「バカ! ネコのバカッ!!」
ネコに抱えられたままユイが必死の形相で叫んだ。
「何考えてるの!? 今すぐに下ろして!!」
「ユイは黙ってて!」
巨大なムカデの影から必死に逃れようと、ネコは涙で視界を滲ませながらも全力で足を動かし続けた。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。
「友達を見捨てることなんて、絶対にしないっ……!」
「だから私、ネコのことを騙して利用しようとしたって言ったじゃない! 私は最低な幽霊なの!」
「それは私も同じ! 私だって体育祭で勝ちたくて、ユイの力を悪用した!」
ネコはゼーゼーと荒い息を吐きながら、声を張り上げて叫び返す。
「だからこれでおあいこ! お互い様だよ!」
「おあいこなわけないでしょ!? それに、コトモから逃げ切れると思ってるの!?」
ユイは悲痛な声をあげてネコを引き止めようとする。
「もう私を助ける理由なんて、ネコにはどこにもない! お願いだから、今すぐ私をコトモに引き渡して……っ!」
「助ける理由なんて――!」
迫り来る巨大な影のプレッシャーに押し潰されそうになりながら、ネコは胸の奥の、一番純粋で強い気持ちを叫び散らした。
「ユイのことが、大好きだからに決まってるじゃんかーーっ!!」
その瞬間、ユイの動きがピタリと止まった。
騙していたと告白し、最低だと自嘲した自分を、それでも「大好きだ」と全肯定してくれたネコの言葉。
絶望と諦めに染まっていたユイの瞳に、眩いばかりの強い光がパッと灯る。
「…っ、本当に……バカなんだから!!」
ユイの声が、今度はネコの頭の芯に直接響いた。
ユイの霊体が光の粒子となってネコの背中から勢いよく吸い込まれ、二つの魂が完全に一つへと重なる。
ドクン、とネコの身体の奥から圧倒的な力が湧き上がるのを、ネコははっきりと肌で感じる。
その背後で、遠ざかるネコたちの背中を見送りながら、コトモは深く深いため息をついた。
「はぁ……。ま、こうなると思ったよねぇ」
やれやれと頭を振ったコトモが、静かにその名を呟く。
「――ムカデ様」
その瞬間、地響きのような低い鳴動が辺り一帯に響き渡った。
逃げるネコの行く手、街灯の光さえも遮るようにして、周囲の地面から、辺り一面を覆い尽くすほどの規格外に巨大なムカデの影が出現した。
「え……っ」
目の前に現れた圧倒的で禍々しいその姿に、ユイは走る足を止め、恐怖のあまり完全に絶句した。
「ちょっと、あれって……嘘でしょ!?」
ユイの驚愕と恐怖の入り混じった悲鳴が響く。
行く手を完全に塞ぐようにしてのたうつムカデ様の巨体を前に、ユイはその正体に気づき、愕然と声を張り上げた。
「ムカデ様はこの街とは別の場所の神様なのに……! なんで、なんでこんなところにいるの!?」
「あはは、そんなに驚くこと?」
背後の暗闇から、コツン、コツンと静かな足音が近づいてくる。
振り返ると、そこにはいつの間にか距離を詰めていたコトモ先輩が、相変わらずの底知れない笑みを浮かべて歩いてきていた。
「私がちょっと『お願い』したらさ、わざわざここまで出向いてくれたんだよ。本当に優しい神様だよねぇ」
コトモ先輩は巨体の前に立つと、愛おしそうにムカデ様の禍々しい外殻にそっと手を触れた。
巨大なムカデは、その愛撫を受け入れるように不気味な身震いを一つ立てる。その異様な光景に、ネコの背筋に冷たいものが走った。
コトモ先輩は触れていた手を離すと、ゆっくりと視線をネコに向けた。
「ねぇ、ネコちゃん。安易にお化けとか『向こう側』の存在に触れてると、どうなるか……教えてあげる」
そう言うと、コトモ先輩はいつも左目を覆っていたトレードマークの眼帯に手をかけた。
