忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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第八話:停滞の象徴

 

その日は唐突に訪れた。

学校が終わり、湿り気を帯びた風に吹かれながら重い足取りで校門を抜けようとしたその時、スマートフォンの画面が短く震えた。

 

『本日十七時、港北アトリウムスタジオで待っています』

 

差出人不明のメール。先日、事務所の社長から提示された「招待状」。ネックレスを失い、心にぽっかりと穴が開いたままの私にとって、それはもはや抗うことのできない神託にも似ていた。

 

夕闇が迫る街を一人、指定された場所へと向かう。

港北アトリウムスタジオ。全面ガラス張りのロビーは、沈みゆく太陽の残光を受けて黄金の波紋を揺らしていた。高すぎる天井が、私の靴音を必要以上に大きく響かせる。

 

スタッフに導かれ、最上階にある特別スタジオへ。重厚なオーク材の扉の前に立った時、指先が微かに震えた。

この扉を開ければ、もう「豊川ハル」としての平穏な日々には戻れない。そんな予感があった。

 

意を決して扉を押し開けると、そこには、巨大な天窓から差し込む残照に照らされた一人の少女がいた。

 

「来ましたわね」

 

低く、けれど芯の通った声。

部屋の中央、グランドピアノの傍らに立っていたのは、あの『Ave Mujica』のキーボード、オブリビオニスだった。

 

彼女はあの耽美な仮面を被ったままだった。

レースの縁取りがなされた漆黒のドレスが、夕闇に溶け込みそうなほど深い影を落としている。仮面の奥にある瞳は、すべてを見透かしたような静寂を湛えていた。

 

「……あなたが、オブリビオニスさん?」

 

私の問いかけは、広大なスタジオの静寂に吸い込まれ、微かな反響となって戻ってきた。

オブリビオニスはなにも答えず、ただ優雅な所作で傍らの円卓へと歩み寄った。そこには、時代から取り残されたような陶器のティーセットが用意されている。

 

「まずは、座りなさい」

 

彼女は対面の椅子を指し示した。漆黒のドレスの衣擦れの音さえ、計算された旋律のように耳に届く。私は吸い寄せられるように、彼女の正面に腰を下ろした。

 

卓上に置かれたカップに、琥珀色の液体が注がれるが、天窓から差し込む歪んだ残照のせいだろうか。あるいは、このスタジオを支配する異様な空気のせいか。注がれた紅茶は黒く不気味な光を放っていた。

 

「……っ」

 

思わず息を呑み、固まった私の視線に気づいたのだろう。仮面の奥で、彼女の口角が微かに残酷なほど美しく釣り上がった。

 

「毒なんか入っていませんわ」

 

その声はかつて私を慈しんだ誰かの響きによく似ていた。

 

「砂糖やミルクは?」

 

「結構です……」

 

彼女が飲む姿を見届けてから、私も紅茶に口を付けた。

 

「あの……なぜ、数ある奏者の中で私なのですか」

 

カチリ、という小さな音が、静まり返ったラウンジに異様に大きく響く。

オブリビオニスは仮面の奥で視線を伏せ、まるでチェスの駒を進めるかのような、淀みのない動作で口を開いた。

 

「理由は、貴女自身が一番よく分かっているはずですわ。豊川ハル」

 

彼女は流麗な動作で、卓上に横たわる漆黒のヴァイオリンへと指を這わせた。

 

「先日、貴女のコンクールを拝見しましたわ。完璧でしたわね。音程も、リズムも、解釈も。すべてが丁寧で、美しく計算されていましたわ」

 

「聴いて……いたのですね」

 

その言葉を聞き、私は微かな失望を覚えた。この人も結局、私の肩書きや、豊川の教育が作り上げた「外面」しか見ていないのだと。

 

「……ですが、それだけ」

 

オブリビオニスの言葉が、冷や水を浴びせられたように私の思考を止めた。彼女は窓の外の夕景を見つめたまま、容赦のない言葉を紡ぐ。

 

「貴女の音には、何もありません。そこにあるのは、誰かの期待に応えるための空虚な技術と、古びた伝統の模倣だけ。貴女という人間が、どこにも存在していない」

 

図星を突かれ、指先が微かに震える。彼女は机上のヴァイオリンを指し示した。

 

「貴女は、誰のために音楽を奏でているのです?人形として拍手を浴びるため? それとも、誰かの顔色を窺うため?」

 

「それは……っ」

 

彼女はテーブルに置いてあった、あの不気味な輝きを放つカーボンヴァイオリンを私の方に回転させ、私へと突き出した。

 

「今の貴女に持てる力の全てを、出し切りなさい。その空洞に何が詰まっているのか……あるいは、本当にただの虚無なのか。わたくしに証明して見せなさい」

 

(この人なら……この痛みを、この欠落を、理解してくれるかもしれない)

 

私は吸い寄せられるように、テーブルの上に横たわる漆黒のヴァイオリンに手を伸ばした。顎を乗せ、弓を構えた瞬間、世界が急速に闇へと沈んでいくような錯覚に陥った。

 

