「もう少し顎を引いて。そう、視線はレンズの少し上……貴女自身の高潔さを体現するように」
無機質なスタジオのストロボが、私の肌を容赦なく焼き、ヴァイオリンのニスを不自然に照らし出す。
カメラマンの要求に、音楽への敬意など微塵も含まれていなかった。彼らが欲しがっているのは、私の奏でる音ではなく、「豊川ハル」という記号に付随する造形美だけ。
「素晴らしい。まさに深窓の令嬢……完璧ですよ」
シャッター音が私の心を薄く切り刻む音のように聞こえる。
けれど、私の網膜にはあのAve Mujicaの妖艶な残像と、鼓膜にはあの音がこびりついて離れなかった。
二時間の撮影と台本通りの空虚なインタビュー。私は微笑を貼り付け、用意された回答を機械的に吐き出す装置になり下がっていた。
「……お疲れ様でした。今日はありがとうございました」
撮影が終わり、更衣室へ逃げ込む。重いドレスを脱ぎ捨て、いつもの制服に身を包むと、ようやく肺に本物の空気が戻ってきた気がした。
足早にエレベーターホールへ向かう。その時、すれ違ったスタッフたちの囁きが、私の足を凍りつかせた。
「ねえ、聞いた? 上のフロアのBスタジオにAve Mujicaが入ってるらしいよ」
「え、マジで? あの仮面のバンド? 極秘練習ってやつ?」
私は弾かれたように振り返った。
(彼女が上にいる?)
気づけば私は下りではなく、上りのボタンを強く押し込んでいた。理性が警鐘を鳴らしている。けれど、脳裏にこびりついた旋律が磁石のように私の体を動かした。
最上階のフロアは、下の階の華やかな喧騒が嘘のように、張り詰めた沈黙に支配されていた。
私は吸い寄せられるように奥へと足を進める。
(Bスタジオ……Bスタジオは何処?)
薄暗い廊下にその文字を見つけた。厚い防音扉に耳をあてる。中からは何の音も聞こえない。意を決して隙間から覗き見たが、そこはもぬけの殻だった。無機質なマイクスタンドと、複雑に絡み合ったケーブル。中央には圧倒的な存在感を放つキーボードとドラムが鎮座しているだけだった。
(……空振り? それとも、もう終わって……)
その瞬間時だった。
廊下の向こうから、複数の規則正しい足音が近づいてきた。反射的に、私はスタジオの隅に積み上げられた大型アンプの物陰に身を隠した。息を殺し、自分の心音さえ消えろと願った。
重い扉が開き、五人の気配がなだれ込んできた。
隙間から見えたのは、仮面で顔を隠し、耽美で不穏なオーラを纏った少女たち。彼女たちは言葉少なに、けれど完璧な統制の下でそれぞれの位置についた。
そして、音が放たれた。
画面越しに聴いたものとは、次元が違った。スピーカーというフィルターを通さない生の響きは、暴力的なまでの質量を持ってスタジオの空気を震わせる。
地を這うベース、空を切り裂くギター、そして――すべてを支配し、冷徹に導くキーボードの旋律とそれに本能を刺激する歌声。
(……あぁ、これだ)
私は物陰で震えながら、その音の奔流に飲み込まれていった。
彼女たちの奏でる音は、深淵そのものだった。そこには、私がコンクールで求められる「正解」も、祖父が誇る「品格」も存在しない。あるのは剥き出しの情熱と、逃れられない絶望を美へと昇華させる圧倒的な衝撃。
それに比べて、私の音はどうだろう。誰かに教え込まれた通りの指使い。誰かを満足させるための記号化された美しさ。中身のない、空っぽのただ綺麗なだけの箱。
(私のヴァイオリンなんて、死んでいるも同然……)
そう自覚した瞬間、底なしの沼に足を踏み入れたような感覚に襲われた。
目の前で鍵盤を叩く、あの「仮面の少女」の背中。彼女の音には、聴く者の魂を引きずり込むだけの黒い輝きがある。
私は自分のヴァイオリンケースを、壊れ物を扱うように、あるいは縋るように強く抱きしめた。
この深淵に触れてしまったら、もう元の光り輝くステージには戻れない。
そう分かっていながら、私はその背中を、残酷なまでに美しい指先を、瞬きさえ忘れて凝視し続けていた。
三曲目を弾き終えた時、スタジオを支配していた熱狂が、嘘のように冷たい静寂へと戻った。
彼女たちがスタジオを後にしようとする中、ドラムのアモーリスが何かを呟いていたが、昂ぶった私の耳には届かなかった。
最後にドロリスがスタジオを出ようとした、その時──彼女は扉の取っ手に手をかけたまま、ふと、私が潜んでいる物陰に視線を向けた。
「……っ!」
隠しきれていなかったヴァイオリンケースの端が、照明に反射したのだろうか。
仮面の奥にある彼女の瞳と、私の視線が真っ直ぐにぶつかった気がした。
時が止まったような錯覚。彼女の瞳には、驚きも拒絶もなかった。ただ、深い夜の底に沈んだ月のように、静かな諦観と……そして、ほんのわずかな「何か」が揺れていた。
