データを無くして、一から作り直すことになりました。
バックアップはしっかりしておくものだと、身に沁みました。
この一週間、私は屋敷に戻る前に睦の家へ通った。
フードを深く被り、誰にも見つからぬようヴァイオリンを背負い、ただひたすらモーティスに昔の曲を何曲も聴かせた。しかし、私の紡ぐ音色はどれほど切実に響かせても、睦の心に届くことはなかった。
どんなに模倣しようとも、睦の心は深い泥の底に沈んだままだった。
私の意識は教室の喧騒からは遠く離れ、あの夜の光景のことで頭がいっぱいだった。
剥がれ落ちた外壁、湿り気を帯びた木造アパート、そしてあられもない姿の父を支えながらも歩みを進めていた祥子のあの横顔。
祥子が屋敷を出てから初華のマンションに住み着くまでの間、彼女はあんな場所で父と二人、耐え難い日々を過ごしていたのだろうか。
あそこで彼女は何を失い、何を見出したのか。すべてを知りたいという欲求が頭の中を支配していた。
放課後、私は手早く机の上を片付けると誰にも行き先を告げずに校門を飛び出した。
記憶を頼りに曲がり角を曲がるたびに、心臓の鼓動が高鳴る。古びた住宅街の細い路地は、まるで迷路のように複雑に入り組んでいた。
どれぐらい迷ったのだろうか。日が沈みかけた瞬間、一週間前と同じ景色が視界に入った。
「ここに父様が……」
鉄製の階段が靴音を無機質に響かせる。 二階の奥。 ドアの横には黄ばんだプラスチックの表札に、手書きの掠れた文字で『豊川』と書かれていた。
ドアノブに手を伸ばしたが、固く閉ざされていた。
意を決してノックをすると、中からガタガタと物が倒れるような騒がしい音が聞こえた。
「祥子か。帰って来てくれたのか!?」
声と同時に扉の隙間から漏れ出してきたのは、饐えたアルコールの臭いと、換気の行き届かない部屋特有の鼻を突く嗅いだことのない異臭だった。
「……祥子!」
勢いよく扉が開くと目の前の男の姿を見た私は息を呑んだ。それは私の記憶の中にある父の面影はどこにもなかった。無精髭に覆われた頬、血走った眼球、そして着古したパジャマは薄汚れていた。
「……いえ。ハルです。お久しぶりです。父様」
「ハ、ハルか?と、とりあえず、中に入ってくれ……」
私が部屋の中に入ると父の濁った瞳が一瞬だけ泳がせると、空き缶や空き瓶が転がる畳の上で彼は崩れ落ちて「すまない、すまない……」と壊れた機械のように謝罪の言葉を繰り返した。
「父様。これは一体……何があったのですか?」
ちゃぶ台の上に置かれた書類のコピーが目に入った。路上でのトラブルか、あるいは酒絡みの不祥事か。身元引受人の欄には、「豊川祥子」と署名があった。
他には祥子が印をつけたであろう求人チラシや、深夜のバイトの募集ポスターが散乱していた。
そして、部屋の隅。一畳分だけが異常なほどに整然と片付けられていた。
(ここで……姉様は、一人で戦っていた)
ここまで、落ちてしまった男を支えるために、自らの誇りを削り、身を粉にして働いていた。
学校が終われば、家事とアルバイト。煌びやかなステージに立つのではなく、街で酔い潰れた父を介抱する日々。 そんな彼女にはCRYCHICを続ける時間はなかった。
Ave Mujicaで得ていた報酬も、おそらくはこの男の酒代と、僅かな生活費に消えていたのだろう。ここにあるのはただ、過去の残骸に縋り付いて腐敗していく、目を逸らしたくなるような「現実」そのものだった。
「祥子は、凄いな……」
父は虚ろな声で呟いた。
「俺を捨てずに、こんな場所までついてきた。俺には勿体ない娘だった」
「……姉様は、ずっとそうやって貴方を」
「だが、ハル。お前もだ。……お前たちは俺とは違う。お前たちは眩しい光の中に居る。そんな姿を見るたびに、俺は……俺は何のためにこんなところで生きているのかと、惨めになる」
私は涙を流しながら震える父の肩を見つめ、そっと視線を外した。この惨状が、あの気高き祥子をここまで摩耗させた正体。
「昨日も見たぞ。ハル、お前のポスターを駅でな。あのポスターの中のお前は、俺の知っているハルとは別人のように輝いていた。祥子も武道館まで行って演奏をした。ははは……」
自分の惨めさを肯定するかのように父は乾いた笑い声をあげた。
