恋愛ゲームの世界を願ったらなぜかヒロインになった俺は、攻略を回避するのに忙しい   作:うちっち

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きみのいない屋上で、きみと

 屋上には、俺と汐音ちゃんの2人しかいない。

 

 夕暮れの屋上は、世界の端みたいに静かだった。赤く焼けた空の下、風の通り抜ける音ばかりが広いコンクリートに薄く響いている。

 

 頬を撫でていく風は、もう夕方の冷たさを含んでいた。金網のフェンスは赤く染まり、屋上の隅に置かれた古びた掃除道具入れや、錆の浮いた排水口までもが、沈みかけた光に炙られて、どこか現実から少しだけ遠いものに見える。

 

 

 

 

 

 

 俺は周囲を見回した。左側の眼下に広がるグラウンドの向こう、はるか彼方の山の陰に沈みつつある紅い太陽。空は西の端からゆっくりと焼けていて、その色が薄い雲の裏側にまで滲んでいた。

 

 夕日に照らされるグラウンドには色とりどりのテントが広がり、校庭に植えられた木が長い影を伸ばしている。しかし、そこには人っ子一人いない。あれだけいた客も、生徒も。中央には、ファイアーストームのために積まれたであろう焚き木がぽつんと残されていた。

 

 テントの布地は風もないのに微かにたわみ、まるでさっきまでそこに人の気配があったことだけを名残として留めているみたいだった。校舎の窓も、渡り廊下も、グラウンドの隅に立つ部室棟も、全部が赤い光に塗られて静まり返っている。

 

 

 

 

 まるで――屋上までの階段を上がる間に世界が丸ごと滅んででもしまったかのようだった。

 

 

 

 

 俺はなんとなく直感する。

 

 ……この世界には、汐音ちゃん以外、誰も、いない。

 

 

 

 

 

 

 

「君は、1人なんだな」

『うん。ずっとね。別に気楽だから、いいけど』

 

 返ってきた声は静かで、夕暮れの空気にすっと溶ける。

 

「……何を見てたんだ?」

『私が何をすべきかをね、見てたんだよ』

 

 汐音ちゃんはフェンスの向こうを見たままだった。指先が金網にかかっていて、その細い指の影が夕日に伸び、足元のコンクリートに頼りなく落ちている。半袖のブラウスは夕陽を正面から受けて、白というより、赤い光を薄くまとったみたいに見えた。

 

「……どういうこと?」

『ううん……きっと自分でも、わかってなかっただけ』

 

 フェンスに指をかけ、紅い世界を見下ろしながら、独り言のように汐音ちゃんは呟いた。

 

 

 

 

 

 伏せた睫毛の影が頬に落ち、彼女は笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。風が吹くたび、背中あたりまで伸びた柔らかな髪が、夕焼けの中でふわりとほどけるように揺れた。

 

「君はさ……いったい、どうしたかったんだ?」

『大丈夫だよ。期限が切れたらあなたは元の場所に戻れる。そういう条件で願いを乗せたから。だから、残り時間はあと少し』

 

 沈みゆく太陽の縁が、さっきよりもさらに山際へと落ちている。光は弱くなっているはずなのに、世界の赤さだけはむしろ濃くなっていく。

 

「何を、したかった……?」

『変わらない。あなたと同じだったんだよ』

「手伝いたいんだ」

『いらないかなぁ。私はそこまで他人に頼るつもりはないから。ごめんね、代役なんて頼んで』

 

 代役、という言葉だけが妙にはっきり耳に残った。赤い空の下で聞くと、それは冗談めいているはずなのに、どこか取り返しのつかない響きを持っていた。

 

「何でもする」

 

 俺が真剣にそう言うと、汐音ちゃんは初めて考え込むような顔を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 そしてしばらく黙った後、なぜか彼女はどこか悪戯っぽい表情を浮かべ、俺を下から覗き込んできた。

 

 その視線が、夕焼けの色の奥でふっと柔らかく揺れる。さっきまで景色の一部だったみたいな彼女が、その笑顔ひとつで急に近くなる。

 

『……何でもしてくれるって、今、言ったの?』

「もちろん」

『じゃあ……うーん、本当は格好よく誘ってほしいところなんだけどねぇ』

 

 

 

 汐音ちゃんは、すっとこちらに小さな手を差し出した。

 

 白いであろうその腕は、今は周りの景色よりも紅く夕日の色に染められているように思える。指先は細く、頼りないほど華奢なのに、その仕草だけは不思議なくらいまっすぐで、迷いがなかった。

