「さあ、試合は佳境! 1年B組、ネコ選手はもはやボールを握る力すら残っていません!グラウンドに漂うこの奇妙な停滞を、一体誰が打ち破るのかぁーっ!?」
竹林くんの実況が響く中、ユイは重いボールを抱えたまま立ち尽くしていた。
ハルを倒す。そのイメージが、どうしても湧かない。あの異次元の反射神経と筋力の前に、ただの投球は無力だった。
その時、砂埃を上げて一人の男子がユイの前に躍り出た。
「我が名は竹中。ハル殿、お相手をお願いします」
背筋をピンと伸ばし、どこか浮世離れした口調で言い放つ彼に、ユイは思わずツッコミを入れた。
「いや誰!?」
(あ、竹中くんだ)
ネコの声が頭の中に響く。
「……ネコ、知ってんの?」
(あんま話したことないけどね。たまに屋上でポーズ決めてる人だよ)
そんなユイたちの困惑を余所に、竹中はさらに低く構え、謎のオーラを放ち始める。
「ネコ殿、私にボールをよこしなさい。…当てれば良いのだな?あのハル殿を」
「う、うん……任せたよ、竹中くん」
ユイは半信半疑ながらも、今の自分ではどうにもできない状況を打破すべく、ボールを竹中に託した。
「おおおっとぉー!! ここで伏兵、竹中選手の登場だぁーっ! 正直誰も知らなかった人も多いはずです!彼がどう活躍してくれるのか放送部の面々も心が躍ります!」
竹林くんの実況が最高潮に達する中、竹中くんの手からボールが放たれた。
「いけぇッ! ローリング・アタック!!」
放たれたボールは、目にも止まらぬ猛烈な回転を伴いながら、不規則な軌道でハルの元へと突き進む。その凄まじい回転数に、周囲の男子たちが驚愕の声を上げた。
「す、すげえ……! 凄まじい回転をかけることで、受ける瞬間にボールを弾かせる! 速さと取りづらさを兼ね備えた、まさに完璧な攻撃だ!」
「あの技を破った者は誰1人としていない…」
男子達が盛り上がり、全校生徒が息を呑んでその行方を見守った。
……しかし。
「えい」
ハルは、まるでお散歩中に飛んできた風船でも捕まえるかのように、その超回転ボールを正面から無造作に掴み取った。回転の威力など、ハルの異常な握力の前では無に等しかった。
「……あ」
竹中くんが呆然と立ち尽くす。
ドゴォッ!!
「ぬわああああっ!?」
そのままハルはボールを軽く投げ、超速球に変わったボールは竹中くんを貫く。
竹中くんの腹部に、ハルの非情な一撃が突き刺さる。竹中くんはそのまま砂埃を上げて後方に吹き飛び、外野へと去っていった。
(……一瞬だったね、ネコ…)
(……うん。竹中くん、何しに来たんだろ……)
「竹中選手を瞬殺した2年A組、攻撃の手を緩めません! ハル選手は仁王立ち! 相変わらずの絶対強者の風格でコートに君臨しております!」
竹林くんの実況がハルの強大さを称える中――ハルの脳内は、完全にバグを引き起こしていた。
「・・・」
(ネコちゃんの手……すごいことになってる……! やばいやばいやばいやばい! 私、なんてことしたんだろう!!)
表面上は冷徹なまでの冷静さを保っているハルだったが、心の中はパニック映画の真っ只中だった。ガタガタと震えそうな心を必死に抑え込んでいる。
(だって、ネコちゃんがさっきまで信じられないようなすごいプレイを連発してたから……! 思わず私も、ちょっとだけ熱くなっちゃって……!)
一応、ハルなりにこれでもかと手加減をしたつもりだったのだ。しかし、体から溢れ出たほんの少しの興奮が、結果として2年生男子の全力投球を過去にするような、とんでもない弾丸ライナーを生み出してしまった。
ハルは涙目になりながら、己の不器用さを呪う。
(やっぱりダメだ私……ボールのコントロールが一番苦手だ…チャコとボール遊びした時も向かいの壁に穴開けちゃったし…)
ハルは目を泳がせ、焦りを隠そうと堂々と立ち尽くす。
(いや、もう流石に加減は覚えたよ。ネコちゃんにダメージを与えず、アウトにするのは難しいことじゃないはず!)
「ボールは再びハル選手の手に渡ったぁ! 1年B組、 絶体絶命のピンチに、グラウンド全体の視線がハル選手の右腕に集中するぅーっ!」
竹林くんの実況が緊迫感を煽る中、ハルがゆっくりとボールを持ち上げた。
その瞬間。
ユイは条件反射的に、ガタガタと震える両手を前に突き出し、全力で身構えた。先ほどのボウリング球のような衝撃が脳裏をよぎり、全身の筋肉が恐怖で強張る。
「……あ」
ハルの動きがピタリと止まった。
冷静なポーカーフェイスの奥で、ハルの心はガラス細工のように粉々に砕け散っていた。
(……怖がらせちゃった。ネコちゃんに、あんなに怯えた目を向けられちゃった……!)
