グラウンド中央では早くも異常な光景が繰り広げられていた。客席まで吹っ飛んだはずのハルが何事もない顔で戻ってくると、ゴンザレスは獰猛な笑みを浮かべて彼女を睨みつけた。
「フン……『この町で一番強い女だ』と評されるだけはある。私のタックルを喰らって、その程度で済む人間などそうそういない!」
だが、ゴンザレスはハルのどこまでも穏やかで涼しい顔が、どうしても気に入らなかった。
まるで自分の攻撃が、大した脅威になっていないと言われているような屈辱。
「だが、その余裕がどこまで持つかな!!」
ゴンザレスは咆哮と共に、丸太のような両腕を伸ばしてハルに強引に掴み掛かった。
まともに捕まれば骨ごとへし折られかねない握力。
しかし、ハルはまるで最初から軌道が見えていたかのように、流れるような動作でその巨躯をひらりと一歩でかわす。
それだけではない。
ハルはかわした勢いのまま地面に滑り込み、ゴンザレスの巨体の股の下を鮮やかなスライディングで瞬時にくぐり抜けた。
「何っ!?」
ゴンザレスが驚愕して振り返ったときには、ハルはすでに地を蹴って高く跳躍していた。
その狙いはただ一つ――
3人の女子に担ぎ上げられ、高い位置から戦況を見下ろしているネコの頭。
「ネコちゃん、もらったよ!」
ハルは空中で鋭く手を伸ばし、ネコの頭にある大将の鉢巻を一気に奪い去ろうとする。
だがネコもただ見ているだけではなかった。
「……っ、危な……!」
ネコは担いでくれているハナコたちの肩の上で、間一髪、身体を極限まで後ろに反らしてハルの手をすんでのところでかわしてみせた。
空中をかすめて着地したハルは、驚きと感心の混ざった顔でネコを見上げる。
「あはは、やっぱりネコちゃんは賢いなぁ。ちゃんと私の動きを見てたんだね」
「ハル、よそ見をしている場合か!!」
すぐさま背後から怒り狂ったゴンザレスが地響きを立てて追いかけてくる。
ハルは楽しそうに笑いながら、ゴンザレスの繰り出す規格外のパンチやタックルを、まるでダンスでも踊るかのように紙一重で次々とかわしていった。
その様子を高い位置から見届けると、ネコはハチマキをきゅっと引き締め、担いでくれているハナコたちに指示を出した。
「よし……ゴンザレスがハル先輩を抑えてくれているうちに、あっちの棒へ行くよ」
ハルという最大の脅威がゴンザレスに付き合っている今こそ、2年A組の棒を落とす最大の好機。ネコを担いだ騎馬は、一気に敵陣の棒へと突撃を開始した。
しかし、近づくにつれ、ネコの顔に緊張が走る。
「……やっぱり、そう簡単にはいかない、か……」
そこには、2年A組の強固な防衛陣形が完成していた。
クラスの女子たちが肩をがっしりと組み、棒を取り囲むようにして幾重もの綺麗な円形になって守りを固めている。
そしてその中心――守りの要である棒の、一番てっぺん。
副将のハチマキを頭にきゅっと巻いたコトモが、まるで玉座にでも腰掛けるかのように、棒の上にちょこんと座って不敵な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「――みんな、引いて!! 撤退、撤退!!」
2年A組の強固な陣形と、棒の上で不敵に笑うコトモの姿を見た瞬間、ネコは拡声器に向かって全力で叫んだ。
その指示があまりにも早かったため、勢いよく突撃していた1年B組の女子たちは一瞬だけ足がもつれそうになったが、すぐに蜘蛛の子を散らすようにして自陣へと一斉に引き返していく。
「……あれ? 帰っちゃうんだ」
棒の上に座っていたコトモは、攻め込んできたはずの1年生たちが一瞬で逃げていくのを見て、呆気にとられたようにポツリと呟き、苦笑いを浮かべた。戦う前から戦意喪失したようなあまりの引き際の早さに、さすがのコトモも少し困惑を隠せない。
しかし、引いていく1年生の動きを上からじっと観察していたコトモは、ある違和感に気づいて目を細めた。
引き返す女子たちの足並みはバラバラになって逃げているように見える。
そのせいで、3人に担がれている司令塔のネコが、守る者もなくポツンとグラウンドの中央に取り残され、完全にガラ空きの状態になっていた。
「ノラちゃん、完全に孤立しちゃってるじゃん。ねえ、半分は棒を守って。残りの半分は、あのガラ空きのノラちゃんを追いかけちゃって!」
コトモの的確な指示で、2年A組の女子たちの半分が、取り残されたネコの騎馬を仕留めるために一斉に走り出す。
「コトモちゃん、ノラちゃんを追うより、このままあっちの1年の棒を狙いに行った方が早いんじゃない?」
守りに残った女子の一人が不思議そうに尋ねると、コトモは少しだけ歯切れが悪そうに、視線をグラウンドの端へと向けた。
「……それは後。まずは大将のハチマキを確実に狙うのが先」
コトモのその説明はどこか濁したようなトーンだったけれど、彼女の頭の中では、ネコの『狙い』が少しずつ、だけど確実に繋がり始めていた。
(あの子……こっちが先に棒を倒して試合を終わらせるようなことはしないって、完全に確信してる)
なぜなら、今日このグラウンドの片隅には、地元の新聞記者がカメラを構えてやってきている。
学校の広報的にも、地域のイベントとしても、本日の目玉である女子の棒倒しが一瞬で終わってしまうような展開は、絶対に避けなければならない大人の事情がある。
ハルたち2年生が、空気を読まずに開始数十秒で棒を倒して試合を終わらせるようなつまらない真似はできないと、あのネコは完全に踏んでいるのだ。
(その証拠に……)
コトモが1年B組の見ると…
なんと、1年B組の巨大な棒を支えているのは、たったの「2人」だけ。
残りの全員は、まるで棒の防衛なんてハナから放棄しているかのように、ゴンザレスの周囲で暴れたり、ネコと一緒にウロウロしたりしている。
ルール上、棒を倒されたらその時点で試合終了だというのに、あまりにも極端すぎる、狂気じみた人員配置だった。
(こっちの事情逆手に取って、自陣の守りを完全に2人だけに割くなんて……。これじゃ人数的にこっちの方が不利じゃん)
コトモは棒の上で小さくため息をつきながら、逃げるネコの背中を険しい視線で見つめ直すのだった。
ーーーその頃、ハルの方は。
「とおっ!」
ハルは目の前に迫る丸太のような拳を、上体をぐにゃりと後ろに反らせて間一髪で回避した。ブンッ、と空気を切り裂く凄まじい風切り音がハルの耳元をかすめていく。
(……っていうかゴンザレスさん、もう完全に私を殴りにきてるよね……?)
