「……ネコ、ちゃん……っ。アンタ、本当に……バカなの……!?」
背中でおんぶされているコトモ先輩が、消え入りそうな、けれど確かな怒りを孕んだ声でネコの耳元に吐き捨てた。
押し寄せる猛烈な眠気と戦いながら、必死に意識を繋ぎ止めているのが伝わってくる。
「いいから…このままだと、アンタたちまで……捕まる……っ」
「嫌です! 絶対に、絶対に下ろしません!!」
ネコは涙をボロボロと流しながら、背中のコトモが落ちないように、その脚をさらにギュッと力強く掴み直して走り続けた。
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、前を走る幽霊の親友へと叫ぶ。
「ユイ! 私の家まで先導して! 場所わかる!?」
「うん、任せて! こっちだよ、ついてきて!」
ユイは力強く頷くと、夜道を照らすように前方を敏捷に駆け抜けていく。
ネコはさらに、背後で異形たちを蹴散らしながら並走してくれている巨大な神様を見上げた。
「ムカデ様! 先輩を必ず家まで送り届けます! だから……だから、それまで私たちを守ってください! お願いします……っ!!」
『――グルルルルッ……!』
ムカデ様はネコの覚悟に応えるように、低く地響きのような声を鳴らした。
その無数の足を駆動させ、ネコたちの左右と後方を完璧にガードしながら、執拗に追いすがってくる化け物たちを文字通り圧殺していく。
何が何でも自分を守ろうと、大嫌いなはずのムカデとまで協力して必死に走るネコの背中で、コトモ先輩はついにガクリと力を抜いた。
諦めたように、小さく、優しく溜息を漏らす。
「……はぁ……。本当に、人の言うことを……聞かないんだから……」
コトモ先輩の瞼が、ゆっくりと、完全に閉じられていく。
「そんなに、頑固だとさ………ハルに、怒られちゃう、よ……」
最後にそう愛おしそうに呟くと、コトモ先輩は完全に深い眠りへと落ち、ネコの背中にそっと体重を預けた。
「先輩? 先輩……っ! すぐに家に着きますからね……!」
ネコはコトモ先輩の言葉を胸に抱き締め、ユイの先導する光を追いかけて、ただひたすらに夜の街を全力で駆け抜けていく。
すると目の前でユイの足が急に止まる。
「ユイ、どうしたの!? 止まらないで、もうすぐ先輩の家なんでしょ!?」
前方を走っていたユイが突如として足を止めたため、ネコはコトモ先輩を背負ったまま、前のめりになりながら急ブレーキをかけた。
しかし、ネコもすぐにユイが立ち止まった理由を察し、息を呑む。
自分の家へと続く一本道の向こう側――そこには、先ほどよりもさらに濃密な、おぞましい異形の群れが壁のように立ち塞がっていた。
「……ネコ達に手は出させない」
ユイはすかさず両手を広げて構え、鋭い視線で化け物たちを睨みつける。
けれど、その背中は微かに震えていた。
今の自分は、ネコと魂を同調させてようやく戦えるレベルだ。
この異次元の数相手では、たとえ自分を犠牲にして文字通り盾になったとしても、コトモ先輩をおんぶして体力を消耗しきっているネコを守り抜くことはできない
――ユイは瞬時に、その絶望的な事実を悟ってしまった。
チラリと後ろを振り返るが、後方ではムカデ様が地鳴りのような音を立て、群がる大量の化け物たちを相手に孤軍奮闘している。こちらの窮地に気づいてはいるようだが、加勢に来る余裕がないのは明らかだった。
「ユイ、後ろに……っ!」
挟み撃ちにされるのを避けるため、ネコとユイはジリジリと後退りしていく。化け物たちのどろりとした影が、確実に2人の足元へ伸びてくる。
――その時だった。
夜の静寂を切り裂くように、どこからか、ピーヒョロロ……と、澄んだ「竹笛の音」が響き渡った。
「え……? 笛の音……?」
ネコがハッとして周囲を見回した瞬間、暗闇の中から、無数の小さな影が素早く飛び出してきた。
――それは、本物の、生きた「猫たち」だった。
数匹の猫たちが、ネコたちのすぐ横にある古い民家のブロック塀に飛び乗る。すると、まるで道案内をするかのように、猫たちが体当たりをして劣化したブロック塀の一部をガタガタと崩し、地面へと落としたのだ。
