この小説の時系列が分かりづらいので、補足させていただきます。
ハルは元の街(深夜廻の舞台)から引っ越す
↓
引っ越した土地では中学卒業まで過ごす
↓
高校受験をして、ネコの暮らす街に引っ越す
↓
コトモも高校受験をしてハルと同じタイミングでネコの街に引っ越してくる。(ユイもハルを探しに街を出る)
↓
そして現在になります。
翌日、ネコはクローゼットの中から一番マシな私服を選び、ハル先輩に指定された住所の場所へと向かっていた。
胸の高鳴りが止まらない…
二人きりでどこに行くんだろう…
もしかして、デートみたいなものなのかな――
そんな淡い期待を抱きながらマップを頼りにたどり着いたその場所で、ネコは呆然と立ち尽くすことになった。
「……え?」
目の前にあるのは、どう見てもお洒落なカフェ、ではない。
フリルとリボンで飾られた看板。
そこに書かれた店名をスマホで検索してみると、まとめサイトやSNSの書き込みがいくつもヒットした。
どうやらここは、アキバ系やサブカル界隈のマニアたちの間では「知る人ぞ知る名店」としてかなり有名な、本格派のメイドカフェだったのだ。
(えっ、待って。ハル先輩が、私をメイドカフェに……!? そんなわけない、よね?)
頭の中が大混乱に陥る。何かの間違いか、あるいは住所のピンがズレているだけかもしれない。ネコは混乱した頭で、必死にハルへのチャットを打ち込んだ。
『ネコ:あの、ハル先輩、着いたんですけど……ここ、メイドカフェですか……?』
しかし、いくら画面を見つめても「既読」がつかない。ハルからの返信は途絶えてしまった。
お店の前でスマホを握りしめたまま、「どうしよう、入るべきなのかな」と激しく葛藤していると、不意に背後から、優しくて少し高めの、綺麗な声が降ってきた。
「おや? お嬢様、お店の前で迷子ですか?」
「ひゃいっ!?」
振り返ると、そこには信じられないくらいスタイルの良い、仕立てのいいクラシカルなメイド服を完璧に着こなした綺麗なお姉さんが立っていた。お姉さんはネコの顔を覗き込むと、ふわりと上品に微笑む。
「当店をお探しでしたか? それとも、どなたかとお待ち合わせでしょうか?」
「あ、えっと、その、あの……!」
本物のメイドさんを至近距離で見てしまい、ネコは完全にしどろもどろになって顔を真っ赤にする。ハル先輩に呼ばれた、とも言えず、ただ挙動不審に視線を泳がせることしかできない。
そんなネコの様子を「初めてのご来店で緊張されている」と解釈したのか、メイドのお姉さんはネコの背中にそっと手を添え、エスコートするように促した。
「ふふ、大丈夫ですよ。さあ、中へどうぞ」
「あ、待っ、あの――」
断るタイミングを完全に失ったまま、ネコはあれよあれよという間にお店の重い扉の向こうへと案内され、フリルのクッションが並ぶお洒落な席へと座らされてしまった
周りはフリルや可愛い小物に囲まれ、他のお客さんたちとメイドさんの楽しげな会話が聞こえてくる。場違い感と緊張のあまり、ネコは心臓が口から飛び出しそうだった。
(どうしよう……どうしよう……っ!)
パニックになりながら、机の下でスマホを握りしめ、ハルに必死でチャットを送る。
『ネコ:ハル先輩、どこにいるんですか? 私、中に入っちゃいました……!』
だが、画面の文字は一向に既読にならない。
すがるような思いで、心の中で何度もその名前を叫んだ。
(ユイ! ユイ、お願いだから出てきて……! 助けてよ……っ!)
