「……燈ちゃん? なんで、ここに」
「ここ私の家。ハルちゃん……ずぶ濡れ。そんなに震えて……」
燈が消え入りそうな声で呟いた瞬間、私の身体が裏切るように小さく跳ねた。
「……くしゅっ」
控えめな、けれど確かな悪寒を孕んだくしゃみが静かなエントランスに響く。指先から肩先までが細かく波打ち、濡れた制服が体温を容赦なく奪っていく。それを見た燈の瞳が、微かに揺れた。
「……!ハルちゃん、風邪を引いちゃう…こっちに来て」
彼女は私の腕を細い指でそっと掴んだ。エレベーターホールへと促すその手は、私と同じように微かに震えていた。けれど、その掌からは、迷子を放っておけないような切実な熱が伝わってきた。
「……お邪魔します」
燈の案内で足を踏み入れた部屋は、彼女の輪郭をそのまま形にしたような、こぢんまりとしていながらも安らぐ空間だった。本棚には図鑑や詩集が並び、部屋の隅には色とりどりの小石が詰められた瓶が、静かに光を湛えている。
「ごめんね、ハルちゃん。お部屋、狭いけど……。あ、座って。今、タオル持ってくるから」
燈はパタパタと中へ消え、すぐに分厚く柔らかなバスタオルを抱えて戻ってきた。
「ハルちゃん、こっち向いて……」
彼女は私の背後に回ると、水滴の滴る濡れた私の長い髪を大きなタオルで包み込んだ。
「……冷たい」
燈が小さく零す。彼女の細い指先が、タオルの上から私の頭を優しく、慈しむように押さえていく。
「……ありがとう、燈ちゃん」
じわりとタオルの温もりが冷え切った頭皮に染み渡る。燈は丁寧な手つきで、首筋や肩に張り付いた髪を一本ずつ解くように、ゆっくりと水分を拭い取っていった。その一定のリズムと温かさに、私の意識は微かな微睡みへと誘われる。
(……この感覚、知ってる)
**********
季節はまだ、春の兆しが冬の寒さに凍えていた頃。
母を亡くした喪失感と、何もできない自分への無力感。その重圧に押し潰された私は、自室に引きこもっていた。身体は常に微熱を帯び、心は反対に、凍てつく氷のように冷え切っていた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。
重い頭を揺らしながら薄眼を開けると、廊下の方から微かにピアノの音が聞こえてきた。
(……姉様?)
その音は、まるで私を呼んでいるかのように優しく、けれどどこか不安定な響きを持っていた。私はふらつく足で立ち上がり、クローゼットの奥からヴァイオリンケースを取り出した。
体力の限界を感じながらも、壁に寄りかかり、その音に寄り添うように弓を弦に滑らせる。
ピアノの音が止んで少ししてから、部屋のドアが静かに開いた。
「ハル! まだ熱があるのに」
祥子が血相を変えて駆けつけてきた。そして彼女の背後に隠れるようにして、不安げに私を見つめる一人の少女がいた。
「……姉様。あの子は?」
祥子は私に肩を貸し、ゆっくりとベッドに横帯わらせた。
「彼女は高松燈さん。燈さん、この子はわたくしの妹のハルですわ」
燈は部屋の隅で、ドレッサーに掛けられた彼女と同じ制服を不思議そうに見つめた後、祥子と私を交互に見た。
「祥子ちゃんとハルちゃん。……二人は双子、なの?」
燈の小さな問いに、祥子はふっと慈しむように微笑み、濡れた手ぬぐいで私の額を拭う。
「いいえ、ハルとわたくしは十一カ月差の年子ですわ。ほとんど双子のようなものですけれど……この子は早生まれで、そのせいか身体が弱くて。普段からこうして、静養を余儀なくされていますの」
祥子の指先が、私の火照った皮膚を冷やす。その笑顔は私に向けるものとは少し違い、もっと遠い未来を見据えた、希望に満ちたものだった。
彼女は、自分がこれからバンドを組み、新しい居場所を作ろうとしていることを静かに語り聞かせた。
話を聞き終えた私は、熱に浮かされながらも、彼女が久しぶりに見せた情熱に触れて安堵していた。
「……そう。姉様、よかったね。燈ちゃん……姉様を……よろしくね」
私は二人にそう伝えて、深い眠りに落ちた。
あの日が彼女たちにとっての「始まり」であり、私にとっての「終わりの始まり」であったことにも気づかずに。
「……ハルちゃん? 大丈夫?」
記憶の奔流から引き戻され、私は目の前の燈を見つめた。
「……ううん、なんでもないの。ちょっと、昔のことを思い出して」
立ち上がり、彼女が大切に並べた小石の瓶をそっと指先で撫でた。
「こうして、ゆっくり話すのは……いつぶりだったかな」
