第六話:仮面の誘い
あっという間に二ヶ月が経過した。
季節は初夏へと移ろい、街路樹の緑は濃さを増していた。
私は諦めきれずに時間が許す限り、彼女が好みそうなカフェや楽器店を駆けずり回った。けれど、彼女の影も形も――その芳香さえも、何ひとつ見つからなかった。
一方、燈たちは新しいバンド「MyGO!!!!!」を作り上げた。
SNSに流れてくる彼女たちの活動は、止まりかけていた時間を動かして、着実に前へ進んでいることを知った。
私だけが、あの日から一歩も前に進めずに空っぽの音を奏でている。
それでも、今もあの送り主不明のノートを常に鞄に忍ばせている。もはや送り主が誰かなど、どうでもよくなっていた。それが唯一、彼女へと繋がる細い糸のように思えたから。
ある日の放課後。私はいつものように駅の反対側にある古い楽器店を訪れていた。
硝子戸の真鍮ベルが、カランと乾いた音を立てる。店内は年月を重ねた木材と松脂が混ざり合った、静謐な香りに満ちていた。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
奥の工房から、眼鏡を額に上げた老店主が顔を出した。私が会釈をしてカウンターへ向かおうとしたその時、店の奥にある一室から一人の少女が姿を現した。
「初華ちゃん……?」
驚いて声を上げると、彼女は少しだけ目を丸くし、やがて春風のような柔らかい笑顔を浮かべた。
「ハルちゃん。こんなところで会うなんて奇遇だね」
彼女の手には一本のギターが握られていた。黒を基調に所々、ゴールドのパーツ埋め込まれている。そのパーツが店内の薄暗い照明を反射して鈍く輝いていた。
「ハルちゃんはヴァイオリンの調整?」
「……ううん。今日は、預けていたものを取りに来ただけ」
店主からメンテナンスを終えたヴァイオリンを受け取る。表面をなぞる指先に、木の冷たさが伝わる。
「ハルちゃん、せっかく会えたんだし……少しだけ、音を聴いてもいいかな?」
初華の期待に満ちた瞳に、私は断る間もなく手を引かれ、防音設備の整った試奏室へと入った。ドアが閉まると雑音は消え、木材の香りがより一層濃くなる
「何を弾くの?」
初華はピアノの椅子に軽く腰掛け、私を見上げる。
「……何でもいいよ」
私は逃げるように視線を落とし、無意識に鞄の奥に触れた。指先に触れる、あの送り主不明の大学ノート。
数秒の葛藤の後、私は吸い寄せられるようにそのノートを取り出し、譜面台に広げた。
「それ……楽譜?」
初華が不思議そうに首を傾げる。私は何も答えず、ただ静かに弓を弦に置いた。
弾き始めたのは、あのノートに記されていた旋律。初めて弾いたあの日から頭の中で何度も再生される。祥子が残した曲。
『春日影』
初華の指先が、ピアノの鍵盤の上でぴたりと止まった。
彼女の瞳が大きく見開かれ、小刻みに震える。試奏室の密閉された空間に、私の奏でるヴァイオリンの音が、泣き叫ぶような、あるいは祈るような切実さを帯びて充満していく。
「その曲……」
初華の呟きは、私の音にかき消された。
止まれなかった。譜面台に置かれたノートの文字が、私の網膜を焼く。弾けば弾くほど身体の芯が熱くなる。これはただの音楽じゃない。彼女たちの叫び、そのものだ。
最後の一音が、震えながら空気に溶けていった。
静寂が、以前よりもずっと重く、冷たく、私たちの間に降り積もる。
「……どうして、ハルちゃんがその曲を?」
初華の声は、いつもの柔らかさを失っていた。そこにあるのは、剥き出しの動揺。
「……届いたの。二ヶ月前、誰かもわからない人から。屋敷に」
私は弓を握りしめたまま、うつむいた。初華は立ち上がり、ふらふらとした足取りで譜面台に歩み寄る。彼女の指が、ノートの端に触れた。その指先が、凍えそうなほど震えているのを私は見た。
「何か知っているの? 初華ちゃん」
私の問いに、初華はしばらく沈黙した後、絞り出すように言った。
「聴いたことが、あるの。……ライブハウスで」
「え……?」
「CRYCHICの、最初で最後のライブ。……あの日、ステージの上で彼女たちが奏でていたのが、その曲だった」
「そうなんだね……」
彼女は私とは違って、あの場所にいた。姉様が一番輝いていた瞬間の、目撃者。
「ねぇ、初華ちゃん。その時、キーボードを弾いていた人は……どんな顔をしていた?」
