ラジオの収録現場へと向かうため、私は地図アプリの画面を片手に歩いていた。
画面に表示された青い線を頼りに道を曲がった時、視界に飛び込んできた見慣れた景色に足がピタリと止まる。
そこは何度も通った睦の家へと続く道だった。
心臓が嫌な音を立てる。この道の先に進めば、祥子がいるかもしれない。そんな予感が頭をよぎった。
スマホの画面を操作し、この道を避けて迂回するルートを検索する。しかし、画面に表示されたのは約束の時間に着かない遠回りのルートばかりだった。
「……仕方ない、よね」
小さく呟き、私は覚悟を決めてそのままのルートを進むことにした。
足音を殺すように慎重に歩を進め、塀の角を曲がったその先には睦の家の前に祥子、そよ、そして立希の姿があった。
三人の様子を物影からこっそり伺っていると、祥子はそよから小さな紙袋を受け取ると首をかしげていた。少し離れた場所で立希は二人の様子を見ていた。
距離があるため、彼女たちの声はここまでは届かない。だが、その光景が孕む空気の重さ、張り詰めた緊張感に、今の私は彼女たちにとってただの部外者でしかないという現実が突きつけられた。
「私の出る幕はないか」
私はフードを深く被り直し、三人に見つからないように素早く道を駆け抜けた。
放送局の自動扉をくぐったのだが、初華がどこで待っているのか分からずにエントランスの近くにあるテーブルのある椅子に腰かける。
時計を見てみると、約束の十五分前だった。少し早く着きすぎただろうか。
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、私はバッグから手帳を取り出して卓上に広げた。ページを開き、来週以降のスケジュールの余白に記された数字を指先でなぞる。
来月の給料の見込み額。そして、Ave Mujicaのツアーで背負った返済額の目標値。
ふたつの数字を交互に見比べ、はぁ、と小さなため息が漏れた。どんなに仕事を詰めても、到底届きそうにない現実がそこにあった。
「……全然足りない」
思わず声に出てしまったその呟きに重ねるように、頭上から穏やかで澄んだ声が降ってきた。
「何が足りないの?」
「っ……!?」
心臓が止まりそうになった。
反射的に手帳を閉じようとしたが、それよりも早く、私の隣に滑り込んできた影が誌面を覗き込んでいた。
その人物はつばが付いた帽子を深くかぶり、薄い色のサングラスを付けた初華がそこに立っていた。変装越しでもわかる綺麗な瞳が、びっしりと書き込まれた予定と、そこに添えられた桁数の多い数字を見つめている。
「……仕事の量と、この目標額……」
初華は首を少し傾げると、覗き込むような体勢のまま、私を見つめた。
「ねえ、ハル。こんなにお金を貯めて、一体どうするの?」
「あ、えっと……その……っ」
詰問するような強い口調ではない。けれど、その純粋でまっすぐな疑問だからこそ、私は激しく狼狽した。
まさか祥子のためにAve Mujicaの借金を補填しようとしているなんて、初華に言えるはずもない。頭の中で無数の言い訳がぐるぐると渦を巻き、視線があちこちに泳ぐ。
「……っ、ヴァイオリン……!」
口から飛び出したのは、自分でも思いがけない単語だった。
「ヴァイオリン……?」
「う、うん……! 自分の……自分で稼いだお金で、新しいヴァイオリンを購入したいなぁって思ってて……! だから、その、貯金をしてるんだ……」
一度嘘をついてしまうと、後戻りはできない。私はぎこちない笑顔を貼り付けながら、必死に口実を取り繕った。
初華は数秒の間、私の顔と手帳を交互に見つめていたが、やがて「そうなんだ」と小さく頷いた。
「新しい自分の楽器、欲しいよね」
「う、うん。やっぱり自分の手で買い叩いた……じゃなくて、買ったものだと、思い入れも違うし……」
苦しい言い訳を重ねながら、私は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。初華の優しげな眼差しが、どこか私の嘘を見抜いているのではないかという錯覚に囚われ、胸の動悸は一向に収まりそうになかった。
「あ、ういちゃん。ハルちゃん!」
聞こえてきた方向に目を向けるとSumimiの……初華のパートナーである純田まながこちらにやってきた。
「まなちゃん、お疲れ様」
初華がサングラスの奥の目を細めて微笑むと、まなは笑顔を弾ませながら私たちのテーブルに近寄ってきた。
「お疲れ様です、まなさん」
私は強張っていた表情をなんとか繕い、腰を浮かせて小さく頭を下げた。胸の動悸はまだ完全に静まっていなかったが、初華との緊張感のあるやり取りが一区切りついたことに、密かに安堵の息を漏らす。
