キイ、キイ、と錆びた鎖の軋む音が酷く耳障りだった。
夕方の公園は、小学生たちの独壇場だ。
中学も三年の睦と雪に行く宛などなく、座る場所に困った結果辿り着いたのは古びたブランコだった。
「祥の居場所は訊いても無駄」
睦は、隣で立ち漕ぎをする少年が何か言うより先に前もって牽制した。
同じCRYCHICとそれに集った仲でも、特に雪との関わりは薄かった──元々燈の付き添いとしてやって来た彼は立希や祥子と話すことが多く、元来無口な睦と言葉を交わした回数は両手の指で収まるほど。
故に、彼が睦に声をかけるとすれば十中八九CRYCHICを突き放して脱退した祥子のことだろう。
当人以外で唯一その真相を知る者として、睦は彼女が抱える苦境を誰にも話すつもりはなかった。
「訊かないよ」
「え?」
だが、視線を前に向ける少年は睦の言葉を否定した。
「そりゃ、知りたいよ。何処にいるのかとか、何であんなこと言ったのかとか、言いたいことは山ほどある」
「……」
「でも、今日睦に声をかけたのは祥子に用があったからじゃない。話したかったのは、お前だ」
思わず、唇を噛んでしまう。
若葉睦に用がある──ならば、祥子に続いて脱退する時に放った「バンドを楽しいと思ったことは一度もない」という暴言についてだろう。
それは祥子を一人にさせず、彼女一人が責めを負わないためのダメージコントロールであると同時に、自分自身の至らなさを責める言葉だ。
何故なら、睦のギターは皆に比べ劣っている──睦は楽器を唄わせることも、歌詞に想いを乗せることも出来ないのだから。
自分がバンドの足を引っ張っている意識が、楽しくないという表現となって表れたのだ。
本当は、楽しかったに決まっている。
しかしそれが如何に心無い発言なのか、睦自身もよく理解している。
睦だって同じことを言われたら、きっとショックを受けるに決まっている。
けれど、覆水盆に返らずと言うように、一度口から出た言葉を取り消すことは出来ない。
ただでさえ白い手から血の気が失せるほど強く鎖を握ってしまったとしても、睦は浴びせられる叱責を耐えなければならない。
「嘘なんだろ、楽しくないって言ったの」
だが、雪の口から出たのはまたしても睦の予想と反対を行く言葉だった。
「……どうして?」
「別に俺はプロじゃないけど、少しだけ人を見る目には自信がある」
カメラやってるからな、と彼は呟く。
「だからさ、分かるんだよ」
「……」
「あんな楽しそうにギター弾いてたヤツが本当はずっと楽しくないと思ってたなんて、俺は信じない。もし睦自身がそう思ってたとしてもだ」
そう、見えたのだろうか。
睦は自分の頬をぺたぺたと触ってみたが、違いは何も分からなかった。
「……私、は」
「信じられない?」
正直に言って、そうだ。
かつて子役だった睦は、雪が思う以上に自分の表情をコントロール出来ている自信があった。
実際、祥子以外のメンバーは睦がバンドに苦痛を覚えていると解釈していたし、その予想は間違っていない。
だが、彼は睦が被った仮面の裏側をいとも容易く暴いて見せた。
当然のように、睦の内心を見抜いたのだ。
何故──そう問えば、彼は制服のポケットから取り出した一枚の写真を渡してきた。
「こんなに分かりやすければ、見抜くも何もない」
確かに、そこには睦が写っている。
ライブが終わった直後──CRYCHIC全員を収めた写真の中で、若葉睦は普段よりほんの少しだけ口角を上げ、ギターを誇らしげに抱えていた。
こうまでハッキリ撮られては、否定しようがない。
そしてそんな自分の表情が何だか恥ずかしくなった睦は、すぐさま写真を返そうとしたが──彼は両手をポケットに突っ込んで知らない振りをする。
「……返すから、受け取って」
「ヤだね。本当は燈に渡すつもりだったけど、睦が楽しくなかったって言うのを撤回するまで受け取んない」
「……」
そっぽを向く雪は、言葉通り本当に睦が発言を翻すまで写真を手に取るつもりはないようだった。
しかし、楽しかったと言ってしまえば彼は嬉々としてそれを燈たちに流すだろう。
そうなってしまえば、祥子から目を逸らさせることが出来なくなる──困り果てた睦は、写真と意味の無い睨み合いをする羽目になってしまった。
どれだけ見詰めても、写真の中の自分が変わる訳ではないのに。
「……はぁ」
そんな睦に、雪は呆れたように溜め息を吐く。
「そんなに認めらんないかね」
「……」
「だんまりか」
YESともNOとも言えない。