初華は一瞬だけ遠くを見つめ、慈しむように、けれどどこか悲しげに口角を上げた。
「笑っていたよ。……本当に、幸せそうに」
「そっか……そうなんだ」
その言葉を聞き、私はどこか救われた気がした。祥子は確かにあそこで幸せだった。その事実に安堵し、涙となってこぼれそうになる。
初華は自分のギターに手を伸ばした。
「ねえ、ハルちゃん。……私と一緒に、一曲だけ合わせてみない?」
「えっ? でも、ギターとヴァイオリンじゃ、曲が……」
「大丈夫。音楽に境界線なんてないよ。ハルちゃんの今の音を聴いてたら、なんだか私の指がうずうずしてきちゃった。……何か、思いつく曲はある?」
初華の瞳にある圧倒的な熱量に、私の胸の奥がチリりと焼かれた。その「まなざし」に応えたい。そう思った瞬間、一つの旋律が脳裏をよぎった。
「……ヴィヴァルディの『四季』から、『冬』の第一楽章なら。ギターと合うかもしれない」
私たちはスマートフォンで、バロックの厳格な構成と情熱が同居するその楽譜を素早く確認した。
「ねえ、ハルちゃん。この低音の刻みを私が担当するから、ハルちゃんは主旋律を弾いてみて?」
初華の提案に、私は小さく首を振った。
「……ううん。私は、後ろを支える役に徹したいの。初華ちゃんのギターで、氷を砕くような旋律を奏でて。私はその影をなぞるように、寒風の響きを添えるから」
初華は少しだけ意外そうに目を細めたが、すぐに「わかった」と力強く頷いた。
セッションが始まる。
初華がギターで刻む和音は、チェンバロのような硬質さと、ロックギタリストとしての確かなアタックを伴っていた。雪片が舞い、凍てつく大地が軋むようなイントロ。
私はバイオリンを顎に当て、彼女の作り出すリズムの波に、静かに身を沈めた。
主旋律を弾く初華の音は、驚くほど雄弁だった。けれど演奏を続けていくうちに、私の中に奇妙な違和感が芽生え始めた。
初華の音の隙間、その「歌わせ方」や、次の音へ繋げるための僅かなタメ。そこに、私は強烈なデジャヴを感じたのだ。
それは、一年以上前。屋敷のサロンに美しいピアノの音が溢れていた頃、私の未熟な演奏に寄り添うように導いてくれた「あの人」の癖。
(まさか……そんなはず、ない)
初華のギターは、紛れもなく彼女自身の音だ。けれどその根底に流れる哲学に、私はどうしても祥子の残影を見てしまう。
胸の奥が、痛いほどに熱くなる。
一年間、渇望して止まなかった「懐かしさ」が、目の前の少女の指先から溢れ出している。私はこぼれそうになる感情を抑え込み、ただ必死に彼女の背中を、その音の影を追い続けた。
冬の嵐が吹き荒れるような終盤。
私達の音は、防音室という狭い世界を越えて、どこか遠くの凍てついた空の下で重なり合っていた。
最後の一音が消えた後、静寂が痛いほどに耳に刺さった。初華は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、満足そうに私を見ていた。
「ハルちゃん……やっぱり、私たち、合うかもね」
彼女の言葉に、私は何も答えられなかった。ただ、楽器を握る手が微かに震えていた。
「お二人さん、盛り上がってるところ悪いんだが……」
不意に試奏室の扉が開き、老店主が顔を覗かせた。
「そろそろ閉店の時間だよ。名残惜しいだろうが、続きはまた今度にしておくれ」
「あ……」
時計を見ると、針はとうに閉館時刻を回っていた。私は慌ててヴァイオリンをしまい始める。焦る指先が、弓をケースに固定する金具に当たってカチリと音を立てた。
「ごめんなさい、夢中になっちゃって。……調整、ありがとうございました」
「いいんだよ。いいもん聴かせてもらったからね」
店主は優しく笑い、私は急いで荷物をまとめると、初華と一緒に店を出た。
「ハルちゃん、またね。今度は……もっと違う曲も弾いてみたいな」
初華はそう言って、軽やかな足取りで駅の方へと歩き出す。オレンジ色の街灯の下、彼女の背中が遠ざかっていく。
(……あ)
その瞬間、私の視界が奇妙に歪んだ。
街灯の光に照らされた初華の輪郭が、私の記憶の中にある、別の誰かの後ろ姿と重なる。何も言わずに私の世界から消え失せた、祥子の背中。
「待って……!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れた。