「ハルちゃん、初めましてだね。今日はよろしく。……あれ、二人で何か真剣な話でもしてた?」
まなはチラリと卓上の手帳に視線を向け、屈託のない笑顔で尋ねてきた。
「ハルちゃんが、新しいヴァイオリンを買うために貯金している話をしていたの」
「へぇー、そうだ。ハルちゃんに聞こうと思っていたけど、ヴァイオリンって、高い方が音がいいの?」
「あ、えっと……」
唐突で素直な疑問に、私は思わず言葉を詰まらせた。
頭の中でいくつもの知識や経験が交錯する。弓を滑らせた瞬間のレスポンス、ホール全体を震わせる音圧の伸び、そして何より――自分が求めている音の精度。けれど、今求められているのはそんな専門的な蘊蓄ではないはず。
「高額なものが『絶対的に良い音』とは言い切れない部分もあります。勿論、数百年の歴史を経た名器には独特の響きや深みがありますし、演奏者の表現をどこまでも拾い上げてくれる懐の深さがありますけれど……」
言葉を選びながら、慎重に音を紡ぐように言葉を重ねていく。
「大切なのは価格そのものよりも、弾き手との相性や、その楽器がどれだけ自分の求める音に寄り添ってくれるか、ですから。安価な楽器でも、丁寧に調整されていれば十分素晴らしい音が鳴りますし……」
「へぇ~! 相性かぁ、奥が深いんだね」
まなは感心したように深く頷いた。
(返済のために作った、ただの嘘なのに……)
私は逃げるように手帳を素早く閉じ、バッグの底へと押し込んだ。
「そろそろ、ブースへ移動しましょうか。本番までの流れも確認したいですし」
動揺を隠すように努めて平然とした声を出すと、初華はサングラスの奥の瞳で私をじっと見つめた後、静かに立ち上がった。
「うん、そうだね。行こうか、ハルちゃん」
二人の背中を追いかけながら、私は喉の奥に残る苦い感覚をぐっと飲み込んだ。
完璧な自分を演じ続けるための仮面を固く結び直し、防音扉の向こう側へと足を踏み入れた。
防音扉が閉まり、独特な空気が満ちる。
初華とまなはマイクを挟んで向かい合うように座ると手元の資料に目を通し始めた。
スタッフに笑顔で促され、私は円卓の向かい側、ゲスト用に用意されたマイクの前に腰を下ろした。
ディレクターの合図にスタジオの天井に掲げられた「ON AIR」の赤いランプが灯った。
二人の息の合った軽快なオープニングトークが始まり、スタジオの空気が一気に華やいだ。
「今日、このスタジオにはスペシャルゲストをお迎えしています。今、多方面で大きな注目を集めている新人ヴァイオリニスト……豊川ハルさんです!」
収録自体は順調に進んだ。まなの弾けるような軽快な進行と、初華の透き通った声。私は当たり障りのない相槌を打ちながらも、自分の言葉で淡々と受け答えをしていた。
そして番組はリスナーからのメールを紹介するコーナーに移る。
届いた内容は、普段どんな練習をしているのか、学校生活では何を楽しんでいるのかといった、当たり障りのない質問ばかりだった。
「次のお便りは……あ、えっと……」
まなは一瞬だけ言葉を詰まらせた。手元にある手紙には何か引っかかるものでもあったのだろうか。正面に座る初華は心配そうにまなの顔を見つめている。
私はその手紙の端をちらりと覗き見た。
視界の端に飛び込んできた文字には、「Ave Mujica」という名前がハッキリと記されていた。
(――あぁ、そういうことね)
まなの困惑した横顔を見据え、私は彼女に声を掛けた。
「大丈夫です。続けてください」
まなは驚いたように目を丸くした。それから私の顔と手元の手紙を交互に見比べると、小さく息を吸い直し、震える声を抑えながら慎重にその内容を読み上げた。
『Sumimiのまなちゃん、ういちゃん。そしてゲストのハルさん、いつも応援しています。単刀直入にお聞きしますが……Ave Mujicaが活動休止に至ったことについて、オブリビオニスの妹であるハルさんは、あの結末について今どう思っていらっしゃいますか?』
空気が凍りつき、初華が息を呑む音が聞こえた。
私はゆっくりと視線を上げ、防音ガラスの向こう側――副調整室にいるスタッフたちの方へ目をやった。ディレクターと私のマネージャーが言い争っている姿が見えた。
彼女にとっては、完全なる不測の事態だったのだろう。
無理もない。Ave Mujicaの活動休止について、私がメディアで口を開いたことはこれまで一度もなかった。番組の制作者側にとって、これは番組の目玉となる「極上の特ダネ」に他ならない。
私の答えは最初から決まっている。
