街灯がぽつぽつと灯り始めた、すっかり暗くなった夜道をハル先輩とネコは並んで歩いていた。昼間の賑やかさが嘘のように、辺りは静まり返っている。
その時、暗闇の向こうから「タタタタッ!」と小さな足音が猛スピードで近づいてきた。
「えっ……?」
ネコが振り向く間もなく、目の前から茶色いモコモコとした塊が凄まじい勢いで飛びかかってきた。予期せぬ衝撃に、ネコは「ひゃうっ!?」と短い悲鳴を上げて、そのまま後ろへ押し倒されてしまう。
「クゥーン! ワンワン!」
ネコの上に乗り上げたのは、一匹の愛くるしい茶色いポメラニアンだった。
ポメラニアンはネコが大好きだと言わんばかりに、激しく尻尾を振りながら、ネコの顔中を愛情たっぷりにペロペロと激しく舐め回し始める。
「わ、わわっ!? ちょっと待って、冷たっ……くすぐったいっ……! 」
突然の犬の猛攻に、ネコは仰向けのまま手足をバタつかせて慌てふためく。
すると、その様子を見たハル先輩が、目を見開いて声を上げた。
「――チャコ!?」
ハル先輩はすかさずネコの上にいるポメラニアンの胴体を片手で抱え上げると、ひょいとネコから引き離した。
そして、腕の中でなおも足をバタつかせるポメラニアンの顔をじっと見つめ、低めの声でピシッと叱る。
「めっ! ダメでしょチャコ、悪い子。初対面の人にいきなり飛びかかったら迷惑だよ」
「クゥン……」
叱られたポメラニアン――チャコは、さっきまでの勢いが嘘のように耳をペタンと伏せて、しょんぼりと丸くなった。
ネコは地面についた手を払って起き上がり、ハル先輩の腕の中で大人しくなったチャコを不思議そうに見つめた。
「あの……ハル先輩。もしかしてその子、ハル先輩の飼い犬ですか?」
「うん、そうなの」
ハル先輩は困ったように眉を下げると、チャコを片腕で器用に抱え直しながら、ネコを心配する。
「ごめんねネコちゃん、怪我はなかった? いきなり押し倒されてびっくりしたよね」
「いえ、怪我はないです! びっくりしましたけど、すごく人懐っこい子ですね……でも、リードもつけてないみたいですけど、家から逃げ出しちゃったんですか?」
ネコが首を傾げると、ハル先輩は腕の中のチャコの頭を「よしよし」と愛おしそうに撫でながら、何でもないことのように微笑んだ。
「ううん、逃げ出したわけじゃないよ。チャコはね、自分で勝手に鍵を開けて外に散歩に行っちゃうから、うちではもう自由にさせてるんだよね」
「えっ……自分で鍵を……!?」
犬の常識を遥かに超えたチャコの知能(?)に、ネコは今日何度目か分からない衝撃を受けつつ、飼い主に似てこのペットもただ者ではないのかもしれない……と感じる。
「……なんだか、チャコちゃんって私よりも頭がいいかもしれないです」
ネコは真面目な顔でそう呟くと、ハル先輩の腕から地面に降りたチャコの前にしゃがみ込んだ。
そして、両手でその茶色い毛並みをモフモフと包み込み、顔の周りを優しくわしゃわしゃと撫で回した。
「クゥ〜ン!」
チャコは嬉しそうに尻尾をちぎれんばかりに振りながら、「ハッ、ハッ」と小さく息を弾ませてネコの手のひらに身を委ねている。
「もう、ネコちゃん。チャコをそんなに甘やかしちゃダメだよ。すぐ調子に乗るから」
ハル先輩は呆れたようにそう言うものの、チャコがすぐにハル先輩の足元へトコトコと近寄り、ゴロンと仰向けになって「くぅん」とお腹を見せると、ハル先輩の口元はすぐに緩んでしまった。
「……はいはい、可愛いね」
結局、ハル先輩も抗えずにしゃがみ込み、白い指先でチャコの柔らかいお腹を優しく撫でてあげる。
ハル先輩にひと通り撫でてもらって大満足したチャコは、今度は起き上がると、再びネコの足元へピトッと寄り添った。
そして、もっと撫でてほしいと言わんばかりに、小さな頭をネコの脛にすりすりとおねだりするように押し付ける。
「あはは、本当に甘えん坊さんですね」
ネコは顔をほころばせ、チャコの背中を優しく何度も撫でてあげた。
「じゃあ、帰ろっか」
ハル先輩の言葉に、チャコが「ワン!」と短く返事をする。
すっかり暗くなった夜道。街灯の光に照らされながら、ハル先輩とネコ、そしてその足元をゴキゲンに伴走するチャコは、3人で歩調を合わせるようにして静かな家路へと歩き出すのだった。
やがて、2人の家へと続く分かれ道の交差点に差し掛かった。ここで今日の楽しかったデートも本当におしまいになる。
