忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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この話の前に、日常パートでも いれようか考えていましたが……もうやっちゃえってな感じで投稿しました。




第九話:黒の最誕日

 

オブリビオニスから手渡された小さな紙片を、ポケットの奥で指の節が白く浮き出るほど強く握りしめ、私は武道館へと足を進めた。

 

その道中、彼女が遺した言葉が脳裏で再生された。

 

『来なさい。そして、その耳で、その魂で刻みなさい。貴女が本当に求めている音が、どこにあるのかを』

 

「私が本当に求めている音」

 

消え入りそうな声で呟いていると武道館が見えてきた。

 

その周辺は、異様な熱気に包まれていた。けれど、その熱はどこか刺々しく、排他的で、私が今まで生きてきた「クラシックの演奏会」という優雅な社交の場とは決定的に違うものだった。

 

入り口でチケットを提示し、導かれるままに客席へと着く。

視界を埋め尽くすのは、青白いスポットライトの光と無機質なステージ。胃の腑を揺さぶるような重圧が、開演前から会場の空気を支配していた。

 

 

やがて、会場が一斉に暗転した。

肺の中の空気が凍りつくような静寂。その直後、重々しい金属音と共に幕が上がった。ステージには五つの玉座が冷徹に並び、中央のドロリスを囲むようにして、彼女たちはそこに立っていた。

 

暗闇の中で、彼女たちの「寸劇」が始まる。それは音楽ライブというより、神に背いた罪人たちが、自らの魂を切り刻んで供物とする、血の通わない典礼のように見えた。

 

「さぁ、始めましょう。今宵のマスカレードを!」

 

オブリビオニスの宣告と共に、椅子の背後から彼女たちの「武器」が無機質な光を放ってせり上がってくる。

 

ドロリスが立ち上がり、その手にギターを掴む。同時に他のメンバーも各々の位置につく。

やがて、スピーカーの奥底から、バイオリンの旋律が這い出してきた。

 

(……これが、彼女の求めた音)

 

それは間違いなく、オブリビオニスが構築した旋律。冷徹な計算と、その裏側に隠された凄惨なまでの情熱。

 

もしあの日、私が彼女の期待に応える「個」を持っていれば、あのステージの端で彼女の最も近くでこの旋律を紡いでいたのは、私だったのかもしれない。

 

そんな後悔を嘲笑うかのように、音楽は一気に加速した。

 

心臓の鼓動が、会場を震わせるドラムの連打と完全に同期していく。ステージから放たれるのは、音楽という名の「暴力」だった。ゴシックホラーの挿絵から抜け出したような漆黒の意匠、ライトに照らされた仮面の乙女たち。その姿は、あまりにも禍々しく、そして美しかった。

 

ステージの上で完璧な世界を構築している彼女たち。それに引き換え、客席で震えているだけの私はどうだろう。祖父の顔色を窺い、失ったネックレスという死骸に縋り、自分の言葉を持たない「空っぽの人形」。

 

 

気が付けば、最後の演奏が終わっていた。

 

演奏の余韻を振り払うように強烈なスポットライトが灯り、メンバーたちが最後の挨拶の為か、一列に並ぶ。観客は狂ったような歓声を上げ、地鳴りのような拍手が会場を揺らした。

 

胸が熱くなり、指先の感覚が麻痺していく。

その時だった。ステージの前方に立つアモーリスが、唐突に、自らの仮面へと手を掛けた。

 

「──え?」

 

会場中の空気が、一瞬で凍結した。

 

仮面の下から素顔が露になると、会場からは驚愕と黄色い悲鳴が混ざり合った、濁った声が湧き上がる。

 

「にゃむ!」

 

後ろの誰かがそう叫んだ。それが彼女の真実の名前なのかは分からない。ただ、隣に並ぶメンバーたちが、見開いた瞳で彼女を凝視しているのが分かった。

 

それは、台本には一行も記されていない、致命的な「裏切り」の瞬間だった。

 

けれど、私の視線は、彼女の次の狂気的な行動に釘付けになった。

 