「活動休止について、個人としての思いを尋ねるならば非常に、残念に思っています」
偽りのない本心をもって、私はハッキリと言葉を発した。
「彼女たちが作り上げていた音楽、あのステージに立っていた者たちが放っていた熱量は、間違いなく本物でした。私自身、その背中をずっと追いかけて、同じステージに立つ事を目標にしていた」
「ハルちゃん……」
初華が消え入りそうな声で私の名前を呼ぶ。
「だからこそ、あのような形で幕を引いたこと、そして今も止まったままになっていることは、同じ音楽の道を志す者としても、非常に惜しまれます。あれが彼女たちの選んだ結末だとは思っていない。……いつか、彼女たちが再びその歩みを止めず、あの舞台へと戻ってくることを、私は一人のファンとして、そして誰よりも近くでその背中を見つめてきた者として、ずっと待っています」
まなは小さく息を吐き出すと、どこかホッとしたような表情で微笑んだ。
「……ハルちゃん、ありがとう」
初華もまた潤んだ瞳で私を見つめ、静かにうなずいた。
このままエンディングへと向かう寸前、窓の向こうでディレクターが慌てた様子で大きなスケッチブックを掲げた。そこには、乱暴な殴り書きでこう記されていた。
『ハルさん、一曲披露できませんか? リスナーへのサプライズで!』
「……えっ、ヴァイオリンを? ここでですか?」
初華の驚いた声が響く。台本には一切ない、完全に現場の勢い任せたアドリブだった。
「あいにく、今日は自分の楽器を持ってきていなくて……」
私は作り笑いを浮かべながら、その場をかわそうとした。
しかし、その試みは一瞬で打ち砕かれた。若い男性スタッフが、興奮を隠しきれない面持ちで、使い込まれた古いヴァイオリンケースをドタバタと抱えて走り込んできた。
「これ!僕のなんですけど、良ければ使ってください!安物ですけど、弦は張り替えたばかりですので、すぐに使えます」
スタジオ内のスタッフ全員の視線が、熱を帯びてナイフのように私に突き刺さる。
まなは「どうする?」と、私の顔を覗き込む。ここまで根回しされたら逃げ場はなかった。ここで断るとリサイタル前の評判に傷がつく。
「分かりました。お借りします」
楽器をケースから取り出した。手に持った瞬間の重み、指先に触れるネックの質感と張り替えられた弦。
先ほど、まなに言った自分の言葉を思い出すが、これはお世辞にも「音楽を奏でるための道具」とは呼べない代物だった。
ボディのメンテナンスは行き届かず、張り替えられたばかりだという弦も、ただ乱暴に巻きつけられただけの無機質な鉄の線にしか見えない。楽器自体の魂が死んでいるような、そんな空虚な手応えだけが伝わってきた。
(こんなもので演奏しろと?)
そんな言葉が喉の奥から出そうになったが、ぐっと奥歯を噛み締めた。
私は一瞬だけ初華と視線を合わせ、それから覚悟を決めるように深く顎で楽器を挟み込んだ。
「それじゃあ、リスナーの皆さんに感謝を込めて。sumimiの楽曲を少しだけ弾かせていただきます」
私が選んだのは、二人が大切に歌い続けてきた代表曲の一節。
一音。たったそれだけで何もかもが違った。私の理想とは程遠い音。胸の奥で渦巻く苛立ちを抑えながら、私は音の響きを確かめるように弓を滑らせる。
しかし、どれだけ力加減を変えても、安物の硬質な弦は私の微細な要求を拒絶するかのように、耳障りな高音を引っ叩く。
(――ッ、は……っ)
唐突に胸の奥が焼け付くように熱くなった。
心臓が不規則に、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ね上がる。肺の酸素が一瞬にして枯渇したかのように、猛烈な息苦しさが襲った。喉の奥が狭まり、呼吸が浅く、狂ったように速くなる。
(どうして……今、こんな……時にっ)
焦りが指先を狂わせる。安価なスチールの弦は刃物のように指先に食い込んだ。
視界の端がチカチカと不気味な明滅し始める。息が続かない。胸が浅く激しく上下しそうになるのを私は奥歯を噛み締めて強引に抑え込んだ。
演奏の合間のごく僅かなブレスの瞬間、マイクに拾われないよう、極めて微かに、けれど深く飢えたように空気を吸い込みつつ、胸の痛みを表情には一切出さないように繊細な旋律をなぞり続けた。
「……ありがとうございました」
最後の音が消えた瞬間、スタジオ内は静寂に包まれ、直後にスタッフたちのどよめきと拍手が沸き起こった。
「すごい……! あの楽器で、あんなに綺麗に……!」
若いスタッフが興奮しながら駆け寄ってきた。まなも「鳥肌が立ったよ、ハルちゃん!」と目を輝かせていた。