ハルは内心で(それ、普通に反則なんだけどな……)と苦笑いしながらも、とにかく捕まらないように必死でグラウンドを逃げ回る。
ルールなんてハナから眼中にない野生のプロレスラーを相手に、まともに話し合いができる空気ではない。
しかも、ゴンザレスの進撃は止まらなかった。
「邪魔だァーーーッ!!」
ゴンザレスが吠えながら腕を振るうたび、グラウンドに設置されていた競技用のハードルや大玉転がしの玉といった障害物が、まるで紙屑のように次々と派手に薙ぎ払われていく。
木片や砂が激しく飛び散り、ゴンザレスの背後には凄まじい砂煙が巻き起こっていた。
「わわっ、危ない危ない!」
ハルはその破壊の嵐の中を、ステップと華麗な身のこなしでひらひらと完全にかわし続けていく。
けれど、どれだけハル自身の身体能力が規格外だとしても、周囲の状況まではコントロールしきれなかった。
ゴンザレスが巻き上げる強烈な砂埃のせいで、視界は急激に真っ白に染まっていく。
おまけに、ネコの指示で蜘蛛の子を散らすように引き返してきた1年生の女子たちと、それを追う2年生の女子たちがグラウンド中央で完全に鉢合わせ、敵と味方が敵味方入り乱れて大混戦になっていた。
「キャーッ!?」
「ちょっと、ノラちゃんどこ行ったの!?」
あちこちから上がる悲鳴と怒号。白く煙る砂嵐。
(うーん、困ったな……。砂埃とみんなの動きがゴチャゴチャに乱れすぎて、今どこで誰が何をしてるのか、全然状況がわからないよ……)
いつもなら冷静に見渡せるはずのハルも、この混沌とした状況にはさすがに眉をひそめ、逃げながらも必死にネコや自陣の棒の様子を探ろうと視線を泳がせる。
○○○○○○○○
「……? 何か変…」
棒の上に座って戦況を見下ろしていたコトモは、違和感を覚えて小さく首を傾げた。
ガラ空きのネコを捕まえるために追いかけさせたはずの2年生の女子たちが、なぜか思うようにスピードを上げられていない。
それどころか、何人かは足の裏を押さえるようにして痛そうに顔を歪め、中には完全に立ち止まってしまう子まで出始めているのだ。
「どうしたのみんな……」
コトモはすぐに鋭い瞳を凝らし、女子たちが足止めを食らっている地面の様子をじっと見つめた。そして、すぐに目を細める。
(……あそこに、土が全然ない!?)
体育祭のグラウンドは、基本的に裸足で行う競技が多い。
そんな状況で、クッションとなる柔らかい土が削ぎ落とされ、硬い地肌が剥き出しになっているエリアに突っ込むのは致命的だった。
踏み込むたびに足の裏に激痛が走り、まともに走れるはずがない。
しかし、なぜそこだけ土がないのか――その理由はすぐに分かった。
一つは、さっきからゴンザレスとハルが文字通り嵐のように暴れ回り、周囲の土を派手に吹き飛ばしたせいだ。
けれど、理由はそれだけではなかった。よく見ると、逃げ回っているはずの1年の女子たちが、走りながら不自然に足元を激しくすりつけ、意図的に地面の土を周囲に蹴り飛ばして削り取っていたのだ。
(最初のうちに逃げたのはそれも狙いのうち…!?)
2年生の追いかけていた女子は完全にネコに追いつけなくなった、まさにその瞬間。
それまで必死に逃げ回る素振りを見せていたネコが、担がれたままパッと表情を変え、鋭く叫んだ。
「――今だよ! みんな、一気にあの棒を狙って!!」
「おーーーッ!!」
ネコの合図と同時に、それまでバラバラに逃げていたはずの1年生たちが一斉に反転した。
足を痛めて動きの鈍った2年生をあざ笑うかのようにすり抜け、コトモが一守る2年A組の棒に向かって、まるで群れのようにドッと群がっていった。
「……よし、かかった」
群がっていく1年生たちの背中を見送りながら、ネコは確信していた。
(足を痛めた2年生が体勢を立て直して、コトモ先輩の助けに入るまでには、絶対に時間がかかる……。その前に、あの棒を落とす!)
ネコを担いでいるハナコが、走るスピードを落とさないまま上を見上げて言った。
「ねえノラ! 棒を倒しちゃったら試合終了で、加点は狙えなくなっちゃうけどいいの!?」
「加点はもちろん狙うよ!でもハチマキじゃない!」
1年B組の女子生徒たちが、雄叫びを上げながらコトモの座る棒へと一斉に飛びかかった。
「そこ、退いてコトモ先輩ーーーッ!!」
怒涛の勢いで群がる後輩たち。しかし、棒のてっぺんにいたコトモは、一切動じることはなかった。
「…やるじゃん」
コトモは棒の先端を支点に、まるで体操選手かのようにしなやかに身体を躍動させた。
驚くべき体幹と跳躍力で棒の周りをひらひらと飛び回り、迫り来る1年生たちの手を、鋭く正確なキックで次々とパシィン、パシィンと鮮やかに振り払っていく。
「なっ……!?」
ネコは思わず、開いた口を両手で押さえた。目が驚愕で丸くなる。
(嘘……コトモ先輩があんなに動けるなんて、完全に予想外……っ!)
コトモ先輩といえば、ハルの後ろで一歩引いてサポートに徹しているイメージが強かった。
まさか、ハルに負けず劣らずのこんな華麗な身のこなしで、何人もの1年生女子をたった一人で完璧に捌ききれるほど身体能力の持ち主なんてネコの作戦の中にも入っていなかったのだ。
不敵な笑みを崩さないコトモの圧倒的な防衛力の前に、ネコの計算は再び大きく狂い始めようとしていた。
「みんな、もう一回撤退!! 引いて、引いて!!」
コトモの予想外の強さを目の当たりにしながらも、
ネコは瞬時に頭を切り替え、鋭く指示を飛ばした。
その声に応じて、棒に群がっていた1年生の女子たちは、またしても一斉にサーッと引いていく。
「なっ……また引くの!?」
2年A組の女子たちが困惑し、足を痛そうに引きずりながらも、再びガラ空きになったネコの騎馬を捕まえようと追いかけ始める。
けれど、硬い地肌のせいでどうしてもスピードが上がらない。
「はい、反転! もう一回、棒を狙って!」
ネコが間髪入れずに叫ぶと、追いつけそうにない距離を保っていた1年生たちが、再び鮮やかに反転してコトモの守る棒へと突撃していく。
「くっ……! ちょこまかと、本当に鬱陶しいわね……っ!」
棒の周りを飛び回りながら、迫り来る手を再び足で捌いていくコトモだったけれど、その額には、さっきまではなかった僅かな汗がじわりと浮かんでいた。
ネコはその様子を見逃さなかった。
いくらコトモ先輩の身のこなしが華麗だとしても、あれだけ何度も飛び回っていれば、確実に体力を削られているはずだ。
(コトモ先輩、確実に消耗してる……! だったら、このまま繰り返して限界まで削る!)