張り詰めた空気の中、カーボン製のヴァイオリンが放つ音は、私が使い慣れた木製のものとは異質な、硬質で暴力的な響きを持ってスタジオに霧散した。

 

『タイスの瞑想曲』。

 

本来なら甘美で宗教的な法悦を湛えるべきその旋律を、私は引き裂くように、縋り付くように奏でた。

指先が熱い。弦を捉える弓が、私の内側にある「どろりとした何か」を無理やり引きずり出していく。

 

祈りでも、瞑想でもない。それは、姉を失い、祖父に縛られ、正解をなぞることを放棄し、豊川家の看板をかなぐり捨て、ただ「私」という欠陥品が、その叫びを音に変えていく。

 

最後の一音が、西日の差し込むアトリウムに長く、重く尾を引いて消えた。私は肩を震わせ、荒い呼吸を整えることもできずに立ち尽くした。

 

正解をなぞることを放棄し、豊川家の看板をかなぐり捨て、ただ「私」という欠陥品が、その叫びを音に変えていく。

 

最後の一音が、嗚咽のように消えていった。

 

静寂。荒い呼吸だけが室内に響く。私はヴァイオリンを抱えたまま、力なく項垂れた。

 

「これが貴女の全て?」

 

オブリビオニスの声は、凍てつく夜の底から響くように冷ややかだった。

 

「失望しましたわ。今の演奏……あまりにも浅くて醜い。混濁していて、整合性がない。支離滅裂に感情をかき集めただけの、粗雑な音」

 

「……なんですって?」

 

耳の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。

視界が赤黒く染まる。心血を注ぎ、家名の重圧を脱ぎ捨ててまで曝け出した「叫び」を、この女は今、ゴミ屑のように切り捨てた。

 

「浅くて、醜い……? 整合性がない……?」

 

震える声が、自分でも驚くほど低く、地這うような響きを帯びる。

 

「貴女に……仮面の裏に隠れて、安全な場所から他人を品定めしているだけの貴女に、私の何がわかるというのです!」

 

衝動が思考を追い越した。

私は手にしていた弓を、ヴァイオリンを置く間も惜しんで、オブリビオニスの喉元へと突き出した。鋭い馬毛の束と木製の棹が、彼女の白く細い首筋を、あと数ミリで傷つける距離で止まる。

 

「……殺したければ、そうしなさい」

 

オブリビオニスは、瞬き一つしなかった。

喉元に突きつけられた「凶器」を前にしても、その呼吸は凪のように静か。仮面の奥の瞳が、嘲笑うように私を射抜く。

 

「ですが、その程度の殺意で私の喉を裂いたところで、貴女の音に宿る『空虚』は埋まりませんわ」

 

「うるさい……!」

 

「いいえ、はっきり言わせてもらいますわ。貴女が今、わたくしに突きつけているのは音楽ではなく、ただの『雑音』。豊川ハル、貴女が抱えている絶望は、それほどまでに安っぽいものですの?」

 

彼女は私の弓を、汚れた枝でも払うかのように指先ひとつで退けた。カラン、と乾いた音を立てて、私の右手が力なく垂れ下がる。

 

「わたくしが求めているのは、そんな一過性の叫びではありません。わたくしが、そして『Ave Mujica』が必要としているのは、世界から切り離され、たとえ誰もいなくなったとしても鳴り続ける『永遠の旋律』」

 

彼女は深く、憐れむようなため息をつき、静かに肩を落とした。

 

「永遠の旋律……」

 

「貴女ならその素質があると思っていましたが、期待外れでしたわ。まだ早すぎたのかもしれません。……それとも、もう手遅れなのかしら」

 

「……じゃあ、何が正解だったというのですか」

 

床を見つめたまま、枯れ果てた声で問いかける。

 

「私の技術が空虚で、私の叫びが醜いというのなら……私は、どうすればよかったの? 何をすれば、貴女は満足したというの! 教えて……お願い、教えてよ……!」

 

縋るような私の問い。それはプライドも家名もすべて投げ捨てた、剥き出しの敗北宣言。

 

長い沈黙の後、漆黒のドレスが微かに揺れる音がした。

オブリビオニスがゆっくりと、私の目の前で屈み込む。彼女の手が、震える私の頬を優しく、まるでおもちゃを愛でる子供のような残酷な慈しみを持って包み込んだ。

 

仮面の奥、至近距離で見つめ合う瞳。

 

「見苦しい。それは自分の力で見つけるものですわ。それとも、貴女はわたくしに『慰め』を求めますの?」

 

オブリビオニスの指先が、私の頬をなぞり、ゆっくりと離れていく。その拒絶に近い慈しみに、私は言葉を失い、ただ壊れた人形のように立ち尽くすことしかできなかった。

 

「……あ」

 

漏れ出たのは、情けないほどにか細い吐息。

無意識に胸元へ手を伸ばしたが、そこにあるはずの銀の感触はない。自分が何一つ持っていないことを、改めて思い知らされる。

 

