雨の日から翌日、一仕事の区切りをつけた私は事務所の隅にある会議室で、マネージャーの向かいに座っていた。
「次の出演についてですが、『sumimi』のラジオ番組ということで、スケジュールに問題はありませんか?」
「ええ、問題ありません」
初めてのラジオ番組、数か月前に「いつか一緒にお仕事ができたらいいね」と何気なく交わした言葉が、今こうして現実味を帯びて目の前に形作られていく。
「ハルさんは三角さんと同じ学校で、日頃から交流があると聞いていますからね。共演に際して余計な心配はいらないでしょう」
マネージャーはそう言うと、手元で開いていたタブレットの画面をパタンと閉じた。
「それと、これは仕事とは関係のない余談なのですが……昨日は雨の中を傘もささぬままスタジオにいらしたと連絡を受けましたが、体調の方は本当に大丈夫ですか? 心なしか、いつもより顔色が少し悪いように見えますが……」
「いえ……ただの疲れです。別に大したことではありません」
私は平然を装い笑みを浮かべながら答えた。マネージャーは一度だけ深い溜息を吐き、これ以上詮索するのはやめようと決めたように、それ以上何も言わなかった。
「ラジオについて、確認ですが、私はどんな風に話せばいいのですか?」
「普段通りでいいですよ。これも仕事の一環ですが、今回はハルさんの親しみやすいイメージを持ってもらうためですから」
「親しみやすさ……」
「そうです。人には色々の顔があります。友達に見せる顔、親の前で見せる顔、そして、仕事で見せる顔。今回のラジオでは、その中で友達に見せる顔で望めばいいと思います」
「まるで仮面みたいですね」
「確かにそうかもしれないですね。さて、ハルさんもお疲れのようですし、今日の打ち合わせはこれぐらいにしておきましょう。お疲れさまでした」
打ち合わせを終えて、ドアを開けるとすぐ目の前の壁に片手を押し当て、細い肩を微かに震わせている少女の姿が飛び込んできた。
(彼女は確か……)
祐天寺にゃむ。
Ave Mujicaのステージで仮面を脱ぎ捨てた張本人。私がこの道を進むきっかけを生んだその人は、鬼気迫る表情で立ち尽くしていた。彼女は私の存在に気づくと、弾かれたように顔を上げる。
「アンタはサキコの……」
「初めまして、ですね。私は豊川ハルです。祐天寺さん、ですよね?」
にゃむは一瞬、虚を突かれたように怯んだ表情を見せたが、すぐに鼻でフンと笑い、強がるように肩をすくめた。
「ちょうど、アンタと一度だけ話をしてみたかったのよね。この後、少し時間あるでしょ?」
「わかりました。ちょうど、私も祐天寺さんと話をしてみたいと思っていましたので……」
私たちは歩幅を合わせて駅前の喫茶店へと向かった。店内に入ると、にゃむは迷いなく一番奥の薄暗い席を陣取り、メニューも見ずに紅茶を注文した。私はそれに倣って、苦みの強いブレンドコーヒーを頼む。
やがて注文した紅茶が運ばれてくると、店員が去っていくのを見届ける間もなく、テーブルを挟んだ向かい側から、刺すような鋭い視線が投げかけられていることに気づいた。ゆっくりと顔を上げると、にゃむは穴の開くほどじっと私の顔を見つめていた。
「……どうかしましたか?」
「ねえ、アンタさ……こうして近くで見ると、サキコとあまり似ていないなーって思って、顔の輪郭とか、ふとした瞬間の目の角度にその瞳の色とか、一つだけでも似ていると思ったのに」
「姉妹だからって必ず似ているというわけではない。そう思いませんか?」
私はできるだけ普段通りの、何でもない口調を装ってそう受け流した。
届いたコーヒーカップをそっと手元に引き寄せ、黒い液体をのぞき込む。そこには、紛れもなく自分の顔が映し出されていた。しかし、瞬きをするその輪郭の重なりは、ふとした拍子に別の人物へとすり替わる。
それはあの忌々しくも愛おしい、姉・祥子の顔だった。
「祐天寺さん。お聞きしますが、なぜ、あのステージで仮面を脱ぎ捨てたのですか」
カップを置いた指先がわずかに震えるのを隠すように、私はソーサーの縁をそっと押さえた。
「なに? 今更そんな過去の話を蒸し返すつもり?」
テーブルの向こう側でにゃむは心底呆れたような、軽蔑を含んだ顔をした。
「正直、飽きた。サキコは最高の舞台で最高のタイミングで仮面を取るって言っていた。そんなのあの日以外ある~」
「確かに、あの日を境にAve Mujicaという存在は以前よりも世間に広く知れ渡りましたね」
「サキコと違って話が分かるみたい。世の中って残酷だから~ちんたらしてたら世間の注目を損なっちゃう。アンタにも得があったでしょ?Ave Mujicaがあったから、サキコの妹のアンタも有名になれた」
「貴女にはそう見えますか……」
