ハル先輩は恐れない   作:3DS大将

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憑依の代償

 

(……え?)

ユイの背中に、冷たい戦慄が走る。

クロとチャコ。

それは、ユイが昔飼っていた、大好きな子犬たちの名前だ。

ハルとユイしか知らないはずの、大切な思い出の名前。

今、目の前にいる1年生のネコが、その名前を知っているわけがないのだ。

 

信じられない言葉を耳にしたユイは、ガードレールの高い位置から、驚愕と動揺の入り混じった目で、じっとネコの姿を見つめる。

 

「早く空き地に行かなきゃ……あっ、でもその前に子犬用のクッキー買わなきゃだよね」

ネコはぶつぶつと独り言を呟きながら、自分のスマートフォンをポケットに仕舞い、完全にどこか別の場所を見つめるような様子で歩き出そうとする。

ガードレールの上のユイは、そんなネコの姿を見て、唖然として立ち尽くす。

 

(嘘……でしょ……?)

空き地。子犬用のクッキー。

かつてユイ自身が生きていた頃、クロとチャコに会いに行くために全く同じように取っていた行動そのものだった。

 

「ハルも呼ぼうかな。ハルなら絶対あの子達と仲良くなれるし、新しい友達も紹介したいし」

 

ネコの中に、自分でも気づいていない「ユイの生前の記憶や行動」が、まるで泥のようにじわじわと染み出してきている。

そのあまりにも異常で恐ろしい光景に、ユイの心臓は激しく警鐘を鳴らし、全身から一気に冷や汗が吹き出した。

 

(駄目、これ以上は、絶対に駄目……っ!!)

焦燥感に突き動かされたユイは、声を震わせながら慌ててネコに声をかける。

「ね、ねえ、ネコ……っ!? ちょっと待って、何を言ってるの……!?」

ユイのただならぬ様子に、ネコはふと我に返ったように普通の目を瞬かせた。

 

「……あ、ごめん。なんか急に頭がぼーっとしちゃって。……でも、とにかくまずは空き地に行かなきゃね」

そう言って、何かに引かれるように再び足を進めようとするネコ。

 

その無防備で、どこか遠くへ行ってしまいそうな後ろ姿を見た瞬間、ユイは恐怖のあまり、喉がちぎれんばかりの大声でその名前を叫んでいた。

「ネコぉおッ!!!!」

夕暮れの静かな帰り道に、ユイの悲痛な叫び声が激しく響き渡る。

 

 

「え……っ!?」

ユイの突然の絶叫に、ネコは肩を大きく跳ね上がらせて、本気で驚いたように目を見開いた。

 

普段のユイからは想像もつかない悲痛な叫び声。

ネコは自分が何か取り返しのつかない大失敗か、あるいはユイを酷く傷つけるような悪いことを言ってしまったのではないかと、一瞬で顔を真っ青に染める。

 

「ユ、ユイ……? ごめん、私、何か悪いこと言った……? もし怒らせちゃうようなことしたなら、本当にごめんね?…」

消え入りそうな声で、本気で申し訳なさそうに頭を下げるネコ。

その怯えるような目を見たユイは、ガードレールから飛び降りると、ネコに駆け寄ってその両頬を「パチン!」と強い音を立てて両手で挟み込んだ。

 

「ユイ……っ?」

「ネコ、私の目を見て!しっかりして、ネコ……っ!!」

ユイの表情は、完全に余裕を失って焦りきっていた。ネコの頬を包む小さな手は、見たこともないほど小刻みに震えている。

 

「あ、う……っ」

ユイの必死の語りかけに答えようとしたネコだったが、突如として脳を内側から掻き回されるような、凄まじい激痛が頭を襲った。

ネコは顔を歪め、頭を抱え込むようにしてその場にうずくまりそうになる。

その意識が、またどこか遠くへ引っ張られていくのを感じて――。

 

 

「……う、ううっ……ひっく……」

ユイの前で、ネコは突然、ボロボロと大粒の涙を流して激しく泣き崩れた。

 

