「う、ん……」
ユイの意識がネコの身体の奥底と結びつき、重い瞼がゆっくりと開いた。
視界に映るのは、保健室の白い天井。ゆっくりと上体を起こし、自分の両手を見つめる。制服の袖から覗く華奢な手。間違いなく、今は自分がネコの肉体を動かしている。
「よし……動ける!」
リレーに間に合わせるため、ユイは急いでベッドから脚を下ろし、部屋の扉へと向かった。
勢いよく扉を開け、グラウンドへと向かう。
「お、おい! ノラ、もう大丈夫なのか!?」
「急に倒れるからマジで焦ったぞ……!」
ユイがネコの身体を走らせてグラウンドのクラス陣地へと戻ると、待機していた1年生の仲間たちが一斉に驚き、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
(みんな、ネコのことを本当に心配してくれてるんだ……)
ユイはネコの友達の温かさを感じながらも、これ以上彼らを不安にさせまいと、努めて明るく、いつもの『ノラ』らしく振る舞うように意識した。
「みんな、心配かけてごめん! もう完全に復活したから大丈夫だよ!」
ネコの声を借りて、ユイはグッと拳を握りしめて見せる。
「さあ、もうすぐ学年対抗リレーが始まるんでしょ? ここまでみんなで頑張ってきたんだし、気合入れていこう!」
「おお……! ノラが言うなら間違いないな!」
その力強い鼓舞に、さっきまでパニック気味だったクラスの空気は一気に跳ね上がり、全員が勝利に向けて拳を突き上げた。
やがて、ピィィーーーッ!!とグラウンド全体に開始のホイッスルが鳴り響き、ついに学年対抗リレーの幕が上がった。
各学年の第1走者が一斉にスタートし、会場は割れんばかりの歓声に包まれる。
その熱気のなか、2年生のテントの前に立つハルは、走るランナーたちではなく、1年生の陣地にいるネコの姿をじっと見つめていた。
「えっ……!? ノラちゃん、もう走れるの……!?」
ついさっきまで保健室のベッドでぐったりと気絶していたはずのネコが、ユニフォーム姿でアンカーの位置に立っている。
そのあまりのタフさに、ハルは純粋にびっくりしていた。
一方、同じく保健室の先生を探していたコトモは、怪訝そうに眉をひそめてネコをじっと見つめていた。
「……ちょっと、いくらなんでも回復の早さが異常すぎない?」
さっきの気絶っぷりは何だったのと言いたくなるようなタイミングでの登場に、コトモは少しだけ疑いの目を向け始める。何か変じゃない? と、どこか引っかかるものを感じていた。
だけど、隣にいるハルは、ネコが戻ってきてくれたことがとにかく嬉しかったみたいで、呑気に笑顔を浮かべた。
「コトモちゃん、ネコちゃんもう元気になったみたい! やっぱりネコちゃんはすごいね!」
「…ハルはノラが何をやってもすぐに褒めるよね…ちょっとは変に思わないの?」
コトモはやれやれと肩をすくめて呆れ返ったけれど、ハルは「ネコちゃんが元気みたいで良かった」と笑うばかり。
そんなハルの視線に気づかぬまま、ユイはネコの身体の異変に意識を向けていた。
(……う、やっぱり、さっき急激に憑依したせいか、それともネコ自身の疲労か、身体がちょっと重いかも……)
ユイは無意識のうちに、ネコの片腕をぎゅっと自分の手で抑え、息を整えようとした。
すると、そんなユイの様子を見ていたクラスの女子が、隣からひょこっと顔を覗かせて声をかけてきた。
「ノラ、腕痛むの? 無理しないでよ? でも……アンカー、よろしく頼んだからね!」
「……え?」
ユイは思わず、抑えていた腕を止めて硬直した。
「ア、アンカー……? 私が、リレーのアンカーなの……!?」
「ええっ!? 何言ってるのさノラ」
女子生徒は不思議そうに眉をひそめて笑った。
「学年対抗リレーのアンカーはノラがやるって、最初からみんなで決めてたじゃん。なんで自分のことなのに、そんなに驚いてるの?」
(やばい……っ!!)
