「はぁ……少し蒸れる」
昨日、自分の部屋に戻ると、父に首を締め付けられた箇所にくっきりと大きな指の跡が残っていた。その所為で、季節外れとは思いながらもタートルネックのインナーを重ね着して首元を隠すことになった。
「クズ親父め……」
中庭の古びたベンチに腰掛け、首元をわずかにずらしながら手帳のページをめくっていると、昨日父に投げつけられた暴力的な言葉が、生々しく脳裏をよぎる。
『お前さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ!』
「あの言葉は、いったいどういう意味だったんだ……」
「ここに居ましたか。ハルさん」
背後から掛けられた声に、思考が現実へと引き戻される。振り返ると、そこには海鈴が静かに立っていた。
「海鈴ちゃん。私に何か用事ですか?」
海鈴に見られないようにハイネックの襟元を正しながら聞き返すと、海鈴は少しだけ歩み寄ると真っ直ぐに私の目を見つめ返した。
「姿が見えなかったので探していました。何を書いているのですか?」
海鈴は私の足元に視線を落とし、私が隠すように閉じた手帳へと目を細めた。
「別に、大したことじゃない。ただの覚え書きみたいなものだから」
「覚え書き、ですか……」
海鈴はそう言うと、許可を取ることもなく私の隣に腰を下ろした。その距離の近さに少しだけ動揺しながらも、私は表情を崩さないように努めた。
「見られたなら隠しても仕方ないか……」
私は諦めたように息をつき、再び手帳を開いて海鈴に渡した。
「『12:15 - 昼食(サンドイッチ半分)、水分補給完了。心拍数やや速めだが、深呼吸により安定。』 『12:30 - 思考のクリア度、良好。 瞼に痛みがあり。』 これは……?」
海鈴がページに並ぶ記録をじっと見つめながら、低い声で呟いた。
「体調の記録。海鈴ちゃんも知っている通り、私は最近まで体調不良で活動を休止していたから、 いつ、どんな時に身体の変化があるのか、こうして日々の体調を細かく付けている」
私の言葉に海鈴は少しだけ眉をひそめた。
「それはまだ、本調子ではないという事ですか?」
「ううん、そういうわけじゃない」
私は海鈴から手帳を受け取るとパタンと閉じ、いつもの取り繕った笑みを海鈴に向けた。
「昨日は驚くほどよく眠れたし、今も薬もなしで朝から体調はすごく安定している」
「そうですか」
私の言葉に海鈴は少しだけ安心したような、しかしどこか納得がいかないような複雑な表情で、じっと私の顔を見つめた。
「それで私に何か用事があったのでは?」
「そうでした。今日の放課後、時間空いていますか?」
その問いに私は首を傾げた。
「大分前に、約束しましたよね。……忘れましたか」
「約束?」
私は眉を寄せる。海鈴との間に交わした約束など、思い出せる範囲では存在しなかった。
海鈴は私の困惑を読み取ったのか、小さく息を吐いた。
「随分と忙しいみたいですね。……演奏の約束ですよ。一度だけ、二人で音を合わせようと話をしませんでしたか?」
そういえば、以前そんな話を軽くしたような気がする。
「ああ……ごめんなさい。あまりに色々なことがありすぎて」
「別に構いません。それで、今日はどうですか?」
「今日なら大丈夫。それに今日は夜まで暇を持て増していたところだから」
私は肩をすくめながら答えると海鈴は私のスマートフォンに視線を向けた。
「少し、借りてもいいですか?」
「どうぞ……」
端末を差し出すと、彼女は手慣れた手つきで画面を操作し始めた。自分のスマホと二つの端末を交互に見比べ、淡々と何かを入力している。やがて手短に返された画面を確認すると、メッセージアプリの新規リストに「海鈴」の名前が追加されていた。
「これでお互いの連絡先は分かりました。練習場所については後ほど送ります」
彼女はそれだけ告げると校舎へと消えていく。その姿を見ながら、私は手帳をスカートのポケットにしまい込んだ。
*****
海鈴からメッセージで送られてきた場所は、市街の一角にある貸しスタジオだった。防音設備は整っているものの、天井が高く、音が心地よく響きそうな空間全体に心地よく響きそうな造りをしていた。
扉を静かに開けると、そこには既に海鈴がいた。彼女は自身のベースをセッティングしていた。
「来ましたね」
「待たせてごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。私もいま来た所ですから」
海鈴はベースのチューニングを再度ペグを回して確かめた。
私はケースからヴァイオリンを取り出し、肩当てを装着する。弓に松脂を塗りながら、横目で彼女を見た。
