地の底にて   作:イナバの書き置き

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豊川祥子:神が見ているⅡ

「わ、にゃむちゃんがうちに来るなんて珍しいね──にゃむちゃん?」

「ごめんウイコ、後で謝るから今は黙ってどいて」

 

 今回の一件に関しては本当に無関係な部外者で、しかもこちらを心配してくれている初華を無下にするのは若麦にとっても気が引けることだった。

 

 しかし、余裕が無い。

 

 次のライブまでの残り時間も、乱れに乱れた己の心も。

 故ににゃむは出迎えてくれた初華を半ば押し退けるようにして彼女の家へ踏み込み、リビングで珈琲を嗜む豊川祥子と迷うことなく相対した。

 

「品位に欠けますわよ、にゃむ」

「そんなことはどうでもいいんだけど」

「あら、そう」

「そのつまんない演技も止めたら?」

 

 激憤する自分を前にしても、余裕が何処までも優雅に振る舞う祥子──しかしそれが作ったものなのは、にゃむの目からすれば明らかだった。

 それは何も演技を学ぶ者として彼女の欺瞞を看破したという訳ではない。

 彼女を知る者なら、それこそ盲信的なきらいがある初華ですら薄らと気付ける違和感だ。

 

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 

 そう、豊川祥子とは自他に厳しく──同時に、他者の苦難を我が事のように分かち合う人間である。

 或いは、何でもかんでも無駄に背負い込むタイプとでも言い換えれば良いか。

 常に抑制的に……余裕がある人間のように振る舞おうとしているが、その内は直情的で情熱的。

 無表情に見えても何か良い出来事があれば弾けるように喜び、逆に上手く行かなければ重圧を周囲に撒き散らすほど悔しがるのだとにゃむは知っている。

 ムジカの方針について散々やり合ってきたのだから、知らない筈がない。

 

 その祥子が、ムジカの異変を前に見て見ぬ振り?

 そればかりか、原因を探らぬまま流れに乗じる?

 

 

 ──有り得ない

 

 

 それは()()()()()()()()()()

 だから問い質すのだ。

 その身一つで、祐天寺若麦として。

 

「洗いざらい全部吐いてもらうから」

「お断りします、と言ったら?」

「あっそ──それならムジカ辞めるわ」

 

 追いかけてきた初華が、息を呑むのが分かった。

 それだけ深刻で、致命的な一言だ。

 脱退をチラつかせて脅しをかける、と言うのは真っ当な人間がやることではない。

 それどころかバンド崩壊の引き金になりかねない、冗談では済まされない行為だ。

 

 だが、にゃむは本気だ。

 

 海鈴ではないが、このバンドを信用出来ると思ったからこそ解散騒動の後に改めてにゃむは続けることを決めたのだ。

 無論、誰にだって隠し事の一つや二つあるだろう──再結成直前、何故か失踪した初華を追いかけて祥子まで行方不明となり、かと思えば何やら仲睦まじい様子で戻ってきたのも記憶に新しい。

 それを追及するつもりはない。

 終わり良ければすべて良しと言う諺があるように、秘することが利益や信頼となることだってある。

 だが、こんな──気持ちの悪い隠し方をされると言うのなら、こっちから願い下げだ。

 

「……はぁ」

 

 そんな、ある種の信頼が通じたか。

 祥子は肩を竦め、呆れたような溜め息を吐いた。

 

「立っていては落ち着かないでしょうに」

「……サキコ」

「先ずは座って。話はそれからですわ……初華、申し訳ないけど珈琲のお代わりをお願いしても?」

「ぁ、うん……わ、分かった」

 

 おろおろしていた初華がキッチンへ送り出されるのを横目に、にゃむはソファにどかっと腰を下ろす。

 にゃむちとしてもアモーリスとしても有り得ない行為ではあるが、そうでもしないとやっていられない。

 

 

「──で、何考えてんの?」

 

 