ユイの背中に冷や汗が流れた。
ノラがアンカーだなんて、憑依したばかりのユイが知るはずもない。このままでは設定の矛盾から、自分が中身の違う偽物だとクラスのみんなに怪しまれてしまう。
「あ、あははは……! ご、ごめんごめん! さっきムカデを見て頭を強く打ちつけちゃったみたいでさ、一瞬記憶が飛んでただけだよ!」
ユイはネコの顔のまま、大慌てで引きつった笑顔を作って頭を掻いた。
「ほら、お仕置きで海老反り固めとかもされて、ちょっと脳みそがバグっちゃったのかな! 大丈夫、アンカー、バッチリ任せてよ!」
「・・・・お仕置きされたのハナコちゃんじゃない?」
「あーーー、!!!」
完全にやらかしたユイは地獄みたいな空気に汗を流し始める。
絶対に追求される。
そう思ったが返ってきた言葉は意外なもので、
「あはは!ノラってば面白い!ハナコちゃんみたいなボケしてる!」
「…え?…あ、うん…多分うつっちゃったのかな…?」
必死に言葉をまくしたてて誤魔化すユイだったが、心臓はバクバクと激しく波打っていた。
(……だめだ、他人のフリをするのって、想像以上に難しすぎる……っ)
ユイは背中に冷や汗が伝うのを感じながら、心の中で激しく頭を抱えていた。
自分にとってはただの「ネコの肉体」でも、この身体にはネコ自身が築いてきた大切な日常があり、クラスメイトとの約束がある。
それを何一つ知らない自分がこれ以上誰かと話せば、確実にボロが出てしまう。
(もう、リレーが始まるまで誰とも話さない。無言を突き通すんだ)
そう固く心に誓い、キュッと口を閉じて前だけを見据えることにしたユイ。しかし、世の中そう上手くはいかないもので、その鉄の決意を嘲笑うかのように、最悪のタイミングで「彼女」がやってきてしまった。
「おーい、ノラー!」
ブンブンと大きく手を振りながら駆けてきたのは、よりにもよってハナコだった。
「さっきはノラが倒れて焦ったよぉ〜でも、ノラが復活してくれて本当によかった!」
ハナコはいつもの調子で、親しげにネコの顔を覗き込んでくる。
(……無視。絶対に無視しなきゃダメだよ、ユイ……!)
ユイは必死に自分に言い聞かせ、正面のグラウンドを見つめたまま、微動だにせず地蔵のように固まろうとした。
けれど、無理だった。
この身体の持ち主であるネコにとって、ハナコは命よりも大切な、かけがえのない親友なのだ。
ネコの細胞が、その絆が、目の前の親友を完全に無視することなど、本能的に拒絶していた。
「……ハ、ハナコ」
どうしても声を無視できず、ユイはぎこちなく視線をハナコへと向けた。
そんなネコの少し様子がおかしいことには気づかず、ハナコはキラキラと目を輝かせながら拳を握りしめた。
「ね、ノラ! 一緒に写真に写るために、今回のリレー、絶対に頑張ろうね!」
「……写真?」
ユイは思わず、ぽかんとして首を傾げた。写真? さっきブラジルの写真でお仕置きされたばかりなのに、また写真の話だろうか。
「え? なにその反応。どうしちゃったのさノラ」
ハナコはあからさまに困惑した表情を浮かべ、怪訝そうに眉をひそめる。
「だって、ハル先輩と一緒に新聞に写りたいって言ってたの、ノラじゃん」
「しんぶん……?」
ユイの頭の中には、ますます疑問符が浮かぶばかりだった。ネコとしてハナコの話を聞いているものの、前提となる情報を何も知らないため、言葉がイマイチ頭に入ってこない。
ハナコは「もう、しっかりしてよー」と呆れたようにため息をつくと、周囲に聞こえないように少し声を潜めて説明を始めた。
「ほら、今回の体育祭で総合優勝したら、学校の代表のハル先輩と一緒に地元の新聞にドカンと写真付きで掲載されるって話だよ! 忘れちゃったの?」
「あっ……!」
そのハナコの言葉を聞いて、ユイの脳内でようやくすべてのジグソーパズルがガチリと噛み合った。
なるほど、この学校の代表はハルなのだ。
そして、今回の体育祭で1年生が優勝すれば、ハルと一緒に新聞に載ることができる。だからネコもハナコも、あんなに必死になってこの体育祭で勝ちにこだわっていたのだ。
状況を完璧に読み込んだユイは、ハナコの顔をじっと見つめた。
ハナコの目は、純粋に「みんなで優勝しよう!」という青春の輝きというよりも、ハルと一緒に新聞に載るという下心と野望で、ギラギラと不純に輝いているように見えた。
(……ハ、ハナコちゃん、めちゃくちゃ下心全開で動いてるじゃん……)
親友のためにブラジルで修行してきただの何だの言っていたくせに、本当の動機がそれだったのかと、ユイは驚きを通り越して、完全に呆れ果ててしまった。
(いや、ネコも何してんの!!)