崩れたブロックは絶妙な足場となり、塀の上へと登れる階段のようになっていた。
猫たちは「ニャー」と短く鳴くと、塀の上をタタタッと走り、こっちへ来いと促すように振り返る。
「ネコ、あそこから登って! 早く!」
「うん……っ!!」
ネコはコトモ先輩を背負い直すと、崩れたブロックの足場をがむしゃらに踏み台にして、一気に塀の上へと這い上がった。
バランスを崩しそうになりながらも、背中の先輩を落とさないよう必死に耐える。
「ユイ、早く!」
「わかったっ!」
ネコに続いてユイも軽やかに塀の上へと跳ね上がる。化け物たちの不気味な手が届かない高さを、ネコたちは猫たちの導きに従って、塀の上を必死に走り続ける。
○○○○○○
猫たちの俊敏な足取りに導かれ、塀の上から屋根へ、そして狭い路地へと必死に駆け抜けていく。
背負ったコトモ先輩の重みで足がもつれそうになりながらも、ネコは無我夢中で走り続けた。
「ネコ、あそこ!」
前方を飛ぶユイが指差した先を見て、ネコはハッと息を呑んだ。
猫たちが最後に飛び込んでいったのは、ネコの家のすぐ近く、徒歩2分圏内にある、幼い頃から見慣れたあの「小さな神社」だった。
「こっちだよ、早く入って!」
ユイに背中を押されるようにして、ネコは境内の鳥居をくぐり、敷地内へと滑り込む。
すると、あんなに執拗に追いかけてきていた異形たちが、鳥居の寸前でピタリと足を止め、まるで見えない壁に阻まれたかのように、それ以上中へ入ってこられなくなった。
化け物たちは悔しそうに奇声をあげながら、境内の外の闇でうごめいている。
『ギシャアアアアアッ!!!』
遅れて、化け物たちを文字通りなぎ倒しながらムカデ様が突入してきた。ムカデ様は鳥居をくぐると、ネコたちと眠るコトモ先輩を守るように境内の周りをトグロを巻いて囲み、外の化け物たちを鋭い眼光で猛烈に睨みつけた。神社の結界とムカデ様の威嚇により、ようやく確かな安全が確保された。
「はぁ……っ、はぁ……っ、助かっ、た……?」
ネコはその場にへたり込み、背中からコトモ先輩を優しく地面に横たえた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、心臓が壊れたように脈打っている。
荒い息を吐きながら、ネコは守り抜けた安堵感に包まれていた。
ふと、冷たい夜風が境内に吹き込み、カラランと微かな音を立てる。
息を切らしながらネコが何気なく神社のお社の方へ目をやると、その中にある古びた木の台の上に、ぽつんと置かれた一つの「竹笛」が目に留まった。
「あ……」
それは、さっき自分たちのピンチを救ってくれた、あの澄んだ音色を奏でていた笛とそっくりだった。
ネコは座り込んだまま、静まり返ったお社の中の竹笛をじっと見つめる。
あの絶体絶命の瞬間、自分たちをここまで導いてくれたあの笛の音――。
「一体、誰が鳴らしてくれたんだろう……?」
不思議そうに呟くネコの横で、ユイもまた、その竹笛と神社の奥の闇を、どこか感慨深げに静かに見つめている。
ふと、境内の外でうごめいていた化け物たちの視線が、ネコではなく、お社の中の「竹笛」へと一斉に注がれていることに、ユイは鋭く気づいた。
そのぎらつく無数の目が、明らかにその小さな笛を警戒し、恐れている。
(……これ、ただの笛じゃないんだ)
ユイは意を決して、お社の中からその竹笛を手に取った。
霊体である彼女の手にも、不思議なほどずっしりとした存在感が伝わってくる。
ユイがその笛を掲げ、鳥居の近くへとゆっくり近づいていくと――。
『ギィィィッ……!?』
『キャァァッ!!』
あれほど凶暴だった異形たちが、まるで燃え盛る火を突きつけられたかのように、怯えた悲鳴をあげながら一斉にクモの子を散らすようにして夜の闇の奥へと逃げ去っていった。
その様子を、ムカデ様も静かに見送る。
「すごいや、お化けたちが逃げていく……」