「クロが……クロが死んじゃったぁっ……!」

ネコは自分の胸をかきむしるようにして、声を上げて泣きじゃくる。

その様子に、ユイは完全に言葉を失う。

ネコが知るはずのない、ユイの過去の「絶望」が、今まさにネコの口から直接吐き出されている。

 

「クロを……クロを早く埋めてあげなきゃ……! クロはどこ!? どこにいるのっ!?」

涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に周囲を見回して「クロ」を探そうとするネコ。

ユイは恐ろしさに身体を震わせながらも、必死にネコの肩を掴んで止めようとする。

 

しかし、激しく泣いていたかと思えば、ネコは急にピタッと涙を止め、どこか虚ろな目でブツブツと別の言葉を呟き始めた。

 

「……花火…花火の場所取り……しなくちゃ……早く行かないと……」

「…花火?花火がどうかしたの…?」

目まぐるしく変化するネコの言動に、ユイはただただ翻弄され、恐怖で息が詰まる。

だが、ネコはユイの呼び止めすら完全に無視して、またしてもガラリと話を変えてしまった。

 

「あ、大変、クロとチャコの散歩に行かないと……ずっと待ってるんだから……」

さっきまで死んだと泣いていたはずのクロの名前を、今度は生きている前提で引っ張り出し、何事もないように歩き出そうとする。

 

脳内の記憶と時間が完全にバラバラに弾け飛び、目の前で音を立てて精神が壊れていくネコの姿に、底知れない恐怖に震える。

 

「――いい加減に、目を覚ましなさいっ!!」

おかしくなっていくネコを前に、ユイは今度は拳に力を込めてネコを殴りつけた。

本来なら、肉体を持たない霊体であるユイの拳は、生きた人間であるネコをすり抜けるはずだった。

だが、どういうわけかユイの拳は確かにネコの肉体をとらえた。

 

バキィンッ! と激しい衝撃音が響き、ネコはその場にバタリと倒れ込む。

 

「……あ、痛……たた……」

地面に倒れたネコは、自分の頬を押さえながら顔をしかめた。

その目からは、先ほどまでの虚ろな光が完全に消え去っている。

ネコは自分の目元が濡れていることに気づき、不思議そうに涙を拭った。

 

「あれ……? 私、なんで泣いてるんだろう……え、ユイ? どうしたの、そんなに青い顔して……」

目の前で、涙目を浮かべながら今にも崩れ落ちそうな表情で自分を見つめているユイの姿。

それを見たネコは、なんだか猛烈に安心したような気持ちになり、そのままストンと本来の記憶を取り戻した。

 

「ううん…なんでもないよ。ネコ、身体は大丈夫?」

「なんともないよ…でも、悲しいことなんてないのに涙が止まらないんだけど…」

 

悲しいわけでも、痛いわけでもない。なのに勝手に溢れて止まらない涙に、ネコは戸惑い、ただ困惑したように自分の目をこすった。

 

その様子を見たユイは、一瞬だけ胸を締め付けられるような切ない表情を浮かべた。けれど、すぐにいつもの明るい調子を無理やり作り出すと、ネコの前に回り込んでその顔を覗き込んだ。

 

「もー、何言ってんのさ。体育祭の疲れが今頃ドッと出たんだよ、きっと!」

ユイはそう言ってネコを誤魔化すようにからかうと、そっと手を伸ばした。

実体のないはずの冷たい指先。

けれど、不思議なほど優しい感覚がネコの肌に触れ、ユイはネコの目元に溜まった涙を、まるでお姉ちゃんのようにそっと丁寧に拭ってあげた。

 

「ほら、大丈夫だから。泣き虫ネコちゃんはハルに嫌われちゃうぞー?」

「うぅ……ハル先輩に嫌われるのは嫌だなぁ…」

「でしょ? 早くお家帰って、美味しいものでも食べて寝な。ほら、立ち上がって」

ユイの優しい言葉とあやし方に、ネコは少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。

 

そしてあることを思い出す。

 