スルスルと紐が解かれ、眼帯が外される。
「ひっ……!?」
ネコは恐怖のあまり、息が止まった。
そこにあるはずの綺麗な瞳はなかった。
コトモ先輩の左目の瞼の奥は、光を一切反射しない、底なしの真っ暗な「空洞」になっていたのだ。ただ暗黒の闇だけがそこにポッカリと口を開けている。
「これを見てもさ……まだユイと関わり続けるつもり?」
剥き出しになった異形の左目でネコを凝視しながら、コトモ先輩は残酷なまでに静かに微笑んだ。
「ほら、大人しく諦めなよ」
コトモ先輩は眼帯を外したまま、真っ暗な空洞の左目をこちらに向け、小首を傾げた。
「ユイが憑依して、なかなかにいい動きをしてるけどさ。ムカデ様からは絶対に逃げられないよ? ……ねぇ、今大人しく降伏してくれたらさ、特別に『おしりぺんぺん』だけで許してあげる」
いつもの調子に戻ったようなふざけた提案に、ネコの身体からユイの鋭い声が響く。
「――断固お断り!」
コトモ先輩は面白そうに眉を上げると、今度は意識の奥にいる本人へと問いかけた。
「じゃあ、ネコちゃんはどうする?」
「嫌です……! 絶対に嫌です!!」
ネコも心の中から全力で叫び返す。ユイを神社に閉じ込めさせるわけにはいかないし、コトモ先輩の言いなりになるのも絶対に御免だった。
「あはは、そっか。交渉決裂、残念だなぁ」
コトモ先輩が小さく肩をすくめ、その手をスッと前に突き出す。
「――いって。ムカデ様」
その号令とともに、辺り一面の空気を震わせながら巨大なムカデが猛然と襲いかかってきた。無数の足がアスファルトを削り、凄まじい速度で突進してくる。
「ネコ、しっかり掴まってて!」
ユイはネコの身体の身体能力を極限まで引き出し、地を蹴った。
驚異的な跳躍と身のこなしで、迫り来る巨大な顎を紙一重でかわしていく。
しかし、退路を塞ぐように次々と繰り出されるムカデ様の容赦ない猛攻に、憑依状態のユイであっても確実にジリジリと壁際に追い詰められていく。
その時だった。
「っ……、う……」
ネコたちを追い詰めていたコトモ先輩の身体が、不自然にグラリと大きく揺らいだ。まるで急激に体力を奪われたかのように、その場にバタリと倒れそうになる。
しかし、コトモ先輩はすぐに膝をつく寸前で踏みとどまると、荒い息を吐きながら素早く自分のバッグへと手を伸ばした。
中から取り出したのは、缶コーヒーだ。
それを引ったくるようにして開けると、一気に喉へと流し込む。
「プハッ……! ったく、こんな時に眠気なんて……」
コーヒーを飲み干した瞬間、コトモ先輩の身体に一気に生気が戻る。眼帯のない真っ黒な空洞の目が、瞬時に鋭さを取り戻して再びネコたちをロックオンした。
「チッ……! 巨大な割に小回りがきいてすごく厄介……!」
コトモ先輩の隙を突いて逃げ出そうとしたユイだったが、息を吹き返したコトモ先輩の指示によって、ムカデ様の動きがさらに鋭さを増す。
右から左から、予測不能な軌道で襲いかかってくる無数の足と巨大な巨体。どれだけ避けても次から次へと迫り来るしつこいムカデ様の対応に、ユイは息を乱し、次第に防戦一方で苦慮し始めていた。
一方、コトモは手早く眼帯を付け直すと、激しい攻防を繰り広げるネコの姿をじっと見つめた。その眼光には、明らかな驚きが混じっている。
(……おかしいね。予想外に粘るじゃん)
コトモの知る限り、ユイの憑依は「人間の身体能力を限界まで引き出す」というものだ。けれど、今のネコの動きは明らかにその領域を超えていた。
(あれは単なる『限界の引き出し』じゃない……。ネコちゃん自身の底に眠ってる、本人の『潜在能力』までユイが引きずり出してる…それもネコとユイの気持ちが一致してるから…?)
