第三十話:交差する雨
海鈴と音を合わせてから三日が経過し、リサイタルに向けた準備は着々と進み始めた。
リサイタルのプログラムはこれまで幾度となく演奏したことのあるカバー曲に加え、最後には私自身が一から紡ぎだしたオリジナル曲を奏でることになった。
今まで経験したことのない「作曲」。白紙の五線譜に向き合い、頭を抱えては楽譜を真っ黒に塗りつぶす日々。作曲という行為が、これほどまでに大変な作業だとは想像していなかった。
彼女の曲を参考程度に嗜みながら、ペンを走らせてみたが私が音を紡ぐたびに感じる「違和感」が、彼女の譜面には微塵もなく、聴く者の心を魅了させる彼女の音楽。
それを彼女はあのアパートで、初華のマンションで、たった一人でその複雑なパズルを組み立てていた。
改めて、Ave Mujicaの楽曲群を手掛ける豊川祥子の類稀なる才能に感服した。
*****
放課後、事務所が用意したスタジオへと向かう。しかし、何の因果か、あるいは残酷な悪戯か、地図アプリが示す道は必然的に睦の家の前を通らなければならなかった。
十字路を曲がった先には、見慣れた背中があった。ただそこに立ち尽くし、静かに睦の家の扉を見つめる祥子の姿。
私はその姿を遠くで認識しながらも、何も見なかったかのようにフードを深く被り直した。足音を殺して素通りした。
だが、その光景は一度きりでは終わらなかった。翌日も、その次の日も。夕暮れ時、彼女は決まって睦の家の前に立っていた。モーティスがいる以上、あの扉は開かない。彼女もそのことをわかっているはずなのに。インターホンを押すわけでもなく、ただ玄関のドアをじっと見つめていた。
今日は冷たい雨が容赦なくアスファルトを叩きつけていた。
いつもの通り、睦の家の前を通ると祥子は傘すらささずに雨の中で睦の家の前に立ち尽くしていた。髪は濡れそぼり、その細い体が震えている。
私はフードを深く被り、通り過ぎようとした。このままいつも通り、何もなかったことにしてスタジオへ行けばいい。そう思っていたのに──
次の瞬間、私の足は勝手にぴたりと止まっていた。
理性が「関わるな」と激しく警報を鳴らすのとは裏腹に、体が勝手に彼女の方へと向き直り、足を踏み出していた。
私は彼女の隣へと並び立った。頭上で冷たい雨粒が傘の表面を激しく叩き、耳を塞ぎたくなるような喧噪を奏でる。急に降り注ぐ雨が遮られたことに気づき、祥子がゆっくりと顔を上げた。
「傘を忘れたのですか」
掠れた声で問いかける。祥子は濡れた瞳をしばたき、私を見つめた。
「あなたは?」
その声は、雨の音に溶けてしまいそうなほど弱々しかった。私は顔を隠すようにフードをさらに深く被り、彼女の視線から逃れるようにそっと視線を逸らした。
「アタシはただの通りすがりです。そんな所で突っ立っていたら、本当に風邪をひきますよ。……豊川さん」
彼女の肩が微かに跳ねた。祥子は滴る雨水を拭おうともせず、じっと私を見つめたまま動かない。
「ずいぶんとわたくしのことに詳しいですのね」
「貴女は有名人ですから」
私は感情の起伏を押し殺した声で答える。足元では雨脚がさらに強まり、ビニール傘を打つ音が激しさを増していった。
ふと視線を上げて、閉ざされたままの窓を見つめる。モーティスはあの窓の向こうで祥子がここにいることを知っているはず。それなのに、あえて窓を開けようともせず、ただ沈黙を貫いていた。
「ここに住んでいる人に会いに来たのですか?」
私の問いに祥子は息を呑み、わずかに唇を震わせた。
「ええ、この家にはわたくしが傷つけた人がいますわ」
祥子は震える唇を動かした。その瞳には、取り返しのつかない過ちを背負い込んだ者の重苦しい諦念が宿っていた。
「何も知らない貴女には分からない話になってしまいますが、わたくしはあの子を突き放してしまった。だから、ここから逃げ出すことは、もう許されない。責任を取らなければならないのです。直接会って、たとえ拒絶されても、たとえ罵られたとしても……わたくしの言葉で、すべてを伝えなければ……」
彼女の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせている様に聴こえた。
「貴女は立派ですね。アタシが同じ立場なら、一目散にその場から逃げ出している」
私の皮肉交じりの呟くと祥子は力なく笑い、足元へと目を落とした。
「立派?わたくしが?そんなことはありませんわ」
祥子の声が雨風にかき消されそうになる。
「わたくしは、あの子の本当の声を一言も聴こうとせず、最後には一方的に切り捨てた。わたくしは貴女が言うような人間ではありませんわ」