「今、貴女が何を求めているのか。……これ?」

 

彼女の白い指先が、漆黒のドレスのポケットから、ひとつの「光」を引き出した。夕闇が深まったアトリウムで、それは冷たく、けれど懐かしい銀の輝きを放った。

 

間違いない。銀の鎖の先に揺れる、あの見慣れたフォルム。私が自分の魂を削って買い、彼女に贈り、そしてあの日、絶望と共に私の元へ帰ってきたネックレス。

 

「どうして……あなたが、それを……」

 

私は我を忘れて手を伸ばそうとした。けれど、彼女はその手を軽やかにかわし、ネックレスを目の高さまで掲げた。

 

「あのスタジオに落ちていましたわ。誰にも顧みられず、冷たい床の上で、持ち主を待っていましたわ」

 

彼女の指先で、ネックレスが無機質に揺れる。

 

「返して……。それは、私の……」

 

「えぇ、もちろん返しますわ。今の貴女には、まだこれが必要なのでしょう?」

 

彼女はネックレスを私の掌へ握らせた。

掌に伝わる、冷たくて硬い金属の感触。失ったはずの「私の半分」が、今、再び戻ってきた。

けれど、不思議だった。あんなに渇望していたはずなのに、手の中にあるそれは驚くほど冷え切っていて、今の私の体温には馴染まない異物のように感じられた。

 

「思い出という名の安寧に浸り、傷ついた自分を愛でる。そんなものは、表現ではありませんわ。それはただの停滞」

 

彼女は冷徹に言い放つと、もう一方の手で一枚のカードを取り出した。それは漆黒の紙に、銀の箔押しで刻まれた紋章。

 

「これを受け取りなさい」

 

差し出されたのは、近々開催されるAve Mujicaの武道館公演のチケットだった。

 

「わたくしたちの世界には本物の『音』がある。……来なさい。そして、その耳で、その魂で刻みなさい。貴女が本当に求めている音が、どこにあるのかを」

 

オブリビオニスは背を向け、影の中に溶け込むように歩き出した。

 

「もし、そのステージを観てもなお、貴女がその銀の鎖に縋り付いていたいと言うのなら……コンクールで一生、誰かのための『正解』を弾き続ける。その道しかありませんわ」

 

「待って」

 

呼びかける声に応えることなく、重厚な扉が静かに閉まった。

 

一人残されたアトリウムスタジオ。右手には「過去の残影」たるネックレス、左手には「深淵への誘い」たるチケット。窓の外では夜の帳がすべてを飲み込もうとしていた。

 

私は、震える手でネックレスを胸元へ寄せた。けれど、そこにはもう、以前のような安らぎはなかった。

 

(本物の、音……)

 

私は、左手に握られたチケットを強く指先でなぞった。

それは、豊川ハルとして死ぬための葬送曲か。それとも、まだ見ぬ自分として産声を上げるための、残酷な産着なのか。

 

私は、掌の中にある二つの重みを交互に見つめ、夜に塗り潰されたガラス窓に映る、自分の「空っぽ」な瞳をじっと見つめ返していた。

 

 

****

 

帰宅した私を待っていたのは、更なる追い打ちだった。

玄関を開けた瞬間、冷え切った空気と共に、祖父の低く重苦しい声が廊下に響いた。

 

「どこを歩いていた。コンクール前だというのに、自覚が足りないのか」

 

二階から階段を降りてくる祖父は、私の手元――オブリビオニスから返されたばかりのネックレスを握りしめている拳に視線を落とした。

 

「またその安物を持ち歩いているのか。まだあのじゃじゃ馬の影を追い続けるとは嘆かわしい」

 

祖父の言葉がアトリウムで負ったばかりの生々しい傷口に、煮えたぎる鉛を流し込む。

 

「安物……?」

 

私は拳を強く握りしめた。チェーンが皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。

 

「おじい様にとっては、この家にあるすべての調度品よりも価値のないガラクタでしょう。でも、私にとっては……!」

 

「黙れ!」

 

祖父の怒声が、静まり返った玄関ホールに爆裂した。

 

「口答えをする暇があるなら、直ぐにコンクールに備える事だ。もし、また今日のレッスンのような醜態を晒すのであれば、お前のそのヴァイオリンも、その手の中にあるガラクタも、すべて私が処分する」

 

祖父はそう言い残すと、書斎に消えて行った。

 

自室へ逃げ込み、鍵を閉めるとそのままベッドの横に崩れ落ちた。部屋の隅に置かれたヴァイオリンケースが、まるで私の死を待つ柩のように見える。

 

震える手で、スマートフォンを取り出した。連絡先にある「祥子」の名。

発信ボタンを押せば、繋がるかもしれない。あるいは、もうこの世に存在しない番号なのかもしれない。

 

私はその名前を指先でなぞることしかできなかった。涙が、戻ってきた冷たいネックレスの上に零れ落ちる。

 

「助けて……姉様。私、もうどうしたらいいの……」

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