地の底にて   作:イナバの書き置き

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八幡海鈴:聖域Ⅰ

 しくじった。

 

 いきなり後ろから突き飛ばされ、よろめくジャケット姿の背中を見ながら俺はそう思った。

 まだ横断歩道を渡り出してほんの数歩なのだから、押し出すのではなく引っ張れば良かったんだ。

 そうすれば、俺がアイツの代わりに様子のおかしいトラックの前に飛び出すなんて馬鹿なことをする必要はなかった。

 ああいや、でもアイツは両腕いっぱいに服が詰まった紙袋をぶら下げているから、やっぱり腕を引っ張るのも難しいか。

 それならやはりこれしかない、が──横を向くのも大変なくらい物を買い込むのは、安全のためにも止めて欲しいものだ。

 

 そもそも、アイツは何だって憂さ晴らしのショッピングにいつも俺を付き合わせるんだろう。

 流行りのファッションなんてこれっぽっちも興味が無いし、そんなだから当然コーデの良し悪しだって分かる筈もない。

 一方のアイツは顔もスタイルも腹立たしいくらい良いから余程奇抜なものじゃなければ何を着ても似合う上に、大体あれは散財によるストレス発散が目的だ。

 試着すらせず片っ端から買い漁る辺り、最初から俺や他人に見せようという気すら無いのだろう。

 その癖、会計の間に俺がその辺をふらふらしているだけで「何を考えているんですか、ちゃんと見てて下さい」とか文句を言ってくる。

 

 寧ろ、こっちが何を考えてるのか知りたい。

 

 信用を重要視する割に、冷たい返事や悪い方に勘違いされるようなことばかり言って。

 他人と深く繋がることを望む割に向こうが来てくれるのをずっと待って、その通りになったら逃げようとする。

 その癖、何故か俺が住んでいるアパートにはまるで休憩所みたいに平然と入り浸る無用心さ。

 当人曰く「信用していますので」「まあ、何かあっても貴方程度なら返り討ちに出来ます」とのことだが、そうじゃないだろう。

 それなりに付き合いは長い筈だが、アイツのことは全然よく分からない。

 精々悪いヤツじゃないことと、稀代の才能を持ったベーシストであることしか俺は知らない。

 

 ──いや、知ろうとしなかっただけか

 

 多分、過度に深入りしない関係性が俺にとって気持ち良かっただけだろう。

 あくまでも「信頼」ではなく、「信用」の付き合い──アイツが有名人であることは理解していたけれど、そこに触れて何となく付かず離れずの距離感が崩れてしまうのを、俺は怖がっていた。

 意味がない確率の方がずっと高いが、アイツが抱える事情を訊いておけば何か変わる可能性だって少しくらいあったかもしれないのに。

 それをしなかったのは、俺が臆病だから。

 Ave Mujicaに……CRYCHICにいた連中と関わるのに怯えていたから。

 我ながら何とまあ、情けない。

 でも、そんな後悔をしたところでもう遅い。

 

 

「何を───!?」

 

 

 つんのめったアイツ……八幡海鈴が、こちらを振り返り──ぎょっと目を見開く。

 そうだろうな。

 大して深くもない、腐れ縁のような薄い繋がりしかない輩が自らトラックの前に身を投げ出すとは思うまい。

 そう、自分だって何故こんなことをしているか分からないのだから、アイツに分かる訳がないのだ。

 ああでも──理由なんて無くても、お前の驚いた表情が俺にとっては何よりの報酬かもしれない。

 いつも仏頂面で、何考えてるか分からないヤツから久々に生の感情が見えたのは素直に嬉しかった。

 それだけで「まあいいか」という気分になった。

 そうして、俺と驚く八幡の目線が合って。

 引き延ばされていた時間が、元に戻る。

 

 

「待っ────」

 

 

 八幡は何が起こっているか瞬時に把握したらしいが、それ以上何か出来る訳でもなく。

 全身を鈍い衝撃が貫くと同時に、俺の意識と身体はひしゃげて真っ暗になった。

 

 

 

▼▲▼▲▼

〔 信 用 中 毒 者 〕

 

 

聖   域

 

 

The sanctuary

▲▼▲▼▲

 

 

 

 次に目を覚ましたのは、病院の一室だった。

 ゆっくり瞼を開いて、窓の外から射し込む夕暮れに目を慣らしていく。

 ちょっと身動ぎするだけで全身に鋭い痛みが走るし、思考は熱を宿して満足に回らない。

 折れた右腕をギプスで固定しているから、ギシギシと軋む身体を起こすのも難しそうだった。

 控え目に言って、満身創痍。

 死の縁を通り過ぎたばかりの重傷者。

 