言ってしまえば、自分の中の何かが変わる。
「……分かった」
だが、雪は俯く睦に構うことなく立ち上がり。
そして背を向けて言い放った。
「最近、ギターの勉強始めたんだ」
「……?」
「金無いから、動画とか本とか見てるだけだけど」
それが、何なんだろう。
雪がギターを始めたことと、自分が吐いた唾を飲み込めないこと。
それに何の関係があるのか。
首を傾げた睦に、彼は続けて言った。
「お前のやってることを理解したいと思った」
まあ、つまりは────
「ファンなんだよ、睦の!」
「っ?ファ……?」
「応援してんだよ、分かるだろ!?」
ああもう、と突然叫んだ彼は恥ずかしそうにガシガシと頭を掻いて振り向く。
「お前これ絶対そよとかに言うなよ!?」
「……言わない、けど」
「言ったら何もかもバラして台無しにしてやるからな!祥子の場所も自力で探して文句言いに行ってやるからな!」
あークソ、あークソ、と唖然とする睦の前で暫し首を振ったり意味もなく地面を蹴ったりした彼は、やがて顔を赤くしたまま居心地が悪そうにブランコに腰を下ろした。
見て分かるほど、妙な挙動。
しかし妙な感じになったのは、睦も同様だった。
別に彼のように頬が熱を持ったりした訳では無い。
しかし何故か落ち着かず、視線を彷徨わせた末結局彼の方を見ないことでやっと少しの安定を得ることに成功した。
「祥子はファンって言うか、同志とか仲間とかそんな感じだろ」
「うん……」
「じゃあ俺がファン第一号だ。んでその第一号がお前のギターは良かったし楽しそうだったって言ってんの」
頼むからもう分かってくれよ、と懇願する彼を尻目に睦は記憶へ没頭する。
ファン。
子役としての睦にも、勿論それはいた。
そして彼らからの評価は、優れた両親の存在を加味したものだった。
親の七光りならぬ、十四光りだと──若葉睦を見ていて、「睦」はこれっぽっちも見ていなかった。
ところが、彼の言う「ファン」はそうではない。
睦自身は至らないと思っている演奏が好きで、心から応援しているのだと真正面から宣ったのだ。
そういうことを言われるのは、祥子以外では初めての出来事だった。
──ぼうっと、両手を見詰める
この手が、演じる以外何も出来ない手が紡ぐ唄えない音楽を彼は好きだと言った──非常に奇特なことに。
不思議な感覚。
考えるより先に唇が緩い弧を描く感覚に、睦はただ困惑した。
この感覚を、自分はどうすれば良いのか。
戸惑いの目線を向けられた彼は、頬の赤みもそのままに呟いた。
「だから、そんなに自分を卑下しないでくれ」
「……」
「俺のためでも何でもいいから、もっと自分を信じてみろよ。少なくともファンが一人つくだけのものを、睦は弾けるんだから」
言って、彼はまた立ち上がった。
「そろそろ行くわ。燈にも写真渡しに行かなきゃいけないから」
「……うん」
「じゃ、
「……
慌ただしく走り去る彼を見送った睦は、改めて写真に視線を落とした。
そうして、ずっと──日が沈んで暗くなるまで、飽きることなく幸福の一瞬を見詰め続けていた。
秋の夜は、中々に冷える。
「本当なんですか、あれは」
「嘘言って、何になる」
「……そうですね」
若葉邸からの帰り、街灯の頼りない光が続く道を歩きながら俺は俯いた。
暗澹とした気分の俺と違って、隣を歩く八幡は真っ直ぐに前を向いている。
前を見るしかない、と言うべきか。
でも、八幡の言いたいことは分かる。
睦は死んだ。
モーティスも死んだ。
死んだ人間は生き返らない。
それがこの世界における絶対不変の原則だ。
だから二人が生き返ることはない。
俺が口にしたのは質の悪い冗談であると考えるのが自然な結論だ。
全く以て八幡の疑問は正しい。
俺だって、自分が疑わしいと思っている。
ギターの音色も、俺のような素人より八幡やにゃむち先輩の方が何倍も正しく聞き取れる。
その二人が何の違和感も感じなかったのだから、俺の願望と考える方が余程自然だ。
──でも、あれは睦だった
根拠なんてこれっぽっちも無い。
ただ俺が感じただけ。
それでも、あれは間違いなく「睦」だろう。
「同じだったんだ」
「何が、ですか」
「表情が」
ギターを弾きながら睦が俺に見せた表情は、CRYCHIC解散の後に見た薄い笑みと同じだった。
多分、若葉にあの顔は出来ない。
それは別に若葉が無感動だから、などと決め付けたいからではなく、単純に経験が異なるから。
睦と若葉では経てきた人生が違う──睦を見ていたモーティスが、全く異なる性格だったように。
