ヒロアカ×サイレントヒル2 完結   作:鯖缶詰

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GeminiAIProを使用
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。


P.D.S.G. ダイブ 緑谷出久編1

 

起:不可視のダイブと白濁の街

 

 雄英高校の地下に設けられた特別訓練室には、大型機材が発する低い排気音だけが単調に響いていた。

 

「出久君、音声チェックは良好です。先ほども言及しましたが、このP.D.S.G.の内部環境は、搭乗者の深層心理からダイレクトに構築されます」  コントロールパネルを操作する発目明の声が、ポッド内のスピーカーから硬質な電子音となって届く。普段の発明に向けられる狂気的な熱量よりも、今回は純粋な技術者としての冷徹さが勝っているように聞こえた。 「そのため、プライバシー保護の観点から映像や音声の外部出力は一切不可能な仕様となっています。つまり――」 「本人以外には何も見えない、完全な密室……だね」  仰向けに横たわった緑谷出久は、少しだけ強張った声で確認した。 「ええ、その通りです。ベイビーの準備は完璧ですよ」

 

 出久は小さく息を吐き、ポッドの天井を見つめる。

 視界の端では、相澤消太が腕を組み、険しい双眸でバイタルモニターを睨みつけていた。映像が見えない以上、生徒の命綱となるのは、そこに表示される無機質な数値の変動だけだ。その事実が、相澤の肩に重い責任を強いていることは想像に難くない。

 

「緑谷」

 相澤の低く、静かな声が響いた。

「限界だと思ったら、すぐに信号を送れ。俺の判断で強制ログアウトさせる場合もある。……無理はするなよ」

「はい。行ってきます、相澤先生」

 出久は力強く頷いた。自分はこれから、未知の敵ではなく、自分自身の内面と戦うのだ。その決意とともに目を閉じると、シューッという密閉音に続いて、意識は急速に深い闇へと沈んでいった。

 

     *

 

 ――ぽたり。

 どこかで、水滴の落ちる音がした。

 

 目を開けた出久を待っていたのは、圧倒的な「白」だった。

 濃霧。自分の数メートル先すら見通せないほどに白濁した世界が、視界を完全に塞いでいる。

 ゆっくりと身を起こすと、足裏からひんやりとしたアスファルトの感触が伝わってきた。ここは雄英の訓練施設でもなければ、見慣れた日本の市街地でもない。どこか寂れた、異国の田舎町のような風景の断片だけが、霧の隙間から辛うじて見て取れた。

 

「これが……シミュレーション……?」

 声に出してみたが、霧に吸い込まれて反響すらしない。あまりにも不自然な静寂。

 そして何より、出久の神経を逆撫でしたのは「匂い」だった。

 肺に吸い込まれるのは、湿った冷気。そして、どこからともなく漂ってくる、錆びた鉄と古い血が混ざったような生臭さ。仮想現実の域をはるかに超えた異常なリアリティが、本能的な警鐘を鳴らし始める。

 

 ふと、嫌な予感がして自身の内側に意識を向けた。

「……ウソだろ」

 出久は自身の両手を見つめる。ワン・フォー・オールの力の奔流が、微塵も感じられない。プログラムによる制限だと頭では理解していても、長きにわたって身体の一部となっていた「個性」が完全に沈黙している事実は、出久から急速に体温を奪っていった。

 

 ただの「無個性」の少年に戻ってしまったような無力感。

 這い寄るような孤立感から気を紛らわせようと、出久は無意識にボロボロになったヒーローコスチュームのポケットに手を入れた。

 

「え……?」

 指先が、ざらりとした紙の感触に触れる。入れた覚えのないそれを引きずり出すと、出久の呼吸がピタリと止まった。

 

 それは、表紙が焼け焦げたノートの切れ端だった。

 かつて自分が肌身離さず持ち歩き、そして一度は絶望とともに手放しかけた『ヒーロー分析ノート』。その焼け焦げた紙片には、見慣れた、しかしひどく歪で乱暴な筆跡で、たった一言だけが書き殴られていた。