私の想定だが、この人は有名になりたいだけでAve Mujicaに入った。バンド中心に考えている祥子と最初から考えが一致するはずもなかった。私の最初の肩書も、結局は「Ave Mujicaのオブリビオニス・祥子の妹」だから注目されている。今の彼女を責める権利は私にはない。
「アンタさ、いっつも前髪で左目隠してるじゃん。それ、邪魔にならないわけ? 前が見づらくない? それとも、なんか隠さなきゃいけない特別な理由でもあるわけ?」
にゃむの手がふと止まり、ジロジロと品定めするような視線を投げかけてきた。その尖った双眸が、じっと私の顔の左半分を捉えているような気がした。
「……別に、深い意味はありません。あえて言うのなら、私の好みですよ」
「へえ、好みねえ。でも、ステージの上でもそんな調子でしょ? もっと顔出した方が絶対見栄えいいのにさ。もったいないなーって、ずっと思ってたわけ」
にゃむは面白がるように鼻で笑った。
「そんなにこの髪の下を見てみたいですか?」
私は微笑みながら、左前髪の束にそっと指先をかけた。ひんやりとした絹糸のような黒髪の束を捉え、それをゆっくりと持ち上げようとする。
「……っ」
その瞬間、にゃむの表情からからかうような余裕がすっと消え失せた。彼女は反射的にカップをソーサーに激しく置き、思わず身体を引いた。
「いや、待って……。そこまで言うわけじゃ……」
「どうされたのですか? ずっと気になっていらしたのでしょう?」
「……い、いい。遠慮しとく。サキコに知られたらうるさそうだし……」
にゃむは気まずそうに視線をそらした。
「そう。それは残念ですね」
私はコーヒーに視線を落とすと、前髪の隙間から少しだけ傷が見えていた。前髪にかけていた手をゆっくりと下ろす。
髪の隙間から覗く視界の端で、にゃむが気まずそうに紅茶のカップを見つめているのが分かった。
気まずい沈黙を破るように、にゃむはカップから視線を外し、再び私をまっすぐに見据えた。
「ねぇ、ハルコ。アタシと組まない?」
唐突に発せられたその言葉に、私はわずかに眉をひそめた。
「組む、とは……どういうことですの?」
「そのままの意味。アンタ、今はいろんな意味で『サキコの妹』って看板で注目されてるけど、それだけじゃいつか飽きられる。でも、ビジュアルの方向性を変えて、あたしのプロデュース通りに売り出せば、もっとデカいとこ狙える」
にゃむは自分の手柄を語るように、自信満然とした笑みを浮かべた。
「アンタのその雰囲気、ちょっと見せ方を変えれば絶対にバズるって。どう? アタシと組めば、もっと楽に上にいける」
「お断りします」
「は? 即答じゃん。もうちょっと考えたら? 損はさせないって」
「損得の問題ではありませんのよ。それに、貴女と組む理由などどこにもありません」
私の返答に、にゃむは面食らったように目を丸くした。
「ちょっと、アンタねえ……。せっかくこっちが美味しい話を振ってあげてるのに……」
「美味しい話、ですか? あなたが考えているのは、ただ自分の話題作りのため。ましてや、踏み台のために私を利用したいだけでしょう」
にゃむは顔を少し引きつらせ、悔しそうに歯噛みした。
「……っ。せっかく親切に言ってあげたのに。サキコといい、アンタといい、本当にめんどくさい姉妹!」
「それでも結構。私は『売れるためだけ』にステージに立つつもりはありません。私がここにいるのは、目的のための手段の一つ。貴女に理解してほしいとは思いません」
「じゃあさ、その目的は何なの?」
「Ave Mujicaを超える」
私の言葉に、にゃむは呆れたように肩をすくめた。
「はぁ? 超えるとか超えないとか、そういう話じゃないでしょ。ムジカはもうないんだよ?」
「今は活動を休止していますね。ですが、私はこれで終わるとは思っていません。ごちそうさまでした」
バッグから財布を取り出すと、テーブルの端に置かれていた伝票の上に数枚の紙幣を重ねた。
「お茶の御代は、こちらで払っておきます。それでは、失礼します」
私は椅子から立ち上がり、彼女の驚愕の表情を背に受けたまま喫茶店を後にした。
門扉をくぐり、エントランスホールへと足を踏み入れる。
「お嬢様、少しよろしいでしょうか」
そのまま自室に向かおうと階段に足をかけようとした私を、静かな足音とともに歩み寄ってきた使用人が引き止めた。
「お疲れのところ申し訳ございません。よろしければ今すぐ、書斎にお越しいただきたいのです」
「書斎に……?」
怪訝に思って尋ねると、使用人はゆっくりと首肯した。
「はい。ご当主様がハルお嬢様にお話ししたいことがあると。今すぐ、書斎へ来るようにとおっしゃっております」
もちろん、拒否権などという甘い選択肢は最初から用意されていない。
それと同時に、祖父に呼び出されるときはいつだって碌でもない話ばかり聞かされている。
(あぁ、嫌だ……)
私はそのまま二階に上がり、重い足取りを引きずるようにして自室とは反対方向にある書斎へと向かう。扉の前に立ち、二度軽くノックをする。中から低い「入れ」という返事が聞こえた。