しかし、いつもならすぐに気配を見せるはずのユイは、こんな肝心な時に限って現れてくれない。
完全に孤立無援。
メイドカフェのキラキラした空間の中で、ネコが今にも泣きそうになって怯えていた、その時だった。
「お待たせいたしました、ご主人様♡」
聞き覚えのある、けれどいつもより少し高くて、甘い声。
ネコが弾かれたように顔を上げると、そこには――。
フリルのカチューシャを頭に乗せ、胸元に大きなリボンをあしらった、完璧なメイド服に身を包んだハル先輩が立っていた。いつもはクールで、どこか影のあるあのハル先輩が、スマイルを浮かべてネコを見つめている。
「――っ!?!?!?」
あまりの衝撃に、ネコは声も出ずに座席の上で完全に硬直した。目玉がこぼれ落ちそうなくらい見開かれる。
ネコのその尋常じゃないリアクションを見て、ハル先輩は一瞬でいつもの表情に戻り、顔を耳まで真っ赤に染めて視線を泳がせた。
「……そんなに見られると恥ずかしいな…」
ハルはモジモジとエプロンの端をいじりながら、周囲に見つからないように小さな声で囁く。
どうやら、ここでアルバイトをしているらしい。
でも、ハルはすぐにコホンと小さく咳払いをすると、もう一度、今度は少し照れくさそうな、けれどネコだけに向ける特別な笑顔を浮かべて、トレイを胸に抱きしめた。
「学校のみんなには絶対秘密だよ? ……今日はね、ネコちゃんだけのメイドさんになってあげる」
ハル先輩はネコの隣に座る。
けれど、ネコは目の前の破壊力が凄まじすぎる光景を前に、魂が抜けたように完全にフリーズしていた。
「……ネコちゃん? 大丈夫? 固まっちゃってるけど……」
ハル先輩が顔を覗き込んできて、ようやくネコはハッと正気に戻る。限界まで跳ね上がった心臓を落ち着かせようと、しどろもどろになりながら一番気になっていた質問を口にした。
「あ、あの! ハル先輩……ここで、アルバイトしてるんですか……?」
「うん、そうだよ」
ハル先輩は、フリルのついたカチューシャを少し直しながら、屈託なく微笑んだ。
「ここ、時給がすごく高くてね。お金が必要だから、学校には内緒で働かせてもらってるんだ」
そう言って笑うハルの表情に、ネコは胸が締め付けられるような大人の色気を感じて、思わずドクンと胸を高鳴らせる。
「さ、何にする? はいどうぞ、これメニューだよ」
手渡されたメニュー表を開いた瞬間、ネコの目が飛び出そうになった。
「っ!?!?!?」
(た、高い……ッ!!)
オムライス一皿、ドリンク一杯の値段が、普段ネコが使っているお小遣いの感覚からすると目を疑うような金額だったのだ。完全にマニア向けの、プレミアムな価格設定。
冷や汗を流しながら、ネコは激しく葛藤する。
(ど、どうしよう……こんなの頼んだら財布が空っぽになっちゃう……。でも、ハル先輩がこうして付きっきりで相手をしてくれるなら、無料というか、むしろ安いと見るべきなのかな…!?)
メニュー表を握りしめて本気で悩み始めたネコの様子を見て、ハル先輩はすべてをお見通しといった様子で、クスッと優しく笑った。
「ふふ、そんなに怯えなくて大丈夫だよ。さっきも言ったでしょ? 今日は体育祭を頑張ったネコちゃんへの、私からの『ご褒美』。――だから、今日は何を選んでも、全部無料。私の奢りだから、好きなものを選んでね」
そう言って、ネコだけに向けられる特別な特権を手渡してくれるハル先輩。
「じゃあ……オムライス、お願いします!」
ネコが意を決して頼むと、ハル先輩は「はーい、かしこまりましたっ」と嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、パタパタと小走りで厨房へと席を立った。
待っている間、ネコは自分の心臓の音が店内のBGMよりも大きく聞こえるんじゃないかと思うほど、胸をドキドキさせていた。
しばらくすると、ハル先輩がほかほかのオムライスをトレイに乗せて戻ってきた。
「ご主人様♡どうぞ♡」
「わぁ……! ありがとうございます。おいしそう……っ、いただきます!」