ネコはハル先輩に向き直ると、フィギュアを抱え直して深々と頭を下げた。
「ハル先輩、今日は本当に、本当にありがとうございました! すっごく楽しかったです!」
「ふふ、ネコちゃんがそれだけ楽しんでくれたなら良かったよ」
ハル先輩は満足そうに微笑むと、少しだけ声を弾ませて付け加えた。
「でも、これが一回きりじゃないからね? また明日も、その次も……ね」
そう言ってハル先輩がパチンと軽くウインクしてみせると、ネコは「はいっ!」と胸を躍らせてパァッと顔を輝かせた。
「では…ハル先輩」
ネコが名残惜しそうに背を向けて歩き出そうとした、その時だった。
「クゥーン……」
足元から小さな鳴き声がしたかと思うと、チャコがダダッとネコの方へ駆け寄り、その足元にぴったりと自分の身体を押し付けた。
まるで行かせないように引き留めるような仕草に、ネコは足を止めて困り顔になる。
「あ、あれ……? チャコちゃん、どうしたの?」
ハル先輩はそんなチャコの様子を見て、少し眉をひそめて声をかけた。
「チャコ、おいで。ネコちゃん困ってるでしょ?」
しかし、いつもならハルの言うことを聞くチャコが、この時ばかりはネコの足元に張り付いたまま、ハル先輩を見上げて「きゅ〜ん……」と切なく、悲しげに鳴いたのだ。
ハルはそのチャコの瞳を見た瞬間、ハッとして息を呑んだ。
(……あぁ、そうだね。チャコには分かるんだね……)
ハル先輩は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
小学生の頃、突然の自殺でこの世を去ってしまった、初めての大親友・ユイ。
あの子を失ってから、ハルは一瞬たりともユイの存在を忘れたことはない。
心を閉ざし、ユイ並みに深く親しい関係を築けた相手なんて、後にも先にもネコしかいなかった。
そしてチャコは、まだほんの小さな子犬だった頃、ユイに飼われていた犬だった。
ユイが亡くなった後、様々な経緯を経てハルが引き取り、今日まで一緒に生きてきたのだ。
だからこそ、ハルにはチャコの気持ちが痛いほどよく分かった。チャコにとってネコは、あの大好きな、だけどもう二度と会えないはずの『ユイ』の面影を強く感じさせる存在なのだ。
(チャコも……ずっとユイに会いたかったんだよね……)
言葉を持たない愛犬の健気な愛着と寂しさが伝わってきて、ハルの目元がわずかに揺れる。
けれど、この場でネコをこれ以上引き留めるわけにはいかない。ハル先輩はチャコの前にそっとしゃがみ込み、その小さな頭を優しく撫でながら、言い聞かせるように静かに囁いた。
「チャコ……また今度ね。……お願い」
「……クゥ」
ハル先輩の真剣で、どこか切ない眼差しを受け止めると、チャコはそれ以上わがままを言うのをやめるように、トコトコとネコの足元から離れてハル先輩の元へと戻っていった。
「ごめん、ネコちゃん。引き留めちゃって」
立ち上がったハル先輩は、いつもの優しい笑顔を浮かべる。
「いえ! チャコちゃんにそこまで気に入ってもらえて、なんだか嬉しいです。じゃあ、今度こそ……また明日!」
ネコは嬉そうに手を振ると、今度こそ夜道の先へと歩き出していった。ハル先輩は足元のチャコを引き寄せ、ユイの面影を残すネコの小さくなっていく背中を、静かに見送り続けるのだった。
○○○○○○○
楽しかった余韻に包まれながら、ネコは夜道をスキップでもしそうなほど弾む足取りで歩いていた。
フィギュアの入った袋を大事に抱え、胸の中に温かい思い出をいっぱい詰め込んで、にやけそうになる口元を必死に抑える。
すると、少し先にある街灯の下に見覚えのある人影が立っているのが見えた。
「――ネコー!」
ひらひらと、嬉しそうに手を振る彼女。
「あっ、ユイ!」
ネコはパッと顔を輝かせ、トタトタと小走りでユイの元へと駆け寄った。ユイはいつもの優しい笑顔でネコを迎え入れ、ひょいと首を傾げる。
「おかえり。どうだった、今日のデートは?」
「う、デートだなんてそんな……!」
ネコは一瞬で顔を真っ赤にしながらも、すぐに嬉しさを爆発させて、抱えていたフィギュアの袋をユイに見せた。
「あのね! すっごく、すっごく楽しかったんだよ! もう、ユイに話したいことがいーーっぱいあるの!」
息を弾ませながら、今にも堰を切ったように話し出そうとするネコ。ハル先輩がどれだけ優しくて、英語がペラペラでかっこよくて、スリから財布を取り返してくれて、それから、それから……!