ユイはネコがそんな劣情を持って優勝を目指していることに3つほど言いたいことができてしまう。
(ハルと写真撮るためって…そんな目的で優勝目指してたの…!?)
ハルはそんなことしなくても写真ぐらい撮らしてくれることもそうだが、とにかくアホみたいな動機であんなに身体ボロボロにしてるのはユイの目から見ても正気とは思えなかった。
「あ、あはは……そうだよね! 私も、ハル先輩と一緒に新聞に載りたいなぁ!」
ユイは冷や汗が背中を伝うのを感じながら、とにかく話を合わせようと、ネコの顔で精一杯の営業スマイルを作ってハナコの言葉に同調した。
ここで不自然に否定して、これ以上のボロを出すわけにはいかない。
すると、ハナコは「でしょー?」と嬉しそうにニカッと笑った。
しかし、そのやり取りを後ろで聞いていたクラスの女子生徒たちが、クスクスと肩を揺らしてからかうように口を挟んできた。
「ちょっとハナコ、何言ってるのさー。ハル先輩と一緒に新聞に載りたいって、鼻息荒くして言い出したの、ノラじゃなくてハナコの方でしょ?」
「そうそう! ノラはそれに呆れて付き合ってあげてただけじゃん。自分で言ったこと忘れてノラに押し付けちゃダメだよー」
「あ、あれ……? そうだっけ?」
ハナコはぽりぽりと頭を掻きながら、豪快に笑い飛ばした。
(え!?ネコが言い出したことじゃないの!?)
反面、ユイは早くも設定の矛盾を発生させてしまい、血の気を引いてしまう。
「あはは、言われてみれば私が言い出したんだったわ! ごめんごめん、ノラ!」
(やややっ、ヤバい!!!)
ユイは心の中で絶叫し、滝のような冷や汗を必死に引っ込めようとする。
「全くノラってばノリがいいんだから〜私が間違ってたんならツッコミ入れてよ〜」
「ご、ごめんハナコ…」
(あ、あぶなっ!!)
危うくネコ本来のスタンス(ハナコの下心に呆れている側)と真逆の反応をして、墓穴を掘るところだった。
ハナコが信じられないほどお気楽で、自分の記憶違いだと勝手に納得してくれたからよかったものの、一歩間違えれば完全に不審者扱いである。
当のハナコは、目の前の親友の中身が入れ替わっていることに一ミリも気づいておらず、「いやー、ブラジルの日差しで脳みそまで焼けちゃったかな!」とまだケラケラと笑っている。
(……だめだ。やっぱり他人のフリなんて、私にはハードルが高すぎる)
ユイはネコの身体の中で、改めて深く、深く、心に誓った。
これ以上は絶対に喋らない。何を聞かれても、誰が来ても、もう本当に、リレーのバトンが回ってくるまでは一言も発さずに完全な無言を突き通そうと、今度こそ固く決意するユイ。
(ネコ…ごめんね…勘違いしちゃって…)
てっきりネコが主導していたものと思い、ユイは心の中で謝罪するが、ユイはまだ一つ勘違いしていた。
実はネコもバリバリにハルと写真を撮りたい派なのだった。
○◆
「ノラ、どうしたんだよ? ずっと黙り込んじゃって……」
「おーい、ノラー?」
ハナコやクラスの女子たちが不思議そうに顔を覗き込んできても、ユイは頑なに唇を噛み締め、どんな呼びかけにも一切応じなかった。
これ以上言葉を発すれば、今度こそ大切なネコの日常を壊してしまう。
ユイは誰とも目を合わせないように、ただじっと自分の足元を見つめて、完全な沈黙を貫き通した。
不自然なほどに押し黙るネコの姿に、周囲の仲間たちがざわざわと心配の声を上げ始めた時だった。
バチンッ!と、ネコの華奢な背中を強く叩く音が響いた。
「っ……!?」
ユイが驚いて勢いよく振り向くと、そこにはユニフォームを泥だらけにし、肩を激しく上下させて息を切らしたクラスの男子生徒が立っていた。
前の走者からバトンを繋ぎ、全力で駆け抜けてきたばかりなのだろう。
「はぁ、はぁ……! ノラ、次、アンカーだから……っ! 早く、位置について……! 頼んだぞ!」
男子生徒は喉を鳴らしながら、必死の形相でユイの背中をグラウンドのレーンへと急かした。
「あ、う、うん……っ! ごめんなさい、すぐ行く!」