ネコが嬉しそうにスプーンを持とうとすると、ハル先輩が「あ、待って待って」とそれを手で制した。
「せっかくのメイドカフェなんだから、これがないとね」
ハル先輩はケチャップのボトルを手に取ると、少し真剣な顔をして、オムライスの真ん中に綺麗で大きなハートマークを描いてくれた。
それだけでもネコの心臓は限界なのに、ハル先輩はスプーンで一口サイズにオムライスをすくい上げると、それをネコの口元へとすっと差し出したのだ。
「はい、ネコちゃん。――あーんして?」
「ひゃっ……!?!?!?!」
ネコは顔を一瞬で真っ赤に染め上げ、座席の上でのけ反った。
「あ、あの! 自分で、自分で食べられますっ、大丈夫です……っ!!」
恥ずかしさのあまり両手を振って固辞しようとするネコだったが、ハル先輩はクスクスと悪戯っぽく笑いながら、スプーンを引こうとしない。
「だーめ。それじゃあ私がわざわざメイド服着て、貸し切りでサービスしてる意味なくなっちゃうでしょ? ほら、あーん」
少し強引に、けれどどこまでも優しく口元まで運ばれるスプーン。
ハル先輩の綺麗な瞳に見つめられて、ネコはもう逆らうことなんてできなかった。覚悟を決めて、小さな口をゆっくりと開ける。
パクリ、と口に含むと、絶妙なチキンライスの味と卵のふわふわ感が広がった。けれど、それ以上に胸がいっぱいで味がよく分からないくらいだった。
「どう……かな?」
ハル先輩が心配そうに顔を覗き込んでくる。
ネコは顔を真っ赤にしたまま、必死に声を絞り出した。
「……せ、世界一、美味しいです……!!」
本気で感動しているネコの言葉を聞いたハル先輩は、一瞬きょとんとした後、嬉しそうに目を細めて顔をほころばせた。
「ふふ、大袈裟だなぁ、ネコちゃんは。でも、そんなに喜んでくれたなら、頑張って作った甲斐があったよ」
ハル先輩の弾んだ笑い声を聞きながら、ネコは噛み締める。
「もー……ハル先輩、メイドカフェならメイドカフェって、事前に早く言ってくださいよぅ……」
ネコは赤くなった顔を隠すようにオムライスをもぐもぐと咀嚼しながら、少し拗ねたように口を尖らせた。
不意打ちであんなに怯えさせられたのだから、少しくらい文句を言ってもバチは当たらないはずだ。
しかし、ハル先輩は全く堪えた様子もなく、ふふっと楽しそうに微笑んだ。
「だって、事前に伝えておいたら、ネコちゃん恥ずかしがって逃げちゃうでしょ?」
「うっ……」
「ネコちゃん、こういう可愛いお店とか、特別扱いされるの、絶対弱いと思ったから」
見透かしたように茶目っ気たっぷりにウインクされて、ネコは完全に図星を突かれ、ぐうの音も出なくなる。
確かに、最初からメイドカフェだと知っていたら、緊張のあまり家から一歩も出られなかったかもしれない。
でも、まだ納得いかないことが一つだけあった。
「じゃあ、私がお店の前で迷ってた時、何回もチャット送ったのに全然返事くれなかったのはどうしてですか? 私、本当に置いてけぼりにされたかと思って、すごく怖かったんですから…」
少し恨めしそうにスマホを指差すネコに、ハル先輩は「あはは、ごめんね」とトレイを抱え直した。
「ネコちゃんが店内に入るまでは、裏で衣装の準備とかでバタバタしてて、本当に携帯を見てる余裕がなかったんだよ。意図的に無視したわけじゃないからね?」
「……もう、意図的じゃないにしても、意地悪ハルさんです」
ぷいっと横を向いて、少しだけ怒ったフリをしてみせるネコ。
「怒っちゃった? ……本当にごめんね、ネコちゃん」
ハル先輩はそう言うと、片手で親指と人差し指をクロスさせる。ネコの目の前で、不器用ながらも一生懸命に片手ハートマークを作ってみせたのだ。
「――はい。これで許してくれる?」
いつものクールなハル先輩からは絶対に見られない、メイド服姿での必死の「許してポーズ」。その破壊力は、ネコの脆い防波堤を粉々に粉砕するのに十分すぎた。
「…………っ」
もう、怒るなんて絶対に無理だった。意地悪されたことも、ハラハラさせられたことも、ハル先輩のこの笑顔とハート一つで、全部どうでもよくなってしまう。
(あー……もう、全部許すしかないじゃん、こんなの……!)