彼女は声を上げることはなかった。ただ、一瞬の沈黙の後、何事もなかったかのようにゆっくりと、重厚な防音扉を閉めた。
カチリ、と静かにラッチがはまる音。扉の向こう側で、私の世界が音を立てて断絶された。
一人残された私はスタジオの物陰で荒い呼吸を整えることもできず、ただ自分のヴァイオリンケースを強く抱きしめていた。
「はっ……はぁっ……!」
彼女達の足音が聞こえなくなってから、私は物陰から飛び出し、心臓が口から飛び出しそうな勢いで廊下を走った。
エレベーターに飛び乗り、閉じるボタンを連打する。数字がカウントダウンのように減り、扉が開いた瞬間、私は外へ踏み出そうとした。
「あ、いた! 豊川さん!」
出口を遮るように、二人の男性スタッフに道を塞がれた。私は息を切らしたまま立ち尽くす。
スタッフの後ろから、一人の女性がゆっくりと歩み寄ってきた。仕立ての良いスーツを着こなし、年月を感じさせる落ち着いた、けれど鋭い知性を感じさせる瞳を持った女性。
「驚かせてしまってごめんなさい。私は、こういう者です」
彼女から差し出された名刺には、音楽事務所の社長としての名前が記されていた。
「先日のパーティーで貴女の演奏を拝見しました。豊川の看板を抜きにしても、貴女の音には、ある種の美しさがありました」
「あ、ありがとうございます」
戸惑う私に、社長は微かに目を細めて続けた。
「実は、そんなあなたにあるアーティストから楽曲提供とサポートの依頼があります。クラシックの高潔さと、メタルバンドの融合……少し変わった依頼なのですが、興味はありませんか?」
雨上がりのアスファルトのような、冷たくて甘い誘い。私は震える声で尋ねた。
「えっと……その……アーティストとは、どなたですか?」
社長は確信に満ちた笑みを浮かべた。
「AveMujicaのオブリビオニス。彼女が貴女の音を必要としていると言ったら、信じますか?」
「……え?」
喉の奥が焼けるように熱くなった。今さっき、あの物陰から見ていたあの冷徹な旋律の主。
なぜ、私なのか。なぜ、よりによって「彼女」が。
「どうして、私なんですか……? 私はまだ、コンクールを目指しているだけの無名の身なのですが……」
「詳しい理由は、私にも分かりません。ただ、彼女が強く希望したのです。『この旋律を形にできるのは、彼女かもしれない』と」
「……オブリビオニスが、私の音を?」
繰り返した自分の声が、他人のもののように空虚に響く。
コンクールの予選を通過したばかりの、豊川家の「飾り」でしかない私の音を、あの深淵を統べる旋律の主が求めている?
「……彼女は、私の音を知っているのですか?」
絞り出すような私の問いに、社長は感情の読めない微笑を浮かべた。
「彼女が貴女の過去の演奏を聴いたのか、貴女の『何か』を見たのか……それは私にも分かりません。ただ、彼女はこうも言いました。『彼女は、まだ自分の本当の音を知らないだけだ』と」
その言葉は、私の胸の奥深くに突き刺さり、容易には抜けない棘となった。
「本当の音」
祖父に豊川という名に縛られ、窒息しかけている私のヴァイオリン。
もし、あの深淵に身を投げれば。あの仮面の少女の隣に立てば。私は「牢獄」の外にある、自分の音を見つけることができるのだろうか。
「もちろん、コンクールが控えていることは承知していますので、無理強いはしませんが……」
「……いえ。やらせてください」
私は迷わずに、力強く首を縦に振った。これは、祖父に決められたスケジュールでも、豊川家の令嬢としての役割でもない。私自身の意志で選択した、光へと続くかもしれない道。
社長が満足げに頷き、去っていく。私はいつもの癖で、心を落ち着かせるために胸元へ手を伸ばした。
「……あ」
指先に触れるはずの、あの冷たい銀の感触がない。
祥子から預かった、私の魂の半分であるネックレス。先ほどの着替えの際か、あるいはスタジオの物陰に隠れた際か。血の気が引いていくのがわかった。
(嘘……どこで?)
引き返そうとして、足を止めた。スタジオはもう施錠されているかもしれない。あるいは、誰かに拾われているかもしれない。
スマートフォンの画面が光る。祖父からの着信。
『予定の時間を過ぎている。即刻帰宅せよ』
拒絶を許さない無機質な文字列が、私の足を縛り付ける。
私は背後のエレベーターを、そして手のひらの中にある社長の名刺を交互に見つめた。
ネックレスという鎖を失った今、私は本当の自由を手に入れたのだろうか。それとも、さらに深い深淵へと墜ちていく序曲に過ぎないのだろうか。
震える指で祖父への返信を打ち込みながら、私は闇に消えた銀の輝きを思い、音もなく唇を噛んだ。
「……ごめんなさい、姉様」
私は小さく、もうここにはいない姉に向けて、謝罪の言葉を呟いた。
そして、ぽっかりと空いた胸元を一度だけ強く押さえ、二度と振り返ることなく、夕闇の街へと歩き出した。