「あ、そうだ。ハル先輩と連絡先が交換できたから、これからどうやってユイとハル先輩を会わせるか、作戦を考えてたんだよね」

「……っ、ネコ……!」

いつもの、しっかりとした「普通のネコ」に戻った姿を見て、ユイは張り詰めていた糸が切れたようにドッと安堵の息を漏らした。本当に良かった、と胸をなでおろすユイ。

 

しかし、立ち上がって制服の土を払ったネコは、何気ない様子でとんでもない提案を口にした。

 

「ハル先輩に会いに行くにしても、ユイが私の身体に憑依しとかなきゃ話せないよね? ほら、早く憑依しなよ」

ネコは少しも疑うことなく、いつものように自分の身体を差し出すようにして、明るくユイを誘う。

 

だが、ユイの表情は凍りついたままだった。

 

さっき目の当たりにした、ネコの精神が壊れかけていくあの恐怖が、ユイの脳裏に焼き付いて離れない。これ以上ネコを危険に晒すわけにはいかなかった。

 

ユイは一歩後ろへ下がり、ネコの手を握ることもせず、静かに、だけど断固とした口調で告げた。

 

「……ううん。私、もう憑依しないよ」

「はぁ!? 今更何を言い出すのっ!?」

ネコは思わず声を荒らげ、ユイを睨みつけた。ここまでハル先輩に会うために2人で必死になってきたというのに、突然の拒絶が理解できなかった。

 

「だって、今はなんかそういう気分じゃないんだもん……」

ユイは視線を泳がせながら、いかにも子供っぽい我が儘のような口調で、なんとかその場を誤魔化そうとする。

 

「気分じゃないって何それ!? ユイはハル先輩に会いたくないの!?」

「会いたいに決まってるじゃんッ!!」

ユイは我慢できずに叫び返した。ハルに会いたい、声を聞きたい、触れたい。その気持ちは誰よりも強い。

 

だが、その後に続くはずの言葉――「これ以上憑依したら、ネコの中に私の記憶が混ざって、ネコが壊れちゃうかもしれない」という、憑依の恐ろしい代償についての話を、ユイは口にすることができなかった。

(もしここで本当のことを言って、ネコが協力してくれなくなったら……?)

(私が怖がって憑依をやめたら……私は、もう二度とハルに会えなくなっちゃうかもしれない…)

そんな最悪の未来が頭をよぎり、ハルに会えなくなる恐怖がユイの心を支配して、本当に言うべき大切なことが、どうしても言えなくなってしまう。

 

ユイのただならぬ葛藤を感じ取ったのか、ネコはそれ以上怒るのをやめ、小さくため息をついて肩の力を抜いた。

 

「……まぁ、タイミングはユイが選べばいいと思うけど。会いたくなったら、いつでも言いなよ。心の準備ができるまで待つからさ」

「……うん、ありがと」

ネコのどこまでも優しい言葉に、ユイの胸が痛む。

ユイは先ほど起きた「異常事態」が本当に一時的なものだったのか、それとも自分の勘違いだったのかを確かめるために、あえて何気ない風を装ってネコに尋ねた。

「ねえ、ネコ。……ネコって、家でペット飼ってるんだっけ?」

「え? 飼ってないよ。昔、猫を飼ってたんだけどね……もう亡くなっちゃったんだ」

「じゃあ、犬は?」

「犬? ……犬は、可愛いから欲しいなとは思うけど、一度も飼ったことないよ」

ネコは不思議そうに首を傾げている。ユイは心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、核心の名前を口にした。

 

「……チャコと、クロは?」

「え? ……誰、それ?」

ネコは本当に心当たりがないという様子で、真っ直ぐな普通の目でユイを見つめ、首を傾げて聞き返した。

(やっぱり、さっきのは私の……)

ネコ自身には、自分がクロやチャコの名前を呼んで泣いていた記憶が一切残っていない。その事実こそが、ネコの精神の奥深くに「ユイの記憶」が確実に侵食し始めている何よりの証拠だった。

 

さらに、さっき自分がしでかした『ある行動』の記憶がフラッシュバックした。

 

(……待って。私、さっきネコを……殴ったよね?)