 

『あの場所で待っている』

 

 ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。

 肌を刺す冷気と、鼓膜を圧迫する圧倒的な静寂。単なる訓練としての緊張感はとうに消え失せていた。

 代わりに産声を上げたのは、自分の最も脆い部分を直接鷲掴みにされたような、生々しい不安と恐怖だった。

 

 

 

 

 

承:具現化する悔恨とノイズ

 

 白濁した世界を、緑谷出久はあてもなく歩いていた。

 一歩踏み出すたびに、ひび割れたアスファルトが靴底で砂を噛む。その微かな摩擦音さえも、分厚い霧がスポンジのように吸い取ってしまう。

 視界も、音も、匂いさえも、すべてが淀んでいる。圧倒的な孤独が、じわじわと皮膚の表面温度を奪っていくようだった。

 

 ――ザザッ……。

 

 不意に、耳障りな電子音が足元から鳴った。

 出久はビクッと肩を跳ねさせ、視線を落とす。霧のベールに半ば隠れるようにして、古びた携帯ラジオが転がっていた。拾い上げると、冷え切ったプラスチックの感触が掌に伝わる。

 電源も入っていないはずのそれは、不規則な砂嵐(ノイズ)を吐き出し続けていた。

 

 ザザ……ピーッ……ガガガガ……!

 

 突如として、ラジオのノイズが鼓膜を刺すような爆音に変わった。

「う、っ……!?」

 思わず耳を塞いだ出久の正面、数メートル先の霧が、不自然に渦を巻いた。

 何かが、いる。

 ずるり、ずるりと、濡れた泥を引きずるような足音が近づいてくる。

 

 現れたそのシルエットに、出久は息を呑んだ。

 それは、人型の『肉塊』だった。ひどく悪臭を放つヘドロのような泥と、見覚えのある深緑色のボロボロの布切れ――かつて彼が身を包んでいた、ヒーローコスチュームの残骸――が、無秩序に縫い合わされたような異形。

 顔があるべき場所には、ただ黒い空洞がぽっかりと口を開けていた。

 

『……っ……もっと……早く……』

「え……?」

 空洞から漏れ出た声に、出久は足の裏が氷に張り付いたように動けなくなった。

『僕が……もっと、早く駆けつけていれば……』

『ちがう……僕ひとりで、全部背負えばよかったんだ……』

 

 それは、ノイズにまみれた出久自身の声だった。

 かつて、傷つく人々を前にして己の無力さを呪い、雨の中で一人、血反吐を吐きながら世界を背負おうとした時の――あの日の、痛切な自責の念。

「や、やめろ……」

 出久は後ずさる。未知の怪物に対する恐怖ではない。かつての己が抱えていた、決して他人には見せなかったどす黒い悔恨が、醜い怪物となって目の前に立っている。その事実が、出久の精神を激しく揺さぶった。

 

     *

 

「……心拍数、百五十を突破。なお上昇中」

 現実世界のコントロールルーム。相澤消太は、血の滲むような声で数値を読み上げた。

 メインモニターは依然として真っ暗なままだ。だが、その脇に表示された出久のバイタルデータを示す折れ線グラフは、異常なまでの急勾配を描いて跳ね上がっている。

 

「発目。緑谷の脳波データはどうなっている」

「……扁桃体が異常興奮しています。恐怖、焦燥、そして……強いストレス反応。まるで、深刻なトラウマを直接抉り出されているような波形です」

 キーボードを叩く発目の声にも、普段の余裕はない。

 相澤は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 仮想空間内で、今、緑谷に何が起きているのか。どのような敵が彼を追い詰めているのか。外からは一切分からない。見えないからこそ、「緑谷の心臓が今にも破裂しそうだ」という数値だけが、室内の空気を重く、息苦しいものにしていた。

「……何と戦っている、緑谷」

 相澤は、いつでも強制終了(エマージェンシー)のレバーを引けるよう、右手をパネルに固定したまま、暗闇のモニターを睨みつけた。

 

     *

 

 ザザザザザザザザッ!!