「ありがとうございます。お借りできて助かりました」
ヴァイオリンを返したその直後、弦に触れた指先がヒリヒリと痺れるように痛む。私は指先を見えないように、スカートの後ろに隠した。
この場にいる全員の目から逃れるように私は一礼し、スタジオの隅へと退いた。
スタジオの赤いランプが消え、番組は表向きには何事もなかったかのように無事に幕を閉じた。
私はその場から逃げだす様に、廊下に出たその瞬間──
「──ハルちゃん! 待って!」
背後から初華の声が響いた。
私は足を止め、暴れる心拍を無理やりねじ伏せるように呼吸を整え、いつもの微笑みを作り上げて振り返った。
「どうしたの、初華ちゃん。そんなに慌てて」
「ハルちゃん、顔色がすごく真っ青だよ。さっきの演奏の時も、ずっと苦しそうに見えた……」
「気のせいだよ、初華ちゃんの考えすぎ。次の打ち合わせがあるから、じゃあね」
ごまかすように顔の前でひらひらと両手を振ってみせる。おどけたフリをしてその場を去ろうとした私に、初華は迷いのない足取りで近づくと、ガシッと私の左手首を掴んだ。
「っ……!」
彼女の指先が触れた瞬間、脈打つような鋭い痛みが走り、思わず小さなうめき声が漏れた。
初華が私の掌を上に向けると、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
スタッフから借りた安物のヴァイオリン。その硬く錆びかけたスチール弦が、私の指の皮膚を抉り、薄皮の下でどす黒い血の塊が凝り固まっていた。表面の皮膚が辛うじて破れるのを踏み留まっているものの、痛々しい紫色の澱が指紋の溝を完全に塗り潰し、痛々しく腫れ上がっていた。
「これ……少し赤くなってるどころじゃない!こんなになるまで、全然気が付かなかったの……!?」
「少し痛むだけよ。大したこと――」
「大したことないわけない!顔色が悪いし……こっちに来て」
初華の拒絶を許さない真剣な眼差しに、私は抗う気力を失っていた。
彼女は誰もいない休憩室へと連れて行くと、私を椅子に座らせ、そのまま部屋を飛び出していった。
数分後、彼女は大きな桶に溢れんばかりの氷水を持って戻ってきた。カラン、と氷がぶつかり合う音が部屋に響く。
「少し冷たいかもしれないけど、ゆっくり手を入れて」
「初華ちゃん、そんなのいいわよ。これくらいなら……」
「いいから、入れて!」
彼女のこれまでに聞いたことのない、切実な叫びに近い声に押され、私は抗えずに、腫れ上がった左手を冷たい氷水の中へと沈めた。
「うっぐっ……!!」
あまりの冷たさに、神経が麻痺するどころか激痛が走り、全身の血の気が一気に引いていく感覚に襲われた。
「どうして、あんな無理をしたの? あのヴァイオリンの状態が良くないことを一瞬でわかったはずなのに……」
「あの状況では断れなかった。私の演奏を期待されているそんな中で、楽器が悪いからなんてプロを目指す人間が言えるわけない」
初華の手が、私の肩にそっと置かれた。
「ハルちゃん、自分を追い込みすぎ」
「自分を追い込んでいるつもりはない。ただ……」
私は氷水に沈めた左手から視線を外し、初華の瞳を見据えた。
「妹は、姉に憧れるものなの。それが、同じ音楽の道を志すのなら尚更……。あの背中がどれほど険しく、どれほど冷酷なものだったとしても……私にとっては、人生で最初に見上げた、絶対的な世界だったから」
私は氷水からゆっくりと手を引き抜くと、ハンカチで丁寧に滴を拭った。
「ありがとう、初華ちゃん。少し落ち着けた。今日はこのまま真っすぐ帰るよ」
麻痺したように冷え切った指先をかばうように、スカートのポケットに両手を深く突っ込んだ。
「送ろうか? まだ顔色があまり良くないし……」
「ううん、大丈夫。一人でゆっくり帰りたい。初華ちゃんも仕事に戻らないと迷惑がかかるでしょう?」
「……何かあったら、すぐに連絡してね。絶対に無理はしないで」
「うん、ありがとう。じゃあね」
初華に見送られながら、私はスタジオを後にした。
時間を確認するためにスマホの電源を入れると、画面の隅に未読の通知が表示されていることに気が付いた。
差出人は――祥子だった。
『明日の夕刻、貴女に少しお話したいことがありますわ』
次回は再来週に投稿予定です。
次回作のアンケート
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1.違う世界線のハルと祥子
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2.睦メインの作品
-
3.初華メインの作品