 だけど、生きている。

 

 喉の渇きを覚えて、段々と実感が湧いてくる。

 迫ってくるトラックは結構スピードが出ているように見えたから、絶対に死んだと思っていたのに。

 余程打ち所が良かったのか、或いは運転手がすんでのところでブレーキを踏んだのか──何にせよ、運が良い。

 それで以て、轢かれる直前に何やらポエミーなことを考えていた自分が恥ずかしくなってくる。

 何が「後悔をしたところでもう遅い」だ、全然間に合ってるじゃないか。

 それに、命の瀬戸際で考えるのが八幡の散財についてなのが我ながらどうかしている。

 もっとこう……走馬灯を通じて人生を振り返るとか、意味のあることを想うべきだったろうに。

 

──八幡は、どうなった

 

 そんな風に一通り己の間抜け加減に悶えた後、次に頭に浮かんだのは八幡の安否だった。

 覚えているのはトラックが激突する瞬間まで。

 位置関係からして上手い具合に逃せていたとは思うが、これでアイツまで巻き込まれていたら何のために庇ったのか分からない。

 兎にも角にも、先ずは情報──俺がどうなって、八幡がどうなったか顛末を知る必要がある。

 そのためにもこの熱に膿んだ身体を起こして、誰かを呼ばねばならない。

 そうして未だに夕焼けに慣れない瞳を擦り、肉体に喝をいれようとして。

 

 

 やっと、喪ったものに気付く。

 

 

 顔の右半分を覆うガーゼの下。

 ぺたぺたと触って確かめる。

 口は裂けていない。

 頬も、耳だってちゃんとある。

 でも──右目には何もない。

 眼窩は空っぽで、そこに収まっているべき筈の器官が永遠に失くなったのを感じ取れた。

 

 そうか、右目がないのか。

 

 思わずそう呟いてしまうほど、現実感がなかった。

 今まであって当たりだったものが、綺麗さっぱり冗談みたいに消え失せてしまっている。

 しかし、心当たりがないでもない。

 よくよく思い返してみれば、トラックに跳ねられた直後さらに別の何かに頭をぶつけていたような記憶が薄らとある。

 恐らく吹き飛ばされた先に縁石か何かがあって、そこに顔面から突っ込んだ結果、衝撃で眼球が破裂してしまったのだろう。

 特別格好付けるつもりはなかったけれど、何とも無様な話だ。

 

 ──まあ、そんなもんか

 

 けれど、人生に関わる一大事を俺は他人事のように受け入れていた。

 寧ろ、右目と一緒に溜まっていた鬱憤まで抜け落ちてしまったのか満足感まで覚えている始末。

 それは多分、やっと自分から行動を起こすことが出来たからだと思う。

 これまでは、何かしなければと思った時にはもう既に手遅れだった。

 CRYCHIC然り、Ave Mujica然り、たとえ意味がなくても動くべきだった時に動けなかった。

 誰もが必死に足掻いている時に、一人だけ遠くから傍観者面をして何もしない──そんな自分が恥ずかしかった。

 

 だから、まあ。

 本質的には自分のため。

 勿論八幡を助けようと思ったのは本心だけれど、その裏には利己的な欲が紛れている。

 そんな現実を直視するには払った対価が大きすぎるような気もするけど……醜い自分を認めることが出来て、何となく多少は気持ちが晴れたのだろう。

 そういうある種清々しい気分に浸りながら、手探りでベッドの手すりを掴んで。

 

 

 どさり、と。

 何か重い物が落ちる気配があった。

 

 

 音源は右側──丁度狭まった視界の死角から。

 仕方無しに顔全体をそちらに向ければ、唖然とした表情のアイツがいた。

 しかし、アイツが物を落とすとは珍しい。

 それも稼ぎ道具にして相棒同然だろう、ベースが収められたケースを。

 多少の衝撃は問題ないような造りはしているのだろうが、先ず中身の状態が気になってしまう。

 

「……何すんだよ」

「それは此方の台詞です」

 

 そんな風に、上半身を半ば起こした状態で固まっていると──つかつかと歩み寄ってきた彼女に、勢い良くベッドに押し戻された。

 何となく分かる。

 これは面倒なやつだ。

 けれど、まあ────

 