彼女にとって、この「合わせ」は単なる練習以上の意味を持っているのだろうか。
「それで曲を合わせるって何を弾くのか考えている?」
海鈴はベースを抱えたまま、弦を軽く弾いた。
「ハルさんが、今一番弾きたい曲でいいですよ。私が分かる範囲で合わせます」
「一番、弾きたい曲……」
次のコンクールに向けた曲、それとも次の仕事に向けた曲。頭の中で真っ先に考えたが、私は首を横に振りる。
(私がいま、奏でるべき曲は……)
弓を弦に乗せ、一瞬だけ目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、あの武道館のステージ。初めてAve Mujicaのライブで一番最初に流れたあの曲──。
深く呼吸を合わせ、私は弓を振り下ろした。 スタジオの空気が、張り詰めた糸のように緊迫する。ヴァイオリンの硬質な低音。
舞台の幕開けを想起させるように、私は激情を込めて弦を擦った。
鋭く、けれどどこか脆さを孕んだ旋律。海鈴のベースは、私の奔放な旋律を突き放すことなく、大地のようにどっしりと支え、その隙間を完璧に埋めていく。彼女の音は、姉の響きとは全く違う。 一音、また一音と重なるごとに、スタジオの空気が熱を帯びる。
(心地いい……)
思わず口元が緩む、一人で黙々と……抑圧された空気の中で奏でていた時には感じられなかった、他者との呼応。私は弓を深く押し込み、強烈なビブラートで感情の奔流を音に変える。
曲が進むにつれ、意識は研ぎ澄まされていく。左目の傷跡が疼くような錯覚も息苦しさも、すべては音楽の奔流に押し流されていく。
「……ハァ、ハァ……」
演奏を終え、荒い息を整える。
海鈴はベースのネックを支えたまま、静かに私を見つめている。彼女の額には薄っすらと汗が滲んでいた。
「噂通り、貴女の音は彼女に似ている」
海鈴が静かに告げた言葉「彼女」が誰を指すのか、聞く必要はなかった。
「彼女の音に比べて、私の音はどんな風に聞こえた?」
「貴女の音は、必死に何かにしがみついているように聞こえました」
海鈴のストレートな言葉に、私はわずかに息を呑んだ。
「しがみついている……」
「冷たい水の中で、溺れないように必死に誰かの手を探しているような……それでいて、何かを否定しているような複雑な感じがしました。技術も表現力も、彼女に引けを取らないくらいのものを持っているのに、音の根底にある『温度』が違う」
「ふふ……まるで詩人みたいなことを言うのね」
「私はその音嫌いじゃないありません。むしろ……気になって目が離せなくなる」
私は返す言葉を思いつかず、取り繕うように微笑んだ。
「以前、私がいくつかのバンドを掛け持ちしている事を話した事を覚えていますか?」
「えぇ、そんなこと話していましたね」
「どの現場でも演奏をしていましたが、いままで何かが足りなかった」
彼女はスタジオの壁にもたれかかり、配管がむき出しの天井を見上げた。
「Ave Mujicaが自分の居場所になればいいと考えていましたが……」
「でも、活動を休止した。海鈴ちゃんはAve Mujicaをもう一度やりたいと思っているのですか?」
私は弓を肩に乗せて、彼女の視線を追うようにして問いかけた。
「そうかもしれません……」
海鈴は淡々とベースのシールドを抜き、ケースに収めていく。
彼女はベースを背負うと、不意に私の顔を覗き込んだ。その瞳には、演奏中には見せなかった探るような色が浮かんでいる。
「ハルさんは演奏中にいつも、あんな笑顔を浮かべるのですか?」
唐突な指摘に私は思わず自分の頬に触れた。
「どんな顔をしていましたか?」 と聞き返してみると海鈴は「不気味な笑みを浮かべていた」と告げた。
「不気味な……? 私が?」
「はい」
海鈴はこちらに振り返ると顎に手を当てて、考え込む様子を見せた。
「……とても楽しそうな、いえ、それとはまた違う顔をしていました」
「……楽しそう、ではない?」
海鈴の言葉に、私は思わず反芻した。
「壊れたおもちゃが、やっと持ち主を見つけたような顔でした」
彼女は淡々と、しかし残酷なほど真っ直ぐにそう言い切った。
「失礼ですね」
私は苦笑いしながらヴァイオリンをハードケースに収め、留め金をパチンと閉めた。
壊れたおもちゃ。持ち主。その言葉は、まるで今の私の正体を見透かしているような気がして、胸の奥がチクリと痛んだ。彼女はそれ以上何も言わず、そのままスタジオを後にした。残された薄暗いスタジオの中で、私は自分の左手を見つめる。先ほどの演奏の余韻で、指先が微かに痺れていた。
*****
夕闇が迫る頃、私はまた睦の家の前にいた。
