86二次銀髪の悪魔 完結   作:鯖缶詰

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86二次創作:亡霊たちの共鳴と、悪魔の終局

 

第十三幕:偽善の饗宴と、見透かされる深淵

 

 ギアーデ連邦、迎賓館『ヴァルハラ』。

 その大広間は、暴力的なまでの「平和」に満ちていた。

 高い天井から降り注ぐ金色の陽光。テーブルを彩る百合の花が放つ、濃厚で甘い芳香。窓の外からは、レギオンの脅威を一時忘れた市民たちの、歓喜に満ちたパレードの喧騒が遠く響いてくる。

 

 白く清潔なテーブルクロスの上には、エルンスト・ツィンマーマンが用意させた最高級のシャンパンと、色彩豊かな料理が並んでいた。それは、死線を越えてきた者たちへの、連邦の「正義」と「善意」を象徴する饗宴だった。

 

「――ヴィクトル・ローラン少佐。君のこれまでの苦渋の決断、そして生き残るための壮絶な歩みを、連邦は最大限の敬意をもって受け入れよう」

 

 暫定大統領エルンストは、慈愛に満ちた貌(かお)で語りかけた。

 彼は、ヴィクトルが共和国で行ってきた非人道的な「戦死偽装」や「物資横流し」を、過酷な環境下で部下を守り抜くために強いられた、悲劇的な英雄の決断として美化しようとしていた。そうすることでしか、彼はこの「白銀の髪をした悪魔」を、自身の理想とする世界に繋ぎ止めることができなかったのだ。

 

 だが、ヴィクトルは、グラスの中で繊細に立ち昇る気泡を冷めた目で見つめたまま、微塵も表情を動かさなかった。

 

「……美化するな、大統領。吐き気がする」

 

 氷の結晶が砕けるような、平熱の声だった。

 ヴィクトルはシャンパンを一口も啜ることなく、エルンストの「高潔な確信」を真っ向から踏みにじった。

 

「私は自軍の損耗を防ぐために味方を謀殺し、自身の生存確率をコンマ数パーセント上げるために、彼らを部品(86)として買い叩き、使い潰したに過ぎない。そこにあるのは、純粋な利己主義と打算だ。貴公の安っぽい博愛主義で、私の行いを粉飾するのはやめてもらいたい」

 

「少佐……君は、自分を貶めることでしか……」

「感謝も哀れみも不要だと言っている。私は取引をしに来たのだ。連邦が求める情報と技術の対価として、私と私の手駒たちの生存を保証しろ。それ以上の『過保護な同情』という名の首輪は、私の喉にはいささか窮屈すぎる」

 

 エルンストの貌から、血の気が引いていく。

 目の前の男は、救済を求めてなどいない。それどころか、連邦が差し出す「善意」を、自身の自由を縛る枷として明確に拒絶しているのだ。エルンストが信じて疑わなかった人道的救済という正義が、ヴィクトルの冷徹な一貫性の前で、無力な欺瞞として暴かれていく。

 

 その時。エルンストの傍らで震えていた少女――フレデリカ・ローゼンフォルトの瞳が、ヴィクトルを射抜くように見開かれた。

 彼女の異能が、ヴィクトルの「内面」へと深く沈み込んでいく。

 

「……っ、ああ……あぁ……っ!」

 

 フレデリカは椅子から崩れ落ち、自身の肩を抱いて激しく震え始めた。

 彼女の目に映ったのは、黄金の陽光が降り注ぐ迎賓館ではない。

 幾千、幾万という死者の名前が刻まれた、終わりのない銀色の墓標の列。そしてその中心で、一切の感情を凍土の下に埋め殺し、断末魔の叫びを「環境ノイズ」として聞き流しながらコーヒーを啜る、孤独な王の姿。

 

 そこには悪意すら存在しなかった。ただ、極低温の虚無がどこまでも広がっていた。

 

「この男……人ではない……っ! 命を……魂を、ただの数式としてしか見ておらぬ……。なんと、なんと悲しき亡命者じゃ……!」

 