ただ楽しく体育祭を過ごしたかっただけなのに。大好きな後輩に、自分自身が「恐怖の対象」として見られてしまった。その事実が、ハルの心に計り知れないショックを与え、胸を締め付ける。
ハルはボールを構えた姿勢のまま、彫像のように完全にフリーズしてしまった。
「お、おっとぉ……? ハル選手、ボールを持ったまま微動だにしません! 勝利を確信しての余裕か、それとも1年生への情けなのか、完全に動きが止まったぞぉーっ!?」
「ちょっと〜ハル? どうしたの?さっさと投げ……」
コートの後ろから声をかけたコトモだったが、ハルの様子が明らかにおかしいことに気づく。いつもなら飄々としているハルの肩が、小さく小刻みに震えている。
「……ハル?」
コトモは勝ち気な表情を引っ込め、心配そうにハルの元へと駆け寄った。
そんなコトモに振り返らず、ハルはボールを投げる構えをとる。
ユイは「来る……っ!」と歯を食いしばり、目を見開いてハルの右腕を猛烈に警戒した。どんな剛速球が来てもせめてネコの体だけは死守する――。
しかし、ハルの手から放たれたボールはユイの予想を完全に裏切った。
ふわり。
それは、幼稚園児のキャッチボールですらもっと勢いがあるのではないかというほどとんでもなく弱く、頼りない放物線を描いて飛んできた。
「……え?」
ユイは拍子抜けしながら胸元に吸い込まれてきたボールを難なくキャッチした。
「なっ……! なんだぁ今のはぁーっ!? ハル選手、まさかの超絶超低速山なりスロー! 狙いすぎたのか、それとも手元が狂ったのかぁーっ!?」
「ちょっとハル、なにしてんの!?」
コトモがたまらず横から怒鳴りつけるが、ハルはスッと視線を逸らし、コトモの言葉を完全に無視する。その顔は相変わらず冷静に見えるが、心の中の罪悪感はすでにキャパシティを超えていた。
(これなら……これなら怪我しないよね、ネコちゃん……!)
ボールを得たユイだったが、すでに右腕はジンジンと激痛を訴えており、とても投げられる状態ではない。
「……ごめん、これお願い!」
ユイは近くにいた味方の女子生徒にボールを託した。ボールを受け取った女子は、意を決して「やあ!」とハルめがけて投げつける。だが、そのボールはハルの胸元へ綺麗に収まり、パシッと難なくキャッチされてしまった。
「ひっ……!」
ボールがハルに戻った瞬間、投げた女子は恐怖のあまり「キャーッ!」と悲鳴を上げてユイの背後に隠れてしまう。
それを見たハルは、胸がズキリと痛んだ。
(やっぱり、私、みんなに怖がられてる……)
悲しみに暮れるハルは、またしてもフワリと、お供え物を置くかのようなとんでもなく弱いボールをネコめがけて投げ返した。当然、ネコは難なくそれをキャッチする。
これには、ついに周囲の2年生A組のクラスメイトたちから一斉にブーイングが巻き起こった。
「おいハル! 真面目にやれよー!」
「ハンデのつもりか!? なめすぎだろ!」
「あーっと、コート内からは大ブーイングの嵐! ハル選手、まさかの連続手抜きプレイか!?」
竹林くんの実況とクラスメイトの抗議が飛び交う中、ついにコトモの堪忍袋の緒が切れた。
「ストーーープっ! すいません! 審判、少しタイムで!!」
コトモは声を大にしてグラウンド中に叫ぶと、ハルの腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと、こっち来て!」
「え、あ、コトモ……?」
抵抗する気力も失っているハルを引きずるようにして、コトモは足早にコートの外へと連れ出していった。
コートの外、少し離れた木陰にハルを連れ込んだコトモは、腕を組んでハルを鋭く睨みつけた。
「ハル、いきなりどうしたの!?あんな腑抜けたプレイはハルらしくないよ!一体何考えてるわけ!?」
いつになく真剣なコトモの問い詰めに、ハルは顔を伏せ、消え入りそうな声で呟いた。
「……ネコちゃんを、傷つけたくないの。だから私、もう投げない」
「はあ!?」
コトモは信じられないといった様子で声を裏返した。
「いやいや、ノラは確かに大切な後輩だけどさ、今日は試合相手だよ!? 本気出さなきゃ!!」
「ダメだよ! 本気出して怪我でもさせたら、コトモはどう責任取るの!? ネコちゃん、さっき私をすっごい怖がってたでしょ!」
「しょうがないでしょ! 手抜きして勝てる相手でもないんだから! 多少は大丈夫だって! ノラも強いし!」
「絶対ダメ! ネコが傷つくのなんて見てられないよ! 私投げないから!」
一歩も引かないハルの頑なな態度に、コトモは呆れたように頭を抱えた。そして、ふとコートの方を振り返り、真っ赤になったネコの手を思い出して、ボソッと呟いた。
「……っていうか、ネコの手を怪我させたの、そもそもハルなんじゃ……」
「――っ」
その瞬間、ハルから言葉にならない、とんでもなく重く威圧的なオーラがボワッと噴き出した。
まるで周囲の気温が急降下したかのような錯覚。いつものおっとりしたハルからは想像もつかない、王者の「ガチの威圧」だった。
「っ……!」
コトモは思わず背筋を凍らせ、ビクリと身を竦める。ハルの底知れない身体能力から放たれるプレッシャーは、冗談抜きで命の危険を感じるレベルだった。
ハルは漆黒の瞳でコトモをじっと見つめている。その無言の圧力に耐えかねたコトモは、大きくため息をついて両手を上げた。
「……はぁ。分かった、分かったよ。じゃあ私が投げるから、ボール渡して」
コトモが折れると、ハルは憑き物が落ちたようにフッと威圧感を消し、大人しくボールをコトモに差し出した。
「うん。……コトモ、お願いね」
こうして、2年A組の攻撃権はハルからコトモへと完全にバトンタッチされ、二人は再び騒がしいコートへと戻っていくのだった。
「よーし、お待たせ! ネコちゃん、次は私が相手だよ」
コートに戻ったコトモは、ニカッと不敵な笑みを浮かべてネコに手を振ると、すっとボールを引いて投げる構えに入った。
その様子を見ながら、ネコは少し首を傾げてユイに語りかける。
(……ねえ、ユイ、コトモ先輩って、ボール投げるの速いのかな?)