睦が目を覚ましたのなら、少しだけ話を聞きたかった。モーティスではなく、若葉睦はAveMujicaの事をどう考えているのか知りたかった。
インターホンを押してしばらく待つと、重い扉が開き、ゆっくりと睦が顔を出した。
「ハルちゃん……」
その呼び方に目の前に立っていたのは、「睦」ではなく「モーティス」だと瞬時に分かった。
「こんばんは、モーティス」
私は穏やかな声でそう呼びかけた。
彼女は私の姿を見ると、開いたままの扉を背にして中へ招き入れた。家の中に踏み入れると夜のように暗く、静まり返っていた。
「モーティス、睦が目を覚ましたって聞いたけど……」
その言葉を口にした途端、モーティスは頬を膨らませて、私の目を避けてポツリと呟く。
「睦ちゃんは、何も分かってない!」
「……どういうこと?」
「祥子ちゃんに会いたいなんて……。あんなに酷いことをされて追い詰められたのに、また会ったら傷つくに決まってるのに」
モーティスの声には、睦に対する苛立ちが混じり合っていた。彼女にとっての睦は、守るべき対象であると同時に、自分の意志を理解してくれない半身。
「今日、そよちゃんが祥子ちゃんを連れてきたんだよ」
「え、姉様が来たの?ここに……」
驚きのあまり、思わず声が裏返った。
「今まであんなに放っておいて、今更になってノコノコとやってきたんだよ」
「それで、貴女は姉様と話をした?」
「ううん、追い返した」
私はその言葉を聞き、呆れてため息をついた。
モーティスがいったい何を考えているのか、時には本当に分からなくなる。
睦を守ると言いながら、睦が祥子に会いたいと本音を漏らしているのを知りながら拒み続けている。
「……ねえ、モーティス」
私はソファの端に腰を下ろし、彼女と真摯に視線を合わせた。
「貴女は睦を守っているつもりかもしれないけれど、それは本当に彼女が望んでいることなの? それとも、ただ貴女自身が祥子を憎んでいるだけなんじゃないの?」
モーティスの華奢な肩がビクリと跳ねた。彼女はあからさまに不機嫌な顔をしてぷいとそっぽを向く。
「そうだけど、悪い?」
「だからと言って、彼女の意志を封じ込めて良い理由にはならない」
「封じ込めてなんかいない。睦ちゃんは、傷つくのが怖くて深いところに隠れているだけ。私が守ってあげてるの」
それは憎悪というよりも、深い悲しみと自分自身を正当化しようとする「壊れた庇護欲」のように見えた。
「今の睦は、姉様の言葉を待っている。……貴女がどれだけ扉を閉ざしても、彼女の心はそこから逃げ出したがっている」
モーティスは唇を噛み締め、両手で耳を塞ごうとする。
「帰って……ハルちゃんも、あっち側の人間なの?」
「あっち側、か……私はただ、終わらせたい。この不毛な時間を」
私はモーティスの肩に手を置いた。彼女は最初こそ身を硬くしたが、やがて力が抜けていく。
「もし、姉様がもう一度ここへ来たら、その時は……」
「祥子ちゃんが来たら、もう開けてあげない」
私はそれ以上何も言えず、睦の家を後にするとスマートフォンが短く震えた。 画面を確認してみるとマネージャーからの着信だった。
「もしもし、私です」
『ハルさん。お疲れ様です。今お時間大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です。何かありましたか?」
『えぇ、ハルさんのリサイタルの企画が無事に通りました』
「そうですか。いつになりそうですか?」
『これから、伴奏者も探しますので、早ければ四か月後を予定しています。詳しい話はまた、後日話をしましょう』
通話を終えて、スマートフォンの画面が暗くなるのを見つめながら、私は空気を大きく吸い込んだ。
その途端に、左の肺のあたりがピシリと締め付けられるような鋭い痛みが走る。思わずその場にうずくまりそうになり、急いでピルケースから錠剤を取り出し、水をなしに飲み込んだ。
「四か月後。時間は待ってくれない……」
発作が収まり夜空を見上げながら、震える左手を強く握りしめた。このリサイタルは彼女の代償を支払うための大きな一手となる。失敗は許されない。 私は自分に言い聞かせるように暗闇の先を見つめた。
次回作のアンケート
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1.違う世界線のハルと祥子
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2.睦メインの作品
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3.初華メインの作品