ネコは他の人よりも孤独を感じやすい人物です。
「よし、みんな! 次の競技の準備、よろしくね!」
ドッジボールの余韻でまだザワついているクラスメイトたちに、ネコは(中身のユイのアドバイスを受けつつ)テキパキと的確な指示を出していった。体育倉庫の件で混乱しかけていたクラスも、ネコの落ち着いた声かけのおかげで、どうにか次の種目に向けてまとまりを取り戻していく。
一通り指示を出し終えると、ネコたちが次に出場する種目までは、しばらく時間が空くことになった。
つまり、今はやることがない。
グラウンドの隅でぽつんと暇そうにしているユイ(霊体)を見て、ネコは小さく微笑んだ。さっきはあんなに激しくぶつかり合ったけれど、今はユイのために何か楽しいことをしてあげたい。
そう思ったネコは、近くのテントにいたクラスの友達に声をかけた。
「ねえ、ちょっとトランプ借りてもいい?」
「え? いいよ、退屈しのぎに使いなよー」
無事にトランプを借り受けると、ネコは再び周囲の目を盗んで、校舎の裏の一角にある、さっきとは別の人気のない静かな場所へと移動した。
「ユイお待たせ。はい、これ」
ネコはパタパタとトランプをシャッフルしてみせる。
「トランプ? どうするの、それ。ババ抜き?」
不思議そうに首を傾げるユイの前で、ネコはいたずらっぽく笑った。
「ふふん、見ててね。……じゃあ、ここから好きなカードを一枚選んで。私が当てるから」
ネコは滑らかな手つきでトランプを扇状に広げ、ユイが指定したカードを束に戻した。そして、痛む右腕をかばいながらも、左手を器用に動かしてトランプを何度かカットしていく。
「いくよ? ……はい、これ!」
ネコが勢いよくめくったカードは、ユイが選んでいた『ハートのエース』そのものだった。
「えっ!? なんで分かったの!? ちょっと待って、もう一回!」
驚くユイを見て、ネコは嬉しそうに何度もカードを操り、今度は束の一番上にあったカードを一瞬で別のカードに変えるマジックを披露した。
「すごーい!! え、ネコ、めちゃくちゃ上手いじゃん!!」
ユイは身体を弾ませて大はしゃぎし、ネコの手元を凝視しながら拍手を送った。
「へへ、ありがと。昔、ちょっとだけ練習したことがあるんだ」
痛みを忘れたように無邪気に笑うネコと、そのマジックに心から感心して目を輝かせるユイ。
「じゃあね、次はもっとすごいの見せてあげる!」
トランプをポケットに仕舞い込んだネコは、周囲を見回して手頃なものを探し始めた。ベンチに置いてあった自分の水筒、足元に置いていた布製の体操服袋、そして次のリレー種目のために持ってきていた木製のバトン。
形も重さも、重心の位置さえも全く違う3つのアイテム。
「え、ちょっとネコ? 何する気……?」
ユイが不思議そうに見守る中、ネコはそれらを両手に割り振ると、ひょいっと空中に放り投げた。
――シュッ、パシッ、クルクルッ。
「わあ……っ!?」
ユイの口から感嘆の声が漏れた。
ネコは、不規則な軌道を描く水筒と体操服袋、そして回転するバトンを、まるで生き物でも扱うかのように滑らかに、リズムよく空中へと放り投げ続けていた。右腕の痛みを全く感じさせないほど、その指先と手首のコントロールは繊細で無駄がない。
3つの異なる物体が、ネコの頭上で綺麗な円を描いて循環していく。
「すごーい!! 回すやつまでできるの!? めちゃくちゃ器用じゃん!」
空中を舞う水筒たちがカシャカシャと軽い音を立てる中、ユイは目を輝かせてその神業に見入っていた。ネコはふっと少し照れくさそうに笑いながら、最後にすべてのアイテムをパシッ、パシッ、パシッと完璧に両手でキャッチして、ジャグリングを終えた。
「へへ、大成功。形がバラバラだからちょっと緊張しちゃった」
少し息を弾ませながら、ネコは水筒たちを元の場所へそっと戻す。
「本当に器用だね。トランプもそうだけど、いつの間にそんなこと練習してたの?」
ユイが純粋な疑問を投げかけると、ネコは少し遠くを見るような目をしながら、優しく微笑んだ。
「うんとね、昔……まだ私が今よりずっと小さかった頃、周りのみんなを楽しませるのが、とにかく大好きだったんだ。みんなが私のすることを見て笑ってくれたり、驚いてくれたりするのが嬉しくて、それだけで何時間も練習できちゃったんだよね」
「そっか……ネコは優しいね」
「優しくなんてないよ。笑ってる人の顔が好きなだけ」
ユイの言葉に、ネコは胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ねえねえ、ネコ! もっと見せてよ、他のやつ!」
すっかりネコのパフォーマンスに魅了されたユイは、半透明の身体を弾ませながら、子供のように目を輝かせておねだりした。
「ええ〜、他にかぁ……」
ネコは人差し指を顎に当てて、うーんと考える。トランプとジャグリング以外で、今この場で手に入りそうで、かつユイを楽しませられるもの。
(あ、そうだ……!)