 ラジオのノイズが悲鳴のように鳴り響く。

 異形が、ずるりと腕を伸ばしてきた。その手から滴る泥が、かつて出久が流した血のように見えて、吐き気が込み上げる。

 息が、詰まる。

 肺に酸素が入ってこない。これはプログラムの敵じゃない。僕の、僕自身の後悔だ。

 

(逃げなきゃ……!)

 出久は咄嗟に身を翻し、足元の瓦礫から赤錆に塗れた鉄パイプを引き抜いた。

 個性が使えない以上、まともに戦えばどうなるか分からない。いや、何より、あの「声」をこれ以上聞いていたら、心が壊れてしまう。

 出久は鉄パイプを胸の前に構え、襲いかかってくる異形の腕を力任せに弾き飛ばした。泥が飛び散り、生臭い匂いが鼻を突く。

「はぁっ、はぁっ……!」

 倒す必要はない。無用な戦闘を避け、ノートの切れ端が示す目的地へ。

 

 霧の奥、ノイズが少しずつ遠ざかる中、巨大な影がうっすらと浮かび上がった。

 それは、至る所に赤錆が浮き、蔦に覆われた巨大な建造物。

 かつて彼が夢と希望を抱いて門を潜った場所――雄英高校の旧校舎の、無惨に朽ち果てた幻影だった。

 

 

 

 

 

 

転:処刑人の足音と対峙

 

 目的の場所――旧校舎の最深部らしき小部屋に足を踏み入れた瞬間、世界が軋んだ。

 

 ウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥ――……!

 

 突如、鼓膜を劈くようなけたたましいサイレンが鳴り響いた。空気を震わせるその音は、街のどこかからではなく、出久の頭蓋の内側から直接響いているような錯覚を起こさせる。

「っ、なんだ……!?」

 耳を塞いで蹲る出久の目の前で、信じがたい光景が広がった。

 壁のコンクリートが、まるで焼け焦げた紙のようにボロボロと剥がれ落ちていく。その下から露わになったのは、赤錆に塗れた鉄板と、生々しく脈打つような金網の壁だった。

 空間のテクスチャが反転し、狂気がむき出しになる。シミュレーターの処理限界を超えたバグなのか、それとも出久の深層心理がシステムそのものを侵食したのか。

 先ほどまでの冷たい霧は消え去り、代わりに息苦しいほどの熱気と、噎せ返るような鉄の匂いが小部屋を満たした。

 

 ズン……。ズン……。

 

 サイレンの音に混じって、地鳴りのような重い足音が近づいてくる。

 ギギギギギギッ、と、硬質な金属を床に引きずる不快な摩擦音が、逃げ場のない空間に反響した。

 

 部屋の入り口、錆びたドアフレームをへし折りながら『それ』は姿を現した。

 

 出久は、全身の血の気が引くのを感じた。

 見上げるほどの巨体。その背中には、まるで枷のように巨大な瓦礫の塊が縛り付けられている。顔は分厚い鉄の装甲で覆われ、表情は窺えない。

 異形の手には、身の丈をゆうに超える巨大な鉄骨が握られていた。それを引きずるたびに火花が散る。だが、最も出久の目を惹きつけたのは、その異形が鉄骨を握る両腕だった。

 紫色に腫れ上がり、皮膚が裂け、そこから止めどなく赤いデータノイズ――血の代わり――が滴り落ちている。

 

 ズガァァァンッ!!