 しかし、攻めの手を緩めることもしない。

 背負いきれなくなった祥子が往々にして遁走するらしいことは、ムジカ解散騒動と……それにCRYCHICに纏わるあれこれでそれとなく知っている。

 腰を落ち着けて表面上はクールダウンしているように見えるが、にゃむの激情は未だ健在──そんな彼女を前に、祥子もまた硬い表情で応える。

 

「……にゃむは私がムジカの再始動を宣言した日を、覚えていまして?」

「あー、神になるとかって言ってたやつ?」

 

 確かに覚えている。

 己が引き起こしたマスカレードでの仮面外しに始まり、モーティスの出現やムジカ解散、初華と祥子の行方不明と思い付く限りあらゆる確執を乗り越えた先での、あの宣言。

 その勇ましさ、覚悟は恐らく祥子が思う以上に強くにゃむの心に残っていた。

 演者やインフルエンサーとしての道も見えている中で、それでもバンドを続けていこうと決心した最後の一押しは他ならぬ彼女の言葉なのだから。

 

「何?もう嫌になった?」

 

 それを違えるのは許さない──そんな敵意を込めた嫌味を飛ばせば、祥子は空かさず首を横に振った。

 

「あの宣言を撤回するつもりはありません」

「じゃあ、何?」

「ただ、私は──……」

「ただ?」

 

 有無を言わさぬ追及に、祥子が黙り込む。

 それはこの数週間に於いては初めて見せた、彼女の弱み。

 プライドの高い彼女が、自らの過ちを認めなければならないことへの苦渋。

 そうやって、カップの持ち手をぎゅっと握り締め──俯いた彼女は、ゆっくりと言葉を絞り出す。

 

「私は、自分の無力さを思い知りましたわ」

「……何の話?」

「どれだけ守りたいと思っても、この両手はあまりにも小さすぎる──肝心な時ばかり届かない」

 

 要領を得ない言葉に一瞬首を傾げるが、答えは数秒と経たずに浮かんできた。

 そう、直近かつ彼女の預かり知らぬ場所で起きた出来事と言えば────

 

「事故はあんたのせいじゃないでしょ」

「そうですわね」

 

 事実を指摘すれば、シンプルな首肯が返ってくる。

 この点について祥子はが誤った認識をしていないことに、にゃむは先ず一安心した。

 が、しかし。

 

 

「それでも、雪が庇わなければ」

 

 

 轢かれていたのは海鈴だった──そう告白する祥子の表情は、最早にゃむの言葉では表現しようがないほど苦悶に満ちていた。

 だが、言わんとすることは分かる──ムジカから脱退することは許さない、この五人でやって行くと覚悟を決めてから数ヶ月も経たない内にこれだ。

 神としてこのバンドを守り、導くのだと決めたその矢先に、自分の手では全くどうにもならない所で全てを壊されかかったのだ。

 突きつけられた無力感がどれほどのものか、想像のしようもない。

 

「幸い、雪の腕は日常生活に支障がないレベルで済んだけれど……もしこれが海鈴だったら」

「ベーシストとしては致命傷、か」

 

 ストイックに鍛えている海鈴は、単なる身体強度と言う面で見れば雪より強靭だ。

 しかしだからと言って、それが事故に耐え得るものであるとは限らない。

 寧ろトラックが激突して全治1ヶ月で済んだ彼が途方もなく幸運なのであって、普通であればより悲惨な怪我を負っていたのは想像に難くない。

 

 加えて、彼は右目も失明している。

 これがもし海鈴の身にも起きていた場合、最早メディアへの露出は絶望的だろう。

 勿論社会通念として身体的なハンデを負った者をメディアが締め出すことはない。

 しかしムジカは曲のみならず、優れたビジュアルを用いたマスカレードでも売っている。

 それに傷が付けばどうなるかなど、最早語るまでもなく──ベーシストとしての八幡海鈴は死に、プロの世界でトップに立つムジカの決意は砕けるのだ。

 そんな可能性に直面した祥子が極限まで追い込まれた、と言うのはにゃむとしても理解出来る。

 