 フレデリカは、恐怖を通り越し、人知を超えた「何か」に対する畏怖の念に打たれていた。彼の中にあったのは、王でも騎士でもない。ただ一人で永遠の荒野を歩き続ける、目的(生存)以外をすべて削ぎ落とした、剥き出しの生存意志そのものだった。

 

 広間に、冷たい沈黙が降りる。

 だが、その張り詰めた空気の中で、シン・ノウゼンやライデンたちは、奇妙なほど落ち着いた様子で、ヴィクトルが事務的に資料を整理する手元を眺めていた。

 

「……シン、お前たちは、この男の異常さがわかっていて……」

 

 エルンストの痛ましい問いかけに、シンは視線を上げることなく、静かに答えた。

 

「ええ。ですが、この不自然に明るい部屋にいるよりは、彼の横で冷徹な計算を聞いている方が、俺たちにとっては馴染みがある。……自分たちが兵器であることを忘れないでいられるから」

 

 連邦の用意した「温室」の甘い香りに窒息しかけていた86たちにとって、ヴィクトルが持ち込む戦場の冷徹な空気こそが、唯一の信頼に足る「真実」だった。

 善意の涙よりも、打算に満ちた取引の方が、彼らの凍えた心を逆説的に守っていたのだ。

 

 窓外のパレードの歓声が、遠く虚しく響く。

 ヴィクトルは、エルンストが差し出した「救済」という名の手を一度も取ることなく、ただ次の戦術データを入力するために、冷たい指先を端末の上で滑らせ続けた。

 

 

 

 

 

第十四幕:二つの「部隊」の衝突

 

 ギアーデ連邦、第216総合演習場。

 冬を控えた北方の乾いた風が吹き抜け、広大な荒野に塵を舞い上げている。そこには、二つの異なる「地獄」を潜り抜けてきた、異質の群れが対峙していた。

 

 片や、連邦が総力を挙げて開発した高機動型機甲兵器『レギンレイヴ』。鋭利な白銀の刃を思わせるその機体群には、スピアヘッド戦隊を生き残ったシン・ノウゼンたちが搭乗している。

 片や、共和国の廃墟から這い出てきた、黒い増加装甲を纏った異形の『ジャガーノート』。ヴィクトル・ローラン少佐が「部品」として買い取り、独自の改修を施し続けてきた、影の私兵部隊である。

 

 演習開始の号令と共に、荒野に焼けたオイルの匂いと、大出力を叩き出すアクチュエーターの駆動音が爆発した。

 

「――仕掛けるぞ。散開!」

 

 シンの鋭い指示と共に、白銀の機体群が蜘蛛の如き俊敏さで散っていく。対する黒い亡霊たちは、無言のまま、不気味なほど統制の取れた動きで迎え撃った。

 

 観測塔の最上階。レーナは、ガラス越しに繰り広げられるその光景を、息を呑んで見つめていた。

 モニターには、両部隊の戦術アイコンが目まぐるしく交差している。だが、そこで繰り広げられているのは、彼女の知る「戦い」とは決定的に質の異なるものだった。

 

「……っ、何、あの動きは」

 

 レーナの唇が戦慄に震える。

 ヴィクトルの私兵部隊――その一部の機体が、シンの突撃を食い止めるため、迷うことなく「自爆に近い」進路を選んだからだ。

 彼らは自分自身の機体を文字通り盾にし、あるいは脚を囮(デコイ)として投げ出す。レギンレイヴの放つ高周波ブレードが装甲を裂く音を、彼らは環境ノイズのように無視し、ただ本隊がシンの背後を獲るためだけの、冷酷な「時間稼ぎ」に徹していた。

 

 そこには、シンたちが大切にしてきた『誇り』も、明日を願う『希望』も存在しない。

 あるのは、自分たちを買い取った主人――ヴィクトルの計算式を完遂させるためだけの、極限まで削ぎ落とされた「機能」としての在り方だった。

 

     *     *     *

 

 演習終了後。汗と鉄の匂いが漂う格納庫で、両部隊のエイティシックスたちが直接対峙した。

 

「……あんたらの戦い方、ありゃ何なんだ。死ぬのが怖くないのかよ」

 

