あの日、ユイは果てしない寂しさに押し潰されそうになりながら、遠くから街を見渡していたのだった。
誰も自分を認識してくれない。通り過ぎる人々は、自分の存在に気づきもしない。
「自分はもう死んだのだ」という残酷な事実が、冷たい鎖のようにユイの心を固く締め付けていた。
ハルに会わなきゃ死んでも死にきれない。その一心でこの世界にとどまっていたけれど、次第に自分が何者なのか、いつまで自分を保っていられるのかすら怪しくなり始めていた。
この先どうなってしまうのか、果てしない暗闇に絶望していた――まさに、その時だった。
「ユリナ! ここで何してるの!?」
突然、少女の切迫した叫び声が響き渡り、まっすぐに自分へ向けられた。
ネコだった。
ユイは目を見開き、心臓が飛び出るほど驚いた。
(えっ!?なになに!? てかユリナって誰!?)
予想外の出来事にパニックになるユイをよそに、ネコは息を荒らしながら必死の形相で詰め寄ってくる。
「小学校と全然道が違うじゃん! どこ行くつもりなの!?」
(うわ、めっちゃキレてる……! っていうか……私のこと、見えてるの!?)
幽霊になってから初めて自分を「認知」し、全力で声をかけてくれた存在。
その事実に対するショックと怖さから、ユイは思わずその場から脱兎のごとく走り出してしまった。
「ちょっと、待ってユリナ!」
後ろから、ネコが必死に自分を追いかけて走ってくる足音が追いかけてくる。
○○○○○
必死に路地を駆け抜けながら、ユイは何度も後ろを振り返った。
(な、なんかすごい追いかけてくるんだけど!?)
体格差だってあるはずなのに、後ろから迫ってくる圧迫感がすごい。
(っていうか脚速いね!? あれだけ距離あったのにもう追いついてきてるし…っ!)
とにかく逃げ切ろうと脚を速めたものの、曲がり角を抜けた先で唐突に視界が壁で遮られた。路地の行き止まりだ。
(やっば、行き止まり……!)
勢い余って急立ち止まり、万事休すだと身構える。
追いついたネコは肩で息を荒げながらユイの顔を正面から覗き込み――そして、ハッと目を見開いた。
「あ……ごめんね。妹と勘違いして……追いかけちゃって……」
ネコは顔を蒼白にして、慌てて頭を下げた。
なんだ、ただの勘違いか――とユイがほっと息を吐きかけた、次の瞬間だった。
ネコの真上、アパートの屋上から不法投棄された金属製のタライが、まっすぐに落ちてくるのが見えた。
ユイは目を見開き、ギョッとして咄嗟に上を指差した。
「あ、上……っ!」
けれど、ネコは頭を下げたままその警告に気づかない。
直後、**ガンッ!!**と鈍く派手な音が路地に響き渡り、タライは見事にネコの頭を直撃した。
「いっ……!?」
頭を押さえてその場に倒れるネコを見て、ユイは顔を青くした。
(うわあああ大丈夫!?!?)