「いいえ、自分の過ちを真正面から認め、そこから逃げ出さずに責任を取ろうとしている。……それだけで、貴女は十分すぎるほど立派です。少なくとも、自分の失敗を他人のせいにし、現実から目を背けて魂を腐らせているような愚か者とは、天と地ほどの違いがある」
私の吐き捨てた言葉に、祥子の瞳がわずかに揺れた。その言葉に対しての侮蔑を込めていることに気づいたのかもしれない。
「……貴女は、わたくしと同じぐらいの歳なのにずいぶんと大人びていますのね」
「え?」
祥子は濡れた前髪をかき上げた。雨に煙る中でじっと私のパーカーへと向けられる。
「そのパーカーの下……花咲川女子学園の制服ですわね」
彼女の震える指先が、雨に濡れて黒ずんだ私の裾を正確に指し示した。隠し通せるはずもなかった。
「そうですが……それが何か?」
「貴女と同じ学校にわたくしのたった一人の妹がいますの。教えてください……妹のハルは、今も変わらず、元気に過ごしていますか?」
「……ハルさん、ですか」
私は喉元まで出かかった動揺を飲み込み、努めて平静を装いながら、ビニール傘の柄を白くなるほど強く握りしめた。心臓の鼓動が、降り注ぐ雨音を置き去りにするように早鐘を打つ。
「ええ。彼女は……今、とても忙しくしています。CMの演奏に写真撮影や映画等の劇伴。色々な場所から引っ張りだこだと言っていました」
私は震える声を必死に抑え込みながら、まるで赤の他人の近況を語るかのように、淡々と嘘のない真実を並べ立てた。こんな薄汚れた雨の中で、実の姉に対してこんな状況で近況報告することになるとは思っていなかった。
「彼女は忙しく過ごしているのですね……」
祥子の声は細く震え、どこか切なげな、それでいて救われたような笑みをかすかに浮かべた。
その痛々しいほど複雑な横顔を見た瞬間、左目の奥を駆け抜けるように、焼けた針を直接突き刺されたような鋭い激痛が走った。
「ぐっ……!」
あまりの痛みに私は思わず息を呑み、耐えきれずその場で小さく身体を折り曲げる。雨に煙る視界がぐらりと大きく揺らいだ。
「貴女……!? 一体どうしたのですの!?」
祥子は心配そうに青ざめた声を上げながら、私の方へと一歩踏み出してきた。その細くしなやかな指先が、私の顔を覆っていたパーカーのフードへと伸びていく。
素顔が見られてしまう。
そう理解した瞬間、全身の血液が逆流するような本能的な恐怖が警鐘を鳴らし、私は反射的に彼女の手首を掴んだ。
「……触らないで!」
自分でも驚くほど低く、凍り付くように冷たい声が、雨音を切り裂いて響いた。祥子はまるで不意打ちを食らったかのように目を見張り、その場でぴたりと動きを止める。
「あ……申し訳ありません……。ただ、突然目にゴミが入っただけですから」
私は慌てて指の力を緩め、引きつった笑みを貼り付けた。祥子の潤んだ瞳には、突然の拒絶に対する困惑と、それを遥かに超えて、目の前の人間が誰なのかを探り当てようとする深い疑惑が渦巻いているように見えた。
「い、いえ……こちらこそ勝手に……。ただ、あまりにも苦しそうに見えましたので……」
「……それより、さっきの続きですが。ハルさんは今度、大規模なソロリサイタルが決まったそうです。大きなホールのステージで、大勢の観客を前にヴァイオリンを奏でる。彼女は『今までのコンクールと何ら変わりない』って、いつものように涼しい顔で笑っていましたよ」
私の言葉に、祥子はハッとしたように息を止め、ゆっくりと視線を虚空へと彷徨わせた。
「……リサイタル。素晴らしいことですわね。……ですが、わたくしは、あの子の隣にいる資格を捨ててしまった。ですから、あの子がどんなに大きな舞台に立とうとも、客席の片隅から喝采を送ることすら、今のわたくしには許されない」
濡れた髪の毛先から滴り落ちる雨粒が、祥子の白い頬を冷たく伝う。
「姉である貴女が、なぜそんなことを言うのですか」
「こんな周りを傷つけてばかりの惨めなわたくしを、あの子が本当の姉だと思っているのでしょうか。昔はあんなに……『姉様、姉様』っと、わたくしの後をついてきてくれたのに。今ではどこか別人みたいに見えて……わたくしのことなど、もう……」
震える祥子の言葉を遮るように、私はもう一度、努めて淡々とした口調で言い放った。
「彼女はそうではないと言っていました。あの人は、今の自分があるのは姉のおかげだと言っていました」
「……あの子が、わたくしを?」
「豊川ハルにとって、豊川祥子という存在は、いつまでも超えるべき途方もなく巨大な壁であり、そして生涯の目標だと」