引いては攻め、攻めては引く。ネコが容赦なく仕掛ける果てしない波状攻撃の前に、コトモは防戦一方になりながらも、心の中で毒づいていた。
(……ハルには『守りを徹底してね』なーんて事前に言われてたけどさ。守ってばかりいるのも、相当体力使うんだよなこれが…!)
息が少しずつ上がり始め、キックのキレが僅かに鈍り出す。それでもコトモは意地でも棒に触れさせまいと必死に防衛を続けていた。
そんなグラウンドの狂乱を、一人、救護テントの影から見守る存在があった。
『がんばれ……! がんばれ、ネコ……っ!』
それは、ユイだった。
自分の無茶な爆走のせいで、ネコの両足をボロボロにしてしまったという強い罪悪感。
だからこそ、その激痛を抱えながらも、泥臭く、執念深くハルたちに食らいつこうとしているネコの姿が、ユイの目には最高に格好よく映っていた。
自分の姿が誰にも見えないことも忘れて、ユイは胸の前で小さな両手をぎゅっと握りしめ、静かな声で、必死にネコへとエールを送り続けていた。
○○○○○
「はぁ、はぁ……っ! しつこいっ!」
今度の1年生たちは、今までの引き際の良さが嘘のように、泥臭く粘り強く棒にしがみついてきた。
コトモは呼吸を激しく乱しながらも、棒の上で必死に身体を捻り、襲いかかる手を一本、また一本と力任せに振り払っていく。
周りの2年生女子たちも、足の痛みに耐えながら悲鳴混じりで応戦し、なんとか押し返した。
「……っ、みんな、下がった……!?」
1年生たちがようやく退散していくのを見て、コトモは棒のてっぺんで大きく肩を上下させた。
額からは大粒の汗が流れ落ち、視界がチカチカする。
「はぁ、はぁ……ちょっと休憩……」
体力を回復させるため、コトモが目を閉じて深く深呼吸をした、まさに、その刹那だった。
ガシッ!!!
「――えっ!?」
背後から、不意に強烈な力で衣服を、そして身体を直接掴み上げられた。
驚愕してコトモが目を見開くと、棒の裏側にいつの間にか回り込んでいた2人の1年生女子が、笑みを浮かべてコトモの身体をがっちりとホールドしていた。
(嘘……いつの間にここまで……!? っていうか、この2人……!)
コトモの背中に冷や汗が流れる。その2人は、さっきまで大将であるネコを担いでいたはずの、あの屈強な騎馬達だったのだ。
コトモが慌ててグラウンドの中央へ視線を戻すと、そこには、信じられない光景が広がっていた。
「……はぁー、はぁー……っ! ちょ、マジで……重いって、ノラ……っ!!」
ハナコが一人で、顔を真っ赤にして猛烈に息を上げながら、なんとネコを「おんぶ」した状態でグラウンドに立ち尽くしていた。
騎馬を解体し、残りの2人をコトモに回していたのだ
「重いとか言わないの。我慢して」
背中におんぶされたネコは、引きつったジト目のまま、ハナコの頭をペチンと容赦なく叩いた。
「ひゃうんっ!? 叩くことないじゃん!」
「いいから。ハナコが私に体育祭の準備を全部押し付けた分、ここはしっかり動いてもらうからね。……ほら、あっち! 敵が近づいてきてる、動いて!」
「ひぇぇ〜〜〜! 鬼、悪魔、ノラァ〜〜!!」
ハナコは涙目になりながらも、ネコを背負ったまま再びグラウンドを泥臭く動き回り始めた。
コトモは完全に裏をかかれ、身動きを封じられてしまうのだった。
「ちょっと、あんたたち! コトモから離れなさいよ!」
2年A組の女子たちが、足を痛そうに引きずりながらも、コトモに背後からがっしりと掴みかかっている1年生の2人を力任せに引き剥がそうとする。
「あ、危ない! 触らないで、やめなさい!」
けれど、上空のコトモが悲鳴に近い声を上げてそれを制止した。
ただでさえ限界を超えて消耗しているところへ、背後から急に引っ張られたのだ。
周りが下手に2人を引き剥がそうと揉み合えば、その反動でコトモ自身が完全にバランスを崩し、棒の上から真っ逆さまに地面へ叩きつけられてしまう。
「くっ……! この、案外力強いね……っ!」
コトモが動きを止めたその一瞬の隙を、1年B組の女子たちが逃すはずがなかった。
「今だあぁぁーーーッ!!」
「コトモ先輩をもぎ取れーーーっ!!」
退散したと見せかけていた1年生たちが、猛獣のようになだれ込んで一斉に棒へと群がってくる。
いつもなら得意の跳躍でひらひらとかわすコトモだったが、今は背中に2人の人間ががっしりとぶら下がっている状態だ。自慢の軽い身のこなしは完全に封じられ、飛び跳ねることさえ満足にできない。
「っ!?」
迫り来る無数の手が、コトモの体操着や、頭の副将ハチマキへと一斉に伸びてくる。
引きずり降ろされそうになる猛烈な重力と衝撃に耐えるため、コトモは棒の先端に必死にしがみつき、自身の純粋な筋力だけでその場に身体を留めるしかなかった。
(やばい……っ! 本気でやばい……!! これ、ハチマキを取られるどころか、私の筋力が切れたら一気に棒ごと持っていかれる……っ!)
細い腕に青筋を立て、コトモは冷や汗まみれで耐え続ける。
後輩たちの泥臭い執念の前に、肉体一つで耐え忍ぶ絶体絶命のピンチに追い込まれていた。
○○○○○○○○○
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!!」
グラウンドの中央で、ゴンザレスは肩を激しく上下させ、滝のような汗を流していた。
これまで国内外のどんな屈強な大男を相手にしても、体力やスタミナの面で後れを取ったことなど一度もなかった。
それなのに――目の前に立つ小柄な少女、ハルには、どれだけ全力を尽くしても追いつくことさえできなかった。
対するハルは呼吸一つ乱していない。
まるで近所を軽く散歩してきたかのような、どこまでも涼しい顔だ。
(馬鹿な……! この私が、スタミナで負けているというのか……!?)