我に返ったユイは、ネコの声を絞り出して短く謝ると、焦る心を抑えながら急いで指定されたアンカーのスタート位置へと走った。
グラウンドの中央に設けられたアンカー専用のレーン。そこへ滑り込むようにしてスタンバイしたユイは、ふと、隣のレーンに目をやって息を呑んだ。
すぐ隣――2年Aクラスのレーンに、あのハルが立っていたのだ。
ハルは制服の左袖を小さく揺らしながら、前方のランナーたちの様子をじっと見据えている。
その横顔は、高校二年生らしからぬ美しさと強さに満ちていた。
まさか、こんな形でハルと並んで走ることになるなんて、ユイはネコの身体の中で、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つのを感じていた。
その時、グラウンドの向こう側で大きな歓声と悲鳴が同時に上がった。
「ああっ!? 2年生のランナーが転倒したぞ!!」
「チャンスだ! いけぇぇぇーーーっ!!」
最終コーナーを回る手前で、先行していた2年生の選手が派手にバランスを崩してコースに激しく転ごうとした。
その一瞬の隙を見逃さず、猛然と突っ込んできた1年生クラスの仲間が、驚異的な粘りでその横を鮮やかに追い抜いていく。
「ノラーーーーッ!! 頼んだぞぉぉぉーーーっ!!」
泥まみれになりながら、執念でトップに躍り出たクラスメイトが、叫び声を上げながらユイの待つレーンへと一直線に飛び込んでくる。
「来い……っ!」
ユイは一瞬の迷いも捨て、ネコの身体のバネを限界まで引き絞るようにして右手を後ろへと伸ばした。視線の先には、ぐんぐんと迫ってくるバトンと、すぐ隣で同じようにバトンを待つハルの姿がある。
パシィィィンッ!!!と、乾いた衝撃がネコのてのひらに力強く響いた。
「行くよネコ……っ!!」
クラスの全員の想いが詰まったバトンをしっかりと握り締め、ユイはネコの肉体を爆発させるように、一歩目を力強く踏み出した。
『――さあさあ! 学年対抗リレーは怒涛の最終局面、運命のアンカー戦へともつれ込んだァァァッ!! 2年生のまさかのアクシデントにより、トップでバトンを繋いだのは、なんと1年B組だぁぁーーーッ!!』
スピーカーから響き渡る竹林くんの絶叫実況が、グラウンドの熱気をさらに数段階引き上げる。
「いけぇぇぇーーーッ! ノラァァッ!!」
「そのまま逃げ切れぇぇぇ!!」
1年B組の女子生徒たちが、声を枯らして全員で飛び跳ねるように沸き立っている。その歓声の真ん中で、ハナコだけが「あれ……?」と不思議そうに目を細め、怪訝な顔で首を傾げた。
「ノラって……あんなに走るフォーム綺麗だったっけ? っていうか、あんなに速かった……?」
転倒のアクシデントも重なり、この時点でユイが稼いだリードは、なんとハルに対しておよそ半周差。
圧倒的有利な状況に、1年B組の担任の先生は、普段の厳格さを完全に忘れて身を乗り出し、顔を真っ赤にして雄叫びを上げていた。
「ノラァァァッ! そのままいけぇぇ! 1位だ!1位をもぎ取れぇぇぇーーーッ!!」
一方、2年Aクラスのレーンでは。
「ハ、ハル…! ごめんなさい、私がこけちゃったせいで……っ!」
バトンを渡したクラスメイトが、涙目で平謝りしていた。
しかしハルは、その失われた左の袖を風に揺らしながら、残された右手でしっかりとバトンを握り締め、どこまでも優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫。任せて」
その短い一言とともに、ハルは地面を爆発させるように蹴り出した。
高校二年生になり、心身ともに大きく成長したハルの駿足は、まさに次元が違っていた。凄まじい風圧を巻き起こしながら、
先行していた他の一年生や、体格の勝る三年生のアンカーたちを、まるで止まっているかのように次々と鮮やかに抜き去っていく。
その圧倒的な追い上げに、グラウンド全体から地鳴りのような大歓声が巻き起こる。
だが、ユイがネコの身体で必死に守り抜いた半周分のリードは、そう簡単には揺るがなかった。
(はぁ、はぁ……っ! よ、よし……逃げ切った……!)
