起:重泥の引力と、寂れた遊園地
「自分自身を、否定しないで。……受け入れる覚悟で、挑んで」
緑谷出久のひどく静かで、祈るような言葉が、麗日お茶子の鼓膜の奥にまだ張り付いていた。
コントロールルームの冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女は開け放たれたP.D.S.G.のポッドへと足を踏み入れる。寝台はまだ、先ほどまでここで凄絶な戦いを繰り広げていた出久の体温を微かに残していた。
「麗日。……いつでも引き上げられるようにはしておくが、無理はするな」
バイタルモニターの前に座る相澤消太の言葉に、お茶子はポッドの中から力強く頷いてみせた。
「はいっ。行ってきます!」
気丈な声を出したつもりだったが、少しだけ上ずってしまったかもしれない。シューッという排気音とともにハッチが閉じられ、視界が完全な暗闇に沈む。
(デクくんがあんなにボロボロになるくらい、怖い世界。でも……逃げちゃダメなんや)
ぎゅっと両手を握りしめ、覚悟を決めた次の瞬間、お茶子の意識は深い泥の底へと引きずり込まれた。
*
――重い。
それが、仮想世界で目覚めたお茶子を襲った最初の感覚だった。
「……っ、ん……?」
横たわっていた体を起こそうとして、お茶子は思わず呻き声を漏らした。
プログラムによって「無重力(ゼログラビティ)」の個性が制限されていることは、事前に説明を受けていた。しかし、これはただ「個性が使えない」というレベルの話ではない。
まるで、世界の重力そのものが数倍に跳ね上がったかのように、自分の肉体が恐ろしく重いのだ。手足に目に見えない鉛の重りが括り付けられているようで、ただ立ち上がるだけで息が切れる。
「はぁっ、はぁ……なんやの、これ……」
膝に手をつき、荒い息を吐きながら周囲を見渡す。
視界は、湿り気を帯びた分厚い白霧に覆われていた。だが、出久が語っていた「寂れた街」とは少し様子が違う。
足元には、ひび割れたアスファルトではなく、枯れ草がまばらに生えた土と剥がれかけた煉瓦の道。そして、鼻を突くのは血や鉄の匂いではなく――古い埃と、ポップコーンが腐ったような、甘ったるくてひどく不快な匂いだった。
重い足を引きずり、霧の中を数歩進む。
やがて、白濁のベールが薄れた先に、巨大なシルエットが浮かび上がった。
塗装の剥げた木馬たちが、亡霊のように立ち尽くすメリーゴーランド。その奥には、錆びついた骨組みだけを晒して沈黙する、巨大な観覧車が見える。
「遊園地……?」
それは、とうの昔に見捨てられ、朽ち果てた遊園地の跡地だった。
得体の知れない気味悪さがある一方で、お茶子の胸の奥に、チクリとした痛みを伴う微かな郷愁が湧き上がる。かつて、両親の仕事が忙しくなる前に連れて行ってもらった、地元の小さな遊園地の記憶。
――どうして、私の頭の中の景色が、こんな場所に。
困惑と、まとわりつくような重力が、お茶子から少しずつ体力を、そして気力を削り取っていく。一歩足を踏み出すたびに、底なしの泥沼を歩いているような激しい疲労感がふくらはぎを襲った。
カラ……カラ、カラカラ……。
ふと、静寂を破る音が響いた。
霧の奥から聞こえてくるのは、ひどくノイズの混じった、壊れかけのオルゴールのメロディ。
「誰か……おるの?」
警戒しながら身構えようとするが、腕を上げるのさえ億劫なほど体が重い。
カラカラという音に混じって、ヒック、ヒックと、幼い少女のすすり泣くような声が耳に届いた。
『……いたいよぉ……』
「っ!」
『たすけて……なんで、わたしだけ……』
それは、明らかに助けを求める声だった。
ヒーローとして、見過ごすわけにはいかない。お茶子は鉛のように重い足に鞭を打ち、声のする霧の深部へと、重泥の引力に抗いながら歩みを進めた。
彼女の心細さが、周囲の霧と同じように、じわじわと濃さを増していることには気づかないふりをして。
承:這い寄る人形たちと、絡みつく弱音
カラ……カラカラ……。
狂ったオルゴールのノイズと、すすり泣くような声を頼りに、お茶子は鉛のような足を引きずって進んだ。
遊園地の跡地を覆う分厚い霧は、進むほどに湿り気を増し、腐ったポップコーンの甘ったるい匂いが肺にこびりついて吐き気を催させる。
『たすけて……』
「どこ……? どこにおるの!」
声はすぐ近くから聞こえるのに、姿が見えない。焦燥感に駆られ、泥濘む地面に足を取られそうになったその時だった。
――ズズッ。
霧の底、枯れ草に覆われた地面を這うようにして、何かが近づいてきた。
「え……?」
お茶子は息を呑んだ。
それは、等身大の球体関節人形(ビスクドール)だった。ボロボロに引き裂かれたセーラー服を身に纏い、関節の継ぎ目からは黒い泥がとめどなく溢れ出ている。