ユイはまじまじと手の中の竹笛を見つめた。
「これが何なのかはよく分からないけど……ネコ、これがあれば安全に家まで帰れるよ!」
「うん……っ!」
ネコは再びコトモ先輩をおんぶすると、ムカデ様に「守ってくれてありがとうございました」と頭を下げた。
ムカデ様はコトモの無事を確認すると、静かに夜の闇へとその巨体を溶け込ませて消えていく。
ユイが竹笛を構えて先頭に立ち、ネコたちは警戒しながら神社の目と鼻の先にあるネコの家へと急いだ。
玄関の鍵を開け、そっと中に入る。
(よかった……お父さんはまだ帰ってきてないみたい。お母さんたちも、みんな寝てる……)
もしこの時間に、下着姿でずぶ濡れのコトモ先輩をおんぶして帰ってきたところを見つかったら、説明のしようがなかった。
静まり返った我が家に、ネコは心底ホッと胸をなでおろす。
二人は眠り続けるコトモ先輩をなんとかお風呂場まで運び、優しく身体を洗って湯船に浸からせてあげた。
その後、上がったばかりのコトモ先輩の身体をバスタオルで丁寧に拭き、再び二階のベッドへと横にさせる。
一連の作業の間、お湯に浸かったり身体を動かされたりしたというのに、コトモ先輩は完全に泥のように眠ったままで、ピクリとも目を覚ます気配がなかった。
ネコはベッドの横に立ち、規則正しい寝息を立てるコトモ先輩を見つめながら、心底驚いたように呟いた。
「これだけ動かされても、全く起きないなんて……コトモ先輩、本当に限界だったんだ…」
ハル先輩はコトモ先輩の枕元に腰を下ろすと、少し困ったように、でも愛おしそうに目を細めた。
「ずっとコーヒーで眠気を誤魔化してたところもあるから、その反動も効いてるんじゃないかな」
そう言いながら、ハル先輩は残された右手で、コトモ先輩の額にそっと手のひらをあてた。じっとその温もりを確かめるように触れていたハル先輩が、少し眉を下げる。
「……やっぱり、ちょっと微熱もあるみたい」
「えっ、本当…!?」
ネコが慌てて顔を覗き込むと、ハル先輩はネコを安心させるようにふんわりと微笑み、コトモ先輩の髪を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。熱はあるけど、呼吸もすごく穏やかだし、コトモは落ち着いてる。今はただ、張り詰めていたものが切れて、身体が全力で休もうとしてるんだと思う…だから今のこれも、睡眠っていうより気絶に近いと思う」
ユイは悲しそうに目を伏せ、ベッドの上で力なく横たわるコトモを見つめた。
あんなにいつも強気で、自分たちを振り回してくるコトモ先輩が、裏ではそこまで精神的に追い詰められていたなんて――。
あまりに凄絶な現実に、ネコの心は激しく痛んだ。同情と、守ってあげたいという気持ちが胸の奥から込み上げてくる。
「そんなの……あんまりだよ。……ねぇユイ、なんでコトモ先輩、今になってこんなにぐっすり眠れてるの?」
ネコが尋ねると、ユイはベッドの脇に置かれたあの不思議な竹笛に視線を向け、すっと指を差した。
「あの竹笛のおかげだと思う」
「あの笛が……?」
「うん。あの竹笛がこの家にあるから、お化けたちが中に入ってこれないんだよ。だから、部屋の周りから嫌な気配が完全に消えてるの」
ユイは笛を見つめたまま、言葉を続ける。
「コトモって、体の半分が幽霊の世界に囚われてるようなものだから、どんな時も化け物に狙われる。でもあの笛がお化けを遠ざけてくれてるんだよ」
「そっか……ならよかった……」
安堵の息を漏らしたネコだったが、ふとベッドの上で転がっているコトモ先輩の姿を見て、急に顔を引きつらせた。
「……ねぇ、ユイ。ならよかったんだけどさ……もしコトモ先輩が起きてきてこの状況に気づいたら、私達2人ともボコボコにされない……?」
「えっ……」
唐突かつ極めて現実的な問題に、ユイは返答に困って言葉を詰まらせた。
「だってさ、ユイを捕まえようとするのは変わってないよね…?あのムカデ様とか呼ばれて家壊されたくないんだよなぁ……」