頭の中で溢れかえる「ハル先輩のすごさ」をその場で熱弁しようとするネコを見て、ユイは小さく吹き出し、苦笑いを浮かべた。
「ふふ、うん。立ち話もなんだし、歩きながら聞くよ」
「あ、そうだね! えへへ、じゃあまず、ゲームセンターでのことからなんだけどね……!」
2人は並んで夜道を歩き出す。オレンジ色の街灯に照らされながら、ネコは身振り手振りを交えて楽しそうに語り続け、ユイはその言葉を一つひとつ愛おしそうに拾い上げながら、静かに隣で耳を傾けていた。
○○○○○○
「あははは! ハルがボールコントロール下手くそ!? あれだけ鍛えてもそこはまだ上達してないんだね!」
ネコの話を聞きながら、ユイは楽しそうに声を上げて笑った。
「そうなんだよ! ボールがぜんぜん違うところに飛んでっちゃって、ハル先輩でも苦手なことあるんだなぁってびっくりしちゃった」
ネコも嬉しそうに、弾んだ声で語る。
「へえ、見てみたかったかも」
ユイがしみじみと呟くのを聞きながら、ネコは今日一番のハイライトを思い出し、さらに声を一段と大きくした。
「あとね、そのあとにメイド喫茶にも行ったんだよ! ハル先輩、メイド服がすっごく似合ってて……。私、心臓が止まるかと思っちゃった!」
「ハルのメイド服……!」
ユイは目を輝かせ、うっとりとした表情を浮かべた。
「うわぁ、それ絶対見てみたいなぁ。ハルがメイド服着るなんて、絶対に綺麗だし、お人形さんみたいだったでしょ?」
「そうなの! 本当に、1000万円払っても安いくらいだったよ!」
楽しそうに話すネコにユイも嬉しそうにハルの話を聞き続け、話が盛り上がり続ける2人の間に笑顔が絶えることはなかった。
「えへへ、じゃあね、ゲームセンターでは……」
ネコが身振り手振りを交えて楽しそうに話し続けていた、その時だった。
隣を歩いていたユイの表情が、ふっと真剣なものへと変わる。
何かの気配を察知したかのように周囲の暗闇に視線を走らせたかと思うと、ユイはすっとネコの身体に近づき、そのまま溶け込むようにネコの身の内に滑り込んできた。
(――えっ?)