あわてて駆け寄ろうとしたユイだったが、頭から煙でも出ていそうなほど目を回しているネコの間抜けすぎる姿に、緊張が一気に解けてしまった。
誰も自分に気づいてくれない暗闇の中にいたはずなのに。
目の前のドジな少女があまりにもおかしくて、ユイの唇からは思わず小さな微笑みがこぼれていた。
「…そしたら体が勝手に動いてた……誘惑に負けて、ネコが倒れた隙に、私がネコの体に『憑依』したの。それが始まり」
「……憑依って……生きている人間の体を奪ったの……?」
コトモの険しい視線を受け止めながら、ユイは深く首を垂れた。
「うん……あの時の私は、本当に最低だった。ネコのことなんて何も考えてなくて……ただ、ハルに会うことしか頭になかったから」
自分の浅はかさと身勝手さを恥じるように、ユイは胸元をぎゅっと握りしめる。
「でもね……ネコの体の中で、ネコと一緒に時間を過ごしているうちに……すごく温かくて、懐かしくて、楽しかったの。ネコは、私のことをただの幽霊だとか、恐ろしい化け物としてじゃなくて……ちゃんとした『友達』として、向き合ってくれたから」
ネコと過ごした日々を思い返し、ユイは愛おしそうに、けれど少し切なさそうに目を細めた。
「だから……余計に、自分がしたことの身勝手さが苦しくなっていったんだよ」
コトモの前に佇むユイの姿は、恐ろしい死者などではなく、ただ大切な人に会いたくて孤独に震えていた、一人の小さな少女そのものだった。
「もしネコに出会えていなかったら……私、今頃自分を保てなくなって……あの夜、ハルを襲った化け物みたいになってたと思う」
ユイは小さく体を震わせ、溢れ出る涙を拭おうともせずに言葉を紡ぐ。
「そしたら……また、あの時みたいにハルを殺してしまっていたかもしれない……っ」
自分の起こしてしまった過去の過ちと、そこへ戻ってしまいそうだった恐怖に胸を痛めつけるユイ。
「だから……コトモが私をあの街へ連れ戻そうとしたこと、私は全然間違ってないと思うの。コトモは私を止めようとしてくれたんだよね……」
ユイの痛々しいほどの吐露を聞き、コトモは大きくため息をつくと、顔を上げてユイをしっかりと見つめた。
「だから……私も悪かったって言ってるでしょ」
コトモは少し眉を下げ、気まずそうに、けれど温かみのある声で謝罪した。
「私だって、頭ごなしにあなたを力尽くで連れ戻そうとしたのはやりすぎた…それに、ネコとあなたが本当に心を通わせてる仲良しだってことも、もう疑ってない」
ベッドの上に腰掛け直したコトモは、諭すように静かに続ける。
「ただ……生者と死者の境目は曖昧にしちゃダメ。これからはお互いの世界に踏み込みすぎないように、ちゃんと線を引いて気をつけてくれればいいから」
コトモは身体を震わせるユイにそう慰める。
しかしユイはあることを話し始める。
「この前ね、ネコの口から……チャコとクロの名前が出たの」
「チャコとクロって……それ、ユイが昔飼ってた犬じゃない?」
「うん。でもね……私、ネコに自分の犬の話なんて一回もしたことないの」
「……っ!?」
コトモは息を飲み、ハッと目を見開いた。
ユイは静かに手を伸ばし、ベッドの上に置かれたコトモの手をそっと握りしめた。
「……っ!? …なんで私の手に触れられてるの……!?」
本来ならすり抜けるはずの霊体であるユイの手に、確かな温もりのような感触があることにコトモは慄然とする。
「私ね……ネコと『一体化』しかけてるのかもしれない」
ユイは悲しそうに眉を下げ、握った力にぎゅっと想いを込めた。
「……このままネコと一緒にいたら、私、ネコを壊しちゃう。ネコの精神も、存在も……全部侵食して、乗っ取っちゃうかもしれないの」
ぽろぽろと溢れ出る涙をそのままに、ユイは首を横に振った。
「ネコは私の大切な友達だから……それだけは、絶対にしたくない……。私はもう……ネコと一緒にいるべきじゃ……」
絞り出すようなユイの言葉が、部屋の静寂に虚しく消えかけていく。だが、その先の諦めを含んだ言葉を途中で切り裂くように、短い声が響いた。
「ユイ」
コトモは静かに、けれど強い意志を込めてユイの名前を呼んだ。
「それはネコと話し合って決めること…いい?」
ハッとしたように顔を上げたユイは、不安の混じった瞳でコトモを見つめ返した。