ネコは自分の家が破壊される凄惨な未来を想像してしまい、頭を抱えて深いため息をつくのだった。
「とりあえず……ごめんなさいコトモ先輩……っ!」
ネコはコトモ先輩に向かって何度も頭を下げながら、持ってきた布を使って、コトモ先輩の両腕をベッドのヘッドボードに固く縛りつけた。
その手際の良さと容赦のない行動に、横で見守っていたユイは顔を引きつらせる。
「ネ、ネコ……そこまでしなくても……っ」
「ダメだよユイ! コトモ先輩、起きたらユイのことを閉じ込めようとしてるんだから! だから、起き上がった時に暴れないように一旦動きを止めてもらうだけ!」
ネコは真剣な顔で言い張り、結び目をしっかりと固く結んだ。
これでコトモ先輩が突然目を覚ましても、すぐにムカデ様を呼ばれたり家を壊されたりする危険は防げるはずだ。
そこまでされても、当のコトモ先輩は両腕を縛られた姿勢のまま、「……スー……スー……」と規則正しい寝息を立ててぐっすりと眠り続けている。
「……本当に、全然起きないね」
ユイは苦笑いしながら、そのまま部屋の床にちょこんと座り込んだ。
コトモ先輩の身の安全を確保し、拘束まで終えたことで、ネコを張り詰めていた糸がプツンと切れた。
昨日からの激しい緊張と疲れが一気に押し寄せ、ネコは床の上にバタンと大の字で倒れ込む。
「はぁぁ……もう無理……明日にしよう……」
ネコは重くなったまぶたをこすりながら、力尽きた声で呟いた。
「コトモ先輩のことも……ユイのことも……全部明日考えよう……」
「うん……おやすみ、ネコ」
ユイの優しい声を聞きながら、ネコは深い深い眠りへと落ちていくのだった。
○○○○○○○○○○○
「……ん……っ」
眩しい光に目を覚まし、ネコが柱時計に目をやると、針はすっかり**「午後3時」**を指していた。
「ぎゃああああっ!? 遅刻!!」
「うぉ!?」
ネコは跳ね起きるようにベッドの脇から飛び上がり、ユイもびっくりしてすぐに起き上がる。
しかし、脳が覚醒するにつれてハッと我に返る。
(……あ、今日、日曜日だ……)
「ネコ、今日は学校お休みでしょ?」
床に座っていたユイが、パニックになるネコをなだめるように優しく声をかけてくる。
ネコは胸を撫で下ろし、大きく息を吐き出した。
「ふぅ……よかった……びっくりした……」
胸を撫で下ろしたネコは、ふとベッドの上へ視線を向けた。そして、思わず目を丸くする。
「……えっ、コトモ先輩、まだ寝てるの!?」
昨日の夜、両腕をベッドに縛り付けた状態のまま、コトモ先輩は姿勢ひとつ変えずにぐっすりと眠り続けていた。流石にここまで爆睡しているとは思わず、ネコは絶句する。
すると、ベッドの上のコトモ先輩が、うわ言のように小さく呟いた。
「……ん……おねえ……ちゃん……」
そう言って、縛られた状態のまま心地よさそうに身をよじり、布団に頬をすり寄せている。どうやら相当居心地が良いらしく、起きる気配は一切ない。
ネコはコトモ先輩に向かい、ベッドの脇に腰を下ろした。そして、ずっと疑問に思っていたことを素直にユイへ投げかける。
「ねぇユイ。なんでそんなにコトモ先輩に嫌われてるの?」
「……嫌われてるわけじゃないよ」
ユイは寂しそうに首を横に振ると、小さな声で静かに言葉を続けた。
「コトモは、ただ怒ってるだけ。私が約束を破って、良くないことをしてるから……」
「良くないこと……? それって、ハル先輩に会うこと?」
ネコが尋ねると、ユイは小さく頷いた。
この世を去った存在(死者)が、いつまでも生者に執着して姿を現し続けることの危険性を、コトモ先輩は誰よりも分かっているからこそ、厳しくユイを止めようとしているのだ。
ネコは「境界線」だとか「世界のルール」だとか、難しい理屈はよく分からない。けれど、自分の心に素直なネコは、まっすぐな目でユイを見つめて言った。
「私さ、そういう難しいことは分かんないけど……会いたい人には、会えばいいと思うんだよね。好きなら尚更だしさ」
「ネコ……」
感情を隠さないネコのストレートで優しい言葉に、ユイの瞳が揺れる。胸の奥が温かくなるのを感じながら、ユイは小さく微笑んだ。