グラウンドを丸々一周し、ついにスタート地点の白いラインを駆け抜けたユイは、大きく肩を上下させて一息ついた。胸が激しく痛み、ネコの身体の体力が限界近くまで削られているのを感じる。
「ノラァァァーーーッ!! 何やってんだ、止まるなぁぁぁーーーッ!!」
クラスメイトたちが、目玉が飛び出さんばかりの形相で、喉が裂けんばかりの大声をユイに浴びせた。
「学年対抗リレーのアンカーは、2周走るんだよぉぉぉーーーッ!!!」
「…………えっ!?」
ユイはネコの顔のまま、驚愕で完全に思考がフリーズした。
アンカーだけ距離が倍だなんて、そんな鬼みたいなルール、聞いていない。
慌てて硬直した身体を無理やり動かし、再び走り始めようと地面を蹴ったユイ。
しかし、その一瞬の静止は、あまりにも致命的すぎた。
背後から、ゾクリとするほどの圧倒的なプレッシャーと、激しい風の音が迫ってくる。
「……っ!」
恐怖に駆られてユイが振り返ると、目と鼻の先、すぐ後ろの距離にまで――あのハルが猛烈に追い上げていた。
ユイのほんの一瞬の隙を見逃すハルではない。
「――っ!」
凄まじい風切り音とともに、ハルがネコの身体の横を鮮やかにすり抜けていく。
一瞬にしてトップの座は入れ替わり、ハルは驚異的な加速でユイとの距離をぐんぐんと引き離しにかかった。
高校2年生になったハルの走りは、無駄が一切なく、まるで風そのものと同化しているかのようだ。
(あ……ハル、やっぱり速い……っ)
どんどん小さくなっていくハルの背中。その失われた左の袖が、風に激しくなびいている。
いつも優しくて、暖かくて、強くて大好きな親友。
その背中を見つめていた瞬間、ユイの胸の奥底から、自分でも驚くほどの熱い感情が突き上げてきた。
(……負けたくないっ!!)
それは、ネコのクラスのためという理由だけではなかった。
大好きなハルだからこそ、今の自分が持てるすべての力で、真っ正面からぶつかり合いたい。
幽霊になってから、ずっと遠くで見守ることしかできなかったけれど――今、この一瞬だけは、同じ世界で、同じ地平で、ハルと競い合えているのだから!
「うおおおおおーーーっ!!」
ユイはネコの肉体の限界、その「本気」の枠さえも力任せにぶち破った。
肉体がきしむような感覚を無視して、足の指先、ふくらはぎ、太ももの全細胞に爆発的な力を込める。
ドゴォッ!と泥を派手に跳ね上げる音がして、ネコの小さな身体が弾丸のように加速した。
風の抵抗を置き去りにするような猛追。
遠ざかっていたはずのハルの背中が、一歩、また一歩と、驚異的なスピードで目の前に迫る。
そして、ついに第3コーナーの手前で、ユイはハルの真横へと並び立った。
「えっ……!?」
並びかけられたハルが、驚愕に目を見開く。
あんなに酷い倒れ方をして、ついさっきまで保健室で寝ていたはずの1年生。
それなのに、自分の全力の走りに正面から追いついてくるなんて、常識では考えられない。
だが、ハルは驚きに呑まれることなく、すぐにその瞳に勝負師の鋭い光を宿した。
「……っ!」
速度を落とすどころか、ハルはさらに足の回転を上げ、譲らないと言わんばかりに地面を強く蹴る。
『な、なんという執念! なんというスピードォォォ!! 1年B組のノラ選手、驚異的なラストスパートで2年Aクラスのハル選手を捉えたァァッ!! 』
グラウンド全体のボルテージは最高潮に達し、全校生徒の地鳴り が2人を包み込む。
ハルのわずかなリードは、その絶対的な実力ゆえにそう簡単には崩れない。常にハルが半歩前に出ている状態だ。