「でも、それだけじゃないでしょ」

 

 しかし、それは変化の説明にはなっていない。

 寧ろ今の祥子であればより積極的に海鈴と関わろうとするだろうし、そうあるべきだ。

 海鈴やムツミの異常を見過ごすのは、彼女の説明と矛盾しているように思える。

 そう問い質せば、祥子は深く溜め息を吐いて。

 

 

()()()()、と」

「──なに?」

 

 

 思わず、耳を疑う。

 

 

()()()()()()()()()()()()

 

「『神』として、そう思わねばならないのですわ」

 

 

 あまりにも惨たらしい告白に、にゃむは──否、珈琲を持って戻ってきた初華までもが言葉を失った。

 しかし、現実としてはそうだ。

 雪が咄嗟に庇ったお陰で、海鈴は今もこうしてベースを続けられている。

 再結成直後にメンバーを喪う危機を回避し、今日も何事もなく次のライブを目指せている。

 これらの現状は紛れもなく雪がもたらしたものであり、彼の献身は「良いこと」なのだ。

 肯定されるべきであり、称えられるべきであり、「海鈴じゃなくて良かった」と喜ぶべきである。

 悲しむなど言語道断だ。

 

「──は」

 

 故に祥子の口から漏れたのは、悔恨の言葉ではなく弾ける吐息。

 

「は、ハハッ!アハハ……!」

「祥ちゃん……」

 

 からからと、道化のように祥子は嗤う。

 そうでもしないと、やっていられない。

 心の軋みに耐えられない。

 でも、それが現実だ。

 

 ありがとう雪。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 あなたのお陰で海鈴は守られた。

 

 私のムジカは守られましたわ────

 

 

 

「──巫山戯ないで……ッ!!」

 

 

 

 拳をテーブルに打ち付けて、祥子は叫んだ。

 

「こんな……ッ!こんな、こんな結論は!」

 

「良かったなんて思える訳ないでしょう!!」

 

 ダンッ、ダンッ、と何度もテーブルを殴り付ける祥子の、血を吐くような咆哮に、二人は押し黙るしかなかった。

 何せ祥子は、疎遠になっていたとは言え友人が死にかけ──右目を失い、正常な社会復帰が難しい状況に追い込まれたことを喜ばねばならない。

 だって、それを否定するのは海鈴が轢かれることを肯定するのに他ならず──ムジカの崩壊を是とすることに繋がっているのだから。

 ムジカの存続と雪の命を天秤に載せ、ムジカを取ることを彼女は強いられたのだ。

 こんな葛藤に直面したら誰だっておかしくなる。

 

「運命なのか何なのか知らないけれど、何処までもっ!何処までも私たちの邪魔をして……!」

「祥ちゃん落ち着いて……!一回冷静になろう?」

「私は冷静ですわ……!これ以上にないくらい、自分の置かれている状況は理解しているもの……!」

 

 そしてにゃむは知らない話だが、祥子にとっての「死」は強い縁があり──同時に恐怖を抱く相手でもあった。

 かつて尊敬していた父が地面師詐欺に引っ掛かり、見る影もなく落ちぶれた発端は母の死である。

 己の我が儘と他者を気遣えない余裕の無さが招いたのが、睦とモーティスの死である。

 死はいつも人を狂わせ、祥子から大切なものを奪っていく──その魔手が遂に海鈴と雪にまで伸ばされたことで、祥子の心はヒステリーに近い過剰な反応を見せていた。

 

「サキコ、あんた……」

 

 にゃむの気勢は最早完全に削がれていた。

 再デビューを果たしスター街道をひた走るムジカはこれからが大切な時期、巫山戯たことを言うつもりであれば尻を蹴り飛ばしてやるつもりだった。

 自分たちをこの道に引き留めておいて、一人逃げ出すなんて絶対に許せない。

 