アモーリスは遊びの延長のようにモーティスへと歩み寄り、その仮面を無慈悲に剥ぎ取った。露わになったその顔は──。

 

「睦……!」

 

私の口から、勝手に声が漏れた。

 

あの、いつも言葉少なで、どこか遠くを見つめていた優しい瞳が、今は驚愕に震えている。睦は縋り付くように両手で顔を覆ったが、指の隙間から溢れ出す絶望は隠せなかった。

 

(睦が……モーティスだったなんて……)

 

悪夢は加速度を増していく。「アンタの顔は~♪」と、おもちゃを壊す子供のような残酷な声を上げながら、アモーリスはティモリスの仮面もさらりと奪い去った。

 

仮面が剥がされ、艶やかな黒髪がさらりと舞う。そこに現れたのは、冷徹で鋭い、見紛うはずもない双眸。

 

「八幡さん?」

 

八幡海鈴は、剥き出しになった鋭い目つきのまま、心底うんざりしたようにアモーリスを睨みつけていた。

 

会場はもはや混乱の極致にあり、歓声と悲鳴が入り混じって耳を劈く。その狂熱の中で、アモーリスはステージ袖へ逃げようとするオブリビオニスの細い腕を、強引に掴み取った。

 

マイクは切られ、二人の密やかな会話は聞こえない。

 

けれど、オブリビオニスが唇を噛み締めているのが、遠目にもはっきりと分かった。

 

次に何が起きるか、私の本能が冷酷に理解していた。認めようとしなかった事実、心の奥底で必死に否定し続けてきた「素顔」が、今、白日の下に引き摺り出されようとしていた。

 

オブリビオニスは逃れるのを諦めたように、ゆっくりと観客の方を向き、震える自らの指を仮面へと伸ばした。

 

私は瞳を強く閉じようとした。けれど、まぶたの裏側には、あの冷たいスタジオで目が合った沈黙の瞳が焼き付いて離れない。逃げ場は、どこにもなかった。

 

「……ハル」

 

幻聴だろうか。狂乱を突き抜けて、私を呼ぶあの人の、震える声が聞こえた気がした。私は吸い寄せられるように顔を上げた。

 

そこに立っていたのは、紛れもなく──。

 

「姉様……」

 

その呟きは、数万人の狂騒にかき消され、私の喉の奥で苦い血の味に変わった。

 

仮面を剥ぎ取られたオブリビオニス――豊川祥子は、剥き出しになった照明の暴力的な光に焼かれながら、逃げることも隠れることもせず、ただ一点を見つめていた。

 

その視線の先にいるのは、私だった。

何千もの観衆というノイズを削ぎ落とし、私たちが共有する「豊川」という血の宿命だけが、冷徹な糸となって互いを繋いでいた。

 

(嘘よ。こんなの、何かの間違いだと言って……!)

 

頭の中が真っ白に弾け飛ぶ。あの時、港北のアトリウムスタジオで、冷たく私を突き放した。

 

私の音を「浅くて醜い」と切り捨て、彼女が私に託したネックレスを「停滞の象徴」と蔑んだあの傲慢なオブリビオニスが、私の誇りであり、光であったはずの彼女だったなんて。

 

脳裏にあの日の彼女の言葉が、鋭利な刃物となって蘇る。

 

『貴女の音には、何もありません。そこにあるのは、誰かの期待に応えるための空虚な技術と、古びた伝統の模倣だけ』

 

『貴女という人間が、どこにも存在していない』

 

「……っ!」

 

私は息ができなくなり、肺が焼け付くような痛みを感じながら、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えてステージを見上げた。

 

そして、その場にいた全員にトドメを刺すように。最後に残った中央の主役、ドロリスが、自らの手でゆっくりと仮面を剥ぎ取った。

 

淡い金色の髪がライトに照らされ、舞い上がる。

 

「あ……あぁ……そんな……」

 

いつも教室で私を気遣ってくれた、唯一の友人。

 

三角初華。

彼女の瞳は、学校で見せる柔らかい光を跡形もなく失い、冷たく燃える星のような、人を拒絶する輝きを放っている。

 

