忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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思ったより早く出来たので、投稿します


第三話:鳥籠と幻影の背中

 都内のとあるホテル、その最上階にあるスカイラウンジ。

 

 私はステージに立ち、顎の下にヴァイオリンを挟み込む。

 呼吸を整え、弓を弦に沈ませると、静寂を鋭く切り裂くようにして旋律が流れ出した。今夜の曲目はパガニーニの『カプリース』。目も眩むような超絶技巧の連続を、私は機械的な正確さで淡々とこなしていく。

 

 指先が精密な歯車のように指板を叩き、馬毛が弦を擦る。脳裏に、かつて姉様が言った言葉が蘇る。

 

『あなたの音は綺麗ね。どんな想いがあっても、歪まない』

 

(じゃあ、どうして私はこんなに満たされないの? 姉様)

 

 どれほど複雑なパッセージを奏でても、心には何の波紋も起きない。

 正確なピッチ、完璧な運指、計算され尽くしたヴィブラート。それらはすべて、豊川の娘として、あるいは「人形」として施された精巧な調律の結果でしかなかった。

 

 聴衆は、その「汚れなき音」にうっとりと目を細めている。けれど、私には分かっていた。この音は、どこまで行っても空っぽなのだと。

 

 一曲を終え、機械的な微笑みを浮かべて深く礼をする。

 湧き上がる上品な拍手さえも、今の私には遠い異国の雑音のようにしか聞こえなかった。

 

 数分後、演奏を終えた私はラウンジの窓際にある、ベルベット張りのカクテルチェアに深く背を預けた。

 

「素晴らしい演奏でしたわ、豊川様。お祖父様もさぞお喜びでしょう」

 

「あのような若さで、これほどまでに完成された音を出せるとは……」

 

「今度、私のパーティーにも来てくれないか?」

 

 グラスの触れ合う音と、アルコールの香りに混じった、打算的で型通りの称賛。私はそれらを微笑で適当にあしらい続けていた。

 

(……うるさい。私の音なんて、誰も聴いていないくせに)

 

 彼らが見ているのは「私」という人間ではない。「豊川家の令嬢」という看板と、その指先が生み出す「付加価値」だけ。

 

 グラスに注がれたノンアルコールのカクテルが、都会のネオンを反射して怪しく揺れている。

 

 いつの間にか、雨も止んでおり、私はその光をぼんやりと眺めながら、自分が底知れぬ高さの鳥かごの中に閉じ込められ、空を飛ぶ方法すら忘れてしまったような感じがした。

 

「……ハル」

 

 聞き覚えのある声に振り返ると、幼なじみの若葉睦がいた。

 

 彼女は名門・月ノ森女子学園へと進学していた。かつて、姉様もそこにいたはずだったが、あの日を境に消息を絶ち、睦もその行方を知らないという。

 

 睦もまた、この虚飾に満ちたパーティーの喧騒に馴染めないのだろう。彼女は影が這い寄るような静かな足取りで、私の隣席に腰を下ろした。

 

「睦……。貴女も来ていたのね」

 

 彼女は無言で頷いた。長い睫毛が影を落とし、その瞳には夜景の光さえ届かないような、深い静寂が宿っている。

 

「……ハル。今の音……」

 

 睦は、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめながら、言葉を探すように小さく唇を動かした。彼女の周りだけ、時間が止まっているかのような独特の静寂が漂う。

 

「前と違う」

 

「それは、以前よりもつまらなくなったって事かな?」

 

 私が自嘲気味に問い返すと、睦はわずかに首を横に振った。

 

「……ううん。違う。……冷たくて……すごく、遠い」

 

 彼女の淡々とした、けれど核心を突くような言葉。 それは、今の私にとって最も触れられたくない場所に、容赦なく冷たい指を差し込まれたような感覚だった。

 

(……睦でさえ、そうなのね)

 

 期待していたわけじゃない。彼女に私の心意を理解してほしいなんて、そんな傲慢なことは思っていなかった。

 

 けれど、幼い頃から姉様と共に音を重ねてきた彼女にだけは、私の音の奥に沈んでいる「何か」に気づいてほしかった。

 

