第七幕:王都の違和感と、消えた物資
スピアヘッド戦隊――シン・ノウゼンたちが特別偵察任務へと旅立ち、完全に消息を絶ってから、数ヶ月の月日が流れていた。
第一区(サン・マグノリア)の軍本部。昼時を過ぎた薄暗い地下資料室には、古い紙が放つ独特の乾いた匂いと、何度目かの温め直しでひどく苦味の増したコーヒーの香りが滞留していた。
ヴラディレーナ・ミリーゼ少佐は、デスクの上に山と積まれた兵站(へいたん)記録の束に埋もれるようにして、充血した目で端末の画面を睨み続けている。
――彼らを救えなかった。
その事実がもたらした喪失感は、今も彼女の胸の奥底に冷たく重い石のように居座っている。
だが、泣き濡れて立ち止まることは許されない。彼女は新たな部隊のハンドラーとして指揮を執りながら、少しでも多くのエイティシックスを生き延びさせるため、できる限りの権限と知恵を絞り尽くしていた。
その一環が、過去数年間にわたる軍の補給データの再精査だった。
第一線に送られるはずの物資が、いかにして中間で中抜きされているのか。その実態を暴き、少しでも前線へ弾薬を回すための泥臭い作業。
「……それにしても、これは……」
冷めきった泥水を思わせるコーヒーを一口啜り、レーナは眉根を寄せた。
共和国軍の腐敗は今に始まったことではない。横領や帳簿の改ざんは日常茶飯事だ。しかし、この数日追っているデータ群には、単なる「私腹を肥やすための横領」とは明らかに質の異なる、不気味なほどの偏りがあった。
『不良品による廃棄処分』
『輸送中のレギオン襲撃による喪失』
処理の理由こそありふれているが、消えている物資の量が異常だった。
装甲板、予備バッテリー、徹甲弾の弾薬箱。それだけではない。旧式の旋盤やプレス機といった大型の工作機械までもが、まるごと「行方不明」として処理されている記録が散見される。個人の懐に入れるにはかさばりすぎるし、ブラックマーケットに流した形跡もない。
レーナは乾いた唇を舐め、細い指先で端末のキーを叩いた。
「消えた物資」の最終確認地点を地図上にプロットし、線で結んでいく。
ふと、換気扇のダクトを通じて、地上から能天気な市民の笑い声が聞こえてきた。迫り来る終末の足音に耳を塞ぎ、永遠の平和を信じて疑わない愚かで幸福な同胞たちの喧騒。
だが、レーナの意識はすでに、画面上に浮かび上がった『奇妙な空白地帯』に釘付けになっていた。
「……第85区外縁、第十四セクター……」
プロットされた線が、まるで巨大な蟻地獄に吸い込まれるように、一つの点へと収束していく。
そこは、数年前にレギオンの大規模砲撃を受け、完全に放棄されたはずの地下施設周辺だった。公式な防衛線からは外れており、部隊の駐留記録もない。
ただの廃棄区画に、なぜこれほどの膨大な物資が流れ込んでいるのか。
誰かが意図的に、この腐りきった共和国のシステムの盲点を突き、秘密裏に『何か』を構築している。単なる私利私欲ではない。極めて理知的で、冷徹で、そして巨大な意思の存在。
ざわ、と。レーナの背筋を、冷たい電流のような悪寒が駆け抜けた。
(私と同じように、この国で抗おうとしている者がいる……?)