「お呼びですか?」
デスクの前に歩み寄り、促されるでもなく私はその場で足を止めた。祖父は手元にあった書類からゆっくりと顔を上げ、その視線を私に向ける。
「ハル。お前は数日前にあの男に会ったそうだな」
心臓の底がドクリと重く、嫌な音を立てて跳ね上がった。
冷や汗が背中を伝うのがわかる。父と会ったことは、そよ以外に誰にも言わなかったはずだ。なのに、なぜ祖父がそれを知っているのか。
「実の父に会うことの何が悪いのですか?」
精一杯の強がりを込めて問い返したが、声の震えまでは完全に隠しきれなかった。
「何がいけないか、だと?あの男は我が豊川家にとって不適合の烙印を押され者。あの男に関われば、お前の立場がどうなるのか。お前も豊川の恐ろしさを知っているだろう」
祖父の冷徹な眼差しを受け止めながら、私はゆっくりと自身の首元に手をかけた。
「ふぅー……」
肺の空気を吐き出し、呼吸を整えてから、着ていたハイネックの襟を捲り上げた。
白磁の肌に刻まれた、紫黒い指の跡。父親に掴まれたその痛々しい痕跡を祖父の目の前に突きつけるように晒す。
祖父の視線が、私の首元に這う痛ましい証拠へと向けられた。しかし、その老いた瞳に驚愕の色や孫を案じる感情の色が浮かぶことは、一瞬たりともなかった。
「申し訳ございません。あの男がどうなったか、気になって見に行きました。私はあの場所に行って、父──いや、あの男の首を絞められてから、私の中にあったわずかな情けや迷いさえも消え失せました。同情の余地など何処にもありません」
ハイネックの襟を元に戻し、私は真っ直ぐに祖父を見据えた。
「だから安心してください。あんな男にこれ以上関わるつもりはありません」
「そうか……それならば、お前は今まで通り仕事に専念するといい。だが、お前には近い間、本来の役割を果たしてもらう。お前は──」
祖父の言葉が急速に遠ざかっていく。
頭の芯で、キーンという波打つような低い耳鳴りが激しく響き始めた。
視界の中心にあったはずの祖父の姿が、まるで霧がかかったようにぼやけ、輪郭がぐにゃりと歪んでいく。頭のてっぺんから足元まで、全身の血管から一気に血の気が引いていくのが分かった。冷たい汗が背中を伝い、呼吸が浅く、細くなる。
「わかっているな。ハル」
「はい……わかっています。私はそのために存在していますので、それでは失礼します」
私はそれ以上の言葉を聞く耐性を失い、足早に書斎を後にした。そのまま自室へ戻る気にはなれず、そのままフラフラと屋敷の薄暗い庭へと足を踏み出した。
手入れの行き届いた庭の隅に、ひっそりと植えられた花壇を見下ろす。
そこに健気に咲いているのは、少し前に私が手折りかけたあの白いヒナゲシだった。茎は少しだけ曲がっているが、それでも花弁を震わせながら細々と命を繋いでいる。
『世の中って残酷だから――ちんたらしてたら世間の注目を損なっちゃう』
にゃむの言葉が風に交じり、脳裏に反響する。
彼女の言う「残酷な世の中」は、停滞することを許さない。立ち止まれば忘れ去られ、変化を恐れれば踏みつけられる。
私はポケットからペンダントを取り出した。
かつて、祥子は私の事を……私が変わらず手にしていたこのペンダントを『停滞の象徴』と切り捨てた。
「……ちんたらしてたら、置いていかれる、か」
私は地面に手をついたまま、垂れ下がったヒナゲシを見つめる。一度折れてしまった茎は、どんなに優しく手を添えても、もう二度と空を向くことはない。どれほど栄養を与え、どれほど手をかけても、この花が前の姿に戻ることはない。
私という存在も、この花たちと同じだ。
季節が進み、厳しい冬を越え、どれだけ華やかなステージに立ち、どれほど称賛を浴びようと、この身体の奥底に刻まれた「歪み」は消えない。太陽を失い、
「花は枯れるから美しい……」
誰の言葉だったか。あるいは、昔に読んだ本の中で誰かの台詞か。
私はそう呟き、指先でヒナゲシの細い首元をそっと撫でる。その柔らかな白い花弁が、私の震える指にすがるように儚く絡みつく。
美しく散ることを許されるのは、自らの意志で根を張り、四季の移ろいを享受できたものだけ。今の私のような、誰かの手によって花瓶に挿され、観賞されるためだけに作られた造花には、「枯れる」という概念すら私には贅沢な望みなのかもしれない。
次回作のアンケート
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1.違う世界線のハルと祥子
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2.睦メインの作品
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3.初華メインの作品