生まれて初めて味わう圧倒的な実力差に、ゴンザレスの心にドス黒い焦燥感が湧き上がる。
だが、それを打ち消すようにすぐにハルを猛然と睨みつけると、獣のような咆哮を上げた。
「ナメるなァァァアアーーーッ!!」
これが最後と言わんばかりの、地響きを立てるほどの猛烈なタックル。世界を震撼させたその巨躯の突撃が、ハルの無防備な身体へと真っ直ぐ突き刺さる。
しかし、ゴンザレスは目を見開いたまま、その場で完全に硬直した。
「……な、に……っ!?」
ハルは、一歩も、一ミリも動いていなかった。
ゴンザレスの丸太のような両腕を正面からがっしりと受け止め、大地に根を張った大樹のように微動だにしない。
ビクともしないのだ。
そんなゴンザレスを見つめながら、ハルはいつもの穏やかなトーンで、ぽつりと言った。
「ゴンザレスさん。私ね、この試合もしネコちゃんの作戦通りに動かれていたら、本気でまずかったんだよ」
「……何を、言って……っ!」
歯を食いしばり、必死に力を込めるゴンザレスの耳元で、ハルは淡々と話を続ける。
「こっちは事情があって、すぐに相手の棒を倒して試合を終わらせるわけにはいかなかったの。でもね、ネコちゃんたちにはそんなの関係ないでしょ? だから、もしネコちゃんが貴方を私のマークじゃなくて、あっちの棒の攻撃に向かわせていたら……私が貴方を止めるためにずっと防戦一方になって、あっちの棒を守りきることはできなかったと思うんだ」
そこまで言うと、ハルは少しだけ困ったように、だけどクスッと微笑んだ。
「だからね、貴方がネコちゃんの指示を無視して、こうして私だけにずっと突っ込んできてくれたのは……私にとってはすっごく都合が良かったんだよ」
「なっ……!?」
ゴンザレスがハッとした瞬間には、すでに遅かった。
ハルは受け止めていたゴンザレスの両腕を信じられない怪力で掴み取ると、電光石火の早さでその巨体を背負い込み――。
「えいっ!」
ドォォォオオンッ!!!
豪快な一本背負いで、ハルは自分よりも遥かに巨大な世界ランカーの身体を、グラウンドの砂土へと派手に投げ飛ばした。激しい砂煙が舞い上がり、ゴンザレスは完全に天井を仰ぐ形で地面に叩きつけられるのだった。
ドォォォオオンッ!!!
投げ飛ばされたゴンザレスの巨体が、凄まじい地響きを立ててグラウンドを転がっていく。
運悪くその軌道上にいた1年生の女子たちは、降ってきたゴンザレスを見て大パニックになった。
「いやあああぁぁぁーーーっ! 降ってきたぁぁあ!」
「逃げて! 潰されるーーーっ!」
蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げて逃げ惑う1年生たち。
どうにか直撃こそ免れたものの、地面に激しく叩きつけられて完全にのびているゴンザレスの姿を見て、周囲の女子たちは一瞬で血の気が引いた。
「う、嘘でしょ……あのゴンザレスが負けた……?」
2mの怪物が文字通り一撃で沈んだ。その圧倒的な絶望感を前に、1年生の陣形に一気に戦慄が走る。
「っ!じゃあハル先輩はっ!」
ハナコの背中におんぶされたネコも、だらだらと冷や汗を流しながら最悪の結末に顔を引きつらせた。
慌ててハル先輩がいたはずの場所へと視線を戻す。
しかし――そこにはもう、誰もいなかった。
(えっ――)
「ハナコ! 逃げて、早く!! 左! 違う、前!!」
ネコが狂ったように叫んだ瞬間には、もう手遅れだった。
激しい砂煙を割って、何事もなかったかのように涼しい顔をしたハルが、信じられないトップスピードでハナコとネコの目の前まで一瞬で肉薄していたのだ。
「ノ、ノラちゃん、どこに逃げればいいのぉーっ!?」
ハナコは涙目になりながらも、本能的な恐怖でがむしゃらに地を蹴って走り始める。
「待って、みんな! ハル先輩を止めて!! 囲んで!!」
ネコの必死の号令で、我に返った1年生の女子たちが肉壁になろうとハルの前に次々と立ちはだかる。
しかし、本気になったハルの前では、もはや数など何の意味もなさなかった。ハルは迫り来る後輩たちを、まるでステップを踏むかのような軽やかな身のこなしでひらひらと、文字通り子供扱いできれいに全頭かわしていく。
終盤でスタミナが切れかけていた女子達はハルに追いつけず、みんな地面に膝をつき、中には倒れてしまうものもいた。
「ネコちゃん、みーつけた」
気がついたときには、ハルは障害物を全てすり抜け、ハナコにおんぶされたネコの目の前に、遮るもののない至近距離で、いつもの穏やかな笑顔で立っていた。
「ねえ、なんだかこうやってお話しするの、すっごく久しぶりな感じがするね」
目の前に立ち塞がったハルは、緊迫した試合中だというのに、まるで放課後の教室でバッタリ会ったかのような のほほんとしたトーンで話しかけてきた。
すると、ネコを背負ってガタガタ震えていたはずのハナコが、急にパッと顔を輝かせて笑顔になった。
「あ、ハル先輩! そうですね、ちゃんとお話しするのは1週間ぶりくらいです!」
ペチンッ!!