しかし、ユイも歯を食いしばり、ネコの身体のポテンシャルを極限まで引き出して、吸い付くようにハルの真横に粘り続ける。
…だが、ハルには一歩及ばなかった…
『――ゴォォォーーーールッ!!! 激闘の学年対抗リレー、最後の一歩を制したのは、2年Aクラス、ハル選手だぁぁぁーーーッ!!!』
竹林くんの喉が張り裂けんばかりの実況が響き渡ると同時に、グラウンドを揺るがすような大歓声が爆発した。
ハルが執念でトップをもぎ取り、1位でテープを駆け抜ける。
ユイはそのすぐ数歩後ろ、惜しくも2位の着順でゴールラインを越えた。下級生が上級生に勝てばポイント2倍という大チャンスだったが、あと一歩、本当にあと一歩だけ、ハルの背中に届かなかった。
しかし、ユイには悔しがる余裕さえなかった。
ネコの身体の限界をとうに超えた速度で走り抜けたため、ゴールの慣性を殺しきれない。
「あ、あれ……っ!? 止まら、な――」
もつれる足を制御できず、ユイはネコの身体のまま、激しく地面へと転倒した。
猛烈なスピードのまま前のめりに突っ込んだため、ズザザザッと音を立てて、トラックの砂に派手に投げ出されてしまう。
「っ……、ネコちゃん!」
ハルは自分がゴールしたことも忘れ、息を切らせながら、倒れた後輩の元へとすぐに駆け寄ろうとした。あれだけの速度で転んだのだ、大怪我をしていてもおかしくない。
だが、ハルが足を踏み出した次の瞬間。
「ノラァァァッ! 大丈夫か!?」
「すごいよノラ! 2位だよ、2位!!」
「ハル先輩とあんなに競り合うなんてマジで大金星だって!!」
地響きのような足音とともに、1年B組のクラスメイトたちが猛烈な勢いで押し寄せ、転んだユイの周りをあっという間に何重にも取り囲んでしまった。
心配する声、2位の快挙を称える興奮した声が飛び交い、人垣の壁が作られていく。ハルは手を伸ばしかけたが、その熱気溢れる1年生たちの輪の中へ入っていくことができず、
少し離れた場所で立ち往生してしまった。
人混みの隙間から、何とか倒れているネコの様子を伺おうとするハル。
「おい、ハル! よくやった、見事な1位だ!」
そこへ、後ろから拡声器を持った役員の先生が、ハルの肩を叩いて急かすように声をかけてきた。
「ほら、感動してる暇はないぞ。リレーの着順集計があるから、早く1位の表彰席に移動しなさい!」
「あ……、はい。すみません」
ハルは先生に促され、促されるままに足を動かした。けれど、その視線は、1年生たちに抱き起こされているネコの姿から離せない。
「ノラ! マジで凄かったぞ!」
「ハル先輩相手にあそこまで食い下がるなんて、うちのクラスの歴史に残るって!」
泥だらけになって倒れたユイの周りで、1年B組の仲間たちが我がことのように飛び跳ねて喜んでいた。
差し伸べられたたくさんの手に支えられながら、ユイはネコの身体を起こす。
――だが、足が、ピクリとも動かない。
(え……?)
脳から「立て」と命令を送っているのに、腰から下の感覚がまるで行方不明になったかのように重く冷え切っている。
ユイは焦って、ネコの細い太ももにぐっと力を込めて地面を蹴ろうとしたが、膝が完全に笑ってしまっていて、カクカクと震えるだけで一ミリも持ち上がらない。
(うそ、なんで……!? 動いてよ、私の足……じゃなくてネコの足!)
他人の肉体に憑依して、その限界を遥かに超えた爆発的な精神力でトラックを2周も激走した代償は大きかった。
(ど、どうしよう……! 足が全然動かない……!)