厄介なことになったと内心で毒づきながら、コトモはコーヒーの空き缶を投げ捨て、自身も直接ネコを捕らえるべく動き出した。
「ムカデ様、右! 挟み込むよ!」
コトモが疾走し、ムカデ様の巨体と連動してユイの退路を完全に塞ぎにかかる。
(ユイ!!コトモ先輩が来る!!)
「ムカデだけで手一杯なのに…!!!」
コトモも警戒しつつ、ユイは住宅街から離れて、山沿いの川へ逃げていく。
コトモとムカデ様は2人で連携してユイを追い詰めていき、ネコの目もあるユイはなんとか捌ききるが、次第に押されていく。
川の流れが激しく、ユイの逃げ道は塞がれていく。なんなら川にでも飛び込んで撒くことを考えていたが、川のあまりの荒れ模様に断念せざる負えなかった。
それでもコトモは追跡をやめず、2人を追い詰めていく。
「くっ……そこかっ!」
ユイは超人的な反応速度でコトモの突進を鋭くかわすと、目の前の壁を蹴って大きく上方へとジャンプした。迫り来るムカデ様の頭部を空中できれいに飛び越える。
――しかし、避けたと思ったその瞬間。
空中で無防備になったネコの身体へ、死角からうねるように翻ってきたムカデ様の巨大な尻尾が、逃げ場のないタイミングで襲いかかった。
「あ――」
ドカッ!!! と鈍い衝撃音が夜の空気に響き渡る。
「がはっ……!?」
強烈な一撃がネコの脇腹を捉えた。
その凄まじい衝撃に、ネコの身体の許容量を超えたと判断されたのか、二人の同調が強制的に引き剥がされる。
光の粒子と共に、ユイの霊体がネコの身体から勢いよく弾き飛ばされた。
「ネコ……っ!!」
宙で実体化したユイが悲痛な叫びをあげる。
しかし、憑依が解け、完全に意識を失ったネコの身体は、何の抵抗もできないまま重力に従って地面へと真っ逆さまに落ちていく――。
「――っ! ネコ!?」
それを見たコトモの顔から余裕が消え失せ、本気の焦燥を孕んだ声が夜の街に響き渡った。
○○○○○○○
ドボンッ!!!
大きな水しぶきを上げて、ネコの身体は冷たい川へと叩きつけられた。激しい衝撃と共に川底へと沈み、すぐに激しい水流に巻き込まれて流されていく。
「……っ、たす、け……っ、ぶほっ!」
意識を取り戻したネコが必死に水面に顔を出して助けを求めようとするが、勢いよく迫る川の水を勢いよく飲んでしまい、ゴボゴボと泡を立てて再び水面下へと沈んでいってしまう。
「ネコっ!!!」
川岸からその光景を見たコトモの顔が真っ青に染まった。
完全に想定外の事態に、いつもの冷静さは木端微塵に吹き飛んでいる。
「ムカデ様! ネコちゃんを捕まえて!」
コトモの叫びに応じて巨大なムカデ様が川へ手を伸ばそうとするが、その規格外の巨体と硬い外殻では、濁流に揉まれて急速に流されていく小さなネコの身体をピンポイントで傷つけずに捕らえることは不可能に近かった。
「チッ……! 間に合わない……!」
コトモは走りながら瞬時に黒い上着とスカートを脱ぎ捨てると、躊躇することなく勢いよく川へと飛び込んだ。
ザッパーンと激しい音が響く。
コトモは濁流に逆らい、必死に腕を動かしてネコの後を追った。
激しい川の流れに体力を削られながらも、なんとか流されるネコの身体に追いつき、その小さな衣服をガシッと力強く掴み取る。
(捕まえた……っ! あとは岸に――)
そう思った瞬間だった。
コトモの身体を、立っていられないほどの凄まじい「眠気」が急襲した。
(――っ!? なんで、今……っ!?)
身体を無茶に酷使し、コーヒーで無理やり誤魔化した反動が、最悪のタイミングで一気に押し寄せてきたのだ。
視界が急速に狭くなり、脳がシャットダウンしようとし、川の流れは容赦なく2人の身体を押し流していく。
(ダメだ、目を覚ませ……! 今寝たら、2人とも……っ!)