「頼む!ハル……行かないでくれ。祥子もいなくなった、お前までいなくなったら俺はどうすればいいんだ?」
父が伸ばしてきた手は、脂ぎって薄汚れ、爪の間には黒い何かが詰まっていた。
憐れみすら湧かない。ただ、目の前の男が定職にも就かずに祥子の翼を毟り取った元凶なのだという事実を知り、吐き気がした。
(嫌だ……)
私は反射的にその指先が触れる前に一歩後退した。 その瞬間、胸の奥からせり上がってきたのは、悲しみでも同情でもなく「嫌悪」だった。
「クズが……」
私は父の視線を見下ろした。
「ハル……? お前、今、何を言って……」
「私に触らないで。貴方がその無能さと弱さに甘んじている間、姉様や私がどんな思いでステージに立っていたか。貴方が酒に逃げている一分一秒が、どれほど残酷に彼女の未来を食い潰していったか。……貴方は、姉様の翼を毟り取り、彼女の魂を殺した」
「違う、俺は……俺だって、どうにかしようと……」
「どうにかしようとした結果がこれなの? 実の娘に身元引受人をやらせ、稼いだ金を酒に変えて、挙句の果てにその娘が去っていった途端、もう一人の娘に縋り付くの?見苦しいっ!」
視線を壁に向けると、不自然な黒いシミが広がっていた。その真下には、ひしゃげたビールの空き缶が転がっている。
「……この壁のシミ。まさか、これを姉様に投げつけたわけではないわよね?」
父は目を逸らし、肩を震わせた。その沈黙が、何よりも饒舌に彼の罪を物語っていた。
(そうか、この人はもう落ちるところまで落ちたのか)
「ハル、違うんだ。俺を……一人にしないでくれ……俺はまたやり直せるんだ」
父は畳に額をこすりつけ、這いずるようにして足元に近づいてくる。
「やり直せる。そんな惨めな姿を見ていても、私にはそう思えない。さようなら、父様。いや、豊川清告……私は貴方を捨てて前を進む」
踵を返そうとした瞬間、それまで必死にすがりついていた男の変貌は一瞬だった。 視界の隅で先ほどまで畳に額をこすりつけていた父の気配が一変した。
「……っ!」
髪の毛を後ろから強く掴み上げられた。 頭皮が引き裂かれそうな激痛に視界が歪む。そのまま床に引き倒され、私は無防備に仰向けに倒れ込んだ。
「ハル、お前だけはわかってくれると思っていたんだ。……いいや、お前も俺を馬鹿にしているんだろう!? あのバイオリンの音も、その作り物の笑顔も、全部! 俺の人生を台無しにしたクセに!」
父の目はもはや理性を失い、泥沼のように濁っていた。
「お前が……お前さえ……っ! お前さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ!」
「く、苦しい……とう、さま……やめっ!」
アルコールと脂の臭いが染み付いた手が、私の喉元を強く締め上げる。酸素が遮断され、視界がチカチカと明滅する。
(ああ、これが私の人生の終わり……こんなところで……まだ、何もできていないのに……)
酸素が遮断され、意識が闇の底へと沈んでいく。
(嫌だ、怖い。消えたくない、死にたくない。憎い……)
その時、ドアを激しく叩く音が響いた。父が反射的に扉の方へ意識を向けた隙を見逃さず、私は必死に脚を振り上げた。
――ドンッ! 私の足が、父の急所を的確に貫いた。
「うぐっ──!」
締め付けが解け、私は床を転がって酸素を肺に流し込む。喉が焼けつくように痛い。父は悶絶して畳の上で丸まっている。
「ハルちゃん、立って!」
誰かに腕を掴まれ、無我夢中で走った。アパートから離れた街灯の下で、ようやく足を止める。息を絶え絶えに膝をつきそうになった。顔を上げるとそこには意外な人物がいた。
「えっ?……そよ、さん……?」
街灯の下、複雑な表情を浮かべた長崎そよが肩で息をしながら私を見下ろしていた。
「どうして……貴女が」
「まずは落ち着ける場所に……」
そよは震える私の背にそっと手を添え、近くの小さな公園へと向かった。街灯に照らされたベンチに座ると、ようやく心臓の鼓動が耳の奥から消えていった。 夜の公園は静まり返り、遠くで走る車の音だけが聞こえてきた。
そよは自販機で買った冷たいミネラルウォーターを私の手に握らせた。ペットボトルの冷たさが、父に締め上げられた首の熱をゆっくりと奪っていく。
