ティーカップの縁に口をつけ。
渋みがかったオレンジ色の液体を啜る。
──美味い
やはり淹れ立ての紅茶は良い。
生まれてこの方緑茶と共に生きてきた筈の舌も、ここ数年ですっかり紅茶に馴らされてしまった。
紅茶狂いなイギリス人ではないが、もうこれ無しの人生など考えられそうにない。
そして、その舌がもたらす直感によると。
「オータムナルかな」
「正解……ホントに当てられるんだ」
格好つけて指を鳴らしながら答えを言い当てる俺に、対面のそよが驚いた顔をする。
いつの間にこんな技術を身に付けて、と思っているのだろう──だが、これは俺の努力によるものではない。
「豊川さんのお陰かな」
「祥子ちゃんの?」
そう、あの生粋の紅茶フリークさんは、ムジカを再結成してちょこちょこ会うようになってからやたらと紅茶を淹れるようになっていた。
理由を訊けば「家ではあまり飲みませんの」とのことで──どうも普段は初華さんが珈琲ばかり淹れるから、外ではその補填をしているらしい。
で、割と影響されやすい部分のある俺も見事にドハマりして……完全に感化されたという訳だ。
そういう経緯を話せば、そよが馬鹿を見るような呆れ顔で溜め息を吐く。
「何だか愛音ちゃんみたい」
「えっ……マジ?超嬉しい」
「何でそこでキラキラした顔になるの……」
いやだって、
MyGO!!!!!一のムードメーカーで、高校一年にして自分のブランドまで持ってるスーパーハイスペック女子高生の千早愛音さんだぞ。
普段はバレないようこっそり後ろの方からライブを見ている俺も、千早さんのファンサには流石に沸き上がってしまう。
その千早さんみたいって、それは最早最上級の誉め言葉に他ならないだろう。
同じバンドのメンバーで、彼女が手掛けるイカした衣装でライブをしているそよなら分かっていると思っていたのが……何故か憮然とした表情で溜め息を連打される。
「もういい。ミーハーって言いたかっただけで、愛音ちゃんを引き合いに出した私が間違ってた」
「いやいいだろ別に。もっと千早さんの話題プリーズ」
「はぁ……雪くんは本当に愛音ちゃん好きだよね」
「ファンだからな」
「ムジカを推してるんじゃなかったの?」
「それとこれとは話が別だろ。ムジカはムジカ、MyGOはMyGO……どっちも良くてどっちも推せる、そんだけだ」
ムジカとMyGOを比べる意味はない。
一口にバンドとは言っても心の唄を歌うMyGOと仮面を被るムジカではそもそもからしてジャンルが違うのだ。
推しに関しても同じこと。
MyGOのギターとムジカのギターには違った良さがある。
千早さんは技術で言うなら拙いところもあるのだろうが、あのライブにもファンサにも全力な姿勢は否応なしに元気付けられるものがある。
ムツミだって、勿論────
──いや、いい
俺のようなド素人がアイツのギターにあれこれ言うなんて、烏滸がましい話だ。
アイツの凄さを語れるヤツは沢山いる──評価は彼ら彼女らに任せればいい。
色々と後悔が残るからこそ、ムツミに関してだけはあまり口を開こうという気になれない。
さりとて、下手に言い淀んでそよに訝しまれるのもあまり好ましくなく──誤魔化すように紅茶を飲む。
「昔とは違うよ」
「……そう、だね」
言って、彼女も紅茶に口をつける。
その仕草は何と言うか、根っから高貴な振る舞いの豊川さんとはまた違う上品さで──思わずきょろきょろと左右を見回してしまう。
「にしても、そよがこんな良い所に住んでるなんて知らなかったな」
「別に、言ってなかったから」
硬い声色──このリビングだけでも我が家の倍くらいはありそうなものだが、どうやらそよはあまりそれを快くは思っていないらしい。
改めて視野を広げてみると持て余しているように見えなくもないし、広過ぎてもあまり良いことばかりではない、ということか。
八幡の信用問題然り、睦に関すること然り、どうも俺は昔から触れて欲しくなさそうな話題を意図せずつついてしまう癖があるようだ。
「いや、悪かった」
──喋らない方が良いのか