「卒業式、以来だと思う」
燈は視線を落として答えた。私は何気なく彼女の勉強机へと目を向け、そこで息を呑んだ。
卓上のペン立ての隣。宝物のように大切に飾られていたのは、二本の羽根だった。それは、彼女が祥子を訪ねてきた時、あの屋敷の庭で拾ったウグイスの羽根。
「これ、まだ持っていたんだね」
透明なケースに収められた小さな羽根。淡い緑を帯びたそれは、あの日々の瑞々しい記憶をそのまま閉じ込めたように、静かにそこに横たわっていた。
「……忘れられなかったから。あの日、ハルちゃんがと祥ちゃんから貰ったものだから」
雨音に混じって消えてしまいそうなほど細い声。けれど、そこには嘘偽りのない純粋な愛着が宿っていた。
「忘れられなかった……か」
無意識に、濡れた制服の襟元を弄っていた。薄い布地の向こう側で、硬い銀の感触が肌を刺した。
「私も同じだよ。燈ちゃん」
私はペンダントトップを服の中から引き出した。蛍光灯の光を反射して、銀の鎖が冷たく光る。
「そのネックレス、祥ちゃんのと同じ……」
「やっぱり、燈ちゃんもこれを知っていたんだね」
私は細い鎖を首から外し、その銀の塊を燈の手のひらの上へと静かに乗せた。燈はそれが壊れ物であるかのように、指を丸めて宝物を取り扱うような手つきで受け止めた。
「……重たい」
燈は自分の掌に乗った銀の塊を、壊れ物を扱うような手つきで見つめたまま、ぽつりと零した。
その声は物理的な重さだけではなく、そこに宿る得体の知れない「何か」を、その繊細な指先で正確に感じ取っているかのようだった。
「人の魂ってね、21グラムしかないって説があるのを何かの本で読んだことがある」
私は燈ちゃんの掌をじっと見つめながら、語りかけた。
「でも、誰かを想う気持ちや、その人に託された執着……そういう目に見えないものが混ざると、銀の鎖一本だって、こうして持ち上げるのが怖くなるくらい重くなる。それはきっと、姉様の人生の半分が、この冷たい金属の中に閉じ込められているから」
燈は瞬きもせず、私の言葉を一つひとつ、心の中に石を拾い集めるようにして聞き入っていた。
「……祥ちゃんの、半分」
「でもね、燈ちゃん。これ、本当は姉様が用意したものじゃないの」
私は燈からネックレスを受け取り、再び身に着けながら指先で、冷え切ったペンダントトップをなぞった。
「実は、これは私が買ったの。姉様にさえ内緒でお小遣いを貯めて。一昨年の誕生日にプレゼントしたの。今はこうして元気だけど、当時の私は、自分は長くは生きられないんじゃないかって予感してた。明日、目が覚めないかもしれない。次の春を迎えることが出来ないかもしれない。そんな確信に近い恐怖がいつも隣にいた」
言葉にするたび、心臓の奥が締め付けられる。
「姉様はそんな私のために時間を削って、ピアノを弾いて、看病してくれた。本当は自分も母様を失って悲しいはずなのに……。私は申し訳なかった。私の存在が、姉様の未来を足止めしている気がして。だから、せめて私が消えた後も、私の代わりにそばにいられる『何か』を残したかった」
感謝、愛情、そして、遺言。あのネックレスは、幼いハルが精一杯に紡いだ「生きた証」だった。
「それなのに、今は私の手にある『私の魂の半分だと思って、持っていて』……あの日、姉様はそう言って、私にこれを返した」
私はネックレスを強く握りしめた。
「……祥ちゃん、そのネックレス、ずっと大切に持っていた」
燈が消え入りそうな、けれど確かな響きを持った声で言った。
「え……?」
「バンドの練習のときも、ライブの前も……祥ちゃん、よくそのネックレスに触れてた。ハルちゃんが寝込んでいるとき、『今日はハルの調子が良くないの』って、悲しそうにそれを握りしめて……。まるでお守りみたいに、ずっと」
彼女の瞳が、遠い日のスタジオの風景を映し出すように微かに揺れた。
「祥ちゃんにとって、それはただの代わりじゃなかったんだと思う。ハルちゃんがそばにいない時間も、それを触ることで、一緒に頑張ろうって……自分に言い聞かせていたみたいに見えた」
「……そう、だったんだ」
私はネックレスを再び制服の中へと仕舞い込んだ。冷たかったはずの銀が、今は燈の言葉の熱を帯びて、胸元で微かな鼓動を刻んでいるような気がした。
「……ありがとう、燈ちゃん」
その時、制服のポケットでスマートフォンが無機質に鳴り響いた。画面には、祖父の名前。
『帰りが遅い。すぐに戻れ』
