍に居るから」
初華はそう言って、ロフトの明かりを落とした。
視界が再び闇に沈む。小さな寝台に二つの体が重なる。初華の体温が、震えが止まらないわたくしの全身に伝わってきた。彼女の髪から漂う微かな洗剤の香りが、先ほどまで漂っていたはずの血の臭いを、ゆっくりと塗り替えていく。
暗闇の中で初華の背中に腕を回し、彼女の体温に縋り付いた。