初華は仮面を失い呆然とする祥子を、そして客席で過呼吸に陥っている私を、まるで全てを最初から予見していたかのような、慈悲深くも残酷な眼差しで見つめていた。

 

――カラン。

 

初華の手から滑り落ちた仮面が、ステージの床に当たり、乾いた音を響かせた。

 

その音を合図に、私の中で大切に守ってきた「豊川ハル」を繋ぎ止めていた最後の糸が、ぷつりと切れた気がした。

 

「あは、はは……」

 

壊れた笑いが喉の奥から漏れ出す。拳を血が滲むほど握りしめても、もはや感覚すら存在しない。ただ、胸の奥で渦巻くどす黒い泥のような感情が、空白だった私の心に染み渡り、全身の細胞を一つずつ侵食していく。

 

(また、私だけが……何も知らされずに……)

 

その時、脳髄を突き抜けるような冷徹な納得が、私の全身を硬直させた。

 

どうして、何も言わずに消えたのか。どうして、私を連れていかずに置き去りにしたのか。何度も何度も、繰り返してきたその問いが、今、残酷な答えとなって目の前に転がっている。

 

「あぁ……そうか、私は置いていかれたのではない。私は姉様に――捨てられたんだ」

 

睦も、海鈴も、そして初華でさえも、祥子の新しい世界を構成する不可欠なピース。けれど、私は?

 

同じ血を分け合い、同じ屋敷で呼吸をしていたはずの私は、彼女がその「気高き舞台(マスカレード)」を完成させるために、真っ先に切り捨てた余剰品に過ぎなかった。

 

呼吸が浅くなり、喉の奥が焼けるように熱い。

 

ただ、側にいたかった。彼女の奏でる音の端っこに、ほんの少しだけ私の音を添えられたら、それだけで幸せだった。屋敷の中で、二人で音を合わせたあの陽だまりが、私の世界のすべてだったのに。

 

ただ、もう一度あの日々を取り戻したかっただけなのに……

 

もう一度、二人で笑って過ごしたかっただけなのに……

 

目の前の光景が、そのささやかな願いを無惨に踏みにじる。

 

視界が滲む。怒りなのか、悲しみなのか、それとも自分への嫌悪なのか分からない熱い液体が、頬を伝って床に落ちた。

 

ステージの上で、彼女は仮面を失った素顔そのものを「新しい仮面」とするかのようにより一層冷たく、鋭い光を宿して立っていた。

 

その冷たい眼差しが、私の胸の奥に澱んでいた泥に火をつけた。

 

(……いいわ。よく分かったわ、姉様)

 

奥歯が鳴るほど強く噛み締める。情愛も、憧れも、私が取り戻したかった日常。そんな甘い幻想は、今この瞬間にすべて焼き捨てる。

 

あなたが私を必要としないのなら。あなたが私を、その高潔な脚本から一文字も残さず消し去ったのなら。

 

「……だったら、力ずくで書き込ませてあげる」

 

絞り出すような私の声は、観衆の怒号にかき消された。けれど内側では、かつてないほどに静かで鋭利な決意が産声を上げた。

 

側にいたいと願うのは、もう終わった。これからは真正面に立ち、その喉元に私の音を突きつけてやる。

 

あなたが『忘却』を演じ、私を過去へと葬り去るつもりなら、私はあなたが喉から手が出るほど求めた『永遠』となって、私という存在をその身体に、その世界に、その魂に、深く、深く刻み付けてやる。

 

いつか私の前で、その傲慢な顔を歪ませて跪くその時まで、決して楽になることのない、じわじわと神経を侵す毒のように、あなたの隣で呼吸をし続けてあげる。

 

(……待っていて、姉様)

 

私は震える手で、ポケットの中にある「小さな紙片」を、今度は慈しむように、けれど二度と離さないよう強く握り直した。

 

この紙片は、招待状ではない。

私があなたの構築したこの完璧なマスカレードに、異物として潜り込むための、最初の通行証。

 

ステージの上の祥子は、まだ剥き出しの素顔を晒しながらも、毅然と観衆を見下ろしている。

その強さが、今はたまらなく愛おしく、そして憎らしい。

 