本来なら、肉体を持たない霊体である自分の拳は、生きた人間をすり抜けるはずだった。

それなのに、さっきは確かにネコの肉体をとらえ、乾いた音を立てて彼女を地面にひっくり返したのだ。

 

(まさか……そんなわけない……!)

心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。

ユイは焦ったようにネコから視線を外すと、這うようにして、すぐ近くの街路樹の植え込みへと手を伸ばした。

必死の思いで、目の前の青々とした一枚の葉っぱに触れる。

 

カサリ、と指先に微かな抵抗が残った。

 

通り抜けない。

 

自分の小さな指が、確かに現実の葉を捉えて、その形を歪めている。

 

「……うそ……」

ユイは自分の両手を凝視した。ゾッとするような寒気が足元から這い上がってくる。

ユイは戦慄したまま、恐る恐るネコの方を振り返った。

 

「ユイ、どうしたの?」

不思議そうに首を傾げながら、ネコはユイの様子を見つめている。

 

「ねえ、ユイって幽霊なのに物に触れるの? すごいじゃん、良かったね! それならハル先輩にも、自分の手で触れるかもしれないよ?」

ネコは純粋にユイの奇跡を喜ぶように、目を輝かせて微笑んだ。

だが、ユイの頭の中は、先ほどおかしくなっていったネコの姿――自分しか知らないはずの「クロ」や「チャコ」の名前を呼んで泣き叫び、記憶の辻褄を無くして壊れかけていたあの光景で埋め尽くされていた。

 

(良くない……全然良くないよ……っ!)

自分が現実の肉体に干渉できるようになっている。それは、自分自身の霊力や奇跡なんかじゃない。

 

(私とネコが…1つになりかけてる…)

 

ユイの予想でしかないが、ネコにユイの記憶が混ざり、おかしくなっているのは事実だった。

 

確かにハルに会いたいとは願った。

 

会って話したい、触れたい、抱きしめたい。

 

これは心の底から願っていることだけれど、友達(ネコ)の精神を破壊して身体を乗っ取ろうとなんて思ってるわけがない。

 

ネコとこれからのことを考えていると、気付けばあたりはすっかり暗くなり、公園の街灯がぽつぽつと寂しげな光を灯し始めていた。

 

「……あ、もうこんな時間。早く家に帰らなきゃ」

ネコはスマートフォンの時計を見て、ハッと我に返ったように呟き、歩き出す。

その場にぽつんと取り残されたユイは、暗闇の中でじっと自分の小さな両手を見つめていた。

 

「ユイ、どうする? ……もし行くところがないなら、今日うちに来る?」

足を止めたネコが、振り返って普通の目でそう問いかけてきた。いつもの、どこまでも無防備で優しい気遣い。

 

「えっ……あ、ううん! 私は大丈夫、その辺で適当に過ごすから――」

ユイはいつものように、笑顔で断ろうとした。ネコの家に行けば、また憑依を求められるかもしれない。これ以上彼女の近くにいて、境界線を曖昧にしたくなかった。

 

しかし、断りの言葉を口にしかけた瞬間、ユイの脳裏にさっきのネコの異常な姿が鮮明に蘇った。

 

知らないはずの自分の過去を口にして泣き叫び、記憶を混濁させていたネコ。

 

もし、自分が目を離した隙にまたあんな状態になってしまったら?

もし、誰もいない場所でネコの精神が完全に壊れてしまったら――?