口が軽いから、信用を損なう──豊川さんにも言われたことだ。
実際、俺がよく喋るのは中学からの経験則──自分自身の気質としてどうなのかと言われれば多分そうでもない。
燈が黙々と石を探していたら後ろから眺めてるか、自分も物は試しに隣で石を拾ってみるタイプだったと記憶している。
多分こうなったのは、CRYCHIC解散の時に会話すら満足にしなかったことへの代償行為なのだろう。
過去に学んだと言えば聞こえは良いが、実際は迂闊な発言で人の地雷を踏む愚か者だ。
ところが、そよはふっと微笑んで立ち上がると隣に座る。
「そう思うなら、明日も来て欲しいな」
「……明日も?」
別に来れないことはない。
写真部に復帰したとは言え無理して活動に参加しなくて良いと言われているし、ムジカのピンナップに関しては土日がメインだから然程気にすることもない。
だが、何の用で──そう聞けば、そよは一気に表情を引き締めた。
「……別に用が無かったら、呼んじゃいけないの」
勿論、そんなことはない。
ないの、だが。
「俺のこと嫌ってるんじゃなかったのか……?」
実際、それだけの理由がある。
俺はCRYCHIC解散に歯止めをかけられる可能性があって──その癖何もしなかった人間の筈だ。
豊川さんが去った時に詳しい理由を追うこともせず、睦がそれについていくのを止めもせず、傍観者としてバラバラになるのを眺めていた卑怯者。
それが俺に対する評価だろう。
なのにどうして好かれる理由がある。
八幡みたいに昔を掘り返そうとしないヤツなら兎も角、浅ましさを知るそよがどうして俺を許す。
昔みたいに会話をしてくれているのだって、殆ど慈悲みたいなものだろう。
「……は?」
なのに、そよは心底有り得ないと言いたげな表情で。
こちらに身を乗り出してくる。
「ねぇ、雪くん」
「何だよ……!」
「いつ私が雪くんを『嫌いだ』なんて言ったの?」
言って──言って、ない。
CRYCHICが解散してからは連絡を絶っていたし、モーティスの面倒を見ている時はそういう会話をしている余裕もなかった。
だから、単純に事実を確認するなら言っていない。
言ってない、が──信じられない。
恨まれて当然のことしかしていない俺に、何故友好的な態度でいてくれる。
あれだけの仕打ちを働いた俺を、そよは許すのか?
「……何か言ったら」
そう囁くそよの眼に籠る迫力は、並大抵のものではない──俺の知らない強さが宿っている。
昏くて、重い澱みを滞留させた沼のような視線は、見詰められるだけで足元が沈むような錯覚に囚われる。
一度見入ってしまったら、逃れられない──堪らず身を退けば、その分だけそよは詰めてくる。
「……言えないんだ」
俯き気味に呟くそよの姿に、俺は恐怖を覚えた。
髪で視線は遮られた──なのに泥のように重い威圧感が手足を捕まえて、距離を取る選択肢を奪い去ってしまう。
あの頃から足踏みしたままの俺と違って、前に進んだそよが放つ存在感はまるで違ったものになっている。
少なくとも昔のそよはこんな圧のかけ方が出来るようなヤツじゃなかった。
そしてその圧は、今俺に余すところなく向けられているのだ。
──何か、くる
それが何なのかはさっぱり分からないが。
何か触れられたくないところか、直視したくないところを容赦なく抉り取るという宣告が全身を満ちる威圧から感じ取れてしまう。
俺に許されるのは、生唾を呑むことだけ。
「──私、見たよ」
何を。
掠れる声で問えば、彼女は返した。
「睦ちゃんにあげたんだよね、CRYCHICの写真」
「────ッ!?」
いよいよ悲鳴が漏れるのを抑えられない。
「どこで……なんで……?」
見られた──見られた!
何処で見た、いつ見たんだ。
あれを、ただでさえ過ちばかりだったあの頃の俺における、最も重大で取り返しのつかない行為を。
自分の言葉に思い詰めていて、CRYCHICに心残りはあれど戻る気はなかっただろう睦に追い打ちをかけるような、あの写真を。
あんな、あんなもの────!