ネコは完全に降伏し、真っ赤な顔のまま、コクコクと激しく首を縦に振ることしかできなかった。心の中は、ハル先輩への愛おしさと、自分だけがこの姿を独占できているという歪んだ優越感で、今にもはち切れそうに満たされる
そしてオムライスを綺麗に平らげ、夢のような時間が終わりに近づいた頃。
ネコが名残惜しそうに「そろそろ出ますね」と席を立とうとすると、ハル先輩が少し引き止めるようにネコの袖を小さく引いた。
「ネコちゃん、この後って何か予定ある?」
「え……? あ、特に予定はありませんけど……」
ネコが不思議そうに首をかしげると、ハル先輩は店内の時計をチラリと見上げて、少しはにかむように微笑んだ。
「私、あと30分で今日のシフトが上がりなんだ。もしよかったら……外で待っててくれる?」
「――っ! はい! 待ってます!」
ハル先輩の私服姿が見られるかもしれない、いや、それ以上にまだ一緒にいられるという喜びに、ネコはふたつ返事で頷いた。
お店の外に出ると、ネコは指定された待合用の椅子にちょこんと腰掛けた。
30分という時間が、まるで一時間にも一年のようにも感じられる。
心臓はさっきからずっとうるさいままだ。
(ハル先輩、次はどこに連れて行ってくれるんだろう……)
そんな期待で胸を膨らませていると、約束の30分が経つか経たないかのところで、お店の扉が勢いよく開いた。
「ネコちゃん! 待たせてごめん!」
そこにいたのは、いつもの見慣れた、けれど少しラフな私服に着替えたハル先輩だった。
メイド服の華やかさも最高だったけれど、やっぱりいつもの、少し大人びて格好いいハル先輩の姿を見ると、ネコの胸はそれだけでドクンと大きく跳ね上がる。
ハル先輩はネコの前に駆け寄ると、躊躇うことなく、ネコの小さな手をその細い指先でぎゅっと包み込んだ。
「――っ!?」
突然のハンド繋ぎに、ネコは体温が一気に急上昇して声が裏返る。
「さ、行こうか」
ハル先輩がネコの手を優しく、けれどしっかりと引いて歩き出そうとする。ネコは赤くなった顔を隠せないまま、ハル先輩の横顔を見上げて、震える声で尋ねた。
「あの……ハル先輩、どこに行くんですか……?」
すると、ハル先輩は歩みを止めずに、繋いだ手を少しだけ強く握り直した。そして、悪戯っぽく、けれどどこか特別に甘い視線をネコに投げかける。
「ふふ、私からの『ご褒美』は――さっきのメイドカフェだけじゃないよ?」
ハル先輩のその言葉の響きに、ネコの頭は再び真っ白になる。
○○○○○○○
ネコは歩幅を早めてハル先輩の隣に並ぶと、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「あの……ハル先輩。メイドのお仕事って、すごく大変じゃないんですか?」
「大変? うーん、まあ立ち仕事だし、それなりにね。どうして?」
ハル先輩は前を歩いたまま、不思議そうにネコを見下ろす。ネコは自分の制服の袖を少しぎゅっと握りしめながら、不安に思っていた本音を口にした。
「だって……ああいうお店って、ちょっと変な人っていうか、ヤバいお客さんの相手とかもしなきゃいけないんですよね?もし自分がって考えたら、すごく怖くて不安になっちゃうなと思って」
世間一般のイメージや、少し危ない目に遭うかもしれないという心配にハル先輩は「あはは」と小さく、いつものように淡々と笑った。
「そんなの、慣れだよ」
ハル先輩はあっけらかんと言い切る。
その動じない姿にネコが目を丸くしていると、ハル先輩は自分の左腕の袖口へ視線を落とした。
「それにさ、私は左腕が無いから。最初はお客さんもどう接していいか分からなくて、変に気を遣っちゃうみたいなんだよね……だからさ、私、学校だとちょっと『ご贔屓』してもらってる自覚はあるけど、バイト先だと実はあんまり人気ないんだよ?」
ハル先輩は少し自虐気味に、だけど困ったような笑顔でそんな秘密を明かしてくれた。
学校では誰もが憧れる圧倒的な存在なのに、バイト先ではその身体の特徴のせいで一歩引かれてしまう。
そんな現実を、ハル先輩は悲壮感もなく受け入れているようだった。
「まぁ、もし人気が出すぎちゃってお店の看板娘にでもなったら、今度は学校の先生に見つかって怒られちゃうから、これくらいがちょうどいいんだけどね」
悪戯っぽくクスッと笑うハルにネコは「本当にこの人大人だなぁ」と感心する。
○○○○○○○○
ガタゴトと揺れる路線バスに揺られることしばらく。
ハル先輩に連れられてバスを降りると、目の前にはどこまでも広がる青い水平線と、潮の香りが飛び込んできた。
そこは、この街の一番の稼ぎ頭でもある、海に面した超一等線のリゾート地だった。お洒落なホテルやショップが立ち並び、遠方からも大勢の人が訪れる、誰もが知る大人気の観光スポットだ。
「うわぁ……! すっごい綺麗なところ……っ!」