「コトモは……私とネコの関係を許してくれるの?」
「許す許さない以前に……私だって、好き好んであんなことやったわけじゃないし…」
コトモはどこか気まずそうに視線を外すと、思い出すように小さく息を吐いた。
「現にムカデ様だって乗り気じゃなかった…ネコを監視させてたムカデからも『やりすぎなんじゃないのか』って言われてたくらいなんだから」
そう言いながら、コトモは困ったような、少し柔らかい表情を浮かべ、ユイへとまっすぐに視線を戻した。
「……お願いだから、私にもう手荒なことさせないで」
その言葉に込められたコトモの不器用な優しさに触れ、ユイの胸にじわりと温かいものが広がっていく。
「……私、まだいてもいいのかな」
ぽつりと呟いたユイの問いかけに、コトモは静かに、けれど背中を押すように答えた。
「……ユイ次第だと思う。本当にネコと友達でいたい、一緒にいたいと思うなら……ユイ自身が答えを見つけなきゃいけないよ」
○○○○○○○○
階下から静かにお粥の入ったお椀を運んできたネコは、コトモにお粥を手渡した。
「どうぞ、冷めないうちに食べてくださいね」
「……ありがとう」
コトモはお粥を一口ずつ口に運ぶ。
部屋の中には、スプーンが器に当たる微かな音だけが響いていた。
ユイとの会話のあとということもあり、二人の間にはしばらくの間、静かな無言の時間が流れる。
お粥を食べ終え、お椀を片付けながらネコはポツリとつぶやいた。
「コトモ先輩を助けてくれたこと……お魚様にお礼言いに行かなきゃですね」
「……そうね」
コトモも静かに頷き、ベッドの横に置かれた半分折れた竹笛へと視線を移した。
「この竹笛も……元にあった場所に返さなきゃね」
その言葉を聞いた瞬間、ネコの胸がキュッと締め付けられた。
(これを返したら……またコトモ先輩が、夜も眠れずに化け物から逃げ回る日々に戻っちゃうんだ……)
せっかく見つけた、コトモ先輩が安らげる唯一の術。それを手放させるわけにはいかない――。
ネコは決意したように立ち上がると、部屋の引き出しから丈夫な紐を取り出してきた。そして、竹笛の端に丁寧に紐を通すと、コトモの元へと歩み寄る。
「……ネコ?」
不思議そうに見上げるコトモの首に、ネコはその紐をそっとかけた。竹笛はまるで特別なネックレスのように、コトモの胸元で静かに揺れた。
「これ……」
首にかけられた竹笛をそっと指先でなぞり、コトモは驚いたように呟いた。
「きっとこれは、コトモ先輩が持つべきなんです」
ネコはまっすぐな目でコトモを見つめ、力強い声で言葉を重ねる。
「壊れたはずの竹笛がこうやって守ってくれてる。それって、ただの奇跡じゃなくて、絶対に何かの縁なんです。返したら、また先輩が一人で怖い思いをして眠れなくなっちゃう……だから、持っていてください」
ネコの温かく一途な言葉が、コトモの頑なだった心を少しずつ溶かしていく。
「私が持ってても意味がないですし、あそこにあっても朽ちていくだけです」
ネコはコトモの手を包み込むようにギュッと握りしめ、溢れんばかりの想いを込めて言葉を続けた。
「なら、コトモ先輩が持っていてください! そして……これからも思う存分寝てください。いつまでも優しい先輩でいてください…また……私を助けてください!」
まっすぐで、どこまでも温かいネコの眼差しと、力強く握られた手。その言葉のすべてがコトモの心に深く刺さり、胸が大きく跳ね上がった。
(……なんなの、この子……)
一瞬だけコトモの白桃のような頬が真っ赤に染まる。
「……? コトモ先輩? 私の顔に何か付いてますか?」
首をかしげて顔を覗き込んでくるネコに、コトモは慌ててパッと視線を逸らした。
「……へんなの」
小さく吐き捨てるように呟くと、コトモは握られた手を甩いて離し、恥ずかしさを隠すように勢いよく頭まで布団をかぶった。
「二度寝するから……もう喋りかけるな!!」
布団の中からくぐもった声が聞こえる。
ネコは困惑しながらも、布団の中で真っ赤になっているであろう先輩の姿に、少しだけ笑みをこぼすのだった。
ネコが「ユリナ、おやつ持ってあげるから下に行こ!」とユリナに向かって下の階へ降りていくと、部屋には再びコトモとユイの二人が残された。