 

「何をやっているんですか、あなたは」

 

 

 そう、この低く耳障りの良い声音。

 どうやら、八幡は無事だったらしい。

 

 

 

 

 それからは、結構大変だった。

 どうやら俺は一週間近く眠っていたらしく、脳や身体に異常がないか検査を受けさせられまくった。

 重傷人なんだから仕方無いと言えば仕方無いが、どうにもこの手の煩わしさは好きになれない。

 そうして何事もないと判ったら、今度は見舞い客の対応に移ることになって──何故か頑なに帰ろうとしない八幡に困り果てていた俺の前に現れたのは、意外にも両親ではなかった。

 

「失礼いたしますわ」

 

 今時珍しい、上品な喋り方。

 背筋は真っ直ぐに伸びて、凛とした佇まい──Ave Mujicaのリーダーである、豊川祥子。

 CRYCHICがあった時は兎も角、解散してからは八幡を通じてしか繋がりのない彼女が、重々しい顔立ちで病室に踏み込んでくる。

 

「や、こんな格好で悪いね豊川さん。ちゃんと立って挨拶出来たら良かったんだけど、医者に止められてて」

「当然ですわ。逆に訊きたいのですが、その重傷で何故許されると?」

「ハハ、相変わらず手厳しいなこりゃ……」

「貴方の身を慮って言っているのですわ……全く、怪我をしても減らず口はそのままですのね」

 

 ズバズバ物を言う気質も相変わらず。

 しかし一方で、彼女の視線は所在無さげに彷徨っている。

 まるで会わせる顔がないとでも言いたげに。

 ただ、それでも向き合うのを止めようとしないのが「神」を自称するまでになった豊川の性で──やがて、ゆっくりと焦点は俺に合わされた。

 いや、正確には俺の右目があった場所か。

 

「目は」

 

 そう言って、一度口をつぐみ。

 それでもありったけの苦渋を詰め込んだような表情で、彼女は続けた。

 

「もう、治りませんの……?」

「ああ、うん。無理らしい」

 

 まるで裁きを受ける罪人のような面持ちの豊川に、俺は意図して軽く答えた。

 検査を担当した医師によれば、潰れてしまっている以上もうどうしようもないらしい。

 細胞から新しく器官を作るような技術もあるにはあるが、まだ実証実験の段階で実用化には程遠い。

 角膜の移植とかならまだどうにかなりもするだろうが、完全に喪われてしまった器官を再生するのは現代医学では不可能だ、と。

 聞いたことをそのまま口に出せば、見る間に豊川の表情は落ち込んでいった。

 昔から、彼女はこういう所がある。

 他人の痛みを自分のことのように感じ、要らない苦労を背負い込む気質。

 それは人を惹き付けるカリスマである一方、彼女自身に多大な負担を強いている。

 

「謝らないでほしいな」

「え?」

 

 しかし、彼女は再結成したばかりのAve Mujicaを抱える身。

 そこで俺まで豊川の重石になるのは、御免だった。

 

「これは自分の行動の結果だよ。責任があるならそれは俺だけのものだ。いくら豊川さんでも渡せない」

「しかし……」

「言うなら謝罪じゃなくて感謝にして欲しいな。その方がお互いに気分が良いんじゃない、多分」

「そう、ですわね。海鈴を助けてくれてありがとう」

 

 俺の考えに首肯しつつも微妙な表情をしているが、こればっかりは譲れない。

 大体、豊川は現場にいた訳じゃないんだから何も謝る必要はないだろうに。

 そりゃあ八幡を突き飛ばさなかったら轢かれていたのはアイツなのだし、バンドのリーダーとして思う所もあるだろうが、だからと言って全く別の場所にいた豊川に介入する余地など存在しないのだ。

 その時出来るやつがその時出来ることをやった、結論はそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 

「──この御礼は必ずいたしますわ」

 

 

 結局、彼女はそんな言葉を残して帰っていった。

 言葉が届いたのかは最後まで分からなかった。

 けれど、何もかも中途半端な人間から責任まで持っていくのは止めて欲しいと思う。

 それまで奪われたら、ちょっと、流石に堪える。

 

 

 その後も、色んな人が見舞いに訪れた。

 地方の両親は俺が目覚めたと知るなり飛行機ですっ飛んできたし、三角さん、祐天寺さん、睦といったAve Mujicaのメンバーも仕事の合間を縫って駆け付けてくれた。

 正直凄く嬉しい。

 特に祐天寺さんが帰り際に呟いた「やるじゃん」の一言は、中々に効くものがあった。

 