「ふふ、ありがとう、ネコ。そう言ってくれて嬉しいよ……」
そんな会話を二人がしていると、ベッドの上で小さな衣擦れの音が響いた。
「……ん……」
コトモがゆっくりと瞼を開けた。
目覚めたコトモは、パニックを起こすこともなく、まずは冷静に周囲を見渡した。
見覚えのないネコの部屋、そして自分の服装が下着姿になっていることを確認すると、「はぁ……」と深いため息をつく。
「コトモ先輩……! だ、大丈夫ですか!?」
ネコが慌てて心配そうに声をかけると、コトモは視線をネコに向け、静かに答えた。
「……大丈夫。頭はすっきりしてるわ」
そこまでは至極落ち着いた様子だったコトモだったが、両腕を動かそうとした瞬間、拘束されていることに気づいた。
コトモは軽く腕をゆらゆらと揺らし、拘束の感触を確かめると、ジト目でネコを見つめた。
「……で、大丈夫なんだけど。これ、なに?」
「えっ、あ、えっと……! その、言い訳するとですね……!」
ネコは冷や汗をダラダラと流しながらしどろもどろになったが、コトモ先輩の冷ややかな視線に耐えきれず、観念して正直に白状した。
「……ユイに手を出さないって約束してくれるなら解きます! 起きた瞬間にユイを閉じ込めようとしたり、暴れ出したりされたら困るので、一旦動きを止めてもらおうかと……っ!」
怒られるかと身構えたネコだったが、コトモ先輩は特に反論することもなく、ふんと鼻を鳴らした。
そして視線をユイへと向けると、呆れたように呟く。
「へえ……。二人、いつの間にそんな仲良くなってたの」
「えっ…それは…」
ネコが言葉に詰まっていると、コトモ先輩は両腕を拘束している布をじっと見つめ、鼻で笑った。
「っていうかさ。もっとキツく縛らないと、こんなの簡単に抜けられるわよ?」
「ええっ!? これ、結構ガチガチに縛ったつもりなんですけど!?」
「全然。結び目が甘すぎる」
慌てたネコは「じゃあ結び直しなきゃ……っ!」とベッドに飛びつき、布をグッと引っ張ってキツく縛り直そうとした。しかし、その手元を見たコトモ先輩は、心底呆れたようにため息をつく。
「……全然ダメ。結び方すら下手くそじゃない」
「うぐっ……」
これ以上下手くそと言われて傷つくのも嫌になり、ネコは半ばやけくそになって縛り直す手を止めた。
呆れ顔のままベッドの上で上体を少し起こしたコトモ先輩だったが、ふと部屋の空気がいつもと違うことに気づいたように、視線を泳がせた。
「……それにしても、変ね。なんで化け物が見えないんだろう……」
いつもなら目を覚ました瞬間にまとわりついてくるはずの悪霊や異様な気配が、この部屋には一切漂っていない。
静寂と穏やかな空気だけが満ちていることに、コトモ先輩は不思議そうに呟いた。
すると、横で見守っていたユイがそっと足元に歩み寄り、ベッドの脇を指差した。
「あれのおかげだよ、コトモ」
ユイの指先には、静かに横たわる一本の竹笛があった。
「……半分折れてて小さいけど、竹笛なの?」
コトモ先輩はベッドの横に置かれた、どこか不格好な竹笛を半信半疑の目で見つめた。
「それ、お魚様の神社で見つけたんです! あの竹笛があると、お化けたちが怯えて全然近づいてこないみたいで……」
ネコが必死に説明する声を聞きながら、コトモ先輩はもう一度部屋の中の空気を静かに確かめた。
耳をすましても、不気味な囁き声も、嫌な気配も、まとわりつくような悪寒も一切ない。全身を包み込んでいるのは、どこまでも穏やかで透き通った空気だけだった。
こんなに心も体も静かな空間は――小学生の時以来だった。
「……あれがあれば、もう化け物は私に近づかないの?」
確信が持てず、どこか震える声で尋ね直すコトモ先輩に、ネコは力強く深く頷いた。
「詳しい仕組みまでは私にもわからないですけど、本当に全く寄り付かないです! だから、ここならずっと安全なんですよ!」
「…本当に…?化け物はこないの?」
「絶対に来ないですよ!安心してください!!」