「うーん、あの人マラソンとかのスタミナは化け物じみてるけど、筋力関係はぶっちゃけよくわかんないなぁ。ハルがああだから、普通に見えちゃうし……」
そんな二人ののんきな予想は、直後に打ち砕かれることになる。
「いくよーっ!」
コトモの小さな体から放たれたボールは、ハルほどではないにしろ、二人の予想を遥かに超えて鋭く、風を切って一直線に突き進んできた。
「えっ……!? 速っ——」
ハルの剛速球を警戒しすぎていたユイは、逆にコトモの絶妙な速度のボールに反応が遅れてしまう。避けることも、手を出すことも間に合わず――
パコォォォンッ!!
「あだっ!?」
ボールは容赦なく、ユイ(ネコ)の顔面の真ん中にクリーンヒットした。顔面でもアウトになる非情なルール。万事休すかと思われた、その瞬間。
「……させないっ!」
ユイの後ろに控えていた味方の女子生徒が、激しく弾け飛んだボールを目を瞑りながらも必死に両手で抱え込んだ。砂場にスライディングしながらの、執念のノーバウンドキャッチ。
「セーーーーフッ!! なんと、弾かれたボールを背後の女子生徒がダイビングキャッチ! 繋いだ、繋いだ! 1年B組、奇跡のセーフでまだ生き残っているぞぉーっ!!」
コート内が歓声に包まれる中、ガタガタと肩を震わせる影が一つ。
「……コトモ」
地獄の底から響くような声とともに、ハルがゆっくりとコトモの前に立ちはだかった。その顔は、怒りで完全に般若のようになっている。
「コトモ、何してるの!? ネコちゃんの顔にもし怪我でもしたらどうするつもり!?」
ハルは形相を変え、怒りを爆発させてコトモを激しく責め立てた。
しかし、コトモにしてみれば、ハルが我が儘で試合を投げ出したからこそ、自分が代わりに投げてゲームを成立させたのだ。それなのに、ネコにボールを当てたというだけで、ここまで理不尽に責められる筋合いはない。
ハルの過保護な発言に、コトモの頭にもカチンと青筋が浮かんだ。
「はあ!? 何よそれ!ハルが投げないから私が代わりに投げてあげたんでしょ!? ドッジボールなんだから当たるくらい普通じゃない!!」
コートの中央で、二人は一歩も引かずに激しい火花を散らし始めるのだった。
「ちょっと二人とも、落ち着きなさいよ! 試合中だよ!?」
「ハルもコトモも、いい加減にしなよ!」
周囲のクラスメイトたちが慌てて二人の間に割って入り、必死に止めようとする。しかし、ハルとコトモは完全に頭に血が上っており、クラスメイトたちの制止など耳に入らない。
一歩も引かずにコート中央で揉める先輩二人を、ユイとネコはコートの反対側から冷や汗を流しながら見つめていた。
(……あの二人、個人の実力はめちゃくちゃ高いのに、全然連携力ないね)
ネコが呆れたように苦笑交じりで呟く。
しかし、ユイの目は死んでいなかった。喧嘩に気を取られて、こちらへの警戒が完全にゼロになっている。この隙を見逃す手はない。
「……いや、これはチャンスだよ」
ユイは痛む腕にムチを打ち、ギュッとボールを握り直した。先輩たちが揉めている今なら、不意を突いてハルを仕留められるかもしれない。
ユイは狙いを定め、喧嘩の真っ最中であるハルの背中に向けて、渾身の力でボールを投げつけた。
ボールは真っ直ぐ、ハルへと向かっていく――。
――パシッ。
「なっ……!?」
ユイの目が見開かれた。
ハルは、コトモを睨みつけたまま、ユイの方をミリ単位すらも見ることなく、迫り来るボールを背後からノールックで完璧にキャッチしていた。
視線も、意識も、怒鳴り合いも一切途切れさせることのない、完全に無意識の防御だった。
「あ、やっぱ無理…」
(ユイ諦めないでぇ!)