 

 

 そして彼女はこちらに手を伸ばしたまま、不意に首を少し傾けて、少し笑った。それは俺がゲームでよく知る、本当の彼女の笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

『……ねえ。私と一緒に踊ってくれる?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――いや、なんですかこの手」

 

「……え?」

 

 気がつくと、貝森ちゃんの呆れたような顔が目の前にあった。視界いっぱいにあった夕焼けは消え、代わりに見慣れた屋上の風景が戻ってきている。空はすっかり暗みはじめていて、さっきまで世界を覆っていた赤は、もう空の端にわずかに残るだけだった。

 

 そろそろと目線を下にやると、なぜか俺の両手はぎゅっと貝森ちゃんの手を固く握りしめていた。あたりを見回す。すると、元の屋上だった。みんなが心配そうに俺を覗き込んでいる。

 

 金網の向こうのグラウンドには現実のざわめきが戻っていて、風も、匂いも、音も、さっきまでいた別世界とはまるで違っていた。

 

 

 

 

 

「前もこんなのありましたよね。センパイいきなり黙って返事もしなくなっちゃうんですもん。どうしたんですか? ってどこ行くんですか? ちょっと!」

 

 後ろで貝森ちゃんが問いかけているのを尻目に、俺はさっき汐音ちゃんがやっていたように、フェンスに手をかけてグラウンドを見下ろした。

 

 冷え始めた金属の感触が手のひらに伝わる。眼下に見えるグラウンドではもうテントはほぼ片づけられており、ファイアーストームの焚き木を囲んで、大勢の人が渦のようにごった返していた。校庭のあちこちでは片づけのために人が行き交い、まだ消えきらない熱気が、ざわざわという喧騒になってここまで立ち上ってくる。

 

 さっきまでとは違う世界のようだった。

 さっきまでとは違い……汐音ちゃんだけが、ここには、いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黙って俺がそのままじっとしていると、不意にスピーカーからザザッと雑音が一瞬流れた。空気を裂くようなノイズのあと、校庭全体に響くアップテンポな音楽が流れ出す。遠くから風に乗って聞こえてくる人々の騒ぐ声。……どうやら、フォークダンスが始まったらしい。

 

「そういえば、このフォークダンスで最初に踊った相手と結ばれる、って言い伝え、今もあるの?」

 

 沈黙を嫌ったのか、北辻さんがぽつりとそんなことを言い出した。

 

 ……そうなんだよ。さすが恋愛ゲームだけあって、そういう言い伝えがこの学校にはある。しかし今だけはその話はしてほしくなかった。ほら、「チャンス!」みたいな顔してる奴そこにいるから!

 

 

 

 

 

 

 案の定、崇高が何やら俺の前までそろりそろりとやってきた。薄暗い屋上の上、グラウンドから漏れ上がる光が下から崇高の顔を照らしていて、緊張しているのが無駄にわかりやすい。

 

 ……お、おう。みなまで言うな。用件はわかる。わかるが……俺は今、お前に応えてやれるような気分じゃないし、身分じゃないんだ。いかん、思わぬところで韻を踏んでしまった。こんな時まで詩人な俺。

 

 

 

 

 

「汐音、俺と一緒に踊ってくれないか」

「んー……」

 

 俺は顎に人差し指を当て、しばし断り文句を考える。こいつを傷つけないように、さりげなく辞退するにはどうしたものか。

 

 と、俺が困っているのを察知したのか、視線の端で貝森ちゃんがぱちぱちとアイコンタクトを送ってきた。……ふむ。そうだな、貝森ちゃんと約束してるから、これでどうだろう。……いや。違うな、そうじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 俺はもう1度、その場を見渡した。

 俺、崇高、貝森ちゃん、リネット、高宮城先輩、北辻さん、柚乃ちゃん。

 

 殺風景な屋上には、俺たち以外、他には誰の姿もない。フェンスの向こうから聞こえる賑やかな音とは裏腹に、この場所だけが妙に空いている。さっきまで赤く満ちていた夕暮れの気配はもうほとんど消え、代わりに夜の青さがじわじわとコンクリートの隅から這い上がってきていた。俺が思い浮かべる相手は、今ここには、いない。

 

 ……だが、そんなこと、構いやしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、誰もいない屋上の中央部にゆっくりと、歩み寄る。グラウンドから流れてくる音楽が、今だけはこの広い屋上全体のために鳴っているみたいに聞こえた。そして、崇高を振り向く。