恐らくは同一の顔、体でも辿った道筋が違えば表情や動作は別物となるのだろう。
──「多頭の怪物」であっても、だ
にゃむち先輩が睦の母親である森みなみ──俺は会ったことがない、から聞いたところによると、睦はある種の化け物であるらしい。
他者の望みやその場の状況に合わせた無数の人格を持つ、演技の怪物──ギターを手にしたことで「睦」の人格が強く出ていたが、その本質はより機械的で非人間的なものである、と。
その評価を、俺は悲しく思う。
森みなみは「若葉睦」の本質を言い当てているのだろう──睦を産んだ母親と、高々数ヶ月の、それも何度か話しただけの間柄の俺を比べてどちらが信憑性が高いかと言えば、間違いなく前者だ。
彼女の言う通り、若葉睦は多頭の怪物だ。
でも、睦もモーティスもそこにいた。
もしそれが演技による出力だとしても、本気の演技として存在したのだ。
それを「化け物」と片付けてしまうのは、あまりにも悲しいものがある。
それに、古今東西怪物とは人のように振る舞うもの。
当事者からすれば堪ったものではないのだろうが、多頭の怪物が人の中に紛れているから何だ、と思うのは俺が夢みがちな空想家だからなのだろうか。
「まあ、信じられないよな」
と言っても、所詮は俺が信じたいだけ。
八幡が信じる理由は無いし、意味も無い。
妄想に付き合う義理も無い。
「うん。世迷い言として忘れて」
「信じます」
だが、俺の言葉を八幡は食い気味に否定した。
「……驚いた。根拠なんて無いのに」
「そうですね。あくまでもあなたの主観であって、客観的に見てかつての若葉さんが生き返ったとする証拠はありません」
だったら、どうして。
次を促せば、八幡は俺とは反対に暗い夜空を見上げた。
「モーティスさんには思うところがありますので」
ああ、そうか。
八幡はモーティスにギターを教えた仲だった。
それは自分の「信用できる」バンドとしてムジカを復活させようとする八幡の入れ知恵だったが、だからと言ってモーティスの面倒を見た事実が丸ごと消える訳でもない。
そして八幡の本質は、積極的に他者の面倒を見てリードしたがる人間だ。
多分過去のトラウマから意識的に封印しているのだろうが、八幡に世話をされるようになってから時々そういう部分が見えるような気がする。
そりゃあ、気にもするだろう。
もし本当に睦やモーティスが生き返ったなら、八幡も二人に何か言いたいことがあるのかもしれない。
「八幡って意外とロマンチストなんだな」
「あなたに言われたくはありません」
「違いない」
こればっかりは昔から変えられない性分だ。
別にお喋りでもないのに減らず口ばかり叩いて、その癖過度に嫌われたくなくて線を引く。
勝手に他人に期待したり夢を見たりする癖に、それを裏切られるのが怖くて冷静沈着な振りをする。
そういう、しょうもないロマンチスト──肝心な時にやるべきことが出来ない、薄っぺらな人間。
ただ燈とか、豊川さんとか、八幡とか──人によく恵まれただけの男なのだ。
──まあ、だから
眼帯に触れて、内心で溜め息を吐く。
根本的に、考えが足りていない。
押すより引く方が安全じゃないか、と一瞬躊躇うことすらしなかったせいで、トラックに轢かれて八幡に要らぬ迷惑までかけてしまった。
思い詰めがちな燈の表情を曇らせてばかりだし、豊川さんには心配されてばかり。
それでもCRYCHICのような、ムジカのような後悔をしたくないならやれるだけをやるしかない。
先ず優先すべきは。
──にゃむち先輩に教えるべきじゃなかった
豊川さんと若葉本人ばかり気にしていたが、実のところ「睦」に関する物事を一番聞かせるべきではなかったのはあの人だろう。
二人の間に何があったのか、俺は知らない。
だが演技の道を歩む者として、にゃむち先輩が若葉に強く執着しているのは事実だ。
──考えることが多い
若葉のこと。
睦のこと。
にゃむち先輩のこと。
写真のこと。
八幡のような人間であれば一辺に向き合うことも出来るのだろうが、自分のようなシングルタスク人間ではとても追い付かない。
先ずはどれか一つに絞って解決すべきか。
しかし、若葉も睦もにゃむち先輩も誰一人として優先度を下げて良い人間ではない──何も、誰も蔑ろにしてはならないのだ。
そうやって考えれば考えるほど誤った流れに嵌っていくような気がして、また何とも言い難い気分になってくる。
「先ずは帰ってからにしましょう」