ネコは驚いて心の中で声を上げた。
普段の体育祭の時のように、ユイの魂を完全に表に出す「憑依」の形ではない。意識の主導権はネコにあるままだ。
それにしても、これまではネコの身体に入ることにあれほど遠慮し、躊躇していたユイが見せた、あまりに突発的で珍しい行動だった。
(ユイ? どうしたの……? 急に私の身体に入ってきたりして……)
ネコが心の中で困惑しながら尋ねると、ネコの意識の奥から、ユイの少し緊張したような、切迫した声が返ってきた。
(……ごめんネコ。ちょっとだけ、このままでいさせて)
ユイがなぜ警戒しているのか、ネコが理由を尋ねようとした瞬間。
「よっ、ノラ」
背後から、静かな夜道に響く低く飄々とした声がネコを呼び止めた。
ネコがビクッと肩を跳ね上げて振り返ると、そこには街灯の光を浴びて佇む、特徴的な眼帯をつけた先輩――コトモ先輩が、底知れない笑みを浮かべて立っていた。
「あ……コトモ先輩、こんばんは。こんなところで何してるんですか?」
ネコが少し身構えながら挨拶すると、コトモ先輩は「あー……」と気まずそうに前髪の上から頭をかいた。
いつもの飄々としたお調子者の雰囲気とは少し違う。コトモ先輩は何か言葉を選ぶように視線を彷徨わせながら、ゆっくりとネコに向かって近づいてきた。
そして、ネコの目の前で足を止めると、真面目な顔をして開口一番にこう切り出した。
「……ねぇ。まずさ、今そこにいるのが『ネコ』なのかどうか、教えてくれない?」
「えっ?」
突拍子もない質問に、ネコは目を丸くした。普段からコトモ先輩に「ノラ」と呼ばれているため、本名とあだ名が頭の中でごっちゃになっているのだろうか、とネコは思った。
「あの……私、ノラじゃなくてネコですよ? ネコです」
少し困惑しながらそう答えると、コトモ先輩は小さく苦笑いを浮かべ、眼帯のない方の目を細めた。
「あはは、ごめんごめん。質問の仕方が悪かったよね」
コトモ先輩は一歩、ネコとの距離を詰める。その鋭い視線が、ネコの瞳の奥をじっと見透かすように捉えた。
「――私が聞きたいのはさ。今、そこに表に出てるのは『ネコ』なのか、それとも『ユイ』なのか……どっち? ってこと」
その名前がコトモ先輩の口から飛び出した瞬間、ネコの心臓がドクンと大きく跳ね上がった。身体の奥で息を潜めているユイの気配が、微かにこわばるのが分かった。
(……え?)
ネコは完全にフリーズした。
コトモ先輩の口から、今一番出るはずのない、出してはいけない名前が飛び出してきた。なぜコトモ先輩がユイを知っているのか。
なぜ今、ユイがここにいるような口ぶりで問いかけてくるのか。
頭の中が真っ白になり、激しい動揺がネコを襲う。
「な、何言ってるんですか、コトモ先輩……。ユイって誰ですか? 私は……私はネコですよ?」
動揺を隠すように、ネコは引きつった作り笑いを浮かべて必死に返した。声が少し震えてしまうのを自分でも止められない。
しかし、コトモ先輩はその安易な誤魔化しを一切受け付けなかった。
おチャラけた様子は完全に消え失せ、底の見えない真剣な表情のまま、まっすぐにネコを見つめる。
「…ネコ」
コトモ先輩は低く、逃げ道を塞ぐような声でその名前を呼んだ。
そして、もう一度念を押すように、分かりやすく質問を突きつけてくる。
「いま、私と会話してるのは『ネコ』? それとも『ユイ』? ……どっち?」
「っ……」
ネコは言葉に詰まった。喉の奥がカラカラに乾き、次の言葉が出てこない。
身体の奥にいるユイの気配も、息を呑んだままじっと静まり返っている。
沈黙するネコを前に、コトモ先輩はふっと自分の髪を指先でいじりながら、独り言のようにつぶやいた。
「初対面の人とか年上の女の子にはあんなにオドオドして固まっちゃうのにさ……『幽霊』相手には、結構ハキハキと楽しそうにおしゃべりできるんだねぇ」
「っ!!!???」
心臓が跳ね上がる。
メイド喫茶のことも、さっきまでユイと楽しく歩きながら話していたことも、全部この人に見られていたのだと確信する。
「……面白いね、ノラは」
コトモ先輩が、眼帯の奥にある瞳を妖しく光らせながら、さらに一歩じわりと距離を詰めてくる。
その独特の威圧感に気圧され、ネコは本能的に後ずさりし、自然とコトモ先輩から距離を取って身構える。
…学校ではいつもハル先輩の隣に立っていて、女の子なのに誰もが惹きつけられる圧倒的なカッコよさを持つコトモ先輩。
ネコも普段からとても良くしてもらっていて、密かに憧れていた。
いつかコトモ先輩やハル先輩のように、誰からも頼られて、周囲に自然と笑顔を与えられるようなかっこいい人になりたい。
――そうずっと思っていた。
しかし、今目の前にいるコトモ先輩は、ネコの知っている「優しくて頼れる先輩」では断じてなかった。
そのあまりの変わりようと、眼帯の奥から放たれる冷徹なプレッシャーに、ネコは完全に恐怖に支配される。
(に、逃げなきゃ……!)