 

「ごめん、私、先約があるから」

 

 それを聞いて、崇高は大変悲壮な顔をした。すげえ、もう結構暗いっていうのに、顔色変わるのが見えたよ。お前大丈夫? 今日早く寝ろよ。いい子だから。

 

「先約……だ、誰と……?」

 

「私」

 

「……は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから俺は、ゆっくりと誰もいない空間に手を伸ばす。夜の気配が混じり始めた空気は少しひんやりしていて、差し出した指先の向こうには何もないはずなのに、そこだけまだ夕焼けの名残が残っているような気がした。一瞬、さっきの夕焼けの中で、目の前に立つ汐音ちゃんが手を差し伸べてきた姿がフラッシュバックする。

 

 そして俺は、その場にいない、存在しない相手の手を取る。始まった音楽に合わせて、俺は適当にくるくると回り、飛び跳ね、でたらめに手を振り回した。足元のコンクリートが硬く、靴裏が擦れる音が自分でもおかしいくらい大きく響く。きっと、汐音ちゃんもそうしてくれたはずだ。

 

 そう、崇高が言っていた。汐音ちゃんは夏休み前、ここで、1人で踊っていたことがあったと。その相手は、きっと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて音楽が切り替わり、曲の1周目が終わったことを俺に告げた。下から聞こえる拍子も少し変わり、人のざわめきが新しい波みたいに押し寄せてくる。息が切れ、なぜか胸がいっぱいになり、座り込む。冷たい夜気を吸い込んだ肺がじんと痛む。すると、そばでこちらを覗き込んでくる人影が、1つ。

 

 

 

 

 

 

 

 見上げると、それは同じように肩を上下させた汐音ちゃんだった。額には汗が滲んでいる。しかし半袖からのぞく白い腕が、彼女が今ここにいる存在ではないことを俺に教えてくれた。夜の濃さの中で、彼女だけがほんのりと淡い明るさを帯びて見える。さっきの夕暮れの赤をどこかに残したまま、現実の闇の上に薄く重なっているみたいだった。

 

「いやぁ、なかなか難しいね……」

 

『ううん、なかなか上手に踊れてたと思うよ。ふふ、とっても個性的で、力強かった。ただねえ……いやぁ……』

 

「……ただ?」

 

『ふふ、どう見てもフォークダンスじゃなかったよねぇ。踊り、うん。……あははは!』

 

 

 

 

 

 

 汐音ちゃんはお腹に手を当て、何やらおかしそうにころころと笑った。笑い声は高すぎず、鈴みたいに軽いわけでもなく、けれど夜風の中で不思議なくらい楽しそうに弾んだ。よっぽど俺の踊りがお気に召したらしい。しばらく汐音ちゃんは笑い続け、俺はただそれを見つめる時間が過ぎる。しかし会話はなくても、不思議と何かが満たされたような、そんな気分だった。

 

 

 

 

 

 そしてようやく笑い終えた汐音ちゃんは、笑みを浮かべたまま俺の耳元に顔を寄せ、内緒話をするようにひっそりと囁いた。

 

『ねえ、今度は直接手を取って踊ろうか。私が教えてあげる。でもその時は……あなたがちゃんと誘ってね』

 

 

 

 その声は、夜風よりもずっと近く、秘密みたいに静かだった。耳元をかすめた気配だけがやけにはっきり残って、言葉そのものは胸の奥にそっと落ちていく。

 

 

 

 

 

 

 

 その後は、完全に夜になってしまったのでライトを教室から借りてきて、屋上で適当にみんなで踊ったり、焼きそばを買ってきて食べたりと思い思いの時間を過ごした。

 

 簡易ライトの白っぽい光が屋上の一角だけを頼りなく照らし、その外側には群青色の闇が広がっている。フェンス越しに見えるグラウンドでは火が揺れ、人の輪が遠くで明滅していた。

 

 夜風に吹かれて、遠くに聞こえる音楽を耳にしながら、グラウンドの火を見つめてお喋りするのも、うむ、なかなかしんみりしてよいものだ。

 

 俺はこちらに肩を預けて寝ているリネットを見つつ、向こうで楽しそうに話している貝森ちゃんと柚乃ちゃんを眺めながらそう独り言ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに崇高は誰とも最初踊ってもらえなかったので、俺が最初のお相手を務めることとなった。

 

 

 ……俺は最初にあいつと踊ったわけじゃないからセーフ、そう信じたい。

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