コトモは必死に水を被り、意識を繋ぎ止めようと抗うが、鉛のように重くなった身体はもう言うことを聞かない。
限界だった。
自分の意識が完全に途切れるまで、あと数秒もない。
このままでは2人とも濁流に沈む。
そう確信したコトモは、最後の力を振り絞ってネコの身体を抱え上げると、川岸で並走していた巨影に向かって全力で投げ飛ばした。
「ムカデ様……ッ!! あとは、頼んだ……!!」
放り投げられたネコの身体は、川岸のムカデ様がその無数の足で優しく、しっかりと受け止めた。
それを見届けた瞬間、コトモの視界は完全に真っ暗になった。ネコを託し、完全に力尽きて意識を失ったコトモの身体は、そのまま激しい川の流れの中に飲み込まれ、あっという間に下流へと流されていってしまった――。
「コトモ先輩ッーー!!」
ムカデ様に受け止められ、川岸に引き上げられたネコは、濁流の彼方へと消えていくコトモの姿を見て絶叫した。
自分を助けるために飛び込み、身代わりのように流されてしまった先輩。ネコは恐怖でガタガタと震えながら、隣に浮かぶユイに必死にすがりついた。
「ユイ、どうしよう……! どうしよう、コトモ先輩が……っ!」
「大丈夫、まだ助けられるよ!」
ユイの瞳に迷いはなかった。
『私が先に行って追いつく! ネコはここで待ってて!!』
ユイはそう言うと、川の流れに沿って凄まじい速度で弾丸のように飛び出していった。
「待って、私も――!」
ネコもすぐに後を追おうと走り出しかけたその時、ズズズッと巨大な質量がネコの目の前を文字通り横滑りするようにして塞いだ。
「ひゃっ……!?」
見上げれば、街灯の光を反射して赤黒く光る無数の足。辺り一面を覆うような巨大なムカデ様の胴体だ。
ネコはあまりの恐怖に心臓が止まりそうになり、思わず数歩後ずさりした。
しかし、ムカデ様は襲いかかってくる気配を見せなかった。
それどころか、地響きのような低い鳴動を漏らしながら、その巨大な頭部をネコの足元に向けてゆっくりと低く下げていく。
這いつくばるようなその姿勢は、まるでネコに向かって『背中に乗りなさい』と促しているようだった。
(む、ムカデに乗る……っ!?)
正直、大っ嫌いなムカデの、しかもこんな化け物サイズの背中に乗るなんて、考えただけでも気絶しそうだった。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、鳥肌が止まらない。
けれど――今はそんなことを言っている場合ではなかった。
一分一秒を争うほど、コトモ先輩の命が危ないのだ。
「うぅ……っ、もう、どうにでもなれ……っ!」
ネコは恐怖を涙と一緒に力ずくで圧し殺すと、目をつむりながらムカデ様の頭部へとしがみつくようにして飛び乗った。その節足動物特有の硬い外殻に触れた瞬間、ゾワリと全身に鳥肌が立ったが、必死に指先に力を込めて固定する。
ネコが乗ったことを確認した瞬間、ムカデ様は猛然と地を蹴った。
無数の足が驚異的な回転でアスファルトや草むらを捉え、まるで弾かれたように川下に向かって爆走を始める。
凄まじい風圧がネコの全身を叩き、景色が超高速で後ろへと流れていく中、ムカデ様はコトモを救うべく、濁流の先を行くユイの後を猛追していった。
意識を失ったコトモの身体は、完全に力尽きて冷たい水底へと沈み込んでいく。
そこへ、水流を突き抜けるようにしてユイが飛び込んできた。
ユイはすぐさまコトモの身体を確保し、その精神へと潜り込もうと試みる。
(コトモ、身体を借りるよ……っ!)