リレーで限界を超えて激走した反動は、想像を絶するものだった。鉛のように重くなった両足は一ミリも持ち上がらず、完全に感覚が麻痺している。
自分のせいでネコの身体をこんなボロボロにしてしまったという罪悪感と恐怖で、ユイは脳内でオドオドと震えるしかなかった。
けれど、そんなユイの焦りをよそに、1年B組のテントは大盛り上がりだった。
「ネコちゃんすごすぎるって!!」
「ハル先輩にそこまで追いつくなんて、マジで天才じゃん!?」
クラスの女子たちが一斉に集まってきて、ユイをこれでもかと褒め称える。そこに、フンスと鼻息を荒くしたハナコがぐいっと割り込んできた。
「みんな! 2位だよ、2位! これはもう、胴上げするしかないでしょーーーッ!?」
「え? ええっ!?」
ユイが止める間もなく、ハナコを筆頭にした女子たちにガシッと身体を抱え上げられた。
「せーの、わっしょーい!!」
「ひゃああっ!?」
視界がぐわんと浮き上がり、ユイの身体が青空に向かって高く放り投げられる。
「わっしょーい!」「わっしょーい!」
何度も何度も、クラスのみんなの手で宙に放り出される。
最初は「ちょっと、待って、危ないから……!」と完全にパニックになっていたユイだったけれど、下から見上げてくるみんなの弾けた笑顔や、温かい歓声を浴びているうちに、胸の奥がじんわりと温かくなっていった。
(あ、なんか……すごい……)
幽霊になってから、こんな風にみんなに囲まれて、真っ直ぐに喜んでもらえることなんてなかった。
なんだか夢の中にいるみたいで、ユイの心はいつの間にか、とても穏やかで、ふわふわとした幸福感に包まれていく。
――が、その心地よさが頂点に達し、身体が一番高く上がった、まさにその瞬間だった。
幸福感のあまりユイの意識が完全に「弛緩」してしまい、ネコの肉体との同調が、文字通りスポーンと綺麗に外れてしまったのだ。
「え……?」
宙に浮いた肉体の中で、ネコの意識が唐突にハッと目を覚ました。
ついさっきまで脳内でユイを応援していたはずなのに、気づけば視界が激しく上下して、なぜか青空が目の前に迫っている。
クラスの女子たちの「わっしょーい!」という大歓声が鼓膜を震わせる。
(え、何これ、どういう状況……?)
ネコが何が起きているのか一ミリも理解できず、完全に思考が停止したまま、重力に従って女子たちの手の上に落ちていく。
そして、肉体と意識が完全にガチッと噛み合った――その刹那。
「――――ツッッ!!!???」
ユイが忘れていた、リレーの爆走による限界突破の反動。筋肉の繊維がズタズタに引き裂かれるような強烈無比な大激痛が、両足からネコの脳髄へと一気に突き抜けた。
「ぎ、にゃあああああああーーーーーーっっっ!!!???」
あまりの激痛に、ネコは女子たちの手の上で、まるで油に放り込まれたエビのように激しくのたうち回った。
「ひゃああっ!? 」
「ちょっと、危ないから一回下ろして、下ろして!」
ハナコたちが慌ててネコを地面に着地させようとしたけれど、そもそも両足が完全にイカれているネコは立っていられるはずもなく、そのままテントの砂の上にドサリと崩れ落ちた。
両足の太ももとふくらはぎを抱え込みながら、涙目でビチビチと震える。
「だ、大丈夫……!?」
「でも、あんな人間離れした速さで走ったんだもん、そりゃ後からとんでもない反動がくるよね……」
クラスメイトの女子たちが、心配そうにネコを覗き込んで口々にそんなことを言い合う。
「……は?……速さ?……何の話、それ……?」
ネコは激痛で顔を引きつらせ、ジト目を限界まで泳がせながら、ハァハァと荒い息を吐いて呟いた。
すると、ハナコがネコの顔の前にしゃがみ込んできた。
「何の話って、ノラ、あんたリレーのアンカーで見たことないような爆走してたじゃん! ハル先輩とほぼ同時にゴールして2位だよ!? 自分で走っておいて何ボケてんのよ!」
「はぁぁぁっ!?」
ハナコの言葉を聞いて、ネコはますます頭の中がパニックになった。走った? 私が? ハル先輩と? 全く意味が分からないし、状況が1ミリも読み込めない。
○◆
「ふぅ、やっぱり走ると気持ちいいね」
ハルは額にじんわりと浮かんだ汗を軽く拭いながら、笑顔で2年Aクラスのテントへと戻ってきた。
あれだけの激走を繰り広げたというのに、呼吸は全く乱れておらず、涼しい顔をしている。
そんなハルのもとへ、レース中に転んでしまったクラスメイトの女の子が、申し訳なさそうに駆け寄ってきた。
「ハルちゃん、本当にごめんね……っ! 私が転んじゃったのに、ハルちゃんが凄い追い上げでカバーしてくれたおかげで1位になれたよ。本当に、本当にありがとう!」