「ハルちゃん……あそこに何をしに行っていたの?」
「私はただ確かめたかった。姉様が、あそこで何をしていたのか。そよさんこそ、どうしてあのアパートに?」
そよは視線を落とし、自分の膝の上で指を絡めた。
「私は祥ちゃんと話をしたくて……それで、モーティスちゃんからあそこに住んでいるって、聞いて」
「そう。モーティスは知っていたのね。私もモーティスに聞けばよかったかな」
そよは少し躊躇いがちに、私の顔を覗き込んだ。
「ハルちゃんはモーティスちゃんのことを知っていたの?」
「ええ。数ヶ月も前から睦の家で、彼女が体調を崩した時に……」
私の答えにそよは絶句した。彼女はしばし沈黙した後、意を決したように問いかけてきた。
「ねえ、ハルちゃん。……祥ちゃんは、豊川のお嬢様だよね?聞いていた話と全然違うのだけど、本当にあんな場所にいたのかな?」
私はあの記事を見せていいのか、少しだけ悩んだ。
(彼女はすでにあそこに祥子がいたことを知っている。今更隠している意味はない)
「信じられない話だと思いますけど、姉様は少し前まで、あそこにいたみたい……」
スマートフォンを取り出し、ブックマークしてあった古いニュース記事を画面に表示させた。
「……これ、見てください」
そこには一年前のニュース記事。『豊川グループ、巨額詐欺被害か——被害額は168億円にのぼる見通し』
「……168億の詐欺」
そよが息を呑む。月ノ森学園に通う彼女にとっても、それは想像を絶する数字だったのだろう。
「父は……あそこにいた男はこの事件がきっかけで豊川家から実質的に追放された。祖父は家名を守るために、負債を清算する代わりに、父との縁を完全に切り捨てた。……姉様は、そんな父を見捨てることができずに、一緒について行く道を選んだと思う……」
先ほど見てきたあの饐えた部屋の光景を思い出し、奥歯を噛みしめた。
「屋敷から、あのアパートへ。お嬢様として育てられた姉様が、いきなり明日の食事にも困るような生活に放り出された。……そよさん、これがあなたの知っている『CRYCHICの解散』の時期と重なりませんか?」
そよは力なくベンチの背もたれに体を預けた。
「……どうして。どうして、何も言ってくれなかったの……。言ってくれれば、私たちだって、何か助けになるかもしれなかったのに……」
「言えるわけがない。あの姉様が、父親がアルコールに溺れ、数百円のバイト代のために駆けずり回っているなんて姿を、誰に見せられたというのですか」
今まで私は屋敷で温かい食事を与えられ、高価なヴァイオリンを弾いていた。 一方で祥子は、あの饐えた臭いのする部屋で五線譜を埋めていた。
乾いた喉を潤す為にミネラルウォーターを一気に飲み干し、そよに目を向けた。
「ところで、そよさんは姉様にどんな話をしたかったのですか?良かったら、私が代わりに伝えておきますよ」
「ううん……私が直接、本人に伝える。でも、ハルちゃんも関係があることだから伝えておく。私、さっき睦ちゃんに会えたの。モーティスじゃなくて……本当の『睦ちゃん』に」
私は息を止めて彼女を見た。
「それで彼女は何か言っていた?」
「……『祥ちゃんに会いたい』って、言っていたわ」
その言葉は、止まっていた時計の針を再び動かすような、静かで確かな響きを持っていた。
「そうか……やっぱり彼女しかいないか」
私はそよに聞こえない声で呟きながら、服の中のペンダントトップに爪を立てた。あの子が望む「言葉」の鍵は、結局のところ、すべて祥子という存在に帰結する。
それは、私たちがどれほどあがいても埋められない、あまりに深く、そして残酷な鍵穴だった。
次回作のアンケートを募集します。
今のところ三つぐらい案があるのでご協力をお願いします。
次回作のアンケート
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1.違う世界線のハルと祥子
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2.睦メインの作品
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3.初華メインの作品