ネコがパァッと目を輝かせて周囲を見渡していると、ハル先輩は笑いながら歩き出した。
「ネコちゃん、迷子にならないでね。置いてっちゃうよ?」
「あ、待ってください!」
慌ててハル先輩の後を追いかけ、賑やかなショッピングエリアを進んでいく。すると、その一角にひときわお洒落で巨大なゲームセンターが姿を現した。
入口にはスタッフが立っており、入場規制をしているようだ。
しかし、ハル先輩がポケットからサッと2枚の券を取り出してスタッフに渡すと、何の問題もなく「どうぞ」と中に通された。
ネコは驚いて、入場ゲートをくぐりながらハル先輩の横顔を見上げた。
「あの……ハル先輩。ここって確か、いまSNSとかでも超話題の人気ゲームセンターで、入場制限が厳しくてなかなか入れないって噂の場所なんじゃ……?」
ネコがそう尋ねると、ハル先輩は振り返ってにっこりと悪戯っぽく笑った。
「だから、事前に券を買っておいたんだよ」
「ええっ!? でもこれって、その券を巡ってネットでみんな取り合いになってるやつですよね!? オークションとかで、ものすごい高値で転売されたりしてるやつなんじゃ……っ」
一般の高校生が簡単に手に入れられるような代物ではないはずだ。
ネコが驚愕してオロオロしていると、ハル先輩はそんなネコの反応が面白いと言わんばかりに、またいつもの涼しい顔に戻って歩き出した。
「ほら、せっかく入れたんだから楽しまなきゃ損だよ。行くよ、ネコちゃん」
ハル先輩がどこでどうやってその貴重な券を手に入れたのかは謎のままだったけれど、自分のためにそこまで準備してくれていたという事実に、ネコは胸を熱くしながら、楽しげな電子音が鳴り響く煌びやかな店内へと足を踏み入れる。
「ネコちゃん、普段からゲームとか好きそうな雰囲気あるからさ。事前に取っておいて本当に良かったよ」
ハル先輩は賑やかなフロアを見渡しながら、嬉しそうにそう言った。自分の趣味や雰囲気をハル先輩がちゃんと見て、考えてくれていたんだと思うと、ネコはそれだけで胸がいっぱいになる。
そこからは、まさに夢のような時間だった。
最新のレースゲームで競い合ったり、協力して敵を倒すシューティングゲームに熱中したり。
ハル先輩はクールな顔をしながらもゲームがめちゃくちゃ上手くて、ネコがピンチになるといつもスマートに助けてくれた。
家での地獄のような毎日のことも、今だけは全部忘れて、ネコは心の底からハル先輩と笑い合うことができた。
ひとしきり遊んだ後、2人で賑やかな店内を並んで歩いていると、プライズコーナーの一角に人だかりができているのが目に入った。
「あ、これ可愛い……!」
ネコが足を止めて見つめたのは、そのゲームセンター限定のオリジナルキーホルダーだった。
コロンとしたフォルムが絶妙に愛らしくて、ネコの好みにドンピシャだったのだ。
すると、ハル先輩がすぐに近くの店員さんに声をかけた。
「すみません、これっていくらですか?」
「あ、これは非売品なんですよ。そこのパンチングマシンに挑戦していただいて、指定された基準の数値を一発で超えられたら景品として差し上げています!」
店員さんが笑顔で指差した先には、いかにもガタイが良くて筋肉モリモリの男の人が、タンクトップ姿で汗を流しながら「おおおおっ!」と全力の拳をマシンに叩き込んでいるところだった。
ドゴォン!!と凄まじい衝撃音が響き渡り、マシンの電光掲示板の数値が激しく上昇していく。しかし、表示された数字は【10000】。
「あー! 全然届かねぇ!」
男の人は悔しそうに頭を抱えて去っていった。マシンの上部には、デカデカと【目標数値:20000】と書かれている。あの筋肉自慢のお兄さんでも、指定された数値の半分しか出せないのだ。
「ハル先輩、行きましょう」
ネコはすぐにハル先輩の服の袖を引っぱった。ハル先輩は「ん? どうして?」と不思議そうに首を傾げる。
「ああいうのって、最初からギリギリ達成できないようなめちゃくちゃな数値を設定して、お客さんに何回もお金を使わせる仕組みになってるもんなんです」
ネコが現実的な仕組みを早口で説明しながらぐいぐい引っ張ると、ハル先輩はネコにずるずると引きずられながら、「へぇ、そうなんだね」と感心したように呟く。
そしてその後しばらくして
「ネコちゃん、ちょっとここで座ってて」
ハル先輩はそう言うと、近くにあった休憩用のベンチにネコをちょこんと座らせた。
「え? ハル先輩、どこに行くんですか?」
慌てて立ち上がろうとするネコだったけれど、ハル先輩はネコの頭をポンポンと優しく叩いて、
「すぐ戻るから、いい子にしててね」
と、まるでお姉ちゃんのような微笑みを残して、そのまま人混みの奥へと離れていってしまった。
一人残されたネコは、ハル先輩の後ろ姿を見送りながら、おとなしくベンチに座って待つことにした。
――それから、数分後のことだった。
バキィィィィィンッッッッ!!!!!!!