ネコはポンと手を叩くと、あるクラスメイトの私物を思い出した。
「ちょっと待っててね、ユイ。いいもの借りてくるから!」
ネコはグラウンドの自陣テントへと小走りで戻り、クラスの男子、竹中くんの元へと向かった。竹中くんは次の種目の出番を待ちながら、お腹をかいている。
「竹中くん、ちょっといい? お昼の催し物用に、けん玉持ってきてたよね? あれ、今ちょっとだけ借りてもいいかな?」
「え? けん玉? ああ、いいけど……」
竹中くんはリュックの底から木製のけん玉を取り出したが、少し申し訳なさそうに頭を掻いた。
「これ、さっき練習してたら紐が切れちゃってさ。今は玉と持ち手が完全にバラバラなんだよ。紐を直してからじゃないと遊べないぜ?」
見れば、確かに紐が外れて、ただの「穴の開いた木の玉」と「十字の剣」に分かれてしまっている。しかし、ネコはその状態を見るなり、パッと表情を明るくした。
「ううん、むしろ紐がない方がいいの! ありがとう、借りるね!」
「え? 紐なしでどうすんだよ……?」
不思議そうに首を傾げる竹中くんを余所に、ネコはバラバラのけん玉を両手に持って、急いでユイの待つ人気のない場所へと引き返した。
「ユイちゃん、お待たせ! けん玉借りてきたよ!」
「えー、けん玉? って、それ紐がついてないじゃん! どうやって遊ぶの?」
ユイが不思議そうに突っ込む。
「ふふふ、まあ見てて」
ちょうどその時、グラウンドのスピーカーからは、体育際を盛り上げるためのアップテンポなBGMが流れていた。ネコはその曲のリズムに合わせて、小さく身体を揺らし始める。
ワン、ツー、スリー、フォー――。
曲のテンポが速くなる瞬間、ネコは左手に持っていた「木の玉」を、フワリと高く放り投げた。
「えっ!?」
ユイが声を上げるのと同時に、ネコは右手の「剣(持ち手)」を滑らかに動かした。紐がつながっていないため、玉は完全に自由落下してくる。しかし、ネコは曲のリズムに完璧に合わせ、落ちてくる玉の穴の位置を瞬時に見極めると鋭い音を立てて、大皿でも小皿でもなく、中央の「剣の先端」で、見事に落ちてくる玉の穴を突き刺してキャッチしたのだ。
「うそっ!? 紐なしで刺した!?」
ユイが驚愕する間も無く、ネコはさらにリズムに乗る。手首をスナップさせ、刺さった玉を再び中空へ跳ね上げる。今度は玉が縦にクルクルと回転した。それを目で追うこともせず、ネコは曲のビートに合わせてステップを踏みながら、落ちてきた玉を今度は持ち手の底部(中皿)でピタッと止める。
「はい!右!左!一回転!二回転!」
ネコは流れるBGMのメロディに合わせて、紐のない玉をリズミカルに空中へ放り投げては、剣の先端、大皿、小皿へと、目にも止まらぬ速さで移動させていく。
紐がないということは、軌道が少しでもズレれば玉はどこかへ飛んでいってしまうはずなのに、ネコの吸い付くような手首の動きによって、玉はまるで磁石で引き寄せられているかのように、次々と皿の上を行き来した。
極めつけに、ネコは玉を高く放り投げると、自分自身がその場でクルリと一回転。そして、落ちてきた玉の穴を、再び剣の先端で完璧に捉えてみせた。
ドンッ! と曲のキメの音と同時に、ピタリと動きを止めるネコ。
「――ジャジャン! 紐なしけん玉、大成功!」
ネコは得意げにVサインを決めてみせた。
「……すごい!! ネコやるじゃん!」
ネコはふぅ、と小さく息を吐き、竹中くんから借りた紐なしけん玉を愛おしそうに見つめた。
「へへ、喜んでもらえてよかった。ユイにだけは、どうしても見せたかったんだ」