 だが、これはあんまりだ。

 

 海鈴と雪のどちらを選んだとしても精神的な摩耗は避けられない二択を迫られ、なお気丈に振る舞わねばならない。

 友人が事故に遭い、人生が滅茶苦茶になったことを心から悲しむことすら許されない。

 何れも自分で選んだ道であるが故に。

 罷り間違っても「理解出来る」などとは言えない、想像を絶するほどの苦難に祥子は直面していた。

 とは言え、にゃむにやれることは一つだけ。

 

「……あんたホントに大丈夫?」

「……心配してくれますのね、にゃむ」

「当たり前でしょ。誰が欠けてもムジカは成り立たないんだし」

 

 実利半分、本心半分、と言ったところか。

 ムジカを続けるに当たって、「にゃむち」単独での成功や役者としての芸能界入りと言った、切り捨てたものはにゃむにだってあるのだ。

 例えどんな事情があろうが、ここで折れてもらっては困る──彼女の打算的な部分が囁いていた。

 一方で、こんな有り様の祥子を放っておく訳にはいかないと心から思っているのもまた事実。

 自覚はあまりしていなかったが、曲がりなりにも仲間意識が芽生えてきたと言うことなのだろう。

 完全に成功のための踏み台としてしか見てなかった頃から、にゃむもまた変わりつつあった。

 

「まあ、サキコが難儀してるのは分かったけど」

「それは何よりですわ……」

「皮肉はいいから。……足を止めたりはしないでしょ」

 

 そうしてここで折れてはならないと遠回しに檄を飛ばせば、祥子も分かっているとばかりに頷く。

 

「ええ、まだムジカは再始動したばかり。次のツアーも控えている中、私たちは()()()()で躓く訳にはいかない」

「……それでこそサキコだよ」

 

 なるほどね、とにゃむは内心で嘯く。

 完全に心を崩してしまった訳ではない。

 大分ギリギリではあるものの、自身が置かれた状態を正確に認識して人前では正常に振る舞えている。

 そしてそのことを無理に隠し通そうとしたりせず、詰めればこうして内心をちゃんと話してくれる。

 危うさはあるが、踏み留まるべき所で踏み留まれているのならにゃむとしてこれ以上言うことはない。

 何なら海鈴が言うところの「信用できるバンド」らしく悩みを共有出来たのだから、憂さ晴らしをしたいと言うなら付き合ってやってもいいかも、と頷いて。

 

 

 ────あれ?

 

 

 ふと、違和感に気付く。

 

 ──これ、見過ごしてる理由じゃなくない?

 

 そう、そうだ。

 これはあくまでも祥子の内心の話であって、海鈴たちの異常に見て見ぬ振りをしている理由としてはやはり成立していない。

 寧ろこうして話せば話すほどもっと二人と積極的なコミュニケーションを取るべきなのではないか、と言う主張が補強されていく。

 無論、事故の当事者かつ雪に関して明らかな異常行動が目立つ海鈴に対しては慎重さが求められるが、やはり話さないという手はない。

 信用を重視する今の海鈴の心へ切り込むなら、素直に心中を話してガードを緩めるのが有効手段なことくらい、祥子とて理解している筈だ。

 なのに、何故。

 

 ──やっぱり誤魔化すつもり?

 

 何処までも侮られたものだ、とにゃむは拳を握り締める。

 確かに雪の言う通り、自分に他のムジカメンバーのような怪物性は無いのかもしれない──だが、曲がりなりにも演じる者としてのプライドが祐天寺若麦にはあるのだ。

 お涙頂戴の語りで誤魔化そうとしたって、そうはいかない。

 そんな怒りと共に祥子を睨み付けて。

 

 

「──だから、ムジカに彼を引き込むわ」

「────は?」

 

 

 祥子は──否、神は高らかに謳った。

 