「痛っ!?」
「何世間話に花咲かせてんの!早く逃げなさいって言ってるでしょ!」
背中からネコに容赦なく頭を叩かれ、ハナコは「あぅ、そうだった……!」と涙目で再び身構える。
そんな2人のやり取りを見て、ハルはクスッと優しく微笑んだ。
「ううん、逃げなくて大丈夫だよ。……ネコちゃん、今回の体育祭、すっごく頑張ったんだね。私との戦力差を埋めるために、色々と事前に作戦を考えて準備して……それに自分たちにできることを全部やったのは、本当に本当に凄いことだと思うよ」
ハルからのまっすぐな称賛に、ハナコは自分のことのように「へへ、先輩に褒められちゃった」と鼻を高くして照れ笑いを浮かべる。
だけど、ハルは少しだけ困ったように眉を下げて、ハナコの方をじっと見つめた。
「でもね、ハナコちゃん。ゴンザレスさんの力に頼る作戦だったのに、それを事前にネコちゃんにちゃんと説明して共有してなかったのは、作戦としてちょっと良くなかったんじゃないかな?」
「ひぇっ、ご、ごめんなさい……!」
ハル先輩に諭され、ハナコはぐうの音も出ずに素直にシュンと首をすくめて謝った。
ハナコが完全にハルに懐柔されていく様子を見て、ネコは引きつった目でハルをキッと睨みつけ、背中の上でぐっと胸を張って強がってみせた。
「……さ、作戦のミスは認めますよ! でもね、ハル先輩。いくら先輩がすごい身体能力だからって、こんな高い位置にある私のハチマキはそう簡単には届かないし、取れないはずですよね……っ!?」
物理的な高低差を盾にして、ネコは必死に声を張り上げた。自分たちの棒が倒されるか、自分のハチマキが取られるか、どちらが先かの時間稼ぎだ。
しかし、ハルは全く動じることなく、その綺麗な瞳を一層和ませて微笑んだ。
「ううん、そんなことないよ。ちゃんと取る方法はあるんだよ?」
その迷いのない、どこか楽しげなハルの言葉に、ネコの背筋にゾクッと冷たい悪寒が走る。
「それはね――えいっ」
ハルはいたずらっぽくウインクすると、ネコを背負うハナコに向けて、至近距離から完璧な角度の「投げキッス」を放った。
いつも以上にキラキラとした後光がハルの背後に見えそうなほどの、圧倒的な美貌と破壊力。
「ぐはっ!!!!!????!」
ハナコはあまりの美しさと尊さに顔を真っ赤に染め上げると、鼻から勢いよく鮮血を吹き出し、そのまま白目を剥いてグラウンドへ盛大にぶっ倒れてしまった。
「ちょっと、ハナコォーーーッ!?」
土台を失ったネコは、悲鳴を上げながらハナコの背中から無様に転げ落ち、グラウンドの砂土へと崩れ落ちた。
痛む両足のせいで立ち上がることもできず、ネコがパッと慌てて顔を見上げると――。
そこには、逆光を浴びながら優しく微笑むハルの姿があった。
「ふふ、ネコちゃん。今回は本当に、私たちが負けちゃうんじゃないかって何度もヒヤッとしたよ。これ、本当に本音なんだからね」
ハルはネコの前にしゃがみ込むと、泥だらけのネコの頭を愛おしそうに撫でた。
「最後まで諦めないで、すっごく頑張ったね」
「あ……」
ハルがそう囁いた瞬間、ネコの片頬に、柔らかく温かい感触が触れた。ほんの一瞬、ハルからネコへの、健闘を称える優しいキス。
「っ……!?!?!?」
心臓が跳ね上がり、ネコが羞恥と混乱で顔を真っ赤にしてフリーズしている間に、ハルはネコの頭に巻かれていた大将ハチマキを、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、するりと抜き取る。
ネコは呆然としたまま、ハルにキスされた自分の頬を震える手でそっと撫でていた。頭が真っ白で、感情の整理が追いつかない。
ドサリ……。
そしてグラウンドの喧騒の向こうで、それまでずっと耐えていた1年B組の巨大な棒が、力なく砂土へと倒れ込んだ。
大将のネコと副将のハナコが完全に仕留められたのを見て、2人だけで健気に棒を支え続けていた女子生徒たちが、緊張の糸が切れたようにガックリと手を離してしまったのだ。
これで2年A組の完全勝利が名実ともに確定した。
「……はぁ。本当に、完敗……だね」
ネコは地面に座り込んだまま、未だに自分の横で大の字になって倒れているハナコを見下ろした。
「……起きてよハナコ。負けちゃったよ」
ネコの声にピクリと反応し、ハナコはゆっくりと重い瞼を開けた。まだ間抜けな顔のまま、戸惑ったように周囲を見回す。
「……あれ? 私、もしかして……気絶してた……?」
「そうだよ。おかげで綺麗にハチマキ持っていかれたわ」
状況を把握したハナコは、顔を真っ赤にして勢いよく飛び起きると、ネコに向かって必死に両手を合わせた。
「ご、ごめんノラァ! 私が最後の最後であんなヘマしなきゃ、まだワンチャンあったかもしれないのに……っ!」
「いいよ、楽しかったし」
ネコはため息をつきながら、泥のついた体操着を軽く払った。そして、少し離れた場所でようやく意識を取り戻し、悔しそうに頭を押さえている巨躯を見つめる。
「……それに、今回の作戦、ゴンザレスさんがいなかったらハル先輩とまともに勝負することすらできてなかった。ハル先輩を一瞬でも足止めできたのなんて、あの人くらいだしね」
ネコはハナコを小突いた。
「こうなるって全部分かってて、わざわざ世界ランクのプロレスラーなんて学校に呼び出したんでしょ?」
図星を突かれたハナコは、「あはは……」と気まずそうにポリポリと頭を掻いた。
「内緒で勝手に呼んじゃったのは怒ってるけど……」
ネコはハナコの目をまっすぐに見つめると、少し照れくさそうに、だけど心からの言葉を口にした。
「ハル先輩に対抗するために、そこまで考えて動いてくれたんだもんね。……ありがとね、ハナコ」
真っ直ぐに感謝を告げられると思っていなかったのか、ハナコは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに申し訳なさそうな、どこか愛おしそうな表情を浮かべると、ギュッとネコの手を握りしめた。
「ううん。……何も言わないで勝手に行って、ハル先輩の対策だって言って変な人連れてきちゃって……本当にごめんね、ノラ」
勝敗は決してしまったけれど、2人の間を流れる空気は、どこか晴れやかだった。
○○○○○
「コトモ、本当にお疲れ様! 守りきってくれてありがとう!」
試合終了の合図が響き渡る中、ハルは回収したハチマキを手に、くたくたになって棒から降りてきたコトモの元へ駆け寄った。
コトモは肩を激しく上下させ、額の汗を雑に拭いながら、どこかやりきったような苦笑いを浮かべた。
「……本当にしんどかったわよ。ハルがモタモタしてたらマジであの場で棒ごと倒れてたんだからね」
「あはは、ごめんね。でもコトモが耐えてくれたおかげで勝てたよ。……それにしても、後半の1年生の勢い、凄かったなぁ。結構ピンチだったよね」
ハルがしみじみと言うと、コトモは腕をさすりながら、遠くでハナコと座り込んでいるネコの姿を見つめた。