しかし――ユイの霊体は、コトモの身体の表面ではじかれるようにして外へ押し出されてしまった。
強引に結びつこうとしても、まるで強固な拒絶の壁があるかのように、どうしても中に入ることができない。
「……っ、やっぱり、コトモへの憑依は無理か……っ!」
ユイは心の中で苦渋の声を上げた。
憑依して自力で泳がせる手が使えないと悟ったユイは、実体化してコトモの脇の下に両腕を回すと、死に物狂いでその身体を引きずり、激しい水流に抗いながら水面を目指して浮上し始めた。
一方、川岸では、ムカデ様の頭上に乗ったネコが必死に目を凝らしていた。
「コトモ先輩! ユイ……っ! どこにいるの!?」
必死にあたりを見渡すが、街灯の光も届かない漆黒の川面はどこまでも暗く、ただ白く濁った水しぶきが飛び散るばかりで、人間の目ではどこに二人が流されているのか全く判別できない。焦燥感だけが膨れ上がっていく。
「ムカデ様! 先輩たちの場所、わからない!?」
ネコが必死に尋ねると、ムカデ様は悲痛な声を漏らすように身悶えした。ムカデ様は強大な怪力と巨体を持つ神ではあるが、水中に沈んだ特定の標的を探知するような都合の良い能力は持ち合わせていなかったのだ。
巨大な神様も、大切な友人の危機を前にどうしていいか分からず、ただカサカサと足を震わせて困惑していた。
(どうしよう……このままじゃ見失っちゃう……っ!)
ネコが絶望に押しつぶされそうになった、その時だった。
『――ネコ!!』
ネコの頭の芯に、直接ユイの声が響き渡った。それは先ほど完全に魂を同調させたからこそ繋がった、確かな精神のパスだった。
『ここだよ! 私の声を辿って! 今、水面に出る……っ!』
ユイが自身の霊力をネコの意識へと逆流させるようにして現在地を叫ぶ。
その瞬間、ネコの脳裏に、真っ暗な川のどのあたりに二人がいるのかが、まるで光のスポットライトが当たったかのように鮮明に浮かび上がった。
「見えた……っ! ムカデ様、あそこ! あそこの大きな岩のすぐ右側!!」
ネコが迷わず前方を指差して叫ぶ。
場所さえ分かれば、ムカデ様に躊躇はなかった。
地響きを立てて地面を抉りながら、巨大な主神はネコを乗せたまま、獲物を捉えるような凄まじい速度で指定された川面へと一気に躍り出た。
○○○○○○○○
ムカデ様がその巨体を川へと伸ばし、水面へと浮上してきたユイとコトモの身体をすくい上げるようにして川岸へと引き揚げた。
「コトモ先輩! コトモ先輩っ!!」
ネコはムカデ様の背中から飛び降りるなり、地面に横たえられたコトモの元へ駆け寄った。コトモの顔色は青白く、呼吸をしていないように見える。
ネコはパニックになりそうな心を必死で抑え込み、両手を重ねてコトモの胸へと置き、全体重をかけて必死に押し始めた。
「お願い……目を覚まして! 嫌です、私のせいで先輩が死んじゃうなんて絶対に嫌です……っ!」
涙が次から次へと溢れ落ち、コトモの濡れた服をさらに濡らしていく。
何度も、何度も、祈るように胸を押し続けた。
――げほっ……! ごほっ、ごほっ!!