本能的な恐怖に突き動かされ、ネコが踵を返して走り出そうとした、その時だった。
「ひっ……!?」
ネコが向かおうとした暗闇の地面から、カサカサカサッと不快な音を立てて、ネコが大っ嫌いなムカデが数十匹、黒い塊となってゾロゾロと這い出してきたのだ。
行く手を完全に阻むようにうごめくその光景に、ネコは恐怖のあまり頭が真っ白になり、その場にへなへなと腰を抜かしてしまった。
背後から、コトモ先輩の冷ややかな声が容赦なく突き刺さる。
「逃げるのは禁止。……ねぇ、逃げたらその先どうなるか、言わなくてもわかるでしょ?」
脅し文句のようなその言葉に、ネコがガタガタと震え、涙目を浮かべたその時だった。
「待ってコトモ!!!」
腰を抜かしたネコを背中で庇うようにして、一人の少女が姿を現した。
ネコの身体から離れ、はっきりと実体化したユイだった。
ユイは強い眼差しでコトモ先輩を睨みつける。
コトモ先輩はそれを見て、ひどく煩わしそうに深いため息をつくと、視線をネコからユイへと移した。
「……はぁ。で、なんでユイがそこにいるわけ?」
コトモ先輩の低く冷淡な問いかけが響く。
先ほどまでの威風堂々とした態度から一転、ユイはそのコトモ先輩の言葉を聞いた瞬間、バツが悪そうに、きまずそうに視線をふいっと横へ逸らしてしまった。
「ねぇ、ユイ。私はアンタに、街から出るなって言ったはずよ」
コトモはさらに一歩踏み込み、冷徹な声で詰め寄った。
その圧倒的な威圧感を前に、ユイはまともに言葉を返すことすらできない。
ただ唇を噛み締め、視線を逸らしたまま、幽霊であるはずの身体をカタカタと小刻みに震わせるだけだった。
「まぁ、理由なんて聞かなくてもわかってるけどさ」
コトモは冷ややかに鼻で笑うと、核心を容赦なく言い当てた。
「ハルに、会いにきたんでしょ」
その言葉が響いた瞬間、ユイの目が大きく見開かれた。動揺を隠せないユイを、コトモは眼帯のない右目で鋭く睨みつける。
「ハルには2度と会わないし、会えない。だからもう諦めるって、私と約束したでしょ?」
「っ……」
ユイの喉がひっつれ、声にならない吐息が漏れる。
「私との約束を破ってさ。今度は何も知らないこの子を利用して、ハルと会おうってわけ?」
「ち、違う……!」
責め立てるコトモの言葉に、ユイはついに悲痛な声を上げた。
「利用しようなんて、そんなこと……!」
「じゃあ何? 体育祭を手伝ってあげる見返りに、身体を貸してもらう約束でもしたんでしょ」
「え……!?」
「なっ……!」
ネコとユイの顔が、同時に驚愕で凍りついた。
2人しか知らないはずの、あの体育祭の裏でのやり取り。それを完璧に言い当てられたのだ。
動揺する2人を見下ろしながら、コトモは冷たく言い放った。
「ハルに会えれば、それでいいわけ?」
コトモ先輩は冷淡な声でユイを責め立てる。
その言葉は容赦なく、さらにネコの方へと矛先を向けた。
「なら、そのためにネコの身体がどうなろうと、アンタにとっては知ったこっちゃないってことか。現に体育祭の時も、腕も足もボロボロにしてたもんねぇ?」
低く鋭い指摘が、夜の静寂に突き刺さる。ユイは痛いところを突かれたように顔を歪め、何も言い返せない。
ネコを心配しての言葉だということは分かった。
けれど、大好きなユイが一方的に悪者にされていくのを、ネコは黙って見ていられなかった。
地面に腰を抜かしたまま、ネコは思わず必死に声を張り上げた。
「ち、違いますコトモ先輩! ユイが勝手にやったんじゃなくて……私が、私がユイにお願いしてやってもらったんです……!」
「――ッ」