その言葉を聞いた瞬間、コトモ先輩の瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
今までずっと、眠ることすら許されず、緊張で擦り切れそうな意識を保ちながら、化け物から逃げるように夜の街を彷徨い続けてきた。
縛られた両腕を濡らしながら、コトモ先輩は絞り出すような声で呟いた。
「そうか、わたし……もう、もう夜に出歩かなくていいんだ……」
長年一人で背負い続けてきた恐怖と絶望から解放されたコトモ先輩は、まるで糸が切れた子供のように、静かに涙を流し続ける。
コトモは言葉を失い、ただ静かに涙を流し続けた。
長年一人で抱え込んできた底知れない恐怖と疲労が、涙となって溢れ出していく。
ネコはその姿をじっと見つめると、そっとベッドに近寄り、優しくコトモの頬をつたう涙を拭った。
そして、部屋の隅で見守っていたユイと小さく視線を交わし合ってから、静かにコトモの両腕を縛っていた縄を解いていく。
自由になった手をさすりながら、コトモはネコを見上げた。
「ネコ……私……」
どこか決まずそうに、ネコに謝罪の言葉を口にしようとするコトモ。
だがネコは首を横に振り、まっすぐな目で言葉を遮った。
「私じゃなくて、ユイに謝ってください」
ネコに促され、コトモは部屋の隅に立つユイへと視線を向ける。
コトモが口を開きかけたその瞬間、ユイがたまらず自分から声を張り上げた。
「約束破ってごめんね、コトモ……! でも、わたし……どうしても、寂しくて……っ」
罪悪感と寂しさに押し潰されそうなユイの声が、静かな部屋に響く。
コトモはそんなユイをじっと見つめると、小さく息を吐き出し、静かに言った。
「わたしはやっぱり……ハルやネコとあなたたちの関係は危なっかしくて、見てられない」
その冷ややかな言葉に、ネコはキュッと胸を締め付けられるような痛みを覚えた。やっぱりコトモ先輩は許してくれないのだろうか――そう思いかけた、次の瞬間だった。
「……でも、私の方が強引だったかも」
コトモは視線を少し落とし、自分を恥じるようにポツリと呟いた。
「……ごめんね、ユイ」
コトモの口から出た素直な謝罪を聞いて、ネコはほっと胸を撫で下ろした。緊張が一気に抜け、お腹が空いていることに気づく。
「二人とも、お腹空いてますよね? 私、下でお粥作ってきますね!」
ネコが部屋を出て行き、階段を下りていく足音が遠ざかると、部屋にはコトモとユイの二人だけが残された。
静寂が戻った部屋で、コトモは横になったまま、部屋の隅に立つユイへ静かに視線を向けた。
「……ユイ。嫌味とか、怒ってるから聞いてるわけじゃないんだけど…」
コトモは少しトーンを落とし、まっすぐユイを見つめて改めて尋ねた。
「なんで、この街に来たの? ハルに会いたいから来たっていうのは分かるけど……なんで『今』だったの?」
問いかけられたユイは、キュッと唇を噛み締め、俯いた。そしてぽつり、ぽつりと、押し殺していた本音を吐き出し始める。
「……もう、耐えられなかったの……」
ユイは自分の胸に手を当てながら、静かに語り出した。
「コトモが中学を卒業して、あの街から出て行っちゃって……私を知る人が誰もいなくなった時、私、本当にひとりぼっちになっちゃったんだよ」
コトモが去った後のあの街で過ごした日々を思い出し、ユイの輪郭が悲しそうに揺れる。
「私の姿が見える人がいても、幽霊だって分かると、みんな怖がって逃げていっちゃうの。話し相手も誰もいない……夜の街はお化けだらけで……コトモのいないあの一年は、寂しくて、寂しくて……たまらなかった」
誰も自分を認識してくれない世界で、ただ虚無と恐怖に晒され続けた時間。
「このままじゃ、自分が自分じゃなくなっちゃいそうだった……自分を保てなくなりそうで。……ハルに会うのが悪いことだって、分かってた。分かってたけど……耐えきれずに、こっちに来ちゃったの」
涙を浮かべながら告白するユイの姿に、コトモは何も言えず、ただ静かにその言葉を受け止めるのだった。