 異形が何の感情も交えずに鉄骨を振り下ろすと、出久のすぐ横の壁が紙くずのように粉砕された。

 巻き上がる粉塵の中、出久は尻餅をついたまま後ずさった。

 勝てない。「個性」が使えたとしても、この理不尽な暴力の権化に立ち向かえる気がしなかった。圧倒的な絶望が、冷たい手で心臓を鷲掴みにする。

 

     *

 

「先生、デッドラインです!!」

 コントロールルームに、発目明の悲痛な叫びが響いた。

「ストレス係数がレッドゾーンを突破! これ以上は脳神経に物理的なダメージが及びます!」

「……っ!」

 相澤消太の顔から表情が抜け落ちた。彼は瞬き一つせず、即座に強制終了(エマージェンシー)の赤いレバーを握りしめ、力の限り引き降ろそうとする。

 だが、その手が、ふと空中で止まった。

「相澤先生!?」

「待て……波形が変わった」

 相澤は、食い入るようにバイタルモニターを凝視した。

 急上昇を続けていた心拍数が、不自然なほどピタリと一定のラインで安定し始めている。それだけではない。パニック状態を示す乱高下していた脳波が、一本の太い線のように力強い波形へと収束していくのが見て取れた。

 それは「恐怖」や「逃走」のデータではない。強大な敵を前にして、決して目を逸らさない――『直面』する者の意志の波形だった。

「緑谷……お前、中で何を見ている……」

 相澤はレバーを握る手に力を込めたまま、ギリギリの判断でシステムの介入を踏みとどまった。

 

     *

 

 再び振り上げられた鉄骨の影に覆われながら、出久はただ、その異形の姿をじっと見つめていた。

 怖い。恐ろしい。

 けれど、逃げてはいけないという強烈な直感が、彼の足を床に縫い留めていた。

 

(……なんで、そんなに傷だらけなんだよ)

 出久は、震える唇を噛み締めた。

 重すぎる瓦礫の塊。砕け散ってもなお、力任せに振るわれる両腕。痛みに耐えかねて漏れるような、くぐもった呼吸音。

 自分を殺そうとするその「処刑人」の姿が、どうしようもなく痛々しくて、悲しかった。

 

 わかってしまった。

 他でもない、彼を追いかけてきた泥のクリーチャーたちが囁いていた言葉の答え。

『僕ひとりで、全部背負えばよかったんだ』

 

 この歪で、不格好で、自らを壊し続ける悲しき怪物は――自分自身を誰よりも大切にできなかった、過去の緑谷出久自身の姿だ。

 

 目頭が熱くなり、視界が滲む。恐怖の涙ではなく、取り返しのつかない過去の自分への、痛切な悲哀だった。

「……ごめん」

 サイレンの音に掻き消されそうな小さな声で、出久は呟いた。

 握りしめていた鉄パイプを、ゆっくりと床に落とす。カラン、と乾いた音が響いた。

 

 もう、目を逸らさない。

 この痛みは、他ならぬ自分自身が生み出したものだから。

 

 出久は両足を肩幅に開き、一切の防御を捨てて、振り下ろされようとする巨大な鉄骨――己の罪悪感の象徴を、真っ直ぐに見据えた。

 

 

 

 

 

 

結:霧の晴れ間と受容

 

 カラン、と。

 乾いた音を立てて転がった鉄パイプを一瞥することもなく、出久はただ真っ直ぐに眼前の巨体を見据えていた。

 

 無防備な標的を前にして、瓦礫を背負った異形――過去の出久自身の影――は、裂けた両腕からどす黒いノイズを撒き散らしながら、巨大な鉄骨を大きく振り被った。

 空気を裂く凄まじい風切り音。

 脳髄を揺らす狂気的なサイレンの鳴動。

 それでも、出久の足は一歩も退かなかった。見開いた緑の瞳は、一切の恐怖を拭い去り、ただ深い悲哀と慈しみを込めて「彼」を捉え続けていた。

 

「もう、自分を壊して誰かを救おうとは思わない」

 