「睦ちゃんは大切にしてた」
「……ぃ」
「他の誰にも見付からないような、普通だったら探さないようなところに、隠してた。その意味が分からない雪くんじゃないでしょ」
「……もういい。終わった話だろ……!」
「良くない。何も終わってない」
なのに、そよは止めてくれない。
俺の傷を暴き立てて、下手くそな縫合痕を引き千切って、そこにあるものを直視させてくる。
その視線も、真っ直ぐにこちらに突き立てられていて──否応なしに目を背けようとしていた事柄を突きつけられる恐ろしさに、背筋が震え上がる。
「……っ、ぐぅ」
全身からどっと脂汗が溢れ、喉に酸いものが込み上げてきて、視界が定まらなくなる。
このままでは戻してしまうと判断した俺は、咄嗟に立ち上がってトイレに駆け込もうとして──そよにその腕を掴まれる。
振り払おうとしても、その細腕の何処にそんな力があるのかと思うほどの強さで、引き戻されてしまう。
「放、せっ!」
「放さない」
「なんでっ……!」
なんでだ。
なんでなんだ。
何でそんなに俺に構う。
燈も、椎名も、睦も、祥子も──その権利を持っている筈のヤツらは、どうして誰一人として俺を責めないんだ。
こんなに情けなくて浅ましい俺に、どうして昔みたいに接してくれるんだ。
その優しさが、怖い。
理由が分からない善意ほど怖いものはない。
八幡との関係にあった「信用」すら介在しない──恐ろしいまでに純粋な優しさが、俺なんかに向けられる理由が分からない。
「分からないんだ?」
なのに、そよはおかしそうに笑って。
口を、開く。
「好きだよ、雪くん」
何を、言ってる。
「恋とか、そう言うのじゃないけど……燈ちゃんだって、立希ちゃんだってそう。やれることを必死にやる雪くんが好きだし、自分が傷付いてもお節介を焼く雪くんが好き」
思考が凍り付いて、意味のある音がこれっぽっちも喉から出てこない。
その気になれば簡単に振りほどける筈の手が、ちっとも動かせない。
そうしてぱくぱくと口を開閉するしかない俺に、片手で髪の毛先を弄りながら「モーティスちゃんの面倒を見たときに思ったんだ」とそよは語る。
「もっと雪くんを知りたいって」
「何で、俺なんか」
「その『なんか』は禁止」
むっとした声色のそよに釘を刺される。
俺は「なんか」ではないのだと諭される。
「私がお母さんで、雪くんがお父さんで、モーティスちゃんが子供……何だか家族みたいって思ったの」
「……」
「今だってそう思ってる……それなのに、私も雪くんも互いのことをちゃんと知らないっておかしいよね」
確かに──モーティスの面倒を見ていた時は、擬似的な家族のような関係だった。
そよの作る料理に比べて俺が作ったものは大雑把過ぎるとモーティスに文句を言われたり、トランプだのジェンガだのと団欒したり、円満な家族と聞いて真っ先に思い付くような状態だったように思う。
そして、そよの中でその関係は未だに継続している。
恐らく、そよにとって……俺は「家族」なのだ。
──家族
両親が離婚したそよにとって、それがどれだけの意味を持つか──きっと俺が足りない頭で想像するより、何倍も重く深い筈なのだ。
なのに、そよは俺がそうなのだと言う。
物分かりの悪い子供に言い聞かせるように一語一語区切って、嘘偽りない言葉を染み込ませてくる。
「まだ何にも知らないのに、こんな大怪我して」
「それでも全然自分を省みないで」
「そんな人、放っておける訳ないでしょ」
つまるところ、そよは家族同然に思っている相手が過去に囚われるあまり自棄になっているのが気に食わないと、そう言いたいのだ。
元来の優しさに、ありったけの好意が添えられた心からの心配と言う名の花束を彼女は俺に差し出していた。
それだけではない。
「それに、燈ちゃんが言ってた」
「何を……」
「迷子でもいい、迷子でも進めって」
知ってる。
その言葉は聞いたから。
燈が見付け出した答えに俺も胸を打たれたから。
答えを見付け出せるアイツはやっぱり凄いヤツなんだって、心の底から誇りに思ったから。
「私も、雪くんもそれは同じ」
「同じ……?俺とそよが……?」
「過去のことを引き摺って、
此処ではない何処かを見詰めてそよは呟く。
確かに──「春日影」の後にMyGOでは何かしらのいざこざがあったのだと聞く。
もしかしたら、その発端はそよだったのだろうか。
あのそよでも、間違うことがあるんだろうか。
「……雪くんは私を聖人か何かだと思ってるみたいだけど、私だって普通に間違えてばかりだよ」
「……」
「でも、それで良いんだって燈ちゃんや愛音ちゃんが教えてくれた。人は迷いながら進むものなんだって」
雪くんだって同じ──そう、そよの瞳が語る。
──迷子に
俺もなっていいのか。
一人で迷うんじゃなくて、誰かと一緒に。
自分の行いが正しかったのか間違いだったのか、答えを探してもいいのか。
いや、到底許される訳がない。