「サキコ、あんた何言って」

「手の届かない所で起きた事故が問題なら、手の届くところに置いておけばいい。雪がムジカの外にいたせいで素直に悲しむことすら出来ないなら、内側に入れればいい──そうでしょう?」

「いやっ、それはそうだけどっ」

 

 何を言ってる。

 何を言ってるの、サキコは。

 そもそも、()()は本当にサキコなの。

 

「祥ちゃん、は……それで、いいの?」

「初華なら、理解出来るでしょう?」

「……っ」

 

 自由意志のある他人を手中に収め、決して傷付かないよう「丁寧に」管理する──両腕を広げ、さもそれが素晴らしいことであるかのように語る祥子の姿に、にゃむは恐れ慄いた。

 そんなことは許されない。

 あって良いことではない。

 この現実の世界でそれを実行しようなんてどうかしている。

 マスカレードの題目としてなら、まだしも────

 

「あぁ」

 

 納得とも呻きとも判別出来ない吐息が漏れる。

 そうか、()()()()()()()()()()

 海鈴や睦がそうであるように、祥子もまた人生という名のマスカレードに生きているからか。

 だからこんな、常識的に考えたら気が狂ったとしか思えないような真似も出来る。

 

「どっちでもいいってこと……!?」

「ええ」

 

 絞り出すような問いかけに、祥子は鷹揚に頷く。

 

「どちらと交際したとしても、雪も軽率な行動は控えるでしょう」

「自分が下手を打てば、ムジカの問題になるから……?」

「海鈴と睦を大切に思っているのも事実ですわ。もし上手く行ったなら素直に祝福したいと思うこの気持ちに嘘はありません」

 

 とんだ化け物だ、これは。

 祥子の中にある友人の恋路を思い遣る気持ちを、「神」はムジカを安定・向上させるための道具として使っているのだ。

 しかも両者は睦とモーティスのような矛盾も諍いも起こさず、混ざり合ったまま共存している。

 多重人格の都合が良い部分だけを昇華させた、人にして人ならざるもの──それが今の豊川祥子。

 

「じゃあ、まさか、ピンナップも……」

「ええ、勿論掲載に際しては彼の名前を加えますし、いずれはライブの宣材写真等も任せるつもりです。ムジカではないけれど、欠かせない協力者として」

「でも、上手く行かない可能性だって」

「雪は成功させますわ」

 

 精一杯の反抗を、祥子は一言で叩き潰した。

 理屈や根拠を述べた訳ではなく、ただ確信だけ。

 しかし、それで十分なのだ。

 相手が本物の化け物、人から逸脱した存在であることを認識してしまった今のにゃむにとって、彼女がそうなると言えばそれは最早事実だった。

 祥子が成功すると言うなら、例えどんな障害があろうと成功するのだ──だって彼女は「神」だから。

それと同時に感じる、雪に対する強い信頼。

 

──あんたも「そっち側」か…!

 

今や御嶽雪を中心としてムジカは更なる変化を遂げようとしている。

傷を負った箇所の皮膚がより硬くなるように、雪という傷を内に取り込むことで新しい飛躍を見せようとしている。

そしてそれに抗い、自ら置いていかれようとしている人間が一人。

 

「──は、はは」

 

 絶望の代わりに口から出たのは、乾いた笑い。

 よもやここまでとは。

 ここまでの化け物がこの世に──それも同じバンドに実在していたとは、全く思いもしなかった。

 もう何をしようが、言おうが、どうにもならない。

 雪の言葉は、踏み込み過ぎてはならないと言う無意識的な警告だったのだろう──だがそれも、此処に来てしまった以上もう遅い。

 

「にゃむ。貴女の協力もまた不可欠ですわ」

「そう言われて……素直に頷くと思うの」

「そうね。だからメリットを提示いたしますわ」

 

 立ち上がった祥子が背後に回り、肩を抱く。

 見惚れるほど優雅で、驚くほど拒絶感を感じさせなくて、呆れるほど人を誑し込むその仕草。

 全くの善意で、純粋に憔悴したにゃむを労ろうとするその動作が毒となって染み込んでくる。

 