「ここで私一人に見せてるだけなんて本当にもったいないって! グラウンドに戻ってみんなに見せてきなよ! 絶対に大人気になれるから!」
ユイは半透明の身体を揺らしながら、興奮気味にネコの背中を押すような仕草をした。
しかし、ネコは嬉しそうに微笑みながらも、静かに首を横に振った。
「ううん、いいの。人に見せるのは、もうやめたんだ」
「え? なんで?昔はみんなを楽しませるのが大好きだったんでしょ?」
不思議そうに眉をひそめるユイの視線から逃げるように、ネコは視線を落とした。
「……私ね、自分の名前に、ずっと自信が持てないの」
「名前……? ネコって、すごく可愛いし、私はいい名前だと思うけど」
ユイの真っ直ぐな言葉に、ネコは自嘲気味な苦笑いを浮かべ、ぽつり、ぽつりと胸の内を明かし始めた。
「小学生くらいまではね、私も『みんなとはちょっと変わった名前だな』って、それくらいにしか思ってなかったんだ。でも……」
ネコの目は自然に地面へと向けられる。
「中学校に上がったあたりからかな。周りのみんなに、名前をいじられ始めちゃって。……そこで初めて気づいたんだ。あ、私の名前って、おかしい名前なんだって」
ネコは痛む右腕を抱きしめるようにして、自分の小さな肩をすぼめた。
「昔みたいに、みんなが私の芸を見て楽しんで、私を見て笑ってくれるのは、本当はすっごく嬉しいよ? でもね……もしここで私が目立っちゃったら、また私の名前がみんなに知れ渡ることになるでしょ? 知らない人たちに自分の名前が広がっていって馬鹿にされる…それが何よりも怖いの。だから、もう人前で芸なんて、絶対にできないよ」
どこか諦めたような、深い傷を抱えたネコの告白。ユイは何も言えず、ただ切なそうに、うつむくネコを見つめることしかできない。
「それにね……」
ネコは手の中のけん玉をそっと地面に置き、弱々しく言葉を続けた。
「もし人前でやって、芸を失敗したりしたらって思うとゾッとする。みんなに『あいつ腕が落ちたんだな』って目で見られるのが、本当に怖いの。だから……私は最初から、大道芸なんて向いてないんだよ」
うつむいて自分の殻に閉じこもろうとするネコを見て、ユイは少し意外そうな顔をして首を傾げた。
「ねえ、ネコ。もしかして将来は芸能人にでもなりたいの?」
「え? 芸能人?」
ネコはパチクリと瞬きをして、それから小さく首を横に振った。
「ううん、テレビに出るような芸能人じゃなくて、私がやりたかったのはさっきみたいな『大道芸人』。……ほら、お祭りとか街角の広場とかで、トランプとかジャグリング、けん玉なんかを音楽に合わせて披露する仕事だよ。道行く人たちが足を止めて、大人も子供も関係なく、みんながその瞬間だけ笑顔になるの。素敵でしょ?」
ネコはかつて抱いていた夢を語る時だけ、ほんの一瞬、瞳に小さな光を灯した。
「そんな風に、将来は人を笑顔にする仕事に就きたいな、ってずっと、ずっと思ってたんだ。……でも、今はもう無理だなぁって思ってる」
「なんで?あんなに凄い技ができるんだから、今からでも全然遅くないじゃん!」
ユイが不思議そうに身を乗り出して問い詰める。
すると、ネコはどこか遠くを見つめるような、ひどく冷めた静かな瞳でユイを見つめ返し、ぽつりと言った。
「……だって、私には未来がないから」
「あはは! 何言ってるの!まだ高校生でしょ!」
ユイはそれを、ネコがいつもの後ろ向きな性格のせいで言った自虐の冗談だと思い、声を上げて笑い飛ばした。
「未来がないなんて、私みたいな幽霊が言うことだよ!ほら、変なこと言ってないでシャキッとして!」