「んえ」
そんな流れを断ち切ったのは、意外にも八幡だった。
「脳に栄養が行き渡っていない状態で考えても、適切な答えは導き出せないと思います」
「……それもそうか」
「こちらから振っておいて言うことではないですが、歩きながらするような話でもありませんし」
言って歩調を早める八幡に、俺も早足で着いて行く。
こういう時の八幡は、とても頼りになる。
うじうじしている暇があったらまず動くし、より現実的で効果のある解決策を用意する──人の気持ちについてはさておき、「解決」を求めるなら八幡より信用出来るヤツはいないだろう。
「何か色々疲れたし鍋にするか」
「鍋ですか?糖質の過剰摂取は避けたいのですが」
「まあ分かるけど、鍋の方が楽じゃない?」
「それはそうですね」
まあ、兎にも角にも飯だ飯。
八幡の言う通り、腹を膨らませなければ見えるものも見えてこない。
そして包丁を持つのも許してくれない八幡でも、出汁と肉や野菜をぶち込むだけの鍋なら台所に立たせてくれるに違いない。
などと思いながら、マンションの階段を駆け上がって。
──あ、ヤバい
危険を察知した両足が咄嗟に踵を返そうとしたが、既に遅かった。
「雪、野良猫じゃないんだからメッセージくらいすぐに見ろ──海鈴?」
俺の部屋の扉に背中を預けて腕を組む、椎名立希の姿が目に入る。
そして椎名は俺を見て、隣の八幡を見て──ごく当たり前のことながら、眉を顰めた。
「ちょっと、これどういうこと」
どうもこうもない。
全て椎名の見た通り、思う通り。
八幡が、俺の家に住んでいるのだ。
しかし、八幡はムジカにこそ話を通したものの直接関係が無い椎名にはその辺りの説明をしていない──つまるところ、椎名目線では旧友の行動を四六時中監視して束縛するばかりか、無理矢理押しかけるメンヘラ彼女が映る訳だ。
或いは、事故を理由として八幡に奉仕を強要するクソ男か。
実際はどちらも不正解なのだが、この状況から結構思い込みが激しい椎名の誤解を解くのは非常に難しいだろう──解けない自信がある。
「……」
「……」
「……何?黙ってないで何とか言ったら?」
俺の、八幡の額を冷や汗が伝う。
八幡は表面上ポーカーフェイスを保っているが、その裏で必死に弁明を練っているのは最早明白だった。
と言うか、やっぱりダメじゃないか。
俺を説得する時に「何か言われたらありのままを説明すればいい」みたいなことを言っていたが、椎名相手にこのザマでは探りたがりな雑誌の追及を躱わすことなど到底不可能だ。
いや、そうではない。
思ったより穴だらけな海鈴の対策はさておき、今は椎名だ。
兎に角椎名が感情を爆発させる前に上手いこと鎮静化させねばならない。
自宅の前で喧嘩なんてしようものなら、ただでさえ眼帯のせいでちょっと敬遠されてる近隣住民からの目線がいよいよ終わりかねない。
さりとて、どう声をかけたものか。
ファーストインプレッションを考えれば考えるほど、沼に嵌っていってしまう。
「雪、お前────」
そうして、意味もなく牽制し合うこと十数秒。
いよいよ導火線が爆弾に到達しようとした、その瞬間。
「────立希ちゃん?」
背後から届く、低い──しかし、聞き覚えのある声色。
更なる闖入者。
まさか、と思って振り向けば、よりにもよって一番見たくなかった──緩くウェーブした明るい茶髪が目に入る。
「────そよ」
「一体どうなってるの。説明して、雪くん」
それは、こっちの台詞だよ。
立希だけならまだしも、何でお前まで家に来るのか。
混沌とした四つ巴に、俺はそう呟いた。
◯御嶽雪
睦に対する感情が激重過ぎる信用足りない男。
当人なりに色々と考えているが、立希のことを言っていられないほど思い込みが激しい。
そよは自分を嫌っていと思っているし、愛音がANON TOKYOなるブランドを持つ凄腕デザイナーだと本気で信じている。
◯若葉睦
ムツミじゃない方。
多分回想以外で本人の出番はない。
◯八幡海鈴
主人公と良い感じに信用度高めのバディ築けてて我が世の春が来てるベーシスト。
でも主人公の睦に対する激重具合には思うところがある。
モーティスにも思うところがある。
◯椎名立希
旧友と友人が何か爛れた感じになってる…最悪…という思い込み。
主人公の自宅と連絡先はそよに訊いた。
◯長崎そよ
デン。
基本的にはMujicaの時の強いそよりん状態。
最後の一枚について愛音に話したことを伝えようと思ったらなんか三人が揉めてて困惑している。