「貴女も海鈴や睦のようになれますわよ」

「────ッ!!」

「なりたかったのではなくて?」

 

 恐ろしいほど甘い囁きにぶわりと汗が吹き出す。

 

 ──なりたい

 

 突然パフォーマンスが急上昇した二人に気持ち悪さを覚えたのは間違いないが、同じくらい嫉妬していたのも否定のしようがない。

 彼には止めた方が良いと言われたが、なれるものならなってみたいに決まっている。

 二人のように気持ち一つで能力を爆発させられる、本物の才覚を備えた人間でありたかった。

 

「む、無理」

「何故?」

「あたしはウミコやムーコとは、違う」

 

 だが、にゃむは身の程を知っている。

 なれないものにはなれないのだ。

 にゃむは怪物ではなく人なのだから、生きることそのものが演技な睦と正気で狂い果てている海鈴には例え天地が引っくり返っても敵わない。

 常人に許されるのは血の滲む努力を重ねて近付くことだけで、そのものになることは決して出来ない。

 その筈だ。

 

「なれますわ」

 

 なのに、「神」は成れると言う。

 何故、どうして。

 一切疑う余地無く断言出来る。

 震える声で問えば、祥子は花が咲くような笑みを浮かべて言い放った。

 

 

 

「貴女は私が見込んだアモーリスですもの」

 

 

 

 ──ああ、クソ

 

 肩の力が勝手に抜けた。

 そう、当時の祥子としては手っ取り早く実力と知名度がある面子を選んだだけだが、ムジカに集ったのは皆化け物だった。

 初華も、海鈴も、睦も、祥子も──一人の例外もなく、方向性の違う現代の異常が揃っていた。

 その中で一人だけ普通の人間なんて、本当にそんなことがあるだろうか?

 

 ない。

 

 ないのだ。

 

 そうしていよいよ自分に眠っているらしい「化け物」を認めるしかなくなったにゃむは、絞り出すように呟いた。

 

 

 

「サキコ……あんた、悪魔だよ」

「神でも悪魔でも、やる事は変わりませんわ」

 

 

 

 断末魔の呟きも、神にして悪魔である豊川祥子には効果無し。

 ブザーも無ければ合図も無い──静かで、しかし劇的なマスカレードの幕が上がろうとしていた。

 

 

 

▼▲▼▲▼

〔 忘 却 の 徒 〕

 

 

神 が 見 て い る

 

悪 魔 が 見 て い る

 

 

〔 ア モ ー リ ス 〕

▲▼▲▼▲




◯豊川祥子
神にも悪魔にもなれる系オブリビオニス。
ムジカという箱庭を守り抜くことに全てを傾けているため、雪を心の底から心配・尊重しつつ平然とムジカのために利用するという芸当を披露する。
一方雪を心配しているのも本音なのでムジカを雪のための檻として使おうともしている。
二つの心を否定も肯定もせずそのままに振る舞う、神にして悪魔。
でもその引き金を引いたのは雪なのでこうなるのは雪の自業自得と言えるかもしれない。

血のあれこれで振り回されてたから結婚願望とかは無さそう。

◯祐天寺若麦
マスク・ド・オブリビオニスに果敢に口論ファイトを挑むも敗北。
主な敗因はムジカ全員が揃う場で祥子を糾弾しなかったことと、自分の気持ちに整理をつけぬまま挑んだこと。

◯三角初華
正直祥ちゃんがおかしくなってる…とは思っているが、自分自身やらかした側なのであまり強く出れないでいる。

◯御嶽雪
或いは豊川父のように完全にへし折れていれば祥子も距離を置いて平静を取り戻せたかもしれない。
しかし自分が死に近付き過ぎたことを反省しないまま立ち直ろうとしたことで彼女のトラウマスイッチを起動してしまった。
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