いや、それは自分の抱く「理想」や「正義」といった甘いものではない。
血の通ったヒューマニズムなど一切介在しない、純粋な狂気にも似た計算の匂いがする。だが、その得体の知れない存在が、確かにこのサンマグノリアの泥濘の中で、人知れず巨大な顎(あぎと)を開けているのだ。
喪失感で淀んでいたレーナの瞳の奥に、微かな、しかし鋭い探求心の火が灯った。
彼女はもう一度苦いコーヒーを喉の奥に流し込むと、その「冷徹な意思」の尻尾を掴むため、さらに深い階層の暗号化データへと指を滑らせていった。
第八幕:鋼鉄の箱舟と、大脱出の決断
世界が、ひび割れる音がした。
遠雷などという生易しいものではない。遥か数百キロ彼方から放たれた電磁加速砲型(モルフォ)の砲弾が、共和国の誇る「絶対に破られない」はずの要塞群を、薄紙のように容易く粉砕していく絶望の産声だった。
絶え間なく続く鈍い地鳴りが、第八十五区外縁の地下要塞を激しく揺さぶる。
天井からはコンクリートの粉塵が雪のように舞い落ち、限界駆動を続ける大型ジェネレーターの重低音が、肺の奥底までをビリビリと震わせていた。換気システムが追いつかず、司令室の空気は焦げるようなオイルと硝煙の匂いで重く濁っている。
だが、その濁った空気の中心で、ヴィクトル・ローラン少佐は冷めたコーヒーカップを手に、ただ静かに戦術モニターを見上げていた。
『――第一防衛線、突破されました! 第四、第五セクターも完全に沈黙!』
『本国(第一区)の司令部からの応答ありません! 指揮系統は完全に崩壊、パニック状態です!』
私兵化されたエイティシックスの通信手たちが、怒号を交えて悲惨な戦況を読み上げる。
モニターの盤面は、共和国の領土がレギオンの赤い光点に無惨に食い破られていく様を、残酷なほど正確に映し出していた。
共和国の終わり。
二年間という欺瞞に満ちた平和の終焉が、今まさに物理的な破壊を伴って訪れているのだ。祖国が地図から消えようとしている。同胞たちが鉄の蹂躙に踏み潰されていく。
しかし、ヴィクトルの銀の瞳には、一欠片の感傷も、絶望すらも浮かんでいなかった。
(……予定通り、破綻したか)
彼の内にあるのは、あらかじめ解き終わっていた数式の答え合わせを終えたような、ひどく事務的な確認だけだった。
共和国が滅びることは、とうの昔にわかっていたことだ。だからこそ、彼は横流しした物資でこの要塞を強固に改修し、私兵を集め、独自の防衛線を構築してきた。事実、周囲の正規軍の陣地が紙屑のように吹き飛ぶ中、ヴィクトルの地下要塞だけは、異様なまでの耐久力でレギオンの波を押し返している。
「少佐。東部から接近するレギオンの第二波、当要塞の防衛圏に接触します。迎撃態勢は整っていますが――」
報告を遮り、ヴィクトルはカップをデスクに置いた。
陶器の鳴る硬い音が、喧騒の中で妙に響く。
「迎撃の必要はない」
淡々とした、平熱の声だった。
通信手たちが弾かれたように振り向く。その視線を受け止めながら、ヴィクトルは手元の端末を操作し、要塞の全システムへ向けて冷酷な命令を下した。
「これより、当拠点を放棄する」
「……放棄、ですか。しかし、ここはまだ」
「ここに留まれば、あと数日は持ち堪えるだろう。だが、弾薬が尽きればいずれ全滅だ。ジリ貧の籠城戦など、私の計算式には入っていない」
ヴィクトルにとって、数年がかりで築き上げたこの強固な城すらも、ここまで生き延びるためだけの『使い捨ての盾』に過ぎなかった。
「備蓄してある全物資、弾薬、予備パーツを、稼働可能な全車両と改修機(ジャガーノート)に積載しろ。不要なものはすべて捨てて構わん。三十分後にハッチを開放し、防衛線を放棄。全軍、東へ向けて突破を図る」
狂気の沙汰だった。
安全な要塞を捨て、レギオンの大群がひしめく死の海へ、あえて飛び込もうというのだから。
だが、ヴィクトルの視線は、モニターの片隅――東の果ての深い暗闇の中で、微かに、しかし確かに明滅を繰り返している『一点の光』に釘付けになっていた。
それはかつて、彼が十分な投資(改修)を施し、地雷原へと放流したカナリア――スピアヘッド戦隊が残していった通信ビーコンの座標だった。
あの死神たちは、確かに約束を果たしたのだ。ヴィクトルの首の皮を一枚繋ぐための、生存国家への道標を。
「私が生き残るための航路は、すでに開拓されている」
ヴィクトルは軍帽を深く被り直し、泥と鉄の玉座に背を向けた。