最も異様だったのは、その頭部だ。精巧な髪の毛だけが植え付けられており、顔があるべき場所には、つるりとした白い陶器の曲面があるだけだった。
目も、鼻も、口もない。それなのに、確かに『声』はそこから響いていた。
『……いたいよぉ……』
ずるり、ずるり。
泥まみれの人形は、立ち上がることすらできず、這いつくばったままお茶子に擦り寄ってくる。そして、白く冷たい陶器の指で、お茶子の右の足首をきつく掴んだ。
「ひっ……!」
氷のように冷たい感触。人形そのものの質量に加え、まとわりつく泥の重みが、すでに限界を迎えていたお茶子の足に凄まじい負荷をかける。
振り払わなければ。頭ではそう警告しているのに、お茶子は動けなかった。
足首にしがみつくその顔のない人形から、凄絶な『悲しみ』が伝わってきたからだ。
『どうして……わたしだけ、こんなに苦しいの……』
『助けて、ヒーロー……痛いよ、痛いよぉ……』
ノイズ混じりのその声の波長が、ふいに切り替わった。
(……あ)
心臓が、冷たい手で直接握り潰されたかのように収縮する。
忘れるはずがない。それは、かつて激戦の最中に彼女が手を伸ばし――そして、こぼれ落ちてしまった少女の声。トガヒミコの、血を吐くような慟哭と酷似していた。
「あ、あぁ……」
お茶子の目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちる。同情と、拭いきれない強烈な罪悪感。
ごめんね。ごめんね。あの時、私がもっと早く、もっと上手に笑いかけられていたら。
ズズッ、ズズズッ。
霧の奥から、さらにもう二体、三体と、同じセーラー服姿の顔のない人形たちが這い出てきた。彼女たちは次々とお茶子の足にすがりつき、重い泥の塊となって彼女をその場に縫い留めようとする。
*
「……緑谷の時とは、まるで違うな」
コントロールルームで、相澤消太は重々しく呟いた。
暗闇のメインモニターの横、お茶子のバイタルデータを示すグラフは、出久の時のように心拍数が急激に跳ね上がっているわけではなかった。
だが、事態は決して楽観視できるものではない。
「ええ。心拍数はレッドゾーンの一歩手前で推移していますが……問題は呼吸です」
発目明が、細かく波打つグラフを指差す。
「過呼吸に近い状態に陥っています。ゆっくりと、真綿で首を絞められるように、精神的な酸素が奪われている……」
相澤は無言で腕を組んだ。
見えない敵からの猛攻を受けているわけではない。自らの内側から湧き上がる『何か』に絡め取られ、身動きが取れなくなっているのだ。救済を旨とする麗日お茶子にとって、それは物理的な暴力よりも遥かに残酷な拷問であることを、相澤は痛いほど理解していた。
*
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
お茶子は、荒く短い呼吸を繰り返していた。
足首にすがりつく人形たちの重みで、一歩を踏み出すことすら至難の業だ。乱暴に蹴り飛ばせば、簡単に振り払えるかもしれない。
でも、彼女にはそれができなかった。
『助けて』と泣いている者を、どうして蹴り落とすことができるだろうか。
『重いよぉ……苦しいよぉ……』
『もう、がんばれないよ……』
泥まみれの人形たちが囁く言葉が、徐々にトガヒミコの声から離れ、別の誰かの声へと変質していく。
――あぁ、やめて。
お茶子は耳を塞ぎたくなった。その声は、他ならぬお茶子自身の声だった。
『ヒーローになんて、ならなきゃよかった』
『普通の女の子として、ただ、恋バナして笑っていたいだけなのに』
心の奥底、分厚い蓋をして決して見ないようにしてきた、どうしようもない『弱音』の反響。
他者の痛みを背負うことに疲れ果て、誰かにこの重荷を代わってほしいと泣き叫ぶ、等身大の少女の悲鳴。
足にすがりつく人形たちは、救えなかった者への罪悪感であると同時に、お茶子自身が切り捨ててきた「普通に生きたい」という願いの残骸だったのだ。
「ちがう、私は……私は……!」
自己と他者の境界線が曖昧になり、自分が誰のために泣いているのかすら分からなくなっていく。
お茶子は、足に何人もの『弱音』を引きずりながら、それでも前へ、前へと泥濘む足を踏み出した。
限界を迎えた精神が軋み、千切れる寸前の悲鳴を上げていた。
転:血の天秤と裏世界
足にすがりつく何体もの『弱音』を引きずり、お茶子はついに遊園地の中央――巨大な観覧車の足元へと辿り着いた。
見上げるほどの鉄骨は完全に赤錆に侵され、頂上付近は分厚い白霧に飲まれて見えない。息も絶え絶えになりながら地面に手をついた、その瞬間だった。
ウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥ――……!