「……ふふ、そうだよね。ユイちゃんの言う通りかも」
ユイの笑い声に合わせるように、ネコもまた、いつも通りの力ない苦笑いを浮かべた。しかし、その笑顔の奥に隠された、どこか深い闇のような寂しさに、ユイが気づくことはなかった。
○○○○○○
「あ、そろそろ始まるみたい」
遠くのグラウンドから、ピィィーッ!と鋭いホイッスルが鳴り響いた。
「次って何だっけ? 確かリレーだよね」
ユイがグラウンドの方を見やりながら、ネコに尋ねた。
「ねえ、その学年対抗リレーって、どういうルールなの?」
ネコは手元に残ったけん玉を大事そうに抱え直しながら、グラウンドの様子をじっと見つめて説明を始めた。
「これはね、1年から3年までのすべてのクラスが同時に走って1位を目指すリレーなんだよ」
「え? 同時に? それ、明らかに3年生とかの方が有利じゃん。不公平じゃない?」
ユイが不満そうな顔をして腕を組む。
「ふふ、そうだよね。だから、代わりに私たち1年生が上級生に勝った場合は、ポイントが2倍になるんだよ。2位になるだけでも結構なポイントになるの」
「へえー…考えられてるなぁ…勝てればだけど」
「うっ…」
ユイに最も痛い点を突かれた。
そう、このルール。勝ったらの話だけで、普通にビリならなんの加点もされないので見方を変えれば何も変わってないに等しい。
そんな感じでユイとネコはポイント加点表を見ていると
「おーーーい! ノラーーー!」
グラウンドに緊張感が走る中、聞き馴染みのあるけたたましい大声が響き渡った。
息を切らし、泥だらけの靴で走ってくるその姿――
間違いなかった。
ハナコだ。
「あ……ハナコ!!」
ネコが弾かれたように叫び、二人はお互いに向かって猛然と駆け寄る。ハナコの目には、ネコの隣にいる半透明のユイの姿など、一切見えていない。
「ノラーー! 会いたかったよぉぉぉ!!」
「ハナコッ!」
ハナコは涙を流さんばかりの勢いで、両手を大きく広げてネコに抱きつこうと飛び込んでいく。
ネコも涙目で受け止めようとする。
しかし、次の瞬間。
「この、大バカ野郎がぁぁぁーーー!!」
ネコはしなやかな身体をひるがえすと、容赦のないジャンピング飛び蹴りをハナコの胸元に叩き込んだ。ドカッ!と鈍い音がして、ハナコは盛大に地面に転がる。
「痛ったあああ!? 何すんのさノラ!」
「こっちのセリフだよ!!」
ネコは立ち上がったハナコに掴みかからんばかりの勢いで、これまで溜め込んでいた不平不満を一気にぶちまけた。
「体育際でイレギュラーばかりで、準備も大変で…なんで一番必要な時にあんたがいないの!? 私がどれだけ無茶してたか分かってんの!? 連絡も全然つかないし、勝手にブラジルなんか行って――」
一気にまくし立てたところで、ネコはハッと我に返り、肩で息をしながらハナコを鋭く睨みつけた。
「……って、そもそもブラジルで一体何してたわけ!」
ハナコは頭の後ろを掻きながら、へへへとバツが悪そうに笑った。
「ごめんごめん! 本当に悪かったって! でもさ、ブラジルで何をしてたかは……ふふ、後のお楽しみってことで!」
ハナコは悪びれもせず、ウインクしながら指でピースサインを作ってみせる。
その緊張感のない態度に、ネコの額に青筋が浮かんだ。
ネコは冷徹な声で、すぐ後ろに控えていたクラスメイトを呼び出す。
「土野くん、卍固め」
「了解」
影のように現れた土野くんが、一切の躊躇なくハナコの背後に回り込む。瞬く間にハナコの片足を自分の足に絡め、腕をロックして首を脇に抱え込んだ。完璧な「卍固め」の形が完成する。