私は一度だけ深く、熱い息を吐き出した。

 

混乱と狂騒に包まれた武道館。その最中で、私は生まれて初めて、自分だけの意志で立ち上がった。

 

祖父が望む「豊川」でもなく、彼女が求めた「才能」でもない。ただ、豊川祥子という一人の女を、自分の音で、自分の存在で、完膚なきまでに塗り潰してやるという、真っ黒な野心。

 

涙はいつの間にか乾いていた。

視界の端で、睦が呆然としていおり、初華が残酷なまでに美しい微笑を浮かべている。それすらも、今の私にとっては背景に過ぎない。

 

私は出口へと向かって歩き出した。

背後で鳴り響く地鳴りのような拍手も、スタッフの怒号も、もはや耳には届かない。

 

胸の奥に灯ったのは、消えることのない冷たい炎。

一歩、踏み出すごとに、私の中で「かつてのハル」が死んでいき、代わりに、研ぎ澄まされた刃のような「新しい私」が燃え広がる。

 

夜の冷気が、火照った肌を刺した。

私は、月明かりの下で独り、暗い夜空を見上げた。

 

「……あはは」

 

今度の笑い声は、もう震えていなかった。

静かで、透明で、どこまでも不気味なほどに澄み渡って響く。

 

「ハルちゃん」

 

人混みを抜けた先で、そよが私を待っていた。

彼女もまた、あのステージの上で剥がされた素顔に、言葉を失っている一人だった。

 

「あなたは知っていたの? 祥ちゃんが、あそこにいたこと」

 

そよは縋るような目で私を見つめ、震える声で尋ねる。私はゆっくりと首を横に振った。視界はかつてないほどにクリアだった。

 

「ううん。私もたった今知ったところ。……彼女が、私をどう思っていたのかも全部」

 

「ハル、ちゃん……?」

 

そよが怪訝そうに私の顔を覗き込む。私は自嘲気味に、けれど確かな力強さを持って微笑んだ。

 

「そよさん。私……新しい道が見えた気がしました」

 

「新しい道?」

 

そよが呆然と繰り返す。その瞳には、かつてのCRYCHICという楽園を、そして豊川祥子という偶像を奪われた者の絶望が色濃く張り付いていた。

 

以前の私なら、その痛みに共鳴し、共に涙を流していただろう。けれど今の私には、彼女の震えさえも、遠い異国の出来事のようにしか感じられなかった。

 

「ええ。姉様が、私に席を用意してくれないのなら……。自分で奪い取るしかないもの」

 

「ハルちゃん、何を……。待って、今は落ち着いて!」

 

そよさんが私の腕を掴もうと、縋るように手を伸ばす。私はその手を、淀みのない動作で、けれど決定的な拒絶を込めて払いのけた。

 

「私は落ち着いています。いや、寧ろいまは清々しい気分です」

 

驚きに目を見開くそよを背に、私は一度も振り返ることなく、駅へと続く人混みの中へ足を踏み出す。

 

「待って、ハルちゃん! 」

 

背後から届く彼女の制止。それは、かつての「優しい世界」からの最後の呼び声だったのかもしれない。

私はその声を思考の端へ追いやり、雑踏の中へと溶け込んでいった。

 

(もう、戻らない)

 

武道館の喧騒が遠ざかるにつれ、肺を満たす空気が鋭利な刃となって私の内側を削り、研ぎ澄ましていく。

 

「貴女の音には、何もない」彼女の言葉が何度も再生する。

 

「えぇ、そうね。姉様……ふふ、今の私には何もない、でもいつか見つけるよ。私だけの音」

 

ショーウィンドウに写る私の瞳には、もう涙の膜はない。ただ、どこまでも深く、暗い夜の底を見つめる「表現者」の光が、静かに宿り始めていた。

 

足取りは驚くほど軽かった。

私は一人、ネオンの光が毒々しく揺れる都会の闇へと、深く、深く、沈んでいった。

 




あ、堕ちちゃった。
次回、第二章始まります。
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