鼓膜を劈くような、低く悍ましいサイレンの音が空間全体を震わせた。
「え……っ!?」
お茶子が顔を上げた途端、世界が軋み、剥がれ落ち始めた。
分厚かった白濁の霧が、まるで炎に焼かれた紙のようにボロボロと崩れ去っていく。足元の泥濘んだ大地は赤錆に塗れた鉄網へと反転し、空はひび割れ、不気味に脈打つような血の赤色に染まりきった。
空間のテクスチャが裏返る「ピーリング(剥落)現象」。
先ほどまでの腐ったポップコーンの匂いは消え失せ、代わりに噎せ返るほどの濃厚な鉄の匂いが鼻腔を蹂躙する。
無数の鉄檻と赤錆が支配する裏世界。
その異様な光景に息を呑んだお茶子の前に、這いつくばっていた人形たちを押し潰すようにして、『それ』は現れた。
ギィ……、ギィ……。
錆びた鎖の擦れる音。
それは、見上げるほど長身の異形の女だった。顔は汚れた包帯で幾重にもぐるぐる巻きにされ、表情は一切窺えない。その背中には、彼女自身の身体の倍以上はある、巨大で禍々しい『天秤』が食い込むように背負われていた。
「なに、あれ……」
圧倒的な重力に縛り付けられたまま、お茶子は震える声で呟いた。
天秤の右側の皿には、目に見えない強烈な「重み」が乗っているようだった。ギギギ、と嫌な音を立てて右に傾き続ける天秤。それは「他者の命」や「救えなかった者たちの悲鳴」という、計り知れない質量の象徴だ。
このままでは、天秤の重みで異形自身が押し潰されてしまう。
すると、顔のない女は、右手に握りしめていた錆びたメスのような刃物を、躊躇いもなく自身の左腕に突き立てた。
――ザクッ。
「っ!?」
肉を裂く鈍い音に、お茶子の肩が大きく跳ねる。
異形の傷口から、血の代わりとなる赤いデータノイズが止めどなく溢れ出し、左側の空の皿へとボタボタと滴り落ちた。
自らの血と肉を削り、その「痛み」を対価にすることで、異形は無理やり他者の命とのバランスを取ろうとしているのだ。
『……だれも、まもってくれないから……』
包帯の奥から、ノイズまじりのひどく掠れた声が響いた。
『わたしが、血をながして、ささえるしか……ないの……』
ザクッ、ザクッ。
自らを切り刻む音が、狂ったメトロノームのように一定のリズムで繰り返される。
その光景を前にして、お茶子の心臓は恐怖ではなく、同族嫌悪にも似た痛烈な理解で激しく軋んだ。
(……あぁ、そうか。この怪物は)
胸を締め付けるほどの悲しみが、せり上がってくる。
――ヒーローが辛い時は、誰がヒーローを守るの?