「睦はもうギター弾かないの? バンドを組んだりとか……」

 

 私の問いに、睦はゆっくりとそして頑なに首を横に振った。

 

「私は……バンド、楽しいって思ったこと、一度もない」

 

 その言葉は、水の中に冷たい石を投げ込んだように、私の胸に重く沈んだ。

 かつて姉様が命を吹き込み、彼女がその隣で支えていたあの「居場所」。彼女にとっても、それは幸福な記憶ではなかったのだろうか。

 それとも、失った痛みが大きすぎて、楽しかった記憶ごと塗りつぶしてしまったかもしれない。

 

 これ以上、音楽の話題を続けるのは酷かもしれない。私は自分のヴァイオリンケースに視線を落とし、無理に話題を切り替えた。

 

「……そう。それなら、学校ではどう過ごしているの? 部活とか、何か始めた?」

 

 睦は夜景から視線を外し、手元のグラスを見つめたまま答えた。

 

「園芸部。言葉を交わさなくていいから」

 

 睦らしい理由に、私は少しだけ強張っていた口元を緩めた。土をいじり、沈黙する植物を育てる彼女の姿は、この豪華なラウンジよりもずっとしっくりくる。

 

「食べないの?」

 

 彼女が視線を追った先には、パーティー用の彩り豊かなオードブルや、フォアグラにトリュフといった贅を尽くした料理が、見本のように整然と並んでいた。そして、睦の前には、いつの間にか給仕によって運ばれた端正なミックスサンドイッチの皿があった。

 

「ううん、今は食欲がないからいらない」

 

 私の冷めた返事を聞いても、睦は表情を変えなかった。ただ、じっと私を見つめている。彼女の視線は、私が胸元に隠しているネックレスのわずかな膨らみに止まったような気がした。

 

「健康によくない……」

 

 睦はぽつりと、掠れるような声で言った。

 それは、私の食欲のなさを案じているのか。あるいは、この不自然な煌びやかさの中に身を置き続ける、私の生き方そのものを指しているのか。

 

 睦らしい、ぶっきらぼうでいて、それでいてどこか突き放せない優しさ。彼女の放つ独特の空気感に、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

「……ふふ、そうね。もしも姉様に知られたら、また説教されちゃうかもね」

 

 私が少しだけ冗談めかして言うと隣に座る睦の気配が、いっそう静かになったことに気づく。

 視線を向ければ、彼女は長い睫毛を伏せ、カクテルチェアの背もたれに体を預けたまま、こっくりと船を漕ぎ始めていた。

 

「……睦?」

 

 声をかけても反応はない。

 この喧騒の中で眠れるなんて、ある意味で彼女の強さなのかもしれない。

 私はそっと、彼女の肩を揺らした。

 

「睦、起きて。こんなところで寝たら、風邪を引くよ」

 

「……ん」

 

 睦は、夢の淵から引き戻されたように、ゆっくりと瞳を開けた。

 数秒間、自分がどこにいるのかを確かめるように周囲を見渡した後、彼女の視線は一口サイズの彩り豊かなミックスサンドイッチに移った。

 

 睦は無言のまま、迷いのない手つきで皿に手を伸ばし、その小さな口を動かして、ぺろりと平らげた。

 

「……美味しかった?」

 

 私が呆気にとられて尋ねると、彼女は口の端にわずかに残ったパン屑を指で払い、小さく、けれど満足そうに頷いた。

 

「……うん。お腹、空いてたみたい」

 

 睦は、空になった皿を見つめた後、さっきと同じミックスサンドイッチや他の料理を盛り付けると私の前に置いた。

 

「ハルも食べて。倒れたら、きっと悲しむから」

 

 私は拒むタイミングを逸し、差し出されたサンドイッチを手に取った。薄く切られたパンの間に挟まれた、丁寧に裏ごしされた卵と冷たいキュウリ。噛みしめると、上質なバターの香りが広がるはずなのに、私の脳はその味覚を「情報」として処理するだけで、心までは届かなかった。

 

「……ありがとう。美味しいよ」

 

 嘘ではなかったけれど、空腹を満たすための機能的な味にしか感じなかった。

 