 ライデンが、黒い機体から降りてきた一人の少年兵に、苛立ちを隠さず問いかけた。セオもまた、不快感を露わにした目で彼らを見つめている。

 だが、ヴィクトルの部下である少年は、無機質な眼差しをライデンに向け、ひび割れた声で淡々と答えた。

 

「死? ……あの方は、俺たちの命をあの日、あの地獄で買い取ってくださった。俺たちはあの方の部品だ。部品に恐怖などない。ただ、あの方が生き残るための計算の一部として、正しく消費されるだけだ」

 

「部品だと……ふざけんな、あんたらにだって名前があるだろ」

 

 セオの言葉に、黒い軍服の少年兵は、初めて微かな――しかし氷のように冷たい笑みを浮かべた。

 

「名前……。あの方が俺たちにくださったのは、ドッグタグに刻まれた記号と、明日まで戦うための弾薬だけだ。あんたらの言う『誇り』とやらは、腹が膨れるのか? それで、あの大群(レギオン)を止められるのか?」

 

 その言葉に含まれた「名前のない恐怖」と「空虚な忠誠心」に、ライデンたちは言葉を失った。

 彼らがレーナという名の理想に出会い、人として、戦友として尊重されてきた数ヶ月。その一方で、この少年たちはヴィクトルという名の悪魔に飼われ、命の対価をただ「生存という結果」だけで支払われてきた。

 自分たちがどれほど『恵まれて』いたか。その残酷な事実を突きつけられ、ライデンの拳が静かに、しかし強く握りしめられた。

 

     *     *     *

 

 その光景を、ヴィクトルと共に通路から見下ろしていたレーナは、激しい吐き気に襲われていた。

 目の前で行われた「機能としての死」。ヴィクトルの部下たちは、主人が生き残るために、自らの命を最適なコストとして差し出した。それを命じた男は、今も隣で平然とコーヒーを啜り、演習データを冷徹に分析している。

 

「……なんて、残酷なことを」

 

「残酷? 私は、彼らを生き残らせたのだ。あの日、あそこで見捨てていれば、彼らは名もなき屍として土に還っていた。私の打算が、彼らに『部品』としての延命を許したのだ」

 

 ヴィクトルの言葉に、レーナは怒りで言葉を詰まらせた。

 だが、彼女の視線がモニターに映し出された最終的な「生存率データ」に止まった瞬間、その怒りは氷のような沈着さへと変わった。

 

 ヴィクトルの私兵たちの、異常なまでの生存率。

 自分自身を囮にし、冷酷に計算された損切りを行うことで、結果的に部隊の七割が確実に生還している。彼女が王都で掲げた「誰も死なせない」という甘い理想では、決して到達できなかった数字。

 

(……この男のやり方は、正しくない)

 

 レーナは、自分の指先が震えていることに気づいた。

 だが、その震えは恐怖からではなく、ある『覚悟』から来るものだった。

 

(正しくはないけれど――この『結果』は、誰よりも正しい。……シンたちを、生きて家に帰すためには……)

 

 レーナの瞳から、青い理想の欠片が零れ落ちる。

 彼女はヴィクトルの方を向き、彼と同じ、あるいは彼以上に冷徹で凄絶な光をその瞳に宿した。

 

「……少佐。あなたのその、効率的で、悪魔のような戦術データのすべてを、私に共有しなさい」

 

「ほう? 嫌悪に顔を歪めていた先ほどまでの正義感は、どこへ行った」

 

「捨てたわ、そんなものは。……私は、あなたのその冷酷さを『吸収』する。そして、あなたの計算をも超える采配で、彼らを生かし抜いてみせる」

 

 ヴィクトルは、コーヒーカップを口元から離し、初めてレーナという「個体」を、盤面を左右する有力な駒として再認識するように、深く見つめた。

 

「よかろう、女王陛下。……打算の泥沼へようこそ」

 

 陽光の射さない格納庫の隅で、光と影の二人の指揮官が、歪な誓いを交わした。

 それは、シンたちを救うための、最も血塗られた道の始まりだった。

 

 

 