ユイはもう苦笑いをすることしかできなくなり、そんな絶望感を感じたネコは必死にユイを励ます。
どんなに隙を突こうが、作戦を立てようが、生物としてのスペックの差が違いすぎる。ユイは深い絶望に包まれ、その場にへなへなと崩れ落ちそうになるのだった。
ハルの方はボールを掴んだ手をそのままに、再びコトモへと怒りをぶつける。
「コトモ、さっきから聞いてれば本当にひどいよ! ネコちゃんに当てるなんて、絶対に許されないから!」
ハルは形相を変え、ネコの顔面にボールを当てたことに本気でブチギレていた。
しかし、コトモも負けじと声を荒らげてハルを睨み返す。
「ノラが大事な後輩なのは私も同じだけどさ、それとこれとは話が別でしょ! 試合で手抜きプレイをするのは違うし、全力で挑まない方が失礼じゃん!!」
コトモも自分の譲れないポリシーをぶつけ、一歩も引かない。
「失礼とかそういう問題じゃない! 怪我したらどうするの!」
「ドッジボールなんだから当たるくらい普通でしょ、この過保護!!」
ついに二人はクラスメイトの制止を完全に無視し、コート中央で激しい大喧嘩を始めてしまう。
・・・だが
「……はぁ」
「……ふぅ」
コート中央で激しく火花を散らしていた二人は、周囲のクラスメイトたちの必死の制止と、お互いに言いたいことを吐き出したことで、ようやく少しずつ冷静さを取り戻していった。荒くなっていた呼吸を整え、ハルが先にふっといつものポーカーフェイスへと戻る。
コトモもまだ納得のいかない表情ではあったものの、これ以上試合を止めるわけにもいかないと、腕を組んで小さく息を吐いた。
ハルは手元にあったボールを見つめ、それからコートの反対側にいるネコへと視線を向けた。その瞳には、やはり後輩を気遣う優しさが滲んでいる。
ハルはゆっくりとコトモに向き直ると、静かな声で言った。
「……分かった。じゃあ、ネコちゃんに怪我をさせないこと。それだけを条件に、コトモにボールを渡すよ」
「はいはい、分かったよ。約束する」
コトモがぶっきらぼうに、しかし確かに頷くのを見て、ハルは大人しくボールをコトモへと手渡した。こうして2年A組の攻撃権はコトモへと移り、張り詰めた空気の中で、試合が再び動き出そうとしていた。
しかし、ボールを受け取りながら、やはり納得がいかないというようにボソッと呟く。
「……でも、ネコの手を怪我させたのは、やっぱりハルなんじゃ……」
その言葉が引き金だった。
ハルの体から、先ほどよりもさらに濃密で禍々しい怒りのオーラがどろりと噴き出す。周囲の空気が一瞬で凍りつき、クラスメイトたちが悲鳴を上げて後退りする中、コトモだけはフイッと視線を逸らし、何食わぬ顔でピピューッと気の抜けた口笛を吹いて誤魔化した。
コトモはすぐに気を取り直すと、ネコの方を向き直った。今度こそ仕留める。
「…当てるよ!」
コトモが再びボールを高く振りかぶり、渾身の力を込めて腕を振り抜こうとした。しかし、その投球軌道がまたしてもネコの頭に近い位置にあるのを見た瞬間、ハルが動いた。
「ダメだって言ってるでしょ、コトモちゃん!」
ハルは電光石火の速さでコトモの右腕をがっしりと掴んだ。あまりに急で、かつ力強い制止に、コトモのフォームは無残に崩れる。
「あ、ちょっと、ハル……! 放して……っ!」
力が抜けたコトモの手から、ボールがポロッと無防備に地面へこぼれ落ちた。
(……今だ!)
その決定的な隙を見逃すユイではなかった。
内野で構えていたネコ(ユイ)は、落ちたボールがハルたちの足元で跳ねた瞬間、弾丸のような速さで突進。ハルとコトモが言い争っている真っ只中、足元に転がったボールを電撃的に拾い上げると、至近距離からコトモの無防備な腹部を目掛けてボールを叩きつけた。
ドォォォンッ!
「げふぉっ……!?」
至近距離からの容赦ない一撃が、コトモの腹を完璧に捉えた。コトモはくの字に折れ曲がり、そのまま勢いよく後ろに倒れ込む。
「アウト……!」
審判の困惑したような声が響く。コートの中央で倒れているコトモと、その腕をまだ掴んだままのハル、そして息を切らしてボールを投げ切ったネコ(ユイ)。
(えええええーっ!? めっちゃ卑怯!! めっちゃ卑怯だよユイちゃん!!)