私は無意識に、遠ざかるその背中に向かって、右手を伸ばしていた。空を切った指先が、夜の冷気に触れる。
行かないで。私を、一人にしないで。また、置いていかないで──。
縋り付くような思いで伸ばした手は、誰の温度にも触れることなく、虚しく空中に留まった。
「……ハルちゃん?」
不意に、初華が足を止め、不思議そうに振り返った。私はハッとして、伸ばしていた手を慌てて下ろした。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
「……ううん、なんでもないの。気をつけて帰ってね」
引きつった笑顔を貼り付けて、手を振る。初華は一瞬、何かを言いかけたように口を開いたが、やがていつもの優しい笑みを浮かべて頷いた。
「うん。ハルちゃんもね」
今度こそ、彼女の姿は夜の雑踏へと消えていった。
残されたのは、オレンジ色の街灯と、私の鼓膜にこびりついた、冬の嵐のようなセッションの残響だけ。私は、さっきまで彼女の手の温もりを感じていた自分の右手を、じっと見つめた。
屋敷に戻ると、出迎えた使用人が重々しく口を開いた。
「ハルお嬢様、大旦那様がお呼びです。それから、郵便が届いております」
渡されたのは、一ヶ月前に行われたコンクールの予選結果だった。
『予選通過』
無機質な活字が目に飛び込んできた。本来なら喜ぶべき知らせも、今の私には「次も完璧でなければならない」という宣告にしか思えなかった。
祖父の書斎は、重厚な本棚と冷徹な空気に支配されていた。デスクの向こう側に座る祖父は、手元の書類から目を離さずに告げた。
「予選を通過したそうだな。当然の結果だ。本選で醜態を晒す事は許さんぞ」
「……はい」
「それから、先日の式典でお前の演奏を聞いた者が、音楽雑誌の撮影とインタビューを申し込んできた。来週だ。準備をしておけ」
祖父の声には、孫の努力を労う響きなど微塵もなかった。
「いいか、豊川家の名を傷つけるような真似はするな」
また、「名」だ。
昔からそうだった。身体が弱いのに厳しい英才教育を施され、常に頭痛に悩まされていた幼少期。私がヴァイオリンを手にするようになってから、彼にとって私は“家族”ではなく、豊川家の“飾り”になった。
私の心を救ってくれた人たちは、もうこの家にいない。
祖父に逆らうことはできない。もし逆らえば、このヴァイオリンさえ取り上げられるかもしれない。そんな恐怖が常に背中に張り付いている。
音楽への情熱などとっくに枯れ果てようとしているのに、この四角いケースだけが私の存在をかろうじて定義している。これを失えば、私の心は本当に――塵となって消えてしまうだろう。
(助けて…姉様…)
そう心に唱えながら、自室に戻ると私はベッドに倒れ込んだ。スマートフォンの画面を無意識にスクロールしていると、ある記事が目に止まった。
それは、仮面で顔を隠した五人の少女──「Ave Mujica」の写真だった。
耽美で、どこか不吉な気配を纏ったそのビジュアル。私は吸い込まれるようにその記事をタップした。
“ようこそ。Ave Mujicaの世界へ”
メッセージと共に、動画の再生ボタンが浮かび上がる。私は、震える指先でそのボタンを押した。
響いてきたのは、地を這うような重低音と、天を裂くような激しい旋律。あまりに美しく、そして残酷なほど魅力的なその世界観に、私は一瞬で魂を掴まれた。
力強いボーカルが鼓膜を震わせる。そして、端でキーボードを演奏する一人の少女に、目が釘付けになった。
カメラワークが速く、仮面で顔は隠れているため、正体は判然としない。けれど、その指の動き、背筋の伸ばし方、鍵盤を叩く圧倒的な迷いのなさ。
(……姉様?)
そんな考えは直ぐに消えた。聞こえてくる音は、私の知る祥子の音とは対極にあった。彼女はもっと高潔で、調和を重んじる音を出す。こんな激情の音は出さないはずだ。
(……他人の空似。ただの、よく似た誰か)
そう自分に言い聞かせ、画面を閉じようとした。
けれど、指が動かない。
その残酷な美しさを湛えた演奏から、どうしても目を離すことができなかった。
画面の中で仮面を被った彼女は、まるで鏡の向こう側の、あるいは「なりたかった自分」であるかのような、抗いがたい共鳴を放っていた。