「ううん、気にしないで。みんなでバトンを繋げられたのが一番嬉しいよ」
ハルが優しく微笑むと、周りのクラスメイトたちもハルのことをこれでもかと褒めちぎった。
ハルはみんなの絶賛に照れくさそうに笑顔で応えながら、ようやく自分の席へと腰を下ろした。
「はい、お疲れさん」
不意に、ハルの頬にひんやりとした冷たい感触が当たった。
見上げると、コトモが冷えたペットボトルをハルの頬に押し当てていた。コトモは、左手がないハルのために、手慣れた様子で最初からキャップをパキッと開けてからボトルを差し出してくれる。
「あ、ありがとう、コトモ」
「どういたしまして」
ハルが嬉しそうにボトルを受け取るのを見届けてから、コトモはその隣の席へと腰を下ろした。
ハルはお茶を一口飲んで息をつくと、グラウンドの向こう、1年B組のテントを見つめながらぽつりと言った。
「それにしても……ネコちゃんの最後の速さ、本当に凄かったなぁ。私、本気で追いつかれちゃうかもって思ったよ」
「まぁね。ハルには一歩届かなかったけど、あんたにそこまで肉薄するなんて、ただ者じゃないね」
コトモも同意するように頷く。
しかし、ハルの表情はどこか晴れない。ボトルを握る手に少しだけ力が入り、不思議そうに眉をひそめた。
「うん。でもね、なんだか不思議だったの。ネコちゃんが走っている姿、風の切り方、フォーム……それがどことなく、ユイにすごく似ている気がして…走っている間、なんだか心が落ち着かなかったんだよね……」
ハルの口から出た「ユイ」という名前に、コトモの切れ長の瞳が一瞬だけピクリと動いた。
「あはは、何言ってるのよ!」
しかし次の瞬間、コトモはいつものようにおどけた態度で笑い飛ばし、ハルの肩をぽんっと叩いた。
「気のせい、気のせい! ちょっと考えすぎなんじゃない? ほら、みんながあんたの話をまだしたがってるよ。主役なんだから、早く行ってあげなさいな」
「あ、うん。そうだね……!」
コトモに背中を押され、ハルはいつもの穏やかな笑顔を取り戻すと、手招きしているクラスメイトたちのもとへと歩いていった。
ハルが完全に輪の中に加わったのを見届けると、コトモの顔から一切の笑みが消え失せた。
コトモは誰も見ていないテントの影へと静かに移動すると、周囲を警戒しながら、地面に向かって低く、冷徹な声を落とした。
「……出てきて」
その声に応じるように、地面の土がわずかに盛り上がり、隙間から這い出てきたのは――赤黒く不気味に光る、一匹の巨大なムカデだった。
ムカデはコトモの足元で、無数の足をウニョウニョと蠢かせながら、まるで命令を待つように頭を持ち上げた。
コトモは冷ややかな瞳でその蟲を見下ろし、静かに、だけど拒絶を許さないトーンで告げた。
「あの1年の『ノラ』っていう女の子の周りを、至急調べてほしいの。……特に、彼女の背後に『視えない何か』が憑いていないかどうか。すぐに動いて」
ムカデは一瞬だけ激しく身体を震わせると、コトモの意図を理解したかのように、再び静かに土の中へと潜ろうとする。
「あ、それと」
コトモは土の中に消えかかっているムカデを引き留めるように、軽い調子で声を掛けた。
「あの『ノラ』って子、ムカデが大っ嫌いだから、絶対に姿を見られないようにしてね。もし見つかって倒れられたらハルが黙ってないから」
ムカデが無数の足をピチピチと蠢かせ、承知したかのように頭を揺らす。
コトモはさらに視線を鋭くし、最も重要な釘を刺した。
「当然だけど、このことはハルに絶対にバレないように動いて。……いいね?」
ハルの耳に入れば、彼女は優しさゆえに余計な心配をするか、あるいはコトモの独断を止めようとするかもしれない。それだけは避けたかった。
「あとは、これは伝言。……ムカデ様には、いつでもこっちに出られるように準備をしておいてほしいって、伝えておいて」
コトモがそう告げると、ムカデはまるで「なぜそこまでするのか」と訳を尋ねるように、不気味に身体をくねらせて複雑な動きを見せた。
コトモはグラウンドの喧騒に視線を戻し、ハルがみんなと笑い合っている姿を遠目に見つめながら、感情を抑えた声で呟いた。
「……状況によっては、少し手荒なことをしなくちゃいけないかもしれないから」
ノラの異常なまでの回復力と速度。
もしもあの1年生の背後に、ハルを脅かすような何かが潜んでいるのだとしたら——
コトモは手段を選ぶつもりはなかった。
命令を完全に理解したムカデは、今度こそ音もなく土の奥深くへと潜り、1年B組のテントへと這い進んでいった。