 それに、MyGO!!!!!の皆も。

 

 疎遠になったとは言え高松は相変わらず優しいやつだったし、椎名も特に変わらないようで何よりだ。

 要さんとは全く話さなかったけど、ほぼ無関係なのに態々来てくれたのだから今度機会があれば抹茶アイスでも奢ってあげたい。

 そよに関しては……やはり何も話さなかったが、来てくれただけでも有難いと思う。

 アイツはCRYCHICが離散する時外から見ているだけだった俺を嫌っているだろうし、お互い話せば話すだけ拗れると分かっていた。

 でも、「今度は間に合った」と告げた時のアイツの表情は多分一生忘れられないと思う。

 

 ──結構、色んな人が俺を心配してくれている。

 

 優柔不断で肝心な時に動けない人間を好いてくれるヤツなんて何処にいるんだ、と思ってたけれど。

 どうやら高松たちが見舞いに来てくれる程度には、俺は誰かの心に残れる人間だったらしい。

 その事実が途方もなく嬉しくて、アイツらが帰った後少しだけ涙が出た。

 

 

 

 そして、その全てを八幡は隣で見ていた。

 

 

 

「正直に言って、あなたが羨ましいです」

 

 一通り来客が終わった後。

 そう言って、彼女は少し俯いた。

 

「何が」

「私はあまり信用されていない、らしいですから」

 

 普段と殆ど変わらない仏頂面だったが、常夜灯の光に照らされるその表情は僅かに翳って見える。

 何故八幡そこまで信用に拘るのか、俺は知らない──半年以上の付き合いなのだから、訊く機会なら幾らでもあったのに、そうしなかった。

 お互い深く探らない関係に胡座をかいていた。

 その結果がこれか。

 別に無理して笑えなんて言わないけど、悩みを増やしたい訳でもなかったのに。

 そんな後悔に溜め息を吐いていると、また八幡が口を開いた。

 

「1つだけ、教えて下さい」

「うん」

「何故私を助けたんです?」

 

 いや、何故って。

 

「そりゃあ、目の前で轢かれそうになってるヤツがいたら助けるだろ普通……八幡だってそうだろ?」

「そうですね。私も警告はしますし、間に合う確証があるなら飛び出すと思います」

 

 それは、間に合わないと思ったならやらない、と言外に告げているのと同じで。

 そういうとこだぞお前、と言いそうになるのをぐっと堪えて俺は続ける。

 

「まあ、一番お前が納得しそうなのは……信用の返済かな」

「返済?」

「結構信用してくれてたろ、八幡は」

 

 当人は心当たりが無いと言った様子で首を傾げているが、少なくとも俺にとってはそうだった。

 多少鬱陶しくもあったが、時折ふらりと現れては好き勝手していく八幡は俺にとって救いだった。

 自分の事情を話さず、こちらの事情に深入りもしない。

 自宅にいると際限のない自責に陥ってしまう俺を、意図せずとは言え外に連れ出してくれた。

 偶然とは言え、豊川さんや若葉と再会するきっかけにまでなってくれた。

 

 翻って、俺が何かしたか。

 

 何もしていない。

 一から十まで、八幡がもたらす様々な恩恵を寄生虫のように吸っているだけ。

 強いて言うなら自宅を八幡が諸々の柵を忘れられる場所として提供していることと、一時期モーティスの面倒を見ていたくらい。

 それらにしたって俺自身の行動ではなかったり、後悔が残る結末だったりで、何か物事を好転させられた試しがない。

 何に対しても、誰に対しても貢献していない。

 

「信用ってのは双方向だからさ」

「……」

「今まで貯めてた負債、ちゃんと返さなきゃなって」

「そう、ですか」

 

 一方的に信用し続けるのはただの隷属だし、相手からの信用をただ受け取るのは搾取と呼ぶ。

 互いが等しく期待し、利益……安心とか楽しさのようなポジティブな感情を齎す、それが信用だ。

 だからこれは信用の負債を返しただけ──右目が潰れたのは、返しきれなかった分の補填なのだろう。

 少なくとも、俺はそう考えている。

 そう述べれば、八幡は分かったような分かっていないような、何とも言えない表情になる。

 何を考えているかは、分からない。

 八幡の心を読めた試しなんて、一度もない。

 