その瞬間、コトモ先輩の鋭い視線がギロリとネコへと向けられた。眼帯のない片目が、凍りつくような冷たさでネコを真っ向から睨みつける。
「ひっ……!」
あまりの恐怖と凄まじい迫力に、ネコは短い悲鳴を上げて口を噤み、身を縮めて黙り込んでしまった。
怯えるネコを見下ろしながら、コトモ先輩はふっと冷たい溜息をつき、静かに首を傾げた。
「ふーん……。じゃあさ、ネコちゃんも結構『悪いこと』してんだからね?」
「……え?」
ネコは恐怖のなかで激しく困惑した。
自分が『悪いこと』をしている? ユイを助けたくて、自分の意志で身体を貸したはずなのに。
そんなネコの混乱を見透かすように、コトモ先輩は冷ややかなトーンのまま言葉を重ねた。
「ネコってさ、ユイのためとか何とか言いながら、結局は彼女の力を利用したり、ハルに会わせようとしたりしてるよね。……ねぇ、分かってないでしょ。幽霊に身体を貸すこと、幽霊に協力することが、どれだけ危険なことか」
コトモ先輩は一歩、また一歩と、腰を抜かしたままのネコへと近づいてくる。
「生きてる人間が、死んでるものと一線を越えて交わるのはタブーなんだよ。親切心のつもりかもしれないけど、それはただの無知で無責任な暴挙。アンタがやってることは、ユイの未練をこじらせて、自分自身の命や魂の境界線まで削り取ってるってこと」
眼帯の奥にあるコトモ先輩の目が、静かな怒りを孕んでネコを射抜く。
「危険なオモチャを振り回して楽しんでる子供と同じ。……どれだけ恐ろしい事態を招きかけてるか、その頭で少しは考えなよ」
コトモの凄まじい迫力にネコは全身が恐怖で支配される。
しかし徐々に自分がしたことに目を向けざるおえず、見た結果、ネコの中の答えはこうだった。
「ごめんなさい……っ!」
ネコは顔を伏せ、夜の静寂を切り裂くような悲鳴に近い声を上げた。
ポロポロと目から大粒の涙がこぼれ落ち、アスファルトを濡らす。
「そうです……! コトモ先輩の言う通りです! 体育祭でどうしても勝ちたくて……でも、ハル先輩やコトモ先輩に普通にやったんじゃ勝てる気がしなくて、だからユイの力を頼りました……! 全部、全部私の身勝手な都合なんです! 悪いのは、全部私です……!」
ネコは胸を掻きむしるようにして、自分の罪をぶちまけた。
コトモ先輩の言葉はあまりにも鋭く、正論で、ネコが心の奥底に目を背けて隠していた後ろめたさを完璧に抉り出していた。
「ユイの未練を利用して、ハル先輩に会わせようとしたのもそうです……っ。ユイ、本当にごめん…っ!」
「違うよ、ネコ! ネコは悪くない、私が――」
ユイが悲痛な顔で叫び、ネコの肩を掴もうとする。
しかし、ネコは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、遮るように言葉を続けた。
「――でもっ……!」
ネコは決死の覚悟で顔を上げ、恐怖でガタガタと震えながらも、コトモ先輩の冷徹な瞳を真っ正面から見据えた。
「でも……なんで、ハル先輩とユイを会わせることが、そんなに悪いことなんですか……!?」
「……何?」
コトモ先輩の眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がる。
「ユイはただ……ただ、大好きなハル先輩に会いたがってるだけなんです! 悪いことなんて何も考えてない! もう一度だけ会って、ちゃんとお話ししたいだけなんです!……それだけのことが、どうしてそんなにいけないことなんですか……っ!」
絞り出すようなネコの叫びが、夜の空気の中に消えていく。