「…こっちが『安易に棒を倒せない』って、あのノラちゃんに見抜かれたあたりから、正直どうなるか分からなかったわ。ハルを封じるために、本当に勝つための最善手を徹底して、泥臭く頑張ってたんだなって思うよ」
コトモの口から出た、後輩への素直な評価。それを聞いたハルは、嬉しそうに目を細めて深く頷いた。
「うん、そうだね。ハナコちゃんがプロの選手を海外から呼ぶのだって、普通の女子高生には絶対に真似できない、もの凄い苦労があったはずだもん。事前準備も、全部ひっくるめて彼女たちの『努力』だよね」
そう言って笑い合うと、ハルは「ちょっと行ってくるね」とコトモに手を振った。
激闘の興奮が冷めやらぬグラウンドの砂を踏み締めながら、ハルは、未だに悔しさと気恥ずかしさが混ざったような顔で座り込んでいるネコの元へと、ゆっくりと足を運んでいった。
「ネコちゃん、本当にお疲れ様!」
ハルは座り込んでいるネコの前に来ると、いつもの弾けるような笑顔で声をかけた。
ネコはパッと顔を上げたものの、さっき頬にキスされた気恥ずかしさがまだ残っているのか、すぐに目を泳がせて赤くなった顔を背けてしまった。
「……ハル先輩。お疲れ様、です……。でも、私、あんな大口叩いてそれで結局負けたんですから……。正直、恥ずかしくてハル先輩とまともに顔合わせられないですよ」
膝を抱えて小さくなるネコ。しかし、ハルは「そんなことないよ」と優しく笑って、その場に屈み込んだ。
「恥ずかしくなんてないよネコちゃん、ちゃんと勝ちたいって気持ちで頭をフル回転させて、できる限りのことを全部やって……その頑張りは、私にも、みんなにもちゃんと伝わってるよ」
そう言って、ハルはネコの泥だらけの髪を優しく、愛おしそうに撫でた。あたたかい手のひらの感触に、ネコの身体からすうっと余計な力が抜けていく。
「さ、もう試合は終わり。テントに戻ろ? はい、立って」
ハルがそう言って手を差し伸べ、ネコを立たせようとする。しかし、ネコが自分の足に力を入れようとした瞬間、両足の筋肉がピキピキと拒絶するように震え、再びその場にへたり込んでしまった。
「あ、あれ……っ?」
「ネコちゃん? どうしたの?」
ネコは情けなさそうに自分の両足を押さえ、顔をしかめた。
「……すみません。足に全然力が入らなくて、立てないんです……」
「そっか、限界まで頑張っちゃったんだね。分かった、じゃあ――」
ハルは少しも躊躇うことなく、ネコの小さな身体の下にすっと腕を滑り込ませた。
「え、ちょっと――ハル先輩っ!?」
驚くネコを、ハルは軽々と抱き上げた。
ハルにとって、小柄なネコを抱え上げるなど羽毛を持ち上げるようなものだ。
ネコは突然視界が高くなったことと、ハルの顔が近すぎることにパニックになり、顔を真っ赤にしてバタバタと手を動かした。
ハルはそんなネコの慌てぶりを気にする風でもなく、そのままスタスタと歩き出し、なんと1年生ではなく、自分たちのいる2年A組のテントへとネコを連れていってしまった。
「あ、あの! 先輩!? こっちは2年生のテント……!」
「いいのいいの、こっちの方が今は静かだからね」
ハルはテントの奥にあるパイプ椅子にどさりと腰を下ろすと、抱きかかえていたネコを自分の膝の上にぽん、と乗せた。
しかも、ただ横に乗せるのではなく、ネコとハルがお互いに胸を合わせ、正面から向かい合うような格好で抱きすくめる形だ。
「わ、わわっ……!?!? 先輩、近いです、近すぎますって……っ!」
至近距離で見つめ合う形になり、ネコの心臓は破裂しそうなほど激しく鳴り響いた。ハルの優しい匂いと体温がダイレクトに伝わってきて、ネコはもう完全に真っ赤な茹でダコ状態になってしまうのだった。
「ハル!! そこで何やってんの!」
テントの奥から、冷たいお茶のペットボトルを両手に持ったコトモが、完全に引きつった顔で戻ってきた。
ハルがネコを自分の膝の上に正面から抱き乗せ、たった一本の右腕でがっちりとホールドしているその異様な光景を見て、コトモは持っていたお茶を落としそうになる。
「何って……ネコちゃん、足が立たなくなっちゃったから、ここで保護してるんだよ?」
しかし、ふとテントの外に目をやると、リーダーを目の前で連れ去られた1年生の女子たちが、2年生のテントの周りを蛇に睨まれた蛙のようにあたふたと右往左往していた。
「ほら、後輩たちが外で大パニックになってるじゃない! 早くネコちゃんを返しなさいってば!」
コトモがハルを説得するが、ハルはフイッと露骨に顔を背けると、「あーあー、風の音が強くてコトモの声がよく聞こえないなぁー」と、壊れたラジオのようにあからさまな聞こえないふりをし始めた。
「聞こえてるでしょーが!!」
「そんなことよりコトモ、見て。ここには今、私とコトモしかいないよ?」
ハルはそう言うと、腕の中にいるネコの頭を、自分の胸元にぐっと優しく抱き寄せた。ハルの豊かな胸と、右腕の確かな力によって、ネコの視界は完全にハルの体操着で埋め尽くされる。
「ネコちゃんなんて、ここには最初から一歩も入ってきてませんよ……ね?」
「思いっきり胸に抱き込んで隠してるじゃないのよ!!」
コトモの鋭いツッコミが飛ぶが、ハルはどこ吹く風で、シラを切り通して楽しそうに笑っている。
ハルの胸に顔を埋めさせられたネコは、もう言葉を発することすらできなかった。
耳のすぐ近くから、トックトックと、ハルの静かで力強い心臓の音が聞こえてくる。ハルの体温と、自分を優しく包み込む一本の右腕の温もり。
(……やばい、心臓が破裂する……っ)
恥ずかしさで顔が爆発しそうになりながらも、ネコは反論することも、逃げ出そうとすることもしなかった。
ただただ、ドクドクと激しく高鳴る自分の鼓動を悟られないように必死になりながら、無言のまま、小さな両手でハルの背中にぎゅっとしがみつく。
「もう!ハル!いい加減にしなさいってば……って、え?」
コトモがハルからネコを引き剥がそうとした、その時だった。
ズシン、ズシンと、地響きのような重い足音が2年生のテントに近づいてくる。
砂埃にまみれたゴンザレスが、鬼気迫る表情でぬっと姿を現したのだ。
巨躯がテントの入り口を塞ぐように立ちはだかると、周囲にいた2年生の生徒たちは、コトモを除いて悲鳴を上げながら逃げ出していった。
緊迫した空気が走る中、ハルはネコを右腕で抱いたまま、静かにゴンザレスと視線を合わせた。
気まずい沈黙が流れるかと思いきや、ゴンザレスは真剣な顔で、懐からクシャクシャになった紙の束を取り出した。
「ハル……私は今、この『体育祭ルールブック』というものを、最初から最後までしっかりと確認した」
「え?」
ハルがパチクリと目を丸くする。ゴンザレスは深く厳粛に頷き、言葉を続けた。
「そこには、こう書かれていた。『敵陣の棒を、開始3分以内に早く倒した場合、早期決着ボーナスとしてクラスに300ポイントが付与される』と。……つまり、私が君への個人的な執着を捨てて、最初からネコの指示通りに棒へ向かっていれば、この試合は1年B組の圧倒的勝利で終わっていた可能性が極めて高かったということだ」
(今確認したんかい!! あれほど試合前に読んどいてって言ったじゃん!!)