 轟音の中で紡がれたその声は、ひどく静かで、けれど確かな芯を持って空間に響き渡った。

 その瞬間だった。

 出久の頭蓋を叩き割る軌道で振り下ろされていた巨大な鉄骨が、彼の鼻先わずか数ミリの空中で、物理法則を無視したようにピタリと停止した。

 

 暴風が吹き荒れ、出久の前髪を激しく揺らす。しかし、鉄骨はそれ以上一ミリたりとも彼に触れようとはしなかった。

 異形の顔を覆う分厚い鉄の装甲の奥から、くぐもった、ひどく掠れた呼吸音が漏れ聞こえる。それはまるで、長きにわたって泣くことすら許されなかった子供の、すすり泣きのようにも聞こえた。

 

 出久は、ゆっくりと手を伸ばした。

 恐ろしい処刑人の象徴である、赤錆に塗れた冷たい鉄骨。その表面に、そっと自らの掌を添える。

「……君が背負っていた痛みも、僕が全部連れていく」

 痛みを伴う、完全なる『受容』。

 切り捨てるのではなく、否定するのでもなく。かつて己が犯した自己犠牲という名の過ちを、自分の一部として抱え込んで生きていくという誓い。

 

 掌から伝わる確かな温もりに応えるように、異形の腕からポロポロと崩れ落ちていた赤いデータノイズが、ふっと淡い黄金色の光の粒子へと変容した。

 パラ……パラパラ……。

 それは瞬く間に異形の全身を包み込み、背負っていた重い瓦礫の枷を、そして異形自身を、柔らかな光の砂へと変えていく。

 サイレンの音が遠のき、息苦しいほどの熱気と鉄の匂いが、光と共に天高く昇って霧散していく。

 

 出久は、光の粒子が完全に空へ溶けていくまで、その場から目を離さなかった。

 気づけば、旧校舎の裏世界を形作っていた金網や赤錆も崩れ去り、街を分厚く覆っていた白濁の濃霧も嘘のように晴れ渡っている。

 雲の切れ間から、どこまでも澄み切った仮想の青空が覗いていた。

 

『――シミュレーション・クリア。全プログラムを終了します』

 

 無機質なシステム音声が鳴り響いたのを最後に、世界は急激に色を失い、温かい闇へと沈んでいった。

 

     *

 

 シューッ……。

 密閉を解く低い排気音が、意識の底に届く。

 

 出久がゆっくりと重い瞼を開けると、そこは訓練室の天井を照らす無機質な蛍光灯の光だった。

「はぁっ……! はぁ、はぁっ……」

 現実の肉体が、急速に酸素を求め始める。全身は水に浸かったように汗だくで、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らしていた。

 自分が限界ギリギリの恐怖と対峙していたのだと、肉体の疲労が遅れて訴えかけてくる。

 

 ゆっくりと開いていくポッドのハッチ。

 流れ込んでくる訓練室のひんやりとした空気に、かすかに機械のオイルの匂いが混じっている。それが、ここが『現実』であるという何よりの証拠だった。

 

 小刻みに震える身体をなんとか起こそうとした時、視界の上から、ふわりと真っ白な闇が降ってきた。

 頭からすっぽりと被せられたそれは、乾いたタオルだった。

「……」

 見上げると、傍らに立つ相澤消太が、無言のまま出久を見下ろしていた。

 その瞳はいつも通りの気怠げなものだったが、乱暴にタオルを被せた掌からは、不器用だが確かな安堵と労いが伝わってくる。

 

 タオルのざらりとした感触と、微かに香る柔軟剤の匂い。

 冷たく孤独な仮想世界(サイレントヒル)から生還した出久の心に、現実世界の温もりが、じんわりと染み渡っていった。

 

 

 

 

 

生還と覚悟の伝播

 

 低く重い排気音がコントロールルームに響き、P.D.S.G.の密閉型ポッドがゆっくりと開いた。

 無機質な白い冷気が這い出し、それに混じって、じっとりと肌に張り付くような嫌な汗の匂いが室内に広がる。

 