ネコは内心で頭を抱えながら、とんでもない大声で叫んでいた。いくら隙だらけだったとはいえ、先輩の腹部に思いっきりボールを叩き込むのはおよそスポーツマンシップとはかけ離れた暴挙である。
しかし、当のユイは息を切らせながらも、至って涼しい顔で言い放った。
「コトモ相手なら、これくらいやってセーフだよ」
「……なるほど。さすがネコちゃん、勝機を逃さない素晴らしい判断力だね」
ハルは倒れたコトモには目もくれず、ユイ(ネコ)の容赦のない一撃に深く感心したように、うんうんと何度も頷いている。
「痛たたた……っ……ちょっと、ハルぅ!!」
その横で、泥だらけになったコトモが腹部を抑え、悶絶しながら上半身を起こした。顔を真っ赤にして、ハルをキッと睨みつける。
「今のは完全にハルのせいでしょうが!ハルが急に止めるから…………っ!!……あー…お腹痛い…」
「痛みに耐えながら、考えるよりもすぐに身体を動かしたネコちゃんはすごいよ。深読みしちゃう場面なのに迷わず攻撃に転じたのも侮れないね」
ハルは倒れたコトモには目もくれず、いつもの穏やかで優しい笑顔をネコに向け、心底嬉しそうに褒めちぎった。
そのままハルが転がってきたボールを拾い上げると、腹部を押さえながら外野(コート外)へとトボトボ歩き出していたコトモが、振り返って不機嫌そうに茶化す。
「はいはい、お見事お見事。……で、ハル。あんたボール持ってどうすんの。どうせまたネコちゃんが可愛くって、ヘナチョコな手を抜いた球しか投げられないんでしょ?」
「違うよ、コトモ」
ハルは静かに首を振った。その瞳から、先ほどまでの迷いや戸惑いは完全に消え去っていた。
「私、さっきのネコちゃんのプレイを見て、やっと分かったんだ。ネコちゃんは、最初から一歩も引く気なんてない。ボロボロになりながらも、本気で勝ちにきてるんだって」
ハルはボールを胸の前に構え、真っ直ぐにユイ(ネコ)を見据えた。
「諦めてない相手に、場違いな優しさで応えるなんて一番失礼だよね。……ネコちゃんが本気なら、私も本気で出さなきゃダメだってことに気づいたよ」
ハルがそう言った瞬間。
グラウンドの空気が、ガラリと一変した。
まるで大気そのものが数倍の重さになったかのような、肌を刺す圧倒的なプレッシャー。ハルを中心に、陽炎のような強烈な威圧感が揺らめいている。
「いくよ、ネコちゃん」
ハルが大きくステップを踏み込み、右腕を限界まで後ろに引き絞る。そのフォームに入っただけで、凄まじい風圧が周囲に巻き起こった。
「――っく!?」
あまりの速度に、ユイは反応して避けることすらできなかった。しかしその圧倒的な風圧に圧されてたまたま後ろにバランスを崩し、尻餅をつくようにしてドサリと後ろへ倒れ込んだ。
ヒュンッ!!!
ボールは、倒れたユイの鼻先をわずか数センチのところで掠め飛び、そのままコート後方へ。
ドォォォォォォォンッ!!!
ユイが背後に倒れ込むのと同時、耳元を轟音が通り過ぎた。
ボールは内野の地面を掠めることすらなく、直線軌道のままコートを突き抜け、さらに後方にあった体育館倉庫の重厚な鉄扉に直撃した。
「…………え?」
砂煙が舞い上がる中、ユイとネコが呆然と後ろを振り返ると、そこには信じられない光景があった。
頑丈なはずの倉庫の鉄扉が、まるで大型トラックでも突っ込んだかのように無残にひしゃげ、中心部に巨大な穴が開いて完全に破壊されていたのだ。
「「ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」」
ネコの口から、ユイとネコの重なった絶叫が響き渡る。
会場全体が水を打ったように静まり返り、審判の教師も笛をくわえたまま石のように固まっている。
(あ、あぶな……っ! 今の、避けてなかったらやばかったよ!)
(ハル先輩……本気出しすぎだよぉ……!)
2人はガタガタと身体を震わせていたが、それは2人だけではなかった。
――シーン……。
グラウンドを、これまでにないほど重苦しく、圧倒的な沈黙が支配した。
体育倉庫の鉄扉に開いた大穴から、カラカラと崩れたコンクリートの破片が落ちる音だけが虚しく響く。
先ほどまでヤジを飛ばしていたクラスメイトたちも、呆然と立ち尽くすコトモも、その場にいる全員が、開いた口が塞がらない状態で完全にドン引きしていた。
それはもう、驚愕を通り越して「生命の危機」を感じるレベルの恐怖だった。
「…………」
いつもなら真っ先に調子よくマイクを握るはずの竹林くんでさえ、実況することを完全に忘れて黙り込んでいた。手元のアンプから、ただ砂嵐のようなノイズだけが静かに流れている。
誰もが言葉を失い、身動き一つできない緊迫した空気。
その静寂の真ん中で、ハルはただ一人、血の気が引いた顔でガタガタと震えていた。
構えたままの右手を凝視し、それから大穴の開いた体育倉庫へと視線を往復させる。
流石にこの光景を目撃した後では、グラウンドの誰もハルに手を抜くななどと言い出す者はいなくなった。むしろ本気を出されたら、今度は誰の体が破壊されるか分かったものではない。
それどころか、1年B組側の陣地では、恐ろしさにガタガタと震え上がった男子生徒の一人が、おもむろに自分の体操服の上着を脱ぎ捨てた。それを棒の先に結びつけると、文字通りの「白旗」として高々と掲げ、完全に戦意喪失の意思を示している始末だった。
そんな異様な空気のまま、誰もハルに近づくことも、ボールを投げ返すこともできずに時間が経過していく。
ーーーピーーーッ! ピピピーーーッ!!