ゲームセンターの爆音の電子音をすべてかき消すような、文字通りエグい衝撃音が店内に鳴り響いた。あまりの音の凄まじさに、床からビリビリと振動が伝わってくる。
「ひゃいっ!? な、何ごと!?」
ネコは心臓が飛び出るかと思うほどびっくりして、思わずベンチから跳ね上がった。周囲の他のお客さんたちも一斉にざわざわと騒ぎ出し、音がしたパンチングマシンの方向へ視線を向けている。
まるで車でも衝突したかのような、到底人間の拳から出ていい音ではなかった。
「な、何が起きたの……?」
ネコが困惑してオロオロしていると、さらにその数分後。
何事もなかったかのように、人混みの中からハル先輩がひょっこりと戻ってきた。
「お待たせ、ネコちゃん」
「あ、ハル先輩! さっきの凄い音、何だったか分かりま――」
ネコが言いかけるより早く、ハル先輩がスッと右手を差し出した。
その手のひらの上には、さっきネコが「可愛い」と言っていた、あの限定のオリジナルキーホルダーが乗っていた。
「……え?」
ネコは目を見開いたまま、完全にフリーズした。
「はい、これ。ネコちゃんにあげる」
「え、ええええええっ!? な、なんでこれ持ってるんですか!? ハル先輩、まさかあれやったんですか!?」
あの、筋肉モリモリのお兄さんでも半分しか出せなかった、目標数値20000のパンチングマシン。
まさかハル先輩がそれを殴ったのかと驚愕して問い詰めるネコに、ハル先輩はにっこりと女神のような優しい笑顔を浮かべた。
「ううん、まさか。さっきね、すごく優しい人がいて、『これあげるよ』って譲ってくれたんだよ」
「……え、そう、なんですか……?」
ハル先輩のあまりに自然な言葉にネコは一瞬だけ「そんな親切な人がいるんだ」と納得しかけた。
だけど、何気なくハル先輩の横を通り抜けて、その奥にあるパンチングマシンの電光掲示板へと視線を向けた瞬間、ネコは今日一番の衝撃で顎が外れそうになった。
マシンの上部に表示されている【本日のハイスコア・ランキング】
その第1位の欄に堂々とこう刻まれていたのだ。
【 1位:ハル SCORE:54000 】
(ご、ご万四千……っ!?!? )
さっきの「エグい音」の犯人が誰なのか、そしてハル先輩の言葉が100%の嘘であることは一秒で証明された。
ネコは、バキバキに大破しかけているマシンと、涼しい顔で「早く行こ?」と歩き出すハル先輩の背中を交互に見つめる。
ゲームセンターのさらに奥へと進むと、今度は広々とした卓球コーナーがネコとハルの目に留まった。
「あ、卓球もあるんだ……」
ネコは「やってみたいなぁ」と一瞬目を輝かせたけれど、すぐにハルの左腕のことに思い至り、ハッと口を噤んだ。
片腕がないハル先輩に卓球を誘うのは、さすがに配慮に欠けるしダメだよね、とネコが一人で気まずそうにモジモジしていると、ハルはその視線に気づいて、なんでもないことのようにあっさりと口を開いた。
「別に、私やれるよ?」
「えっ……!? や、やれるんですか?」
驚いて聞き返すネコに、ハルは「うん」と小さく頷く。
その言葉に背中を押されるように、ネコは「じゃあ、入りましょう!」とハルの手を引いて卓球コートへと入っていった。
元気にラケットを構えるネコに、ハルは「はいはい」とどこか楽しそうに応じながら、右手で慣れた風にラケットを握った。
トントン、と小気味いい音を立てて、2人のラリーが始まる。
最初の数球、ネコが優しく打ち返したボールを、ハルはフワッとレシーブしようとしたけれど、ボールは無情にもポロッと卓球台の下へ落ちてしまった。
「あ、負けちゃった」
ハルはラケットを持ったまま、困ったようにへらっと笑う。
その明らかにやる気のない、接待プレイのような態度にネコは少しムッとした。ハルが本気を出せば、こんなところでボールを落とすはずがないのだ。
「もう! ハル先輩、ちゃんとやってください! 手加減なんていりません!」
ネコはそう言って、少し強めのサーブをハルのコートへと打ち込んだ。
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、ちょっとちゃんとやろうかな」
ハルがそう言った瞬間、空気が一変した。
ハルの右腕のラケットが、目にも留まらぬ速さで一閃する。
パァァァンッッッッ!!!!!!!