 

 

(駄目だ。私が、側にいて見ててあげなきゃ……)

このおかしな現象の原因が自分にあるのだとしたら、ネコの身に起きる異変を止められるのも、きっと自分しかいない。

「……ううん、やっぱり行く! ネコ、お邪魔させてもらってもいい?」

ユイは焦りを隠すようにいつものハキハキとしたトーンに無理やり声を乗せると、ネコの後を追ってタタタッと駆け寄った。

 

○○○○○○○

 

 

「ただいまー」

ネコが玄関のドアを開けて中へと入る。しかし、後ろについてきていたはずのユイが、いつまで経っても入ってこない。

 

「ユイ……? どこにいるの?」

ネコが不思議そうに振り返り、薄暗い玄関の外やあたりを見渡した、その時だった。

 

「ばあッ!!」

「うわああっ!?」

突然、すぐ横の壁からユイが上半身を突き出すようにして飛び出してきた。

完全に不意を突かれたネコは、心臓が飛び出るかと思うほど激しく飛び上がる。

 

「もう! びっくりさせないでよ! 壁を通り抜けて驚かすなんてずるい!」

ネコが頬を膨らませて本気で怒ると、ユイは「ごめんごめん!」と無邪気に笑って両手を合わせた。

 

しかし、ユイのその笑顔は、内心の激しい動揺を隠すためのものだった。

(……通り、抜けられた……?)

さっき公園の葉っぱには触れたのに、この家の壁はすんなりと通り抜けることができた。自分の体の状態がますます分からなくなり、ユイの心は冷や汗で満たされていく。

 

だが、ユイの思考は、玄関の一歩奥へ足を踏み入れた瞬間に停止した。

 

(……え? なにこれ……)

ユイは目の前の光景に、息を呑む。

外観はごく普通の、綺麗な一軒家だった。

 

それなのに、一歩中に足を踏み入れた途端、鼻を突くような奇妙な臭いが漂い、視界のすべてがゴミの山で埋め尽くされていたのだ。

 

足の踏み場もないほどに散らかった床、いつの雑誌か分からない破れた紙屑、放置された弁当の空き殻。

 

それだけではない。

 

むき出しの柱や廊下のあちこちは、まるで何かが激しくぶつかったかのように痛々しく傷だらけで、石膏ボードの壁には拳大の穴がいくつもボコボコと空いていた。

そして――ユイの普通の目が、廊下の隅の壁に付着している、どす黒い染みを捉えた。

 

どう見ても、それは乾いた古い血痕だった。

 

(なんなの、この家……。ネコは、普段どんなところで……)

背筋が凍りつくような不気味さと恐怖を覚えながら、ユイが吸い寄せられるようにその血痕へ手を伸ばし、触れようとしたその瞬間。

 

「あ、ユイ。そっちじゃないよ、こっちこっち」

背後からネコの平然とした声が響いた。振り返ると、ネコは何の疑問も抱いていないごく普通の様子で、ゴミの隙間を器用に縫いながら奥へと歩いている。

 

 

「私の部屋はここ」

案内されたネコの部屋は、先ほどの凄惨な廊下とは打って変わって、酷く荒れているようなことはなかった。

 

「はい、どうぞ。狭いけど適当に座ってね」

そう言われて見回した室内は、ごく一般的な女子中学生の部屋、といった佇まいだった。ただ、目を引くのは壁際の棚を埋め尽くしている膨大な数の漫画本だ。

 

(ネコって、漫画が好きなのかな……?)

ユイが心の中でそんなことを思っていると、部屋の隅の棚には少し変わった小道具たちもたくさん並んでいるのが見えた。

けん玉、お手玉、知恵の輪、木製のパズル。

 

今時の女の子の部屋にしては、どこか古風で、手先を動かすような玩具が妙に多い。

 

ネコはベッドの端に腰掛けながら、少し申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

「リビングとか散らかっててごめんね。あ、でも今日はお父さん帰ってこないから。気にせずゆっくりしていって」

「お父さん……」

ユイはその言葉に引っかかりを覚えた。あの廊下の惨状、壁の穴、そして生々しい血痕。あれが「父親」という存在に結びついた瞬間、ユイの胸に言い知れぬ不安が押し寄せる。

 