数度目の圧迫の後、コトモの身体が大きく跳ね上がり、口から激しく水を吐き出した。
荒い呼吸を繰り返しながら、コトモはゆっくりと、力なく瞼を持ち上げる。
眼帯の隙間から目の前で涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているネコの顔を捉えた。
「……あー、大きな声で泣かれすぎて……耳が痛いんだけど……」
コトモはまだ力が入らない様子で視線を泳がせ、ネコの身体を上から下へとゆっくり見やった。
「……でも、ネコちゃん…大きな怪我は、ないみたいだね。……よかった……」
「先輩……っ!! うわああああん!!」
無事を確認したネコが堪えきれずにその場に泣き崩れると、コトモは激しく咳き込んだ。
「ごほっ、ごほっ……! げほっ……っ」
「せ、先輩! 大丈夫ですか!? まだ苦しいですか!?」
オロオロと心配するネコを見つめ、コトモは少しだけ呼吸を整えると、いつものような少しひねくれた、けれどどこか優しい微笑みを浮かべた。
「……助けてくれて、ありがとね…お陰でまだポロのところに行かずに済んだよ」
コトモはそう言ってネコにお礼を告げると、少し視線を上げて、近くで心配そうに自分を見つめていたユイへと右目を向けた。
「……それと。一応、ユイにもね。アンタが水中で引き上げてくれなきゃ、今頃完全に沈んでたし」
ぶっきらぼうに、けれど確かに紡がれたコトモの感謝の言葉に、ユイは驚いたように目を丸くした後、少しだけ照れくさそうに俯いた。
ユイはコトモからお礼を言われると、気まずそうに視線を彷徨わせ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
さっきまで激しく敵対していたことや、そもそも自分がこの騒動の発端であるという罪悪感が、彼女の胸に去来しているようだった。
そんな中、ネコはふと、息を吹き返したコトモの現在の姿に目を向け――そして驚愕した。
川に飛び込む前に上着を脱ぎ捨て、さらに濁流に揉まれたせいで服がどこかへ流されてしまったコトモ先輩は、濡れたインナーと下着のみという、お世辞にも他人の前に晒していいとは言えない「かなりアウトな格好」になっていたのだ。
「あ、あわ、あわわわわ……っ! こ、コトモ先輩! その、格好が、ものすごくヤバいことになってます……っ!!」
ネコは顔を真っ赤にして、手で目を覆いつつも指の間からチラチラ見ながら大慌てで騒ぎ立てる。
「……あー、もう。分かってるから、あんまりこっち見ないで…」
コトモ先輩は寒さに少し身体を震わせながら、濡れた長い髪を手で雑に払い、気まずそうに腕で身体を隠した。
眼帯を濡らしたまま、不機嫌そうにネコを睨みつける。
ネコは慌ててそっぽを向きながらも、どうしても気になっていた疑問を口にした。
「…先輩……なんであんな無茶して川に飛び込んだんですか?」
ネコが尋ねると、コトモは視線を泳がせ、どこか照れくさそうに首をすくめた。
「さあねぇ、なんでだろうね。頭より先に身体が動いちゃったっていうか……まあ、そういうこともあるんじゃない?」
そう言って、いつもの調子でひらりとはぐらかしてしまう。
その時、ずっと静かに二人の様子を見守っていたユイが、ハッと息を呑んで辺りを見渡した。
「……ねえ、二人とも、静かにして」
ユイの霊体がピリピリと震えている。
夜の闇の奥から、明らかに普通ではない、ねっとりとした不気味な気配がこちらに向かって急速に近づいてきているのを、彼女の霊感が捉えていた。
しかし、ネコはまだその気配に気づかず、寒そうにしているコトモの身体を自分のハンカチや服の袖で必死に拭いてあげていた。
そして、ずっと胸に引っかかっていたことを恐る恐る口にする。
「先輩……あの、先輩の左目のこと、聞いてもいいですか……?」
コトモの動きがピタリと止まった。少しの沈黙の後、眼帯に手を当てながら静かに告げる。
「……アンタには、私を反面教師にしてほしいとは思うよ。でもね、詳しくは教えたくないかな。これでも一応、女の子の秘密だし?」
「でも……!」
ネコが食い下がろうとするが、コトモは「はいはい、この話はおしまい」と手を振って、それ以上は頑なに話そうとしなかった。