 

 

第十五幕:北部奪還作戦:氷の女王と影の悪魔

 

 世界は、荒れ狂う純白の暴虐に塗り潰されていた。

 ギアーデ連邦北方、旧ロアー・タ・キア共和国領。レギオンの大規模生産拠点へと続く雪原は、視界を奪う粉塵のような雪が舞い、アクチュエーターが凍りつくほどの極低温に支配されている。

 吹き荒れる風が、ジャガーノートとレギンレイヴの排熱が雪を溶かす瞬間に放つ、湿った鉄の匂いを霧散させていく。

 

「――各機、突入。これより拠点の外殻防壁を爆砕する。一秒でも足を止めた者は、レギオンの餌食になると心得なさい」

 

 知覚同期(パラレイド)越しに響くレーナの声は、かつての鈴を転がすような響きを捨て、氷壁を叩き割るような鋭さを帯びていた。

 彼女は今、連邦軍の全体指揮を執るハンドラーとして、地獄の最前線を見下ろしている。

 

『……甘いな、女王陛下。突入経路に三門の長距離砲が展開した。貴官の「全員突入」という指示に従えば、先遣隊の四割は防壁に辿り着く前に蒸発するぞ』

 

 背後の戦術補佐席から、ヴィクトルの平熱の声が割り込む。

 彼はコーヒーを啜る音さえさせず、冷徹な銀眼で複数のモニターを同時並行で処理していた。

 

「……長距離砲の座標は把握しているわ。予備の自動化砲台(無人機)を先行させ、射線を逸らした隙に――」

 

『無意味だ。無人機の反応速度ではレギオンの予測射撃をかわせない。……左翼の第五、第七小隊を「使い捨ての楔」として前進させろ。彼らが砲撃を一身に浴びて陣形を崩した瞬間、本隊を中央から突破させる。……犠牲は二十。だが、作戦の成功率は九十二パーセントまで跳ね上がる』

 

「却下します、少佐! 最小のコストを言い訳に、救えるはずの命を最初から捨て駒にするような策は認められません!」

 

『正義感は戦場では不純物だと言ったはずだ。最小のコストこそが、最大の戦果――つまり、最も多くの兵士を最終的に帰還させるための最短距離だ。貴官の情緒的な采配こそが、全滅を招く遅効性の毒になると理解しろ』

 

 パラレイドの回線が、火花を散らすような緊張感に包まれる。

 「犠牲を出さない」ことを至上命題とするレーナと、「確実な戦果のために損切りを強いる」ヴィクトル。対極にある二つの戦術思想が、最前線の兵士たちの脳内で激しく火花を散らした。

 

 その時。二人の怒声と冷笑を切り裂くように、ひどく静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。

 

『――二人とも、黙れ』

 

 シン・ノウゼンだった。

 先遣隊の先頭を駆ける『アンダーテイカー』のコクピットで、彼はレギオンの「亡霊の声」を、死神の如き鋭さで聞き分けていた。

 

『レーナの言う「士気」だけではレギオンの物量を突破できない。だが、あんたの言う「計算された死」だけでは、今の俺たちの速さには追いつけない』

 

「シン……?」

 

『少佐。あんたが囮にしようとした座標に、俺が「布石」を打つ。……レーナ。あんたが信じている連中の、死にたくないという「心」を、今から俺が利用させてもらう』

 

 次の瞬間、シンのレギンレイヴが異常な加速を見せた。

 彼はヴィクトルが「死地」と断じた座標へ、あえて自ら突っ込んだ。だが、それは自殺志願ではない。レーナが絶え間なく送り続けていた鼓舞によって極限まで士気を高めた部下たちを、シンの直感が指し示す「一点」へと誘導するための、狂気的な三次元機動。

 

 長距離砲が吠えた。だが、シンは弾道の風圧さえ利用し、氷の壁を蹴ってレギオンの頭上へと跳躍する。

 

「……っ、そんな無茶な!」

 

『違うわ、少佐。見て』

 