ハルの胸に顔を埋めていたネコは、その言葉を聞いた瞬間、羞恥心も吹き飛んでガバッと顔を上げ、猛烈に心の中で突っ込んだ。
しかし、ゴンザレスの表情はどこまでも大真面目だった。彼女はゆっくりと視線を下げ、ハルの膝の上にいるネコを見つめると、その丸太のような大きな手で、ネコの小さな手を壊れ物を扱うように優しく、包み込むように握りしめた。
「ネコ。君の指示を無視し、勝利のための大事な作戦を見落としていた。私の傲慢が招いた敗北だ……本当に、すまなかった」
真っ直ぐに非を認めて頭を下げるゴンザレス。
ネコはさすがに毒気を抜かれ、「あ、いや……もう終わったことですし、私もちゃんと説明してなかったのも悪いですから……」と、赤くなりながらブツブツと答えた。
ゴンザレスは顔を上げると、最後にハルをまっすぐに見つめた。
「ハル。君の言う通りだったよ。私が世界3位からどうしても上に上がれない理由、そのすべてが、この短い学校の競技の中に詰まっていた。どうやら私は強さの定義を履き違えていたようだ」
清々しい笑みを浮かべ、ゴンザレスは己の大きな拳をぎゅっと握りしめる。
「私はこれから一度帰国し、精神も、技術も、一から鍛え直すつもりだ。……そして、もっと強くなって、またこの国に戻ってくる。ハル、その時は……もう一度、私と戦ってくれるか?」
純粋な挑戦者として放たれた言葉。
ハルはいつもの、だけどどこまでも頼もしい笑顔をゴンザレスに返した。
「うん! もちろんだよ。その時はいつでも相手になるからね。楽しみにしてる!」
「フッ……最高の返事だ。感謝する!」
ブラジルの風を思わせる熱く爽やかな笑顔を見せる。
「…その前にハル。B組はネコがいなければまとまらない。ここは一度私に譲ってはくれないだろうか?」
ゴンザレスはハルにネコを渡すように説得する。
あたふたする1年生達を代弁する言葉に、ハルは「えー…」と渋るが、ここはゴンザレスを立ててネコを渡すことにした。
ゴンザレスはハルの膝からネコをひょいと持ち上げると、慣れた手つきで自分のガッシリとした肩へと担ぎ上げた。
「わわっ!? ゴ、ゴンザレスさん!?」
「心配ない、ネコ。私が責任を持って1年生のテントまで送り届けよう」
「あーあ、行っちゃった。バイバイ、ネコちゃん! また後でねー!」
のんきに右手を振るハルと、ようやく溜め息をつくコトモを背後に残し、ゴンザレスはネコを担いで堂々と1年生のテントへと歩き出す。
周囲の生徒たちが遠巻きに見守る中、揺れる肩の上でネコはふと思い立ち、下を向いてゴンザレスの背中に話しかけた。
「あの、ゴンザレスさん。……ハナコとブラジルで出会って、日本に来てみてどうでした? うちの学校、ちょっとおかしな人ばっかりで驚いたんじゃないですか?」
労うような、少し世間話のつもりで振った言葉だった。
しかし、ゴンザレスは歩みを止めることなく、怪訝そうに眉をひそめて声を低くした。
「……ハナコ? すまないが、私はそんな人物は知らないぞ」
「……えっ!?」
ネコは思わず、担がれたまま大声を上げてしまった。
目が驚愕で限界まで丸くなる。
「し、知らないって、どういうことですか!? あなたを日本に、この体育祭に呼んだのはハナコですよ!?」
「ハナコ…そんな名前だった気もするが、私が日本に来たのは、SNSのダイレクトメッセージがきっかけだ。英語で『日本にお前よりも遥かに強い学生がいるから腕試しをしてみないか?』という挑発的なメッセージが送られてきてな。格闘家として血が騒いだ私は、ただハルと戦うために来日しただけだ」
淡々と語るゴンザレスの言葉に、ネコは瞬時に凄まじい頭痛に襲われて自分の頭を両手で抱え込んだ。
…じゃあ、ハナコは何をしにブラジルに行ったの?