ようやく鳴り響いた試合終了のホイッスル。竹林くんが震える手で吹いたその音が、グラウンドに終わりを告げた。
「し、試合終了ぉ……! 時間切れにより、残った人数差で……2年A組の、勝利……」
実況の声にいつもの元気はなく、まるで事件の生存者を確認するかのような引きつったトーンだった。
何はともあれ、人数差でハルたちのチームの勝利が決まった。しかし、勝ったはずのハルは未だに自分の右手を見つめたまま青ざめており、命拾いをしたユイとネコは、深く長いため息を同時に吐き出すのずだった。
「ちょっとネコ、あれどういうこと!?」
試合が終了するや否や、ユイはどさくさに紛れてネコの身体を突き動かし、ダッシュで体育館の裏へと駆け込んだ。周囲に誰もいないことを確認するなり、壁に背を預けて内なるネコを激しい口調で問い詰める。
「なんでハルあそこまで強くなってんの!?」
(知らないよ! でも、毎日筋トレして鍛えてるとは言ってたような……)
「鍛えただけで倉庫の扉ぶっ壊す球投げるの普通!? おかしいでしょ、あの威力!!」
(ええー、でもユイが生きてた頃は違うの?)
「違うに決まってんでしょ! ハルがあんなに力持ちとかありえないし……あ、ちょっと待てよ……。そういえば確か、ハルと一回だけ腕相撲をしたことが……」
ユイの脳裏に、生前のハルとの記憶がふっと過る。あの時、ハルの表情はいつも通り涼しげだったのに、握った手の奥から感じた、あの異常な、まるで万力に締め上げられるような――。
記憶の糸を辿りかけたユイだったが、ここであれこれ回想し始めたら話が長くなりそうだと思い至り、ぶんぶんと激しく首を横に振って思考を強制終了させた。
「あーもう、過去のことはいい! とにかく今は、体育倉庫を壊されてパニックになってるクラスメイトたちに指示を出して、場をまとめないと!」
グラウンドの騒ぎを収める方が先決だ。ユイは「じゃあ、一回戻すよ」と告げ、試合が終わって役目を終えた主導権をネコへと引き渡した。
――その瞬間。
「ぎゃああああああああああああっっっっ!?」
主導権が戻り、自分の神経が肉体と繋がった途端、ネコはグラウンドに響き渡りそうな大絶叫を上げた。
ユイが限界を超えて使い倒し、アドレナリンで麻痺させていた右腕の激痛が、一気にネコの脳を直撃したのだ。
「痛い痛い痛い! 無理無理、腕もげちゃうううう!」
ネコは涙目で右腕を抱え、激痛のあまりその場に生身のままドサリと倒れ込んでしまった。
「ネコ!!大丈夫!?」
あまりの苦しみ様に慌てたユイは、心配になってネコの身体からフワリと抜け出した。実体を持たない霊体の姿で、地面に転がって悶絶しているネコを覗き込み、オドオドしながら必死に声をかけるのだった。
「ううっ………!」
ネコは地面に丸まり、目に涙をいっぱいに溜めて悶絶し続けた。あまりの激痛に呼吸さえ上手くできない。しかし、数十秒ほど脂汗を流しながら耐え忍ぶと、やがて荒い呼吸を少しずつ抑え込み、震える身体を無理やり起こした。
そして、心配そうに見つめるユイに向かって、涙を拭いながら無理に口角を上げてみせた。
「……へ、へいき……ユイ…大丈夫だから……っ」
「そんなわけないでしょ! 完全に右腕、限界超えてるじゃん!」
必死に強がるネコにユイが声を荒らげるが、ネコは冷や汗を流しながらも、どこか穏やかな眼差しでユイを見つめ返した。
「いいんだよ……。だって、ユイちゃんに私の身体を使い潰していいって言ったのは、私なんだから。約束、守ってくれて嬉しかったよ」
ネコはそう言って、土のついた体操服を払いながら、グラウンドのクラスメイトたちの元へ戻ろうと一歩を踏み出す。
「ちょっと、待ってってば!」
ユイは慌ててその前に回り込み、半透明の身体でネコを止めようとした。
「あんなに痛がってたのに、戻れるわけないでしょ!」
「大丈夫。これくらい、痛いのは慣れてるから……」
ネコは少し寂しげに、だけど頑ななトーンで言って聞こうとしない。
しかし、ユイは引かなかった。霊体ゆえにすり抜けてしまうはずの身体で、文字通りネコの目の前に立ちはだかる。
「慣れてるわけないでしょ! ……まだ種目は残ってるんだよ? これ以上は本当に危ない。もう次の種目は棄権した方がいいよ。お願いだから私の言うことを聞いて」
ユイの切実な制止に、ネコはピクリと足を止め、それから真っ直ぐにユイの目を睨み返した。
「……嫌だ」
「ネコ……!」