「何にせよ、八幡が責任に感じることじゃない」

「そう言われましても、私を庇ったせいでこうなっているのは事実ですし」

「こっちの目的が利己的なんだから、そこまでして責任取ろうとしなくて良いだろ別に……」

「意図がどうあれ、命を救われた事実は変わりません。あなたの論理に則って言えば、私も私の負債を返したいだけです」

 

 頑なさで言えば、八幡も大概か。

 まあ、そういう連中が集まってAve Mujicaをやっているから何だかんだありつつも良いバンドをやれてるんだろう。

 

「それなら俺が入院してる間、暇な時で良いから勉強教えてくれよ。数学得意なんだろ?」

「それでいいんですか?」

「良いも悪いもない。それで責任だの何だのは全部帳消しだ」

「雑ですね」

 

 誰のせいでそうなってる、と話を打ち切れば、八幡はほんの少し眉を潜め──やがて諦めたように溜め息を吐いた。

 

「本当にあなたは頑固ですね」

「八幡に言われたくはない」

「ですが、まあ、分かりました」

 

 言って、八幡はずっと背中を預けていた窓際から離れる。

 気付けば、面会可能な時間はとっくに過ぎていた。

 

「また来ます」

「楽しみにしてる」

 

 動かせる左手を振って見送る俺の方を振り返らず、八幡は足早に去っていった。

 走りこそしないものの、歩調を合わせようとすると中々面倒な早歩き。

 普段と何ら変わりない後ろ姿に、安堵を覚え──ふと覚えた違和感に首を捻る。

 

 

「……八幡が時間守らないなんて珍しいな」

 

 

 予定や期限を機械のような正確性で守る八幡が、面会時間を無視してこの部屋に居座っていた。

 とても珍しいことだ。

 しかし「たまにはそんなこともあるか」と俺は脱力してすぐに違和感を思考から追い出した。

 追い出して、しまった。

 

 

 

 ──それが最後の分水嶺だと、気付くことなく

 

 

 

 およそ一月が経った。

 あれから八幡の両親が見舞いに来たり(どうしたらあの八幡が生まれるのか分からないくらい穏やかで温かい人たちだった)、約束通り八幡に勉強を教えて貰ったり、リハビリに励んだりとまあそこそこ忙しい毎日を過ごしていた。

 そして、今日──スタッフさんたちに見送られながら、無事退院を果たした俺は、久方振りの家路を八幡と共に歩いていた。

 

「改めて、退院おめでとうございます」

「どーも。態々来てくれてありがとうな」

「当然のことですから」

 

 驚くくらい爽やかな空の青色は、何だか天気まで退院を祝福しているように思える……実際はただの気のせいなのだが、兎に角気分が良い。

 放課後になるなり駆け付けた八幡も、相変わらず無表情だが心なしか嬉しそうに見える。

 やはり、八幡は「そっち」の方がいい。

 同じ仏頂面でも、深刻そうな顔をしているよりかはこっちを振り回すふてぶてしさに満ちている方が遥かにマシだ。

 

「そっか。にしても……」

 

しかし、目立つのは八幡の格好。

 

「えらく重そうな荷物だな。持とうか?」

「結構です。退院したとは言え怪我人に持たせるほどヤワではないので」

 

 花咲川の制服にベースギターのケースを携えているのは割とよく見るが、今日はそれに加えて何やらリュックまで背負っている。

 手荷物は最小限な八幡らしくない、かなりの重装備だ。

 

「アレか、またツアーでもやるのか」

「……いえ、この機会に転居しようと思いまして」

「転居?」

「方向が同じなので、ご一緒させてもらえばと」

 

 それは、また。

 音楽で食っていけるだけの腕と稼ぎがある八幡なら引っ越しくらい出来るだろうが、それにしても珍しい。

 特に不満がある訳でもないだろうに、下北沢住まいを名乗るために借りていたあのマンションを手放すとは思わなかった。

 いや、まあ俺には関係のない話だが。

 八幡のことだから俺には分からない考えがあるのだろう。

 

 そうして。

 

 同じ電車に乗って。

 同じ駅で降りて。

 同じ道を歩いて。

 同じマンションのエントランスを通って。

 家の鍵を、開けて────?

 

「八幡」

「はい」

「お前まさか」

 

 当然のように玄関まで踏み込んだ八幡に問えば。

 

 

「今日からお世話になります、八幡海鈴です」

 

 

 よろしくお願いします────

 床にベースを置いた彼女は、仏頂面でそう宣った。

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