 レーナは、モニター上で起きた現象に目を見開いた。

 シンという絶対的な座標に惹きつけられた部下たちが、彼を死なせまいとして、ヴィクトルの予測を超えた反応速度で作戦行動を開始したのだ。感情という「計算不可能な変数」が、ヴィクトルの弾き出した損耗率を、物理的に書き換えていく。

 

 爆煙と雪煙の向こう側で、シンの放つ高周波ブレードが生産拠点の外殻を真っ二つに両断した。

 

『……全機、突入。――道は、拓いた』

 

     *     *     *

 

 戦闘終了後。奪還した拠点の冷たいコンクリートの床で、レーナは膝の震えを必死に抑えていた。

 

 彼女は、先ほどのヴィクトルの言葉を反芻していた。

 彼の提案した「二十の犠牲」。それは確かに残酷だった。だが、もしシンの超常的な介入がなければ、自分の甘い策では二十どころか、部隊の半数が命を落としていたかもしれない。

 彼の冷酷な損切りは、憎しみからではなく、確実に「より多くの者を家に帰す」ための、彼なりの凄絶な祈りの形であったことを、レーナは初めて、心から理解した。

 

「……少佐」

 

 レーナは、隣に立つヴィクトルを見上げた。

 一方のヴィクトルは、手元の端末に表示された「生存者数」を、信じられないものを見るように見つめていた。

 

「生存率、九十八パーセント……。あり得ない。私の計算では、あの局面で感情に流された操縦は、致命的な遅延を生むはずだった」

 

 ヴィクトルは、軍帽を深く被り直し、視線を虚空へ向けた。

 その銀眼には、戸惑いと、それ以上に深い知的好奇心が灯っていた。

 

「……ミリーゼ少佐。貴官が与えたあの非論理的な『鼓舞』とやらが、兵士の神経系に想定以上の過負荷(火事場の馬鹿力)を生じさせたというのか。……認めざるを得ないな。感情というゴミのようなノイズが、稀に戦術変数を凌駕する例外を」

 

 ヴィクトルは、初めてレーナという指揮官を、自身の冷徹な世界の中に「未知の変数」として正しく位置づけた。

 

「よかろう。これからは貴官の『士気』を、私の計算式の定数として組み込んでやろう。……せいぜい、次の戦いでも私の予測を裏切ってみせろ」

 

 雪原に沈む夕日が、対極の二人を赤く染める。

 理想と打算。

 決して相容れない二つの意志が、シンの戦いを媒介にして、一つの強大な「勝利」へと結びついた瞬間だった。

 

 

 

 

 

終幕:悪魔の祈り、あるいは道標

 

 かつて「鉄壁」と謳われたグラン・ミュールは、醜くひび割れた墓標のように、ただ黙して冷たい風に吹かれていた。

 ギアーデ連邦軍によってレギオンの主要な群れが掃討された後、そこにはもはや、サンマグノリア共和国という国家の形は一欠片も残っていなかった。

 

 雪と灰が混じり合う焦土を見下ろす高台で、ヴィクトル・ローランは軍服の襟を立て、音もなく崩れ落ちていくかつての祖国を見つめていた。

 

「……ようやく、あのアホらしい国のために帳簿を弄る手間が省けたな」

 

 吐き捨てるような毒づき。だが、その横顔を撫でる冷たい風は、彼が長年抱え込んできた執着の対象が消滅したことによる、一抹の空虚さを孕んでいた。

 彼が泥を啜り、同胞を謀殺してまで築き上げてきた防衛線も、今はもう意味を成さない。彼の「生存戦略」の第一段階は、この国の滅亡と連邦への到達をもって、完全に終了したのだ。

 

「……見栄っ張りな男じゃのう」

 

 少し離れた背後から、フレデリカ・ローゼンフォルトが呆れたような、しかしどこか哀れむような声で呟いた。

 彼女の赤い瞳――他者の過去と現在、そしてごく稀に『未来』を捉える異能の瞳は、焦土を見つめるヴィクトルの背中の向こう側に、ある奇妙な光景を幻視していた。

 