鼓膜を突き刺すような強烈な打球音が響いた。
ハルが本気で打ち返したピンポン玉は、物理法則を無視したような超高速の弾丸と化し、ネコのコートで爆発でも起きたかのように激しくバウンド。
ネコが反応することすらできない速度でその真横を猛烈な風とともに突き抜け――そのまま後ろの壁へと激突した。
*硬い音がして、プラスチック製のピンポン玉は粉々に砕け散り、床にパラパラと白い破片となって落ちていく。
「えっ……!?」
ネコはラケットを握ったままその場に硬直した。
風圧で髪が跳ね上がり、もし今の弾丸が身体に当たっていたらどうなっていたかと想像して、一気に血の気が引いていく。
ネコはガタガタと小刻みに震え、涙目になりながらハルを見つめた。
「す、すみません……! やっぱり手加減してください……っ!!」
全力で謝るネコを見て、ハルは「あははっ!」と、お腹を抱えて実におかしそうに笑う。
「…それじゃあ、ちょっと飲み物買ってあげるね。そこで待ってて」
ハル先輩はそう言って、近くの自動販売機コーナーへと歩いていった。
一人残されたネコが手持ち無沙汰に周囲を見渡していると、すぐそばにゲームセンターでお馴染みのバスケットゴールが目に入った。
制限時間内にボールを次々とシュートして点数を競う、よくあるバスケのゲームだ。
ネコはなんとなく近づき、ゴール下の手前に転がっていたボールを一つ拾い上げてシュートしてみる。
「ん……これって100円で結構な時間やれるけど、後半になってくると腕が疲れて途中で飽きちゃうんだよなぁ」
そんなことを独り言のようにつぶやいていると、ハル先輩が両手に缶ジュースを持って戻ってくるのが見えた。
「ハル先輩、おかえりなさい! すぐこれやりましょ!」
ネコはハル先輩が近づくやいなや、ポケットから100円玉を取り出してマシンの投入口へチャリンと滑り込ませる。
ハル先輩はマシンの前に立たされた瞬間、それがボールを次々に入れるゲームだと察した。
「え、ちょっと待って、ネコちゃ――」
ハル先輩が制止の声を上げるよりも早く、マシンから軽快なカウントダウンのBGMが流れ出し、容赦なくゲームが始まってしまった。
「あ、もう!」
ハル先輩は慌てて持っていた飲み物を足元の床に置くと、右手だけでボールを拾い上げ、真剣な目付きでゴールへと投げ入れ始めた。
ネコも隣で「よーし!」とテンポよくシュートを打っていく。
2人でワイワイとボールを投げ続け、やがてタイムアップのホイッスルが鳴り響いた。
「ふぅー、やっぱり2人でやった方が最後まで飽きなくて楽しいですね!」
ネコは満足げに息を吐きながらハル先輩を振り返り、マシンのスコア画面を見上げた。
しかし、そこに表示されていたハル先輩のスコアを見て、ネコは我が目を疑った。
【 SCORE:0 】
「……え? ハル先輩、また手加減したんですか? さすがにゼロ点はやりすぎですよー」
卓球の時のように、また気を遣ってわざと外したのだと思ったネコは、少しからかうようにハル先輩の顔を覗き込んだ。
すると、ハル先輩は眉間に思いっきりシワを寄せて、あからさまにムッとした表情で行く手を睨みつけていた。
チャリン、チャリン、と硬い音が響く。
「……もう一回」
ハル先輩は右手でギチィ……とボールを掴み、燃えるような闘志を瞳に宿してゴールを見据えた。
どうやら手加減などではなく、本気で苦戦してのゼロ点だったらしい。
ハル先輩のまさかの負けず嫌いな一面を目の当たりにして、ネコは引き攣った笑みを浮かべながら「は、はい!」と頷くしかなかった。
今度こそとばかりに、ハルは凄まじい眼光でボールを掴んではゴールへ放り込んでいく。右手一本で超高速のシュートを繰り出す姿は、さながらマシンのようだった。
だが――。
ガコォン! ガシィッ! ゴンッ!