私の言葉に祥子は長い、あまりにも長い沈黙をその場に落とし込んだ。激しい雨音がすべてを支配する世界で、彼女はただ、小刻みに震える指先を自身の冷え切った胸元に強く押し当てていた。
「……あの子、そんな風に、わたくしのことを見ていてくれたのですね……」
祥子はふっと、これまでの張り詰めた糸が切れたかのような、儚くも静かな笑みを漏らした。それは、彼女が仮面を被って演じてきたどの表情よりも人間らしく見えた。
「ありがとうございます……。貴女が誰なのか分かりませんが、今日の言葉は、とても胸に響きましたわ」
「……余計なことを勝手に喋っただけです」
「いいえ。でも……貴女がそう教えてくれたおかげで、心のどこかが少しだけ軽くなった気がしますの。……すぐにハルに直接伝える勇気は、まだ持てないかもしれないけれど」
祥子は震える指先で、睦の家のドアにそっと触れた。
「……でも、まずは、睦と向き合わなければなりませんわ。そのあとに必ずあの子とも……」
祥子は触れていたドアから名残惜しそうに指先を離し、ゆっくりと私の方へ振り返った。その瞳には雨に濡れながらも、わずかな決意の光が灯っているようにも見えた。
「……祥子さん。彼女はならきっと貴女の言葉を聞いてくれます。貴女が抱えてきた後悔も、懺悔も……あの人なら、きっと受け止めてくれるはずです」
私の言葉に、祥子は驚いたようにわずかに目を丸くした。
「ありがとうございます。貴女は本当に……不思議な人ですわね」
私は傘を支える手に力を込めたまま、何も言わずに彼女の横顔を見つめた。
「雨脚が一段と強くなってきました。これ以上ここにいたら本当に風邪をひきます。……お帰りになった方がいい。それと──」
私は自分が持っていた唯一のビニール傘の柄を、戸惑う祥子の手に無理やり押し付けた。
「差し上げます。私の目的地はここから近いので……」
「それでは、貴女が……」
「構いません。雨に濡れる事は慣れていますから」
「あの……名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? 貴女にお礼すら言えていませんわ」
その問いかけに、私はほんの一瞬だけ足を止めた。けれど、フードの奥で目を伏せ、冷たく言い捨てる。
「名乗るほどの者じゃありません。ただの音楽好きの通り過ぎで、気高い貴女に比べて私はただの雑草です」
冷たい雨が、私のパーカーを容赦なく濡らしていく。
傘のない頭部はすぐにずぶ濡れになり、視界は煙るような灰色の雨粒に完全に覆われたが、それでも私の足は止まらなかった。
「ありがとう。ハル」
背後から雨音を縫うように私を呼ぶ声が聞こえた気がした。しかし、一度向けた背中を再び振り返ることは、どうしてもできなかった。
その言葉は、私の正体を見破った上での確信なのか、それとも、ただの独り言か。分からなかった。 振り返れば、彼女はそこにいる。私がずっと追い求め、そのくせ誰よりも憎み、そして最も愛していた実の姉が。
私は俯いたまま視線を地面の水たまりに落とし、わざと大股で冷たい路地を曲がった。心拍数は、雨の冷たさとは裏腹に、歩けば歩くほど熱を帯び、胸の奥が痛むほどに高鳴っていく。
スタジオまでの道のり、街頭の電子掲示板がふと視界に入った。
そこには、私がイメージキャラクターを務める楽器メーカーの新しい広告が映し出されている。ポスターの中の私は完璧に仕立てられたドレスに身を包み、眩い照明を全身に浴びながら、一点の曇りもない作り物の笑顔でヴァイオリンを抱えていた。
その場で足を止め、冷たいアスファルトの濁った水たまりに映る自分の影をじっと見下ろした。
今の祥子は自身の意志で再び、睦と向き合うために踏み出している。彼女は全てを失っても、自分の手で物語を動かそうとしている。
「ああ、嫌になる……」
一方、私はどうだろうか。
祖父の権力と財力という名の、細くて切れない蜘蛛の糸にいいように吊るされ、完璧な人形としてステージを演じるためだけに生かされている。自分の意志など初めから持たない、高価なガラスケースに入れられた無機質な人形。
「一体どちらが……本当に惨めなのだろう」
雨の中でぽつりと呟いた言葉は、容赦なく降り続く雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
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1.違う世界線のハルと祥子
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