ユイがどれだけハル先輩のことを大切に想っているか、どれだけ切ない目でハル先輩を見つめていたか、一番近くにいたネコには痛いほど分かっていた。
だからこそ、どれだけ自分が責められようとも、その純粋な想いだけは否定されたくなかったのだ。
「ユイは、悪い人じゃないです……!」
ネコは涙を拭うこともせず、必死に言葉を紡いだ。
「私、ユイの過去のこととか、詳しいことは何も知らないです……。だけど、これだけは分かります! ユイはハル先輩を傷つけたりなんて絶対にしない! だから……だから一度だけでいいから、会わせてあげてください!」
ネコは必死にコトモ先輩に懇願する。
しかし、目の前の先輩の表情は冷たいままだ。その頑なな態度に、ネコは胸の奥から湧き上がる悔しさと疑問をぶつけるように叫んだ。
「それなのに……どうしてコトモ先輩も、コトワリ様も、ユイとハル先輩を会わせないためにそこまでするんですか!? 二人を引き離す必要なんてないじゃないですか!」
「……へえ」
コトモ先輩の口元が、わずかに歪んだ。
眼帯のない左目が、値踏みするようにネコを見下ろす。
「コトワリ様の名前まで知ってるんだ。随分といろんなところから情報を仕入れてるみたいだねぇ」
コトモ先輩はふぅと短いため息をつくと、冷酷なまでに落ち着いた声で続けた。
「じゃあさ、なんでそんな名前まで知ってて、基本のキが分かんないのかな」
一歩、コトモ先輩がネコへと歩み寄る。
その足音が、妙に重く夜道に響いた。
「死者が、生きてる人間と関わろうとすることが、どれだけ許されないことか分かってる? 本来なら絶対に繋げちゃいけない世界同士を、アンタたちのエゴで無理やり繋げることのリスク、本当に理解して言ってるの?」
「それは……」
「もしさ」
コトモ先輩はネコの前に屈み込み、その怯える顔を間近で覗き込んだ。
声音には一切の感情が籠もっていない。
「もし、このままユイをハルに近づけて、ハルの身に何か取り返しのつかないことが起きた時――ネコ、アンタが責任取れるの?」
冷たく突き放すような問いかけに、ネコは息を呑み、何も言い返せなくなってしまった。
「もしハルがユイに引きずられていって、あっちの世界から戻れなくなったら? ハルが永遠に元の世界に戻って来れなくなったらさ…ネコはきっと、ユイのことを一生恨み続けるよ」
「ち、違う……っ! そんなことっ!」
ネコは泣きながら首を激しく横に振った。しかし、コトモの容赦のない言葉は止まらない。
「そうなるとさ、ユイはもうネコに用はないよね。目的を果たしたら、あとはハルと二人で、ずっと暗い闇の中で引きこもるのかなぁ?」
「ユイはそんな人じゃない……っ! そんなこと絶対にしない!」
ネコは必死に声を張り上げるが、コトモは冷徹な瞳でネコを見下ろしたまま、さらに言葉のナイフを突き刺していく。
「ハルと会えたら、ユイはきっとネコのことなんかどうでも良くなるよ。今はこうして仲良くしてるけど、それって身体を貸してくれるから、そっちの方が都合がいいだけでしょ?」
「やめて……お願いだからやめて……っ」
ネコは耳を塞ぐようにして、ボロボロと涙を流し始めた。
けれど、コトモの低い声は容赦なく脳内に響き渡る。
「もしかして、本当の友達にでもなれたと思った? 残念でした。ユイは初めから見てるのはハルだけだよ。ネコのことなんて、単なる通過点に過ぎない。ぶっちゃけ、ハルの近くに行けて、憑依できる身体があるなら誰でもよかっただろうし。ネコである必要なんて、どこにもないもんねぇ」
「やめてください……っ、もうやめて……!私はただ、ユイのために…!