 それは、連邦の辺境に位置する、見渡す限りの広大で肥沃な土地。

 そこで土に塗れながら鍬を振り下ろし、あるいは陽だまりの中で分厚い本を開いているのは、かつてヴィクトルが「部品」として買い取り、死地で使い潰してきたエイティシックスの少年少女たちだった。

 武器を農具に持ち替え、血と鉄の匂いではなく、緑と土の匂いに包まれた彼らの顔には、かつてのような「名前のない恐怖」も「空虚な忠誠心」も存在しない。そこにあるのは、ぎこちなくも確かに息づき始めた、人間としての穏やかな時間――彼らが心身を取り戻すための『療養所(リハビリ施設)』のビジョンだった。

 

 フレデリカは知っている。

 この冷徹な悪魔が、連邦から得た莫大な情報提供の報酬をすべて注ぎ込み、人知れずその広大な土地を買い上げていたという事実を。

 

(この男、あれほど血に塗れた道を作っておきながら、最期まで『自分の老後のための庭』と言い張るつもりか……。なんと不器用で、欲深い悪魔じゃ)

 

 フレデリカの小さな独白は、冷たい風に攫われて消えた。

 

 高台の少し下では、シン・ノウゼンとヴラディレーナ・ミリーゼが、同じように共和国の残骸を見つめていた。

 レーナの銀髪に混じる赤いメッシュが、風に揺れる。彼女の「誰も犠牲にしない」という光の理想と、ヴィクトルの「生き残るために損切りを強いる」という影のエゴイズム。

 決して交わることのない二つの意志だったが、彼らは互いの手法を否定しながらも、その底にある「生への強靭な執着」だけは深く認め合っていた。

 

「……私たちは、生き残ったわね。シン」

「ええ。誇りを捨てず、かといって綺麗事だけでもなく」

 

 シンは、高台に立つヴィクトルの真っ直ぐな背中を見上げ、微かに笑みを深めた。

 あの悪魔が用意した「部品のための庭」。そこが、戦いしか知らなかった自分たちが、いつか「人間」として歩き出すための最初の道標になるのだと、彼らは静かな確信と共に理解していた。

 

「――何を腑抜けた顔をしている。戦いはまだ終わっていないぞ、女王陛下、死神」

 

 ヴィクトルが振り返り、いつものように感情の抜け落ちた氷の瞳で二人を見下ろした。

 

「勘違いするな。私が連邦の辺境に土地を買ったのは、私自身が不自由なく、快適な余生を送るためだ。そのために、連邦の軟弱な兵士ではなく、私の意のままに動く優秀な使用人と、それを維持管理するための庭が必要だった。……お前たちは、そのための『メンテナンスパーツ』に過ぎない」

 

 どこまでもエゴイストの仮面を脱ごうとしないその宣言に、レーナは呆れたように小さく息を吐き、シンは肩をすくめた。

 だが、その偽悪的な言葉の裏に隠された、ひどく不器用な「彼なりの救済」を、ここにいる誰もが知っている。同情や哀れみで彼らを縛るのではなく、「私を利用しろ」という絶対的な実利の提供。それこそが、地獄を知るエイティシックスたちにとって、最も重荷にならない、最上の優しさなのだと。

 

 ヴィクトルの傍らに控えていたかつての私兵が、手慣れた動作で小さなカップを差し出した。

 極上の豆を挽いた、最高級のブラックコーヒー。

 焦げ付くような重油や、血肉が焼ける鉄の匂いばかりだった彼らの世界に、今はただ、その深く澄んだ苦い香りだけが静かに漂っている。

 

 ヴィクトルはコーヒーを一口啜り、ふと、自身の軍服の胸ポケットに触れた。

 そこには、彼がかつての地下要塞で、密かにプレス機を動かして刻み続けていた、無数の「アルミの札(ドッグタグ)」が重く冷たく沈んでいる。

 今はまだ、ただの記号でしかないかもしれない。だが、この新しい国で、いつか彼らが「部品」ではなく、かけがえのない「名前」を取り戻す日が来る。

 

 平和な、ひどく穏やかな風が吹き抜けた。

 悪魔の祈りは、ただ冷徹に、そして何よりも確かに、彼らの往く道を照らしていた。

 

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