かつて、傷だらけの出久の背中を見て、彼女が抱いた痛切な問い。
誰も守ってくれないのなら。誰もこの重圧を代わってくれないのなら。私自身を切り売りして、私が壊れることで、この重すぎる世界を支え続けるしかない。
自らの腕を切り刻み続ける異形は、他ならぬ「優しすぎるがゆえに自分を壊そうとする、麗日お茶子の未来の姿」そのものだったのだ。
「やめて……」
お茶子の瞳から、止めどなく涙が溢れ出した。
異形が自らを傷つけるたびに、お茶子自身の心もズタズタに引き裂かれていくようだった。
巨大な天秤が、狂ったように上下に揺さぶられる。極端な自己犠牲の連鎖の果てに生まれたその哀れな怪物は、包帯から赤いノイズの涙を流しながら、今度はその巨大な天秤ごと、お茶子の存在を押し潰そうとゆっくりと歩みを進めてきた。
結:重力の解放と抱擁
ギィ……、ギィ……。
錆びた鎖が悲鳴を上げ、巨大な天秤が大きく傾く。
自らの左腕を切り刻み、赤いデータノイズを撒き散らしながら、顔のない異形はゆっくりとお茶子へ向かって歩みを進めてきた。
他者の命と自分自身の肉体。その両方を背負った異常な質量が、逃げ場のない赤錆の裏世界で、お茶子を物理的にも精神的にも押し潰そうと迫り来る。
「あっ……」
恐怖と、あまりの悲惨さに、お茶子の右足が本能的に後ずさろうとした。
その時だった。
『自分自身を、否定しないで。……受け入れる覚悟で、挑んで』
ポッドに入る直前、緑谷出久が残した祈るような言葉が、凍りついていたお茶子の背中をそっと押した。
彼もまた、この残酷な仮想世界で、自分自身の最も醜い部分と対峙し、そして生還したのだ。
お茶子は、泥濘む地面を踏みしめ、引こうとした右足をぴたりと止めた。
深く息を吸い込み、噎せ返るような鉄の匂いを肺いっぱいに満たす。
「……違うよ」
震える声だったが、その響きには確かな熱がこもっていた。
お茶子は、逃げる代わりに、振り下ろされようとする巨大な天秤の下へと、自分からまっすぐに歩み寄った。
足首にすがりついていた数多の『弱音』の重みも、もはや彼女を押しとどめることはできなかった。
「私は、みんなを笑顔にしたい。ヒーローとして、困ってる人を助けたい」
一歩、また一歩。
「でも……」
自らの腕に刃物を突き立てようとする異形の目前まで迫り、お茶子はまっすぐにその包帯の奥――見えない瞳を見つめ返した。
「私自身だって、普通に笑って生きたいよ」
それは、誰のためでもない、麗日お茶子という一人の少女の、偽りざる本音だった。
他者を救うために、自分自身を壊す必要なんてない。強くなければいけないという呪いから、逃げ出したいと願う自分を許すこと。
お茶子は、両腕を大きく広げた。
そして、己の肉体を切り刻もうと振り上げられた異形の冷たい右腕を、両手でそっと包み込み――そのまま、血まみれの身体を正面から強く抱きしめた。
『……っ!?』
異形の身体が、ビクンと大きく跳ねた。
痛みを伴う『受容』。お茶子の温かい体温が、赤いノイズを流し続ける冷え切った身体へと伝わっていく。
誰も守ってくれなかった怪物に、初めて与えられた無条件の肯定だった。
ガキンッ!!
けたたましい金属音と共に、異形の背中に食い込んでいた巨大な天秤が、真っ二つに砕け散った。
無数の赤錆の破片は、床に落ちる前に淡いピンク色の光の粒子へと変容し、裏世界の暗い空へと舞い上がっていく。
異形の顔を覆っていた汚れた包帯に、じわりと染みが広がった。
それは血の赤色ではなく、透き通った涙のようだった。
彼女を縛り付けていたすべての枷が外れ、異形の身体はまるで風船のように、ふわりと軽やかに宙へと浮かび上がった。そして、お茶子に優しく抱きしめられたまま、温かい光となって完全に霧散していく。
光の粒が天に昇ると同時に、赤錆と鉄檻に覆われていた世界が嘘のように晴れ渡った。
分厚い雲が割れ、どこまでも高く澄み切った青空が広がる。
「あ……」
お茶子は、自身の身体を見下ろした。
先ほどまで全身を押し潰していた、見えない泥沼のような異常な重力が、綺麗さっぱり消え去っている。
足元がふわりと浮き上がるような、本来の彼女の『個性』が戻ってきたかのような、たまらなく心地よい浮遊感。
『――シミュレーション・クリア。全プログラムを終了します』
システムのアナウンスが青空に溶けていく。
「強くなければいけない」という強迫観念から解き放たれ、深い安堵と静寂が、お茶子の意識を優しく包み込んでいった。
*
シューッ……。
現実世界。コントロールルームに低い排気音が響き、ポッドのハッチが開く。
静かに目を開けたお茶子は、ゆっくりと上半身を起こした。
出久のように激しく息を切らしているわけではない。ただ、その表情はひどく穏やかで、憑き物が落ちたようにスッキリとしていた。
「麗日さん……!」
心配そうに覗き込むクラスメイトたちの顔が見える。
お茶子は、ふにゃりと、いつもの朗らかな笑顔を作った。
「ん……無事、やよ」
そう答えた彼女の瞳から、ポロリと。
自分でも気づかないうちに、一筋の温かい涙が、頬を伝って静かにこぼれ落ちていた。