「棄権なんて絶対に嫌だよ! ……まだ、ハル先輩に勝てるかもしれないじゃん!」
ネコは痛む右腕をぎゅっと抱きしめながら、悔しそうに、だけど強い光を宿した瞳で叫んだ。あのドッジボールの最後、ハルが見せた圧倒的な一撃を目の当たりにしてもなお、ネコの心は折れていなかった。
「勝てるかもしれないって……そんなこと言ってる場合じゃないよ。私は、ネコの身体が心配なんだよ……!」
必死に食い下がるネコと、実質後輩である彼女の身体を心から案じるユイ。体育館の裏で、二人の想いは激しくぶつかり合う。
「……もう、何度も何度も止めないでよ!」
頑なに棄権を勧めるユイに、ネコは痛みに耐えかねたように声を荒らげた。それでもなお、心配そうに自分を見つめるユイの視線に耐えきれなくなり――ついに、一番言ってはいけない言葉を口にしてしまう。
「……ユイは、ハル先輩に会えなくても良いの!?」
その場の空気が、ピキリと凍りついた。
「――っ」
ユイは弾かれたように目を見開き、そのまま言葉を失って口をつぐんでしまった。
その表情を見た瞬間、ネコは自分がどれほど残酷なことを言ったかにハッと気づき、血の気が引いていくのを感じた。ハル先輩に会いたいという一心で、今までユイがどれだけの思いで自分に力を貸してくれていたか、誰よりも知っているはずなのに。
「あ、いや……今の、は……っ」
ネコは言い訳を飲み込み、後悔と申し訳なさで強く歯を噛み締めた。体育館の裏に、痛いほどの沈黙が流れる。
しかし、長い沈黙のあと、ユイは静かに、だけどはっきりとした声で告げた。
「……うん。良いよ」
「え……?」
ネコが驚いて目を見開くと、ユイは優しく、どこか寂しげに微笑みながらネコを見つめ返した。
「ネコの身体が壊れちゃうくらいなら、今ハルに会えなくたって良い。私は、そっちの方がずっと大事」
「無理しないでよ! ――あんなに、あんなにハル先輩に会いたがってたじゃん! ずっと探してたんでしょ!?」
必死に訴えるネコに、ユイは小さく首を横に振る。
「無理なんてしてないよ、本心だもん」
「じゃあなんで……なんでそんな簡単に諦めちゃうの!? ここまで頑張ってきたのに!」
悔しさがこみ上げ、ネコの目から再び涙が溢れそうになる。そんなネコを宥めるように、ユイは一歩、歩み寄った。
「簡単に諦めてるわけじゃないよ。……でもね、私は友達を傷つけるのだけは絶対に嫌なんだ」
「……っ」
友達、という言葉に、ネコは言葉を失って黙り込んだ。
「ネコは私の大事な友達だよ」
ユイは半透明の手を、そっとネコの頬の近くへと伸ばした。触れることはできなくても、その温もりを伝えるように。
「ハルに会うために、ネコがボロボロになって壊れちゃうくらいなら、私は会わない。そんなことして会ったって、ハルだって絶対に喜ばないし……何より、私自身がハルに合わせる顔がなくなっちゃうからさ。だから、会えなくていい」
ユイの真っ直ぐで揺るぎない優しさが、ネコの胸に深く突き刺さる。
彼女の優しい言葉に、ネコの胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。自分のことをそんなに大切に想ってくれている。それが嬉しくて、堪えていた涙がポロポロと頬を伝って落ちていく。
しかし、ネコはうつむいたままでは終わらなかった。涙を拭い、縋るような、だけど必死な眼差しでユイを見つめ直した。
「……ううん、お願いユイ。それでも……それでも、私に協力して」
ユイは切なげに眉をひそめ、静かに首を横に振る。
「ダメだよ。これ以上は本当に――」
「お願いっ……!」
ネコはユイの言葉を遮るように叫んだ。
「私一人じゃ、無理なんだよ……っ! ユイが一緒にいてくれないと、私、もう頑張れない!」
いつも一歩引いて、どこか達観したように笑っていたネコから飛び出した、剥き出しの悲鳴のような本音。そのあまりの弱気さに、ユイは一瞬きょとんとした後、ふっと困ったように笑ってしまった。
「あはは……。ネコがそんな風に弱音吐くなんて、珍しいね」
「……これが、本当の私だもん」
ネコは涙で濡れた目を歪め、自分の胸をぎゅっと、痛む腕で抑え込んだ。
「本当の私は、卑怯で、臆病で、一人じゃ何もできない、ただの『ネコ』なんだよ。今日まで頑張って『ノラ』として振る舞って、学校のみんなの前に立てたのはね……全部、ユイが後ろにいてくれるって思ったからだよ。ユイがいてくれるから、怖くても前に進めたんだもん……!」