「漫画でも読む? 面白いのあるよ」

ネコはそれ以上家の話題に触れさせないように、あるいは本当に大したことではないと思っているのか、棚から一冊の漫画本を引っ張り出してきた。

「ほら、これ。貸してあげる」

差し出された漫画本を、ユイは両手でそっと受け取る。さっきから物に触れたり触れなかったりする自分の霊体だが、今は確かに、紙のざらついた感触が手のひらに伝わってきた。

 

「…触れるなら、私が本選びたいな!」

「いいよ。好きなの選んで」

 

ユイは本棚に並ぶ漫画の背表紙を指でなぞっていく。

よく見ると、少年漫画やアクションものに混ざって、一冊だけ毛色の違う、少し可愛らしい絵柄の恋愛系の漫画が紛れ込んでいるのが目に留まった。

 

「あ、これ面白そう。ネコ、これ読んでもい――」

ユイがその本に手をかけ、引き抜こうとした、その時だった。

「――それだけはダメッ!!!」

「わっ!?」

ものすごい風切り音と共に、ネコが血相を変えて飛び込んできた。

 

普段のネコからは想像もつかない俊敏さと必死さで、ユイの手からひったくるようにしてその漫画本を取り上げる。

その勢いに押され、ユイは思わず一歩後ろへよろめいた。

 

「な、なに急に……。なんでその本はダメなの?」

ユイが目を丸くして尋ねると、ネコは取り上げた漫画をぎゅっと胸に抱きしめ、顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げている。

 

「とにかくダメなものはダメ! これは、絶対に誰にも見られたくないのっ!」

ネコは語気を強めて言い張るが、その態度は明らかに焦りと羞恥心で余裕をなくしていた。

実はその漫画、ただの恋愛ものではなく、女の子同士の恋愛を描いた――いわゆる「百合本」だったのだ。

自分の内にある特別な、そして誰にも言えない秘密の趣味を、いくら仲良くなったユイとはいえ見られるわけにはいかなかった。

 

胸を激しく上下させながら、ネコは抱えた本を絶対にユイの視界に入らないよう、机の引き出しの奥深くへと押し込んで鍵をかけた。

 

ハァ、と大きなため息をついて少し落ち着きを取り戻すと、ネコはまだ顔を赤くしたまま、気まずそうに視線をそらす。

 

「……ごめん、大声出して。その本以外なら、棚にあるやつどれでも自由に読んでいいから」

ネコはぶつぶつと言い訳するように呟くと、照れ隠しをするように部屋のドアへと向かった。

「私、ちょっと下に降りて、トイレ行ってくる。ユイはゆっくりしててね」

そう言い残し、ネコは逃げるように部屋を出て、バタバタと階段を下りていってしまった。

1人残されたユイは、ネコが閉めていったドアを見つめながら、ぽつりと思う。

(誰にも見られたくない本、か……)

 

 

○○○○○○○○○

 

「あははは! なにこれ、このキャラ面白すぎるでしょっ!」

1人残された部屋で、ユイは手渡された少年漫画を読みながら、ベッドの上でゴロゴロと笑い転げていた。

 

その一方でネコはベッドの上でうつ伏せになって、スマホの画面をじっと見つめたまま、何度も寝返りを打ってゴロゴロと身悶えしていた。

画面に表示されているのは、ハル先輩とのトーク画面。

メッセージを送る勇気は出ないのに、ハルが以前送ってくれた写真を指で何度も拡大しては、胸が締め付けられるような、じりじりとした熱さに支配されていた。

(あー、もう! 何て送ればいいの……っ。急にチャットしたら迷惑かな、でもハル先輩のこと、もっと知りた――)

画面を見つめたまま悶絶していると、不意にスマホが「バイブ」と震えた。

メッセージのポップアップに表示された名前に、ネコは心臓が跳ね上がるのを感じた。

 

『ハル:こんばんわ』

「ひゃっ……!?」

変な声が出た。

まさか先輩の方からメッセージが来るなんて夢にも思っていなくて、ネコは慌ててベッドの上に飛び起きると、震える指先で必死に返信を打ち込んだ。

 