「ぶべっ!? 痛い痛い痛い! ギブギブ! 折れる、首も足も折れるからぁぁー!」
派手な悲鳴を上げるハナコ。
しかし、ネコの怒りは全く収まっていなかった。ネコは腕を組み、冷ややかな視線をハナコに突き刺したまま、土野くんに厳しく命じる。
「土野くん、もっとキツくやって!!」
「はいよ」
グググッ、とさらに技の角度が深まり、ハナコの悶絶する叫び声が木霊する。その様子を、ハナコからは見えないはずのユイが、ネコの隣で「うわぁ……」と引きながらも見守っていた。
○○○○○○○○○
ひとしきりお仕置きをしてハナコがぐったりしたところで、ネコは少し呼吸を整えた。
深くため息をつき、少し落ち着きを取り戻してハナコを見つめる。怒りはあれど、心細かった日々にようやく戻ってきた親友の姿に、安堵の混じった複雑な視線を向けた。
「……でも、帰ってきてくれて嬉しい。それは本当。だけど、今まで本当に何をしていたの?」
ネコの真っ直ぐな問いかけに、ハナコは土野くんに解放されて、歪んだ顔を必死に動かして、真面目なトーンになって言った。
「棒倒しに、確実に勝つためだよ」
その言葉に、ネコはドキッとした。
ハル先輩を止めるための、あの体育際の鍵――ハナコもまた、自分と同じように棒倒しの重要性に目をつけていたのだ。その先見の明に、ネコは内心で深く感心する。
「まさか……そのために、ブラジルで修行でもしてきたの?」
「もちろん!」
ハナコは必死に声を張って力強く言い切った。
その頼もしい答えを聞いて、ネコの表情がようやく柔らかく緩む。
「……そっか。おかえり、ハナコ」
ネコが優しく微笑んだその時だった。
ハナコが立ち上がった拍子に、制服の胸元からパサリと一枚の写真が地面に落ちた。
「あ、」
ネコが視線を落とすと、そこには、真っ青なコパカバーナのビーチをバックに、ド派手なグラサンをかけてヤシの実ジュースを片手に満面の笑みを浮かべる、めちゃくちゃブラジルを満喫しているハナコの姿が写し出されていた。
「…………」
ネコの笑顔が、一瞬で氷のように凍りついた。
その様子を隣で見ていたユイが両手で顔を覆う。
ネコは冷徹極まりない、地獄の底から響くような声で、土野くんに次の命令を下した。
「土野くん、海老反り固め」
「OK」
背後にいた土野くんは、彼女の体をうつ伏せにひっくり返し、容赦なくその両足を掴み上げてハナコの背中を限界まで反らせにかかった。完璧な形の「海老反り固め」が決まる。
「ぶほっ!? ぎ、ギブ! ノラ、これマジで洒落になってない! さっきより痛い、背骨が折れるぅぅぅーーー!!」
「土野くん、もっと力込めて」
「任せろ」
ハナコの必死の悲鳴を聞き流しながら、ネコは冷たい目でグラウンドの方へ視線を戻すのだった。
その様子をクラスメイトは笑いながら見ていた。
○○○○○○
グラウンドからの喧騒を少し遠くに聞きながら、コトモは二年生のテントの下で休んでいた。パイプ椅子に腰掛け、競技を終えたハルの背中を、手で優しくさすってあげている。
ふと、ハルの足元に目を落とすと、一匹の小さなムカデが彼女の足をツンツンと突ついているのが見えた。コトモは怖がる様子もなく、ごく自然に手を伸ばしてそのムカデを自分の手のひらの上にちょこんと乗せた。
手のひらの上でカサカサと動くムカデの気配から、コトモはその意思を感じ取る。どうやら、ハナコと呼ばれる女の子が帰ってきたことを教えてくれているようだ。
「へえ〜、ハナコちゃんかぁ。じゃあ、ちゃんと帰ってきたんだね〜」
コトモは納得したように小さく笑いながら呟いた。