 睦は私が咀嚼するのを見届けると、ふと思い出したかのように、あるいはずっと温めていた言葉を溢すように、低い声で尋ねてきた。

 

「ハルちゃんは祥子ちゃんを見つけたら、どうするの?」

 

「色々話したいことはあるけど……無事なのを喜びたい。生きて、どこかで呼吸をしている。それだけで、私の半分は救われる気がするから……」

 

 私は皿の上のローストビーフをフォークの先で突きながら、答えを出した。

 

 剥き出しの本心だった。恨みや困惑よりも先に、彼女という存在がこの世界から消えていないという事実を、ただこの手で確かめたい。

 

「睦はどうなの? 貴女だって、彼女の隣にいたのでしょう?」

 

 私の問いかけに、睦は再び沈黙の深淵へと潜っていった。彼女は自分の指先をじっと見つめ、何かを慎重に選ぶようにして、ぽつりと答えた。

 

「私は、待つことしかできない。でも、ハルは……」

 

 睦はそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、言葉以上に多くのことを語りたがっているようで、それでいて肝心な部分は深い霧に包まれている。

 

「もし、姉様を見つけたら教えて」

 

「うん、約束する」

 

 しばらくすると、会場の隅で知人と談笑していた祖父が、私に視線を送った。

 それは「今日はもう十分だ、先に帰れ」という無言の合図だった。

 

「じゃあね、睦。私は先に帰るから」

 

「……気を付けて」

 

 私はヴァイオリンケースを抱えて会場を後にした。

 

 ホテルの車寄せには、既に使用人が待機していた。重厚なセダンの後部座席に乗り込もうとした、その瞬間だった。

 大通りの人混みの中に、一瞬だけ見覚えのある人影が見えた。

 

「……え?」

 

 私の心臓が、鋭い痛みを伴って跳ねた。

 街灯の下、足早に駅の方へと向かっていく、細い背中。長く流れるような、月明かりを透かしたような髪。

 

「姉様……?」

 

 私は、開けかけた車のドアを乱暴に閉め、戸惑う使用人の声を背に受けながら、無我夢中で走り出した。

 

「姉様!!」

 

 声の限り叫びながら、夜の街を駆ける。

 ドレスの裾が足に絡まり、慣れないヒールがアスファルトを叩いて不快な振動を伝える。けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

 あの日、雨の中に消えてしまった私の世界の半分。何も言わずに消えてしまった、唯一無二の光。

 

「待って……姉様!!」

 

 人混みをかき分け、信号待ちの群衆をすり抜ける。視線の先、その背中は確かにそこにいた。彼女は一度も振り返ることなく、まるで追跡を拒むかのように、淡々と歩みを進める。

 

 角を曲がり、駅の喧騒へと吸い込まれていくその姿。

 私は息を切らし、肺が焼けるような痛みを感じながら、ようやくその人物が曲がった角へ辿り着いた。

 

「お姉様……っ!」

 

 しかし、そこに広がっていたのは、帰路を急ぐ無数のサラリーマンや学生、煌々と輝く大型ビジョンの光に照らされた、見ず知らずの人々の波だけだった。

 

「……どこ……どこにいるの……?」

 

 右を見ても、左を見ても。どこにもあの背中はない。

 信号が青に変わり、人の流れが激しさを増す。押し寄せ、通り過ぎていく匿名性の渦に、私の体は翻弄される。

 

 私は駅前の広場のど真ん中で立ち尽くした。

 目に入るのは知らない顔ばかり。耳に届くのは、耳障りな電車の発車ベルと、誰かの笑い声。

 あんなに近くにいたはずなのに。あんなに鮮明に見えていたはずなのに。

 私は震える手で、胸元のネックレスを握りしめる。

 

「……また、いなくなった」

 

 あの日と同じ。

 どれだけ手を伸ばしても、どれだけ名前を呼んでも、彼女は雨や夜の闇に溶けて、私を一人置き去りにする。

 

 目の前には無情にも人々の波が覆い尽くしていく。その中に、彼女の面影を探し出すことは、もう叶わなかった。

 

 私は崩れそうになる膝を必死に支え、使用人の車が待つ場所へと、ゆっくりと歩き出した。

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