「あ……」
ネコは隣で思わず声を漏らした。
ハルの放つシュートは、確かに恐ろしいスピードと威力だった。
しかし、そのすべてがリングのフチやバックボードに強烈に弾かれ、凄まじい勢いで明後日の方向へと跳ね返っていく。
片腕での連続シュートは、ボールを掴む、構える、投げるという一連の動作のバランスが狂うのか、壊滅的にコントロールが定まらないのだ。
そして無情にもタイムアップのホイッスルが鳴り響く。
【 SCORE:0 】
「……っ、〜〜〜〜っっ!!」
ゲームが終わった瞬間、ハルは筐体の手すりにガシッと右手を突き、ガックリと頭を垂れて悶絶していた。
いつもはあんなにクールで完璧なハル先輩が、見たこともないほど全身で悔しさを表現している。
「は、ハル先輩……大丈夫ですか……?」
ネコが恐る恐る声をかけると、ハルはバッと顔を跳ね上げ、般若のような形相で財布を掴み取った。
「もう一回……! もう一回やる!!」
「ええっ!? 待ってくださいハル先輩、もう腕がパンパンで投げられないですよ!」
ネコは慌てて止めようとしたが、ハルの執念は止まらない。すでにチャリンチャリンと100円玉が吸い込まれていく。
「ネコちゃん、始まるよ! 構えて!」
「う、嘘でしょーー!?」
結局、ネコはクタクタの腕を引きずりながら、またしてもボールを投げさせられる羽目になった。
数分後、完全にネコに惨敗したハルは、ようやく自販機で買ったジュースの缶をパキッと開け、ベンチに深く腰掛けて長いため息をついた。
心なしか、その肩は小さく落ち込んでいるように見える。
「……私、ボールのコントロールが一番苦手なんだよね」
ハルは冷たい缶を頬に当てながら、ポツリと、どこか拗ねたようなトーンで吐露した。
「あはは……ハル先輩が本気でボール投げたら、コントロール云々の前にゴールを物理的に壊しかねないですからね」
ネコが卓球の弾丸やパンチングマシンの件を思い出しながら、冗談交じりにそう言うと、ハルは缶を持ったままジト目でネコを睨みつけてきた。
「ネコちゃん……私のこと、一体なんだと思ってるの?」
「ひゃっ、ご、ごめんなさい……っ!」
ハル先輩の目に背筋を凍らせながら、ネコは慌てて頭を下げる。
○○○○○○
「……ねぇ、ネコちゃん。次はさ、負けた方が相手の言うことを何でも聞くゲームにしようよ」
ベンチでジュースを飲み干したハル先輩が、不敵な笑みを浮かべながらとんでもない提案をしてきた。さっきのバスケの敗北が、よっぽど悔しかったらしい。
「ええっ!? そんなの絶対に私が負けるから、私にやるメリットないですよね!?」
ネコは全力で首を横に振った。
するとハル先輩はネコをなだめるように言う。
「大丈夫だよ。さっき言った通り、私の苦手分野のゲームで競っていいから。ボールのコントロールが苦手だから、そこを突くようなゲームを中心にしてくれたら、ネコちゃんにも勝機はあると思うよ?」
「う……」
そう言われると、ちょっとだけグラついてしまう。
ネコはベンチから立ち上がると、何かハル先輩の規格外の身体能力を無力化できるゲームはないかと、あたりを見渡して考え込んだ。
「あ、あれでいいよ。あれにしよう」
ハル先輩がすっと細い指で指差したのは、卓球台のすぐ近くにあったエアホッケーだった。
「思いっ切り力技で勝とうとしてるじゃないですかっ!!」
「ちぇー、バレたか。じゃあ何にする? ネコちゃんが決めていいよ」
ハル先輩はクスクスと笑いながら、選択権をネコに委ねた。
ハル先輩のパワーが通用しなくて、かつコントロールの悪さが致命傷になるゲーム。なおかつ、自分の動体視力や器用さで勝てる可能性があるもの……
ネコは真剣な目付きで店内をぐるりと見回し、考えに考え抜いた末、ある一角をビシッと指差した。
「じゃあ……あそこにある、UFOキャッチャーで勝負です!」