しかし、ムカデはさらに何かを伝えるように手のひらの上で細かく動く。その意味を読み取ったコトモは、思わず目を丸くした。
「え……袋叩き?」
コトモの様子に気づいたハルが、背中をさすってもらいながら、ふっと力を抜いて苦笑いを浮かべる。
「あはは……。まあ、ハナコちゃんがいない間、体育祭の準備とか色んなことをネコちゃんに全部押し付けることになっちゃったからね。今頃きっとそのお仕置きでもされてるんじゃないかな」
ハルは体育館裏の騒動を何となく察しているようで、呆れ半分、同情半分といった様子で息をつくのだった。
「あとコトモ、あんまりムカデを偵察に行かせるのはよくないよ」
ハルはコトモの顔を見つめ、少し困ったように注意した。いくらムカデ様と仲が良いとはいえ、他人のプライバシーや競技の公平性を損なうような真似は看過できない。
「大丈夫だよ。作戦とか重要な情報は収集してないから、ちゃんと公平性は守ってるよ」
コトモはいたずらっぽく笑って答えた。あくまで日常のちょっとした一幕を覗き見しているだけだという。
「……だけど、本当はムカデ二匹に行かせたのに、もう一匹はどこに行っちゃったんだろう」
「もう一匹?」
ハルが首をかしげて尋ねる。
「うん。昨日の、あの大きいムカデのことなんだけど……」
コトモがそう言いかけた、その時だった。
「ひぎゃあああああああああーーーっ!?」
体育館裏の方から、ネコの凄まじい悲鳴が二年生のテントまで響き渡った。女の子のものとは思えない、魂の底からの絶叫だった。
「っ……!?」
二人は驚き、顔を見合わせると、すぐにパイプ椅子から立ち上がって声のした方へと向かった。
体育館裏に駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。
地面には、コトモが放ったであろう巨大なムカデを見て、完全に目を回し、口から泡を吹いて倒れているネコの姿があった。大の虫嫌いのため、その硬直ぶりは凄まじい。
その横では、ネコのお仕置き(海老反り固め)からようやく解放されたはずのハナコが、今度は別の意味で必死な形相になり、ネコの体をブンブンと揺さぶっている。
「ノラ起きてよ!!ノラ!!」
頑張って呼びかけるが、ネコは全く反応しない。
頬を叩いたり、つねったりしてもネコは起き上がらず、ハナコは慌てる。
「ちょ、ちょっと、ノラが倒れたってマジ!?」
「おい、しっかりしろよ!」
ネコの悲鳴を聞きつけたクラスの仲間たちが次々と集まり、完全にパニック状態に陥っていた。泡を吹いて硬直しているネコを囲み、狼狽する1年生たち。
そこへ、野次馬をかき分けるようにしてハルが歩み出た。
「みんな、ちょっと道を開けてくれるかな」
どこか安心感を与えるハルの声に、ざわついていたクラスの仲間たちはハッとして左右に割れた。
「あ、ハル先輩……」
1年生の皆にスペースを作ってもらい、ハルはネコの傍らにそっと膝をつく。そして、ネコの額に優しく手を当て、首筋の脈を確認しながら丁寧に介抱を始めた。
ぐったりとしたネコの様子をじっと見つめていたハルだったが、やがてその口元にふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、怪我はどこにもないよ。あまりの衝撃に気を失っちゃってるだけみたい」
ハルがそう告げると、張り詰めていたその場の空気が一気に緩み、クラスの仲間たちやハナコからも「よかったぁ……」と安堵のため息が漏れた。
その背後で、コトモはハルの邪魔にならないよう、静かに足元へ視線を落とした。