拒絶を許さない、冷徹な事務連絡。私は現実に引き戻される。
「ごめんね。燈ちゃん。私はもう行くよ」
私は重ねていた手を離し、まだ湿り気を帯びた髪を掻き上げた。燈は縋るような眼差しで私を見つめている。
「ハルちゃん……制服、まだ濡れてる……」
「大丈夫、帰っている間に乾くから。……それに、あまり遅くなると祖父がうるさいの」
私は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「今日は……本当にありがとう。とても落ち着いた」
「……ハルちゃん、あの」
玄関のドアノブに手をかけた私を、燈ちゃんの小さな声が引き止めた。彼女は胸元でノートをぎゅっと抱きしめ、迷子のような瞳を私に向けている。
「……ヴァイオリン、今も弾いてる?」
その問いは、あまりに直球で、私の急所を正確に突いた。私は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「ええ。弾いているわよ。……それしか、私には残されていないから」
「……何のために、弾いてるの?」
燈の瞳が、私の心を覗き込むように真っ直ぐに向けられた。
「何のために……」
技術を磨くため? 祖父の期待に応えるため? それとも、自分を繋ぎ止めるため? 頭の中に浮かんだいくつもの「正解」を振り払い、私は一番不格好な本音を掬い上げた。
「……あえて言うなれば、姉様と、大きな舞台で演奏するためかな」
私の声は自分でも驚くほど静かで、それでいて確かな熱を帯びていた。
「姉様とはずっと一緒にいたけれど……実は、大きな舞台で一度も一緒に演奏したことがない。家の中や、小さな発表会ではあったけれど。……私はいつも、彼女の背中を客席から見ているか、病室の窓から彼女の音を想像しているだけだった」
窓の外では、雨がさらに激しさを増し、ガラスを叩く音が部屋の静寂を際立たせている。
「だから、私は弾き続ける。……いつか、彼女の隣に立つために」
燈は悲しそうに目を伏せ、何かを言おうとして……結局、何も言わずにただ深く頷いた。
「……祥ちゃん、待ってると思う。ハルちゃんの音」
「そうだといいわね。ありがとう、燈ちゃん。……またね」
私は今度こそ、彼女の温かな部屋を後にした。
屋敷に着くと、寡黙な使用人が無機質な表情で一つの封筒を差し出した。
「ハルお嬢様、お荷物が届いております」
差出人は空白。私はそれを受け取り、自室へと逃げ込んだ。
デスクの照明を点け、封を切る。中から出てきたのは、一冊の使い込まれた大学ノートだった。ページを捲るたび、鼻腔を突く古い紙の匂い。そこには、鉛筆の薄い線で、しかし迷いのない筆致で綴られたスコア(楽譜)が並んでいた。
その端に書かれた曲名は──『春日影』
祥子がかつて愛おしそうに、けれど誇らしげに語っていた曲。
「なぜ、このノートが私の元に?」
ページを捲る手は止まらない。スコアの合間には、丁寧な文字で詩のようなメモが書き殴られていた。
『期待するだけ、むなしいと分かっていても』
『君の手はどうしてこんなにも温かいの』
「……これが、姉様が書き遺した旋律……」
私は吸い寄せられるように、デスクの傍らに置かれたヴァイオリンケースを開けた。
飴色の木肌が、月明かりのようなデスクライトに照らされて怪しく光る湿った指先で弓を握り、譜面に視線を落とした。
譜面から立ち上がるのは、あまりにも瑞々しく、そして痛いほどに優しい音の連なり。震える手で最初の音を紡ぐ。弦から滑り出した旋律は、部屋の冷え切った空気を一瞬で塗り替えていく。
(温かい……。どうして、こんなに懐かしいの?)
弾き進めるうちに、視界がじわりと滲んでいく。かつて彼女たちと分かち合おうとした「希望」が、音の粒となって私の指先から溢れ出す。
「……ずるいよ、姉様」
私は呟き、最後の一音を長く引き延ばした。残響が部屋の隅々に溶けて消えるまで、私は弓を下ろすことができなかった。
こんなにも美しい光を、彼女たちはかつて持っていた。その眩しさが、今の私にはあまりにも残酷で、けれど手放せないほど愛おしい。
私はノートを大切にしまい、ベッドの上に横たわった。目を閉じる。
彼女たちが「春日影」を奏でていたとき、どんな表情を浮かべていたのだろうか。祥子は、どんな想いでこの優しいメロディを五人のものにしたのだろうか。
整理のつかない感情の渦の中で、私の意識はゆっくりと沈んでいった。