「鋼鉄の箱舟を起動しろ。……大脱出作戦(エクソダス)の開始だ」
崩落するコンクリートの雨の中、悪魔が率いる亡霊たちの軍隊が、真の生存を懸けて動き出す。
第九幕:連邦への到達と、悪魔の刻印
鼻を突くのは、ツンと冷たい消毒液の匂いだった。
ギアーデ連邦、軍の特別研究施設。無菌室のように真っ白な病室のベッドで上体を起こしたシン・ノウゼンは、窓から差し込む眩しすぎる朝日を細めた目で見つめていた。
半死半生でレギオンの支配域を抜け、この見知らぬ平和な国に保護されてから数日が経つ。
ライデン、セオ、クレナ、アンジュも、一命を取り留め、別のベッドで深い眠りについている。遠い日の絵本でしか見たことのないような、清潔なシーツと暖かな食事。それはエイティシックスとして死を待つだけだった彼らにとって、あまりにも現実離れした、眩暈がするほどの平和だった。
「……気分はどうかしら、シン君」
静かに扉が開き、連邦軍の軍服を纏った女性将校――グレーテ・ヴェンツェル技術中佐が病室に足を踏み入れた。
彼女の顔には、死線を越えてきた少年への労りだけでなく、何か途方もないものを見てしまったような、深い驚嘆の色が張り付いている。
「君たちが乗っていた多脚戦車……『ジャガーノート』と呼ぶそうね。あの機体の残骸の解析が、ようやく終わったわ」
グレーテは手元のホログラム端末を操作し、シンのベッドの脇に機体のスキャンデータを投影した。
それは、もはや共和国の設計図に描かれた本来の姿(アルミの棺桶)ではなかった。連邦の技術者たちを総毛立たせた、異形の亡霊の姿だ。
「はっきり言って、あの機体は粗悪な欠陥品よ。そのままでは、レギオンの支配域を一日だって生き延びることはできなかったはず」
「……でしょうね」
「けれど……君たちの機体に施されていた『現地改修』は、異常だった」
グレーテの声が、微かに震えていた。
それは未知の技術に対する恐怖ではなく、極限状態における人間の異常な執念に対する、純粋な技術的畏怖だった。
「コックピット装甲の極限の最適化、機動力を殺さないギリギリの重量計算。おまけに、レギオンの高感度センサーを無理やり制御系に接合するなんて……狂っているわ。操縦者の居住性や安全性など完全に無視して、ただ『一秒でも長く生き延びて前へ進むこと』だけに特化している。背筋が凍るほど、冷酷で合理的よ」
グレーテはシンの赤い瞳を覗き込み、信じられないものを見るように問うた。
「教えてちょうだい。あんな悪魔的な改修を施した技術者が、あの腐敗した共和国にいたの?」
――悪魔的な改修。
その言葉を聞いた瞬間、シンの脳裏に、あの忌まわしくも懐かしい光景が鮮明に蘇った。
分厚いコンクリートの地下ドック。噎せ返るような重油の匂い。火花を散らす溶接機の青白い閃光。
そして、ちり一つない軍服姿で彼らを見下ろしていた、あの氷のように冷たい銀の瞳。
『お前たちを救う気はない。私の亡命ルートを開拓するためのカナリアになれ』
あの白系種(アルバ)の男は、同情も哀れみも一切持っていなかった。
ただ純粋に、己の生存確率を上げるための投資として、彼らに死に装束を与え、背中を蹴り飛ばしたのだ。だが、結果はどうだ。王都で彼らのために涙を流した、あの心優しき少女(レーナ)の善意ではなく、血も涙もない男の極限のエゴイズムが、この遠い連邦の地まで彼らの命を繋ぎ止めたのだ。
なんという皮肉だろうか。
シンは、この平和な病室で初めて、声を立てて短く笑った。
「シン……?」
目を覚ました隣のベッドのライデンが、シンの珍しい笑い声に怪訝な顔を向ける。
シンは窓の外の青空から視線を戻し、微かな、しかし確かな敬意を込めて呟いた。
「……ええ。同胞を平気で使い潰す、血の通っていない冷血漢でしたよ。けれど、彼が施した打算(投資)には、一寸の嘘もなかった」
自分たちは、あの打算にまみれた白豚によって生かされた。
その絶対的な事実が、今や彼らの中に奇妙な連帯感として刻まれている。あのどうしようもない絶望の底で、自分たちを『利用価値のある部品』として極限まで強化してくれた男。
(……あの悪魔なら、きっと今頃もしぶとく生き延びているだろうな)
シンは目を閉じ、遠い西の空――いまや崩壊の炎に包まれているであろう共和国の空に思いを馳せた。
彼らが遺した道標(ビーコン)を辿り、鋼鉄の箱舟がこの東の地へ至る日が来るのか。それを見届けるまで、自分たちもまだ、死ぬわけにはいかないのだと。