 ポッドの中に横たわっていた緑谷出久は、まるで深海から水面へと引き上げられた直後のように、大きく肩を上下させていた。

「はぁっ……! はぁ、はぁっ……」

 酸素をむさぼるような荒い呼吸。焦点の合わない瞳が、天井の蛍光灯を眩しそうに捉える。彼の身体は、目に見えない巨大な圧力から解放されたかのように、小刻みに震えていた。

 

「大丈夫!? デクくん……!」  いち早く駆け寄ったのは麗日お茶子だった。普段の朗らかな顔つきは消え失せ、血の気の引いた表情でポッドの縁を掴む。 「緑谷君! 大丈夫か、ひどい汗だぞ!」  飯田天哉が慌てて声をかけ、轟焦凍も静かに、だが鋭い視線をモニターと出久の間で往復させている。爆豪勝己は腕を組んだまま後方に立ち、舌打ちを一つ落とすだけで動かなかったが、その眉間には深い皺が刻まれていた。

 

 相澤消太が、無言のまま出久の頭に真っ白なタオルを被せた。

 柔軟剤の乾いた香りと、ざらりとしたタオルの感触。それが、出久をようやく『現実』へと引き戻すアンカーとなる。

 

「……緑谷。無事か」

 相澤の低く落ち着いた声に、出久はタオル越しに何度か瞬きをし、ゆっくりと上半身を起こした。

 まだ少し震える両手でタオルを握りしめ、顔の汗を乱暴に拭う。深く息を吸い込み、そして、吐き出した。

 

「はい。……大丈夫、です。相澤先生」

 顔を上げた出久の瞳は、先程までの怯えを含んだものではなく、ひどく静かで、澄み切っていた。それは何かを乗り越え、自分の一部として受け入れた者の目だった。

 

「デクくん、すっごいしんどそうやったけど……何が見えとったん?」

 お茶子が恐る恐る尋ねる。

 外部モニターには一切の映像が映し出されず、跳ね上がるバイタルデータだけが、彼が中でどれほどの絶望と直面していたかを物語っていた。だからこそ、A組のメンバーには、出久が何と戦っていたのか想像もつかない。

 

 出久はポッドから這い出ると、少しふらつきながらも両足でしっかりと床を踏みしめた。そして、心配そうに見つめるクラスメイトたちを一人一人、真っ直ぐに見返す。

 

「……敵(ヴィラン)じゃない」

 静かな、だがコントロールルームの空気を縫い留めるような声だった。

「このシミュレーターが見せてくるのは、腕力や『個性』でどうにかなるようなものじゃないんだ。……僕たちの、一番見たくないもの。後悔とか、弱さとか、誰にも言えなかった醜い感情が、形を持って襲ってくる」

 

 その言葉に、室内の空気が一段と張り詰める。

 出久の視線が、ふと爆豪に向けられた。爆豪はチッと舌を鳴らしながらも、視線を逸らさない。轟も、飯田も、お茶子も、皆が出久の次の言葉を待っていた。

 

「逃げちゃダメだ」

 出久は、自分自身に言い聞かせるように、強く言葉を紡ぐ。

「それは、誰のせいでもない。僕たち自身が背負って生きていかなきゃいけない『影』なんだ。だから……これから入るみんなも、覚悟してほしい」

 

 強く握りしめた拳から、ポタ、と汗の雫が床に落ちた。

「自分自身を、否定しないで。……受け入れる覚悟で、挑んで」

 

 その言葉は、単なる警告ではなく、これから凄惨な内面世界(サイレントヒル)へと旅立つ仲間たちへの、彼なりの祈りのようだった。

 排気音が鳴り止んだ静寂の中、誰も口を開くことはできない。ただ、その沈黙こそが、A組全員が彼の言葉の重みを正確に受け取った証明だった。




この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
自給自足小説
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