そこには、今回の騒動の引き金となった2匹のムカデ――小さなムカデと、ネコを気絶させた例の大きなムカデが、申し訳なさそうに丸まっている。
コトモがそっと手を差し伸べると、2匹はカサカサと小気味よい音を立てて腕を登り、そのまま彼女の豊かな髪の毛の中へと器用に隠れていった。
外からは完全に姿が見えなくなったのを確認して、コトモはハルを見上げる。
「ハル、保健室に連れていこう」
「うん、そうだね。じゃあ、運ぶのを手伝ってくれる?」
ハルはネコの体をそっと抱き起こし、コトモと2人でバランスを取りながら、その華奢な体を慎重に持ち上げた。
「ハナコちゃんたち、私たちが保健室に連れていくから、みんなはグラウンドの応援に戻ってて大丈夫だよ」
ハルはついてこようとする1年生たちを優しく宥めると、コトモと息を合わせて、眠るようなネコを抱えながら静かに保健室へと歩き出した。その後ろ姿を、ハナコはまだ少しハラハラした様子で見送っていた。
○○○○○○○○○○○
ガラリ、と静かに扉を開けた保健室の中には、誰の姿もなかった。
「誰もいないね……」
コトモは部屋の中に入ると、念のためにパーテーションの奥や診察机の周りまで、誰かいないかぐるりと視線を巡らせて確認したが、やはり先生も生徒も留守のようだった。
体育際の真っ最中とあって、保健医もグラウンドの救護テントの方へ出払っているのかもしれない。
ハルは抱き抱えていたネコの体を、一番手前にある真っ白なベッドへとそっと横たえた。
シーツの上に静かに寝かせ、乱れた前髪を優しく整えてあげる。
そして、その額にそっと手のひらを乗せて体温を確かめると、気持ちよさそうに眠るネコの愛らしい寝顔を、どこか愛おしそうにじっと拝むように見つめた。
「よし、ひとまずは大丈夫そう。コトモ、私たちは先生を探しに行こうか。一応、診てもらっておいた方が安心だからね」
「うん、そうだね」
2人は静かに頷き合うと、ネコを起こさないように足音を忍ばせて保健室を後にした。パタン、と扉が閉まり、部屋に再び静寂が訪れる。
――と、その直後だった。
誰もいなくなったはずのベッドの脇に、すうっと半透明の身体が浮かび上がるようにして現れた。ネコのすぐ隣にずっと付き添っていたユイだ。
「ちょっと、ネコ! 大丈夫!?」
ユイはベッドに横たわるネコの顔を覗き込み、心配そうに何度も声をかけた。
しかし、大の虫嫌いゆえに受けたショックは想像以上に深かったようで、ネコは完全に気を失ったまま、ピクリとも動く気配がない。
「うわぁ、完全に気絶してる……。どうしよう、もうすぐ学年対抗リレーが始まっちゃうよ!」
窓の外からは、グラウンドの喧騒と、次の競技を予告するアナウンスが微かに聞こえてくる。
ユイは焦りで胸が押し潰されそうになりながら、自分の半透明の手を握りしめた。ネコがいつ目覚めるかもわからない。
このままでは、ネコが楽しみにしていた、そしてクラスの命運がかかった大事なリレーに間に合わなくなってしまう。
ハルのクラスに差をつけられないためにも、ここは絶対に落とせない大事な局面なのだ。
「ネコが起きないなら……リレーに出られないじゃん……。そんなの絶対にダメだよ……!」
ぐるぐると激しく悩み、葛藤するユイ。
しかし、グラウンドから聞こえてくる開始直前のホイッスルの音が、彼女の背中を強烈に押し出した。
「……ごめんネコ! ちょっと身体借りるよ!」
意を決したユイは、目を閉じて横たわるネコの身体に向かって、思い切ってその半透明の身を投げ出した。光が溶け合うようにして、ユイの意識がネコの肉体へと深く、深く憑依していく――。