そうやってはぐらかしているうちに、コトモの瞼が急激に重くなっていった。
一度は完全にシャットダウンしかけた脳だ。
急激な体力の消耗と冷え、そして能力の反動が、再び彼女を襲っていた。身体が小刻みに震え、生気が引いていく。
「先輩? 大丈夫ですか……!?」
ネコが焦って顔を覗き込むと、コトモは消え入りそうな声で呟いた。
「……ねぇ、ネコちゃん……バッグから、コーヒー……とって……。あれ飲まないと、マジで……寝ちゃう……」
「えっ!? コーヒーですか!? それなら、先輩のバッグも上着も、さっき全部川に流されちゃいました……!」
「……えっ、嘘、でしょ……?」
コトモは一瞬だけ驚愕に目を見開いたが、もう限界だった。
燃料を補給する手段を失った彼女の身体から完全に力が抜け、ゆっくりと泥の上に倒れ込んでいく。
「先輩! しっかりしてください! 先輩!!」
ネコが必死にその身体を揺さぶる。
その時――。
「ネコッ!! 後ろ!!!」
ユイが引き裂くような悲鳴をあげた。
ネコがハッと顔を上げ、周囲を見回した瞬間、ドクンと心臓が跳ね上がった。
いつの間にか、闇に紛れるようにして、ネコたちの周囲を無数の「不気味な化け物たち」が隙間なく囲んでいた。
どろりと溶けたような異形の身体、ぎらつく無数の眼。それらが、意識を失ったコトモと、動けないネコを見下ろすように、じわりと包囲網を縮めてきていた――。
○○○○○
暗闇から這い出してきたのは、悪夢を形にしたような異形の群れだった。
顔のあるべき場所がのっぺらぼうのように滑らかな「顔のない鳥」。
関節が有り得ない方向に曲がり、生気のない目でこちらを凝視する「人間じゃないセーラー服の女子高生」。
そして、濁った瞳で不気味にニヤニヤと笑う「人の顔をした犬」――。
他にも様々な化け物がネコ達に近づいていく。
「ひっ……、あ……っ」
あまりの恐怖に、ネコは喉が引き裂かれそうなほどの絶叫をあげそうになる。
しかし、恐怖で声すらまともに出ない。
身体がガタガタと震え、その場にすくみ上がってしまう。
『シャアアアアアッ!!!』
その時、地鳴りのような咆哮をあげてムカデ様がネコたちの背後に立ちはだかった。
無数の足を激しく威嚇するように震わせ、禍々しい巨体でネコたちの後ろを完全に死守する。
同時に、ユイもネコの前に躍り出た。
その両腕を広げ、異形たちを睨みつける。
「来るな! ネコ達に近付くな――ッ!!」
緊迫した空気が張り詰める中、ネコの腕の中で、コトモ先輩が微かに身じろぎした。
力なく薄く目を開け、消え入りそうな弱々しい声で呟く。
「……ネコちゃん……こいつらの、狙いは……私、だよ……」
「えっ……!? 先輩、それどういう……」
「……私はもう、動けない。だから……ネコちゃんは、早く、私を置いて逃げなさい……っ」
ハッと息を呑むネコ。
しかし、その手を離す選択肢なんて、最初からあるはずがなかった。
自分を助けるために川に飛び込んでくれた先輩を、こんな化け物たちの中に置いていけるわけがない。
「――嫌ですっ!!」
ネコは涙を拭うと、覚悟を決めてコトモ先輩の身体を自分の背中へと強引に引き上げ、必死におんぶした。
ずっしりとかかる先輩の重みが、守るべき命の重さに思えた。
「ユイ! 行くよ!!」
ネコの声に、前方を睨みつけていたユイが勢いよく振り返り、力強く頷いた。
「うんっ!!」
ユイが弾丸のようにネコの元へと駆け戻ると同時に、ネコはコトモ先輩を背負ったまま、全速力で振り返って走り出した。
行く手を阻もうと、人面犬やセーラー服の化け物が一斉に飛びかかってくる。
『――ギシャアアアアッ!!!』
しかしその瞬間、背後から迫ったムカデ様の巨大な胴体が、大鎌のように横一線に振り払われた。
凄まじい衝撃波と共に、ネコたちの前に立ち塞がっていた化け物たちが木端微塵に吹き飛ばされていく。
強大な神の一撃が、漆黒の包囲網を強引に切り裂き、一本の退路を作り出した。
「ムカデ様、ありがとう――!!」
ネコは叫びながら、その開かれた光の道を、ユイと共に一目散に走り抜けた。背中から伝わるコトモ先輩の微かな体温だけを信じて、夜の闇の中を、ただひたすらに前へと突き進んでいく。
ムカデ様は深夜廻の頃よりも、コトモさんのお陰で力を取り戻しています。