『ネコ:こんばんわ!ハル先輩、どうしたんですか?』

既読はすぐに裏返った。まるで、ネコが待っていたのを知っていたかのように。

 

続いて送られてきたハルの言葉に、ネコは目を見開いた。

 

『ハル:体育祭、すごく頑張ってたよね。そのご褒美をあげようと思って』

『ネコ:えっ、ご褒美……ですか!?』

ご褒美、という甘い響きに頭がクラクラする。

すると、ハルから続けて短いメッセージと、見覚えのないマップのリンクが送られてきた。

 

『ハル:明日、学校休みでしょ? だから、ここに来て』

画面に表示されたのは、どこか静かな場所を示している住所だった。ハル先輩が、自分を「2人きり」の場所に呼んでいる――。ネコはスマホを胸に抱きしめながら、興奮と、どこか奇妙な胸の騒ぎに、激しく息を乱すのだった。

 

「……ねぇ、ユイ。さっきハル先輩に誘われたんだけど……」

まだ少し赤くなった目のまま、ネコがそう切り出すと、ユイは「へぇー!」と目を丸くした後、すぐにニシシと意地悪そうに笑った。

 

「いいじゃん! 行ってきなよ!ハルを独り占めするチャンスだよ?」

ユイはそう言って、ぐいぐいとネコの背中を押す。

 

だけど、ネコはベッドの上でモジモジと俯いてしまった。

 

「でもさ……。明日着ていくような可愛い服なんて持ってないし。っていうか、リレーでハル先輩と接戦できたのだって、全部ユイの力のおかげじゃん。なのに、私だけがそんなご褒美もらうの、なんか申し訳ないっていうか……」

自分の実力じゃないのにハル先輩の特別をもらうのが後ろめたい。

そんな風にウジウジと悩むネコを見て、ユイは呆れたように息を吐くと、ネコの後ろに回り込んだ。

 

そして――。

 

「えいっ!」

「ひゃうんっ!?」

ユイは容赦なく、ネコのお尻をポコンと軽く蹴り飛ばした。

 

「痛いなぁ! 何すんのさ!」

お尻を押さえて振り返るネコに、ユイは腰に手を当てて、呆れつつもすっごく優しい笑顔を向けた。

 

「私のことなんて気にしなくていいから! 明日のためにクローゼットの中を引っかき回して準備しな!」

「……うん。ありがと、ユイ」

ネコは照れくさそうに笑うと、明日のハル先輩との時間を想像して、今度は期待で胸を弾ませながらクローゼットへと向かう…が

 

 

「どれどれ、ネコの自慢の勝負服を見せてもらおうじゃな――」

ユイは期待を込めて、ネコが開けたクローゼットの中を覗き込んだ。

 

だがそこに並んでいたのは、お世辞にも「お洒落」とは言えない、色褪せたTシャツや、いつ買ったのか分からないジーンズ、地味なパーカーばかり。

女の子のクローゼットらしい華やかさや流行のアイテムは、驚くほど何一つ入っていなかった。

 

「……ねぇ、ネコ」

ユイは引き攣った顔でネコを振り返ると、信じられないといった様子で声を尖らせた。

 

「あんた一応女の子でしょ!? なんで服にこれっぽっちも興味ないのさ! 明日ハルとデートなんだよ!? こんな地味な服で行ったらハルも困惑するって!」

ユイの容赦ない言葉に、ネコはカチンときて、顔を真っ赤にしながら言い返した。

 

「うるさいなぁ! 興味ないわけじゃないよ! でも、私には私のお財布事情があるの! 服に月に何万もかけてらんないよッ!!」

「何万もかけなくたって、もうちょっとマシな組み合わせがあるでしょーが!」

「ないからこうなってんの! ユイみたいにお金に困ってない幽霊には、私の苦労なんて分かんないんだよ!」

「あー! 言ったな! 幽霊関係ないし、これは純粋にあんたの女子力の問題!」

せっかくハル先輩とのデート前夜で良い雰囲気だったのに、クローゼットの前で2人は子供のようになすり合いの喧嘩を始めてしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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