そこまで一気にまくしたてると、ネコは一歩、ユイの半透明な身体へと踏み込んだ。
「だから……最後まで一緒にいて。お願い、ユイ……っ!」
必死に手を伸ばし、魂をぶつけてくるようなネコの訴えに、ユイは息を呑んだ。ハルに会いたいという自分のエゴのせいでネコを巻き込んでいたはずなのに、いつの間にかネコにとっても、自分は前に進むための絶対に必要な存在になっていたのだ。
ユイは差し出されたネコの手を見つめ、それから観念したように、あたたかい苦笑いを浮かべた。
「……もう、本当に頑固なんだから」
ユイは一歩前に出ると、触れられないはずのネコの頭に、そっと手を乗せるような仕草をした。
「分かったよ。そこまで言われたら、友達を一人で舞台に立たせるわけにはいかないでしょ? ……ただし! 本当に危ないと思ったら、次は私が無理矢理にでも止めるからね」
「……うん! ありがとう!!」
ネコは涙をボロボロと流しながらも、今日一番の、心の底からの笑顔を咲かせた。そして二人は、再びグラウンドの戦場へと向かって歩み出す。
○○○○○○○○○
――時は遡り、とある小学校の教室。
男子たちの間では空前の「クラス最強決定腕相撲大会」が流行っていた。休み時間になるたび、机を囲んで観客が群がり、力自慢の男子たちが一喜一憂して大騒ぎしている。
そんな様子を特等席で眺めていたユイは、ニヤニヤと楽しそうに笑いながら、隣の席のハルを振り返った。
「ねえハル、男子たちが腕相撲で盛り上がってるよ。面白そうだし、私達もやろうよ!」
急に振られたハルは、困ったように眉を下げて両手をパタパタと振った。
「ええ〜? やだよぉ、私なんてユイには絶対に勝てないよぉ……」
「そんなのやってみなきゃ分かんないじゃん! ほら、練習練習!」
ユイはハルの弱気な態度を気にも留めず、自分の机の上をパパッと片付けると、さっさと右肘を乗せて手のひらを差し出した。
ハルは「もう、しょうがないなぁ……」と苦笑いしながら、大人しく自分の右肘を机に乗せ、ユイの手を優しく握り返す。
「いくよ? ……レディー、ゴー!」
ユイの合図と同時に、二人の手に力が――入るよりも早かった。
ドンッ!
「あ、勝っちゃった」
ユイがちょっと力を入れただけで、ハルの腕はあっけなく机に倒れてしまった。ハルは「ほらね、やっぱりユイは強いよ〜」と、痛がる様子もなくのほほんと笑っている。
しかし、ユイはそんなハルの態度が気に入らなかった。
「ちょっとハル! 全然力入れてないでしょ! 手抜きは怒るよ!」
「えっ? そんなことないよ?」
「嘘つかないで!ほら、もう一回! 今度は本気で、ちゃんと力入れてよ!」
ユイにジロリと睨まれ、ハルは「う、うん、分かった……」と少し気圧されたように頷いた。
二人は再び、机の上でガッチリと手を組み合う。
「今度はちゃんとお互い本気だからね? ……レディ…ゴー!」
ユイがグッと力を込めた、その瞬間だった。
(――っ!?)
ユイの目が見開かれた。
ハルの手から、さっきとは比べ物にならない驚異的な圧力が伝わった。
それはまるで、びくともしない鉄の塊を押しているかのような感覚だ。
「んんっ……!」
ハルの表情は相変わらず穏やかなのに、その細い腕から繰り出される力は凄まじく、ユイの腕はじりじりと中央からハル側へと傾き始める。まさかハルがここまで強いなんて思ってもみなかったユイは、完全に意表を突かれて負けそうになってしまった。
(うぐぐ……!!結構やるじゃんハル…!!)
負けず嫌いのユイは、完全にムキになってしまった。
「おりゃぁぁぁぁぁ!!」と声を上げ、顔を真っ赤にしながら、全身の体重を乗せるようにして、残るすべての力を右腕に爆発させた。
ドン!
強引にハルの腕をねじ伏せ、勢い余って机がひっくり返りそうになるほどの爆音を立てて、ハルの手を机に激しく叩きつけてしまった。
ユイはハァハァと荒い息を吐きながら、自分のやってしまったことの重大さに気づき、一気に血の気が引いた。
「あ……ご、ごめんハル!! 大丈夫!? ……怪我してない!?」
慌ててハルの手をとり、擦りむいていないか確認するユイ。
しかし、ハルは赤くなった自分の手首をさすりながら、いつもと変わらない、おっとりとした優しい笑顔をユイに向けた。
「ううん、大丈夫だよ。……あはは、やっぱりユイには勝てないや」
ハルは少しも悔しがる様子を見せず、嬉しそうにそう言って笑うのだった。