ネコが拒絶の叫びをあげようとしたその時、コトモはふっと表情を消し、冷ややかに呟いた。
「……ユイのため?…自分のためでしょ…」
その一言が、ネコの心の堤防を完全に決壊させた。
「――うるさいッ!!」
ネコは感情を爆発させ、無我夢中で目の前のコトモを全力で突き飛ばした。
不意を突かれたコトモの身体が僅かに揺らぐ。
しかしネコは、その反動のまま力尽きたようにアスファルトの上へへたり込み、激しく泣きじゃくってしまった。
「ネコ……っ!!」
すぐさまユイが、悲痛な叫び声をあげてネコのもとへと駆け寄り、その小さな身体を抱きしめるようにして寄り添った。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・
「なんで……なんでそんなに酷いこと言うの……っ」
ネコはユイの胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げて泣き続けた。
ボロボロと溢れる涙が止まらない。
「私はただ……ユイが可哀想だと思って……ハル先輩に会わせてあげたいって、思っただけなのに……っ!」
そんなネコの背中を、ユイはきつく抱きしめ返した。
その瞳からも、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ごめんね、ネコ……。ごめん……ありがとう、私のこと庇ってくれて……」
ユイはネコの頭を優しく撫でながら、ただただ必死に慰めることしかできなかった。
その光景を少し離れた場所から見ていたコトモは、ふっとネコたちから視線を逸らし、何かを諦めたように静かに顔を横に振った。
冷徹だったその表情に、どこか言いようのない陰りが差す。
ユイはネコを抱きしめたまま、震える声で告白を始めた。
「……コトモの言う通りだよ。最初はね、ハルに近づくためにネコを利用しようとしたの。それは本当。……でもね、一緒に過ごして、たくさんお話しして、遊んでいるうちに……どうしても放っておけなくなっちゃったの」
ユイはネコの濡れた髪を愛おしそうに払いながら、切なく微笑んだ。
「ネコって、ただのすっごいお人好しで、そのくせ信じられないくらい運のない子だから……。見てるとハラハラしちゃって、もう見てられなくて」
ネコは涙目でユイの顔を見つめる。ユイの言葉は、コトモが言ったような冷たいものとは正反対の、温かい響きを持っていた。
「ネコと話してる時ね、私、自分が生きている時のことを思い出せたの。まるで、本当に自分がまだ生きてるみたいに思えて、すごく嬉しかった。……ネコは、幽霊の私から離れなかったでしょ? だから、私はずっとここにいるんだよ」
そこまで言うと、ユイの表情が苦しげに歪み、今度はユイ自身が声を詰まらせて泣き始めた。
「……隠し事をしてるのも、本当。でも……本当の私って、本当に最低で……っ。本当の私のことを話したら、絶対にネコに嫌われちゃう。ハルと会えなくなるだけじゃなくて、ネコにまで愛想尽かされたらって思ったら……怖くて、今この場になっても、どうしても言えないの……っ!」
自分の醜さをさらけ出すように泣きじゃくるユイ。
そんなユイの言葉を聞いて、ネコは躊躇うことなく、自分の小さな手でユイの手をぎゅっと力強く握りしめた。
ユイがどんな秘密を抱えていようと、今ここで自分を抱きしめてくれているユイの温かさは本物だと信じたかった。
オレンジ色の街灯の下、お互いの手を強く握り合ったまま、二人は静かに寄り添ってすすり泣き続けた。
「ごめんね、ネコ……っ。怖がらせて、本当にごめん…」
ユイは涙を流しながら何度もネコに謝り、その小さな肩を抱きしめた。
そして、覚悟を決めたように涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がってコトモの方へと向き直る。
ユイの瞳には、先ほどまでの怯えではなく、ネコを守ろうとする強い意志が宿っていた。
「コトモ……私が最初に、ネコの身体を乗っ取ったのが始まりなの。体育祭の時も、私が勝手にネコの身体を操った。だから……だからネコは何も悪くない!」
ユイは必死に訴え、すべての責任は自分にあるとコトモに告げた。
コトモは腕を組んだまま、感情の読めない冷淡な目でユイを見つめ、静かに問いかける。
「……ふーん。それで? これからどうすんの?」
「……元の場所に、帰るよ」
ユイが悲しげにそう答えた瞬間、地面を這う数十匹のムカデたちが、カサカサと不気味な音を立ててユイの足元へじわりと近づいていった。
「な、何をするんですか……っ!?」
へたり込んだままのネコが悲鳴混じりの声を上げると、コトモは冷たく言い放つ。
「ハルに二度と近づけなくなるように、神社に閉じ込めるだけだよ。これ以上、勝手に行動されたら困るからね」
その言葉がネコの耳に届いた瞬間、頭で考えるより先に身体が動いていた。
「――っ!!」
ネコはあれほど大っ嫌いで恐怖の対象だった足元のムカデたちを、必死の思いで飛び越えた。そして全力でユイの身体を抱きしめると、ユイを回収したまま、夜の闇の中へと一目散に走り去った。