俺のような人間は過ちを償って、どっかで一人野垂れ死ぬべき──そうでなくてはならないだ。
「雪くん」
ああ、でも。
もし、もしだ。
もし許されるなら────
「────一緒に、迷子になろう?」
彷徨うなら、一緒に。
そよ達と一緒に迷子になりたい。
俺は切にそう願った。
Sumimiの活動が忙しい初華が若葉邸での練習に参加する日は、あまり多くない。
その分は自宅練習で補填しているのだろうが、実際学外で海鈴と初華が顔を会わせる機会はそう多くなかった。
そしてその同棲相手である祥子も未だ来ず……大方衣装のデザインで揉めているのだろう。
ムジカのリーダーとして世界観に強い拘りを持つ彼女は一切の妥協を許さない。
己が納得するまで、何時間だって詰められる──海鈴からしても驚くほどにストイックな人物だ。
そんなムジカの「神」とムードメーカーがいない若葉邸は、何時にも増して広くがらんとして見える。
──祐天寺さんは来ていないようですね
きょろきょろと周囲を見回した海鈴は「良かった」と一息吐く──雪の迂闊な発言はにゃむの心を大いに揺さぶったに違いない
二人の間にある確執をよく知らない海鈴の目線では「何故か」としか言い様がないが、にゃむは睦に対して極めて強い感情を抱いている。
そんな彼女に「睦」を感じる、なんて言ってしまえばどうなるかなど火を見るよりも明らかだ。
だが、どうやら予定を放り捨ててムツミに詰め寄るまでには至らなかったらしい。
まあ、冷静さを保てているならそれに越したことはないだろう。
数多のバンドにサポートで入ってきた海鈴にとって、バンド内の不和による解散ほど肝が冷えるものはない。
他所のバンドならいざ知らず、「信用出来る」バンドとして腰を据えたムジカなら尚更だ。
そういう意味では、今日にゃむと遭遇しないことに海鈴は幸運を感じていた。
「お疲れ様です、若葉さん」
「……ん」
と、すると問題はこちら。
昨日何か様子が妙だと雪が言っていた、若葉睦。
既に地下室でギターのセッティングを始めていた彼女は、パッと見る限り普段と何ら変わりないように思える。
と言っても、「違い」を見抜ける自信は無い──にゃむのような演技の道を歩む者であれば睦のそれも見破れるだろうが、生憎海鈴にそのような心得はなかった。
ギターに関しても同様だ。
雪は「睦が唄った」と言っていたが、慣らしで弦を弾くその音色にこれと言った違いは感じられない。
──やはり、気のせいでは?
誰しも間違いは起こし得る。
特に彼は睦に対して強い思い入れがあったようだし、バイアスが掛かっている可能性は否定出来ない。
いや、そもそも彼は何故そこまで睦に対して深く入れ込んでいるのだろうか。
何故、それを頑として語ろうとしないのか──それが自ら重要視する「信用」に背くことだと気付かぬまま、海鈴は疑念を深めていく。
「……海鈴」
「はい?」
「──
と、睦が練習を中断して海鈴に呼び掛けた。
海鈴は、
睦からはなしかけてくるなんて珍しいですね、と少し違和感を覚える程度でそこに隠されたものに気付かなかった。
それは、睦の異常を捉える決定的な好機だと言うのに──淡々と返事をしてしまった。
「雪さんですか?今日は長崎さんの家へ行っています」
「……そよの……」
「?どうかしたんですか」
少し俯き、考え込む睦に海鈴は逆に問いかける。
そよと雪は元CRYCHICで、旧知の仲だ。
海鈴にその経験は殆ど無いが──一般常識と照らし合わせて、放課後に友人の家に遊びに行くのはそう珍しいことではない。
昨日の盗み聞きによれば睦について何か話し合うとのことだが、目の前の寡黙な少女が持つ異常性に深く関わってきた二人なら大しておかしくもないだろう。
何も異常は無い。
無い筈だ。
「海鈴。雪は────」
しかし。
再び顔を上げた睦の表情は曇っていて。
「ムジカを捨てるかも」
「──何を、言っているんです?」
睦が放った予想外の言葉。
持ち前の頭脳でその意味を理解してしまった海鈴は、思考が一気に煮え立つのを感じていた。
コメディ…コメディ?
し、死んでる…
◯御嶽雪
精神ガタガタ地雷原ブレイクダンス系主人公。
咄嗟に他人をトラックから庇う「理由のない善意」を持つが、同時に他者からそれを向けてもらえると思えない自己評価の低さを持つ。
でも実際思い出すだけで吐くレベルのやからしをした(と当人は思っている)のに、周囲の人間が皆優しかったら感謝と同時に「なんで…?」ってなると思う。
千早愛音のファン。
◯長崎そよ
光のそよと闇のそよを併せ持つ究極のデン。
多分超重力の使い手。
しれっと主人公をMyGO!!!!!側に引き寄せる高等テクニックも駆使する。
◯若葉ムツミ
失言王。
地の文でも基本的に主人公側に視点が寄ってない時は「睦」表記になります。
なお、主人公に対する呼び方は「原則として」
ムツミ→雪
睦→ゆき
です。