○○○○○○○○○
体育際はついに閉幕した。
結果は、ハルを擁する2年A組の総合優勝。
閉会式では、割れんばかりの拍手と歓声が響き渡る中、表彰台に上がった代表のハルに大きな優勝トロフィーが授与された。
「ハルさん、こっち向いてくださーい!」
「笑顔で一枚お願いします!」
パシャパシャと激しいフラッシュが焚かれる。
地元の新聞記者たちがこぞってハルの写真を撮り、閉会式が終わった後も、彼女の周りにはすぐにインタビューの人だかりができていた。
「はい! 今回の優勝はクラスのみんなが一丸となって掴み取ったものです! 応援ありがとうございました!」
大勢の大大人たちやカメラに囲まれても物怖じ一つせず、ハキハキと、緊張した様子もなく笑顔で対応するハル。
その様子を少し離れた場所から見上げていたネコは、感心したように小さく息を漏らした。
「ハル先輩、やっぱりすごいなぁ……」
「でしょ!? 本当にカッコいいよねぇ~!」
すぐ横から、鼻にティッシュを詰めたままのハナコが、目を完全にハート形にしながら身を乗り出してきた。
ハナコはうっとりとハルの姿を見つめながら、少し残念そうに肩を落とす。
「あーあ、私もハル先輩と一緒に写真撮りたかったなぁ……」
「まあ、今回はタイミングがなかったしね。でも、来年があるんだから、その時にまたお願いすればいいじゃない」
「……うん、そうだね」
・・・
・・・・
・・・・・
「それよりさー、ハル先輩と写真撮れなくて、本当はネコも残念だったんじゃないの~?」
からかうようなハナコの言葉。
いつもなら「そんなわけないでしょ」と突っぱねるか、睨みつけるところだったが、今日のネコは違った。
ネコはハルの眩しい姿を見つめたまま、誤魔化すこともなく、ぽつりと本音をこぼした。
「……うん。悔しいよ。写真もだけど……やっぱり、試合でちゃんと勝ちたかったな」
ハナコは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに優しく、だけどどこか寂しげな笑みを浮かべて、ネコの小さな肩をぽんと叩くのだった。
そして、インタビューの輪からようやく解放されたハルは、人だかりから抜け出すと同時にネコの姿に気付き、パタパタと足早に駆け寄ってきた。
「ネコちゃん! 待っててくれてありがとう!」
「ハル先輩、お疲れ様です。本当に人気者ですね」
ネコが少し圧倒されながらそう言うと、ハルは「あはは……」と苦笑いしながら自分の頭を軽く掻いた。
「ありがたいことなんだけどね。でも、さすがにあの質問責めはちょっと勘弁して欲しかったなぁ。もうへとへとだよ」
そんな2人のやり取りを横で見ていたハナコが、羨ましそうに指をくわえながら、ぽつりと声を漏らす。
「あーあ、私もハル先輩と写真撮りたかったなぁ……」
そのぼやきを聞き逃さなかったハルは、ハナコに向かって優しく微笑みかけた。
「あ、それなら新聞には載らないけど、私でよければ一緒に撮る?」
「えっ!? いいんですか!?」
ハナコは待ってましたとばかりに激しく食いつき、すぐさま自分のスマートフォンを取り出した。ハルは快く応じ、ハナコと肩を並べてカメラに最高の笑顔を向ける。
カシャ、と小気味いいシャッター音が響いた。
「うわあああ! ありがとうございます!!」
撮影が終わるや否や、ハナコは完全にメロメロになった様子で、液晶画面に映るハルとのツーショット写真を文字通り穴が開くほど見つめ始めた。
(いいなぁ……ハナコ、あんなに嬉しそうにしちゃって)
そんなハナコの様子を、ネコは少しだけ羨ましそうに、物欲しげな目で見つめていた。
すると、ハルがそんなネコの視線にしっかりと気付く。
「……ふふ、ネコちゃんもこっちおいで?」
「えっ?」
驚く間もなく、ハルはネコの華奢な肩を自分のほうへとぐっと引き寄せた。ハルの心地よい体温と香りが、一瞬でネコの鼻腔をくすぐる。
「はい、チーズ!」
今度はハル自身のスマートフォンが掲げられ、2人の姿が画面に収まった。不意打ちの密着にネコが少し緊張で身体を硬くしていると、ハルは画面を確認して満足そうに微笑み、そのままネコに画面を向けた。
「うん、可愛く撮れた! ……あ、そうだ。この写真ネコちゃんにも送りたいからさ、よかったら連絡先教えてくれない?」
「え、れ、連絡先ですか……っ!?」
「うん、ダメかな?」
小首をかしげて覗き込んでくるハルに、断る理由などあるはずがない。ネコは慌てて自分のスマートフォンを取り出し、緊張で少し手を震わせながら、ハルと連絡先を交換した。
ピコん、と小気味いい通知音が鳴り、ハルのアイコンがネコのトーク画面に追加される。
(う、嘘……ハル先輩と連絡先、交換しちゃった……っ!!!!)
憧れの先輩との距離が一気に縮まったその事実に、ネコは胸の高鳴りを抑えきれず、内心で激しく興奮し狂喜乱舞するのだった。
○○○○○○○○○○
いつもの夜の帰り道。
その道中でネコはユイに棒倒しで負けてしまったこと。
総合優勝はハル先輩のクラスが勝ち取ったことを話す。
「……そっか。ごめんね、ネコ。私がちゃんと力になれればよかったのに……勝たせてあげられなくて、本当にごめん」
本気で落ち込むユイを見て、ネコは思わずクスッと笑った。
「いいよ、気にしないで。負けちゃったのは悔しいけど、色んな意味で規格外な戦いになってさ、割と楽しかったしね」
そう言ってユイを励ましたネコは、少し悪戯っぽく微笑むと、まっすぐにユイの目を見つめた。
「それよりさ……ハル先輩にどうやって会いに行くか、これから一緒に考えよっか」
「え……っ?」
ユイは驚いて、大きく目を見開いた。
「だ、だって、勝負には負けちゃったんだよ……?」
「何言ってるの。条件は『私に協力してくれたら』って言ったでしょ? 勝敗なんて最初から一言も関係ないよ」
ネコは呆れたように笑いながら、当然のようにそう告げた。
ネコは最初から、勝っても負けてもユイに協力するつもりでいてくれたのだ。
その優しさと、自分のためにそこまで考えてくれていた事実に、ユイは激しく心を打たれた。胸の奥がじわっと熱くなり、視界が少しだけ潤む。
「……ネコ…本当に嬉しいよ…」
「お礼なんていいよ…それよりも…ねぇユイ、ハル先輩と連絡先は交換できたんだけど、ここからどうやって会わせるかだよね……」
夕暮れ時の帰り道、ネコはスマートフォンを片手に、これからの作戦をあれこれと考えながら歩いていた。
隣を歩くユイは、道路沿いのガードレールの上にぴょんと飛び乗り、細いレールの上を器用にバランスを取りながらネコの話を聞いている。
「ユイ、危ないから降りてよ。危なっかしくて話に集中できないんだけど」
ネコが少しハラハラしながら注意するが、肉体成長していない小さな体のユイは、両手を広げてケラケラと笑った。
「平気平気! 私、こういうの得意なんだから!」
悪びれもせず楽しそうにレールの上を進むユイを見ながら、ネコはふと、胸の奥に引っかかるような奇妙な感覚を覚えた。
何か大事なことを、頭からすっぽりと落としてしまっているような、そんな違和感。
「……あれ? なんか私、大事なことを忘れているような気がする……」
ネコが歩みを緩めて首を傾げると、ユイはガードレールの端でピタッと立ち止まり、不思議そうに振り返った。
「忘れ物? 学校に教科書か何か置いてきちゃった?」
「いや、それじゃない。学校のことじゃなくて、もっとこう、今日中に絶対にやらなきゃいけないことで……」
体育祭の片付けはもう終わったはず。
最後にチェックしたし、変なことにはなっていないと思う。
「ネコって習い事とかしてるの?それじゃない?」
「いやぁ…塾とか通ってないし…宿題とかそうゆうのじゃない気が…」
ネコは記憶の糸を必死に手繰り寄せる。そして、頭の中にそのイメージが浮かんだ瞬間、ハッと目を見開いた。
「あっ、そうだ!」
思い出し、すぐにそれを口に出す。
「クロとチャコに餌あげなきゃ!!」