布団からひょっこり顔を出したコトモは、未だに収まらない胸の動悸に耐えかねて、ベッドの脇にいるユイにぽつりと漏らした。
「……ねえ、ユイ」
「ん? どうしたの?」
「……なんか、すっごい胸が苦しいんだけど」
真剣な表情で胸元を押さえるコトモを見て、ユイは一瞬きょとんとしたものの、すぐに状況を察してその顔にニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「……なによ、その顔…なに?」
コトモが眉をひそめて警戒すると、ユイはくすくすと含み笑いをしながら首を振った。
「ううん、なーんでもなーいっ」
「ちょっと、なに考えてるのよ! 言いなさいよ!」
動揺を隠そうと声を張り上げるコトモを余所に、ユイは「ふふっ」と楽しそうに笑いながら部屋の壁へと向かって歩き出す。
「待ちなさいってば! なにその顔!!」
「じゃーね、コトモ! ネコによろしく〜!」
「あ、逃げたわね! 待ちなさいよユイ!!」
コトモの叫び声を背に受けながら、ユイはすーっと壁を通り抜けて、あっという間に逃げていってしまう。
そして、ドタバタと廊下に飛び出したコトモだったが、壁を抜けて逃げたはずのユイが、ある一室の前にぽつんと佇んで止まっているのに気づき、足を止めた。
「……何、急に立ち止まって」
コトモが怪訝そうに尋ねると、ユイはドアを見つめたまま、静かに首を横に振った。
「ううん……わかんない…なにこの部屋…」
「わかんないって、ネコの家でしょ?」
「うん。でも……なんだか、すごく『なにか』を感じるの……」
ユイは引き寄せられるように、すーっとそのままドアを通り抜けて部屋の中へ入ってしまう。
「あ、ちょっとユイ! 勝手に入ったらダメでしょ――!」
慌てて止めようとしたコトモは、静かにドアノブへ手をかけた。
カチャリと回すと、幸いなのか鍵はかかっていない。ゆっくりとドアを押し開けると、廊下とは明らかに違う、どこか厳かで静謐な空気が肌を刺した。
ほのかに漂う、線香の独特な香り。
「……これ、線香……?」
コトモが壁のスイッチを探して明かりをつけると、部屋全体がパッと照らし出された。
そこに広がっていたのは、小さな机の上に大切に並べられた、一枚の猫の写真と、ごく簡素な仏壇らしきものだった。
仏壇の前には綺麗な花が添えられており、その横には、誰かが心を込めて書いたのであろう手紙らしきものが静かに供えられていた。
…すぐにわかった。
ユイは以前、ネコが昔猫を飼っていたという話を聞いたことがあったが、写真に写っているのは、そのまだ小さな子猫だ。
――この子が亡くなって、ネコたちが心を込めて作った仏壇なんだ。
コトモも察し、ユイと並んで静かに写真をみつめ、そっと手を合わせた。
ふと、仏壇の横に添えられた手紙に目を向ける。
そこには、幼い文字でひらがなとカタカナが並んでいた。
ごめんなさいニャノ。
わたしたちをまもってありがとう。
おとうさんをとめられなくてごめんなさい。
ニャノありがとう。
まもろうとしてありがとう。
ニャノをまもれなくてごめんなさい。
てんごくでもしあわせにくらして。
おねえちゃんもわたしもニャノことわすれません
だからあんしんしてねむって。
おやすみなさい
ーーーーーー
「これって…」
コトモが手紙を読見終わり、明らかに子猫に対しての言葉だとわかった。
そしてこの手紙を書いたのはネコじゃなくて、妹さん。
この家に何が起きたのか考えている中、ユイが子猫のニャノの写真の前で立ち尽くしている。
そんな2人に―。
「……何してるんですか?」
背後から不意にかけられた声に、コトモは肩を跳ねさせて勢いよく振り返った。
いつの間に立っていたのか、そこには小さなお盆を持ったネコが静かに佇んでいた。部屋の雰囲気にそぐわないほど無表情で、その瞳には光がない。
コトモが息を呑むのも構わず、ネコはすーっと二人の横を通り過ぎると、ニャノの写真の前にしゃがみ込んだ。
そして持ってきた小さなお皿を仏壇にそっと供える。
「……昔飼ってた、大好きな子猫なんです」
淡々と、どこか遠い目をして呟くネコ。コトモは胸の動悸を抑えながら、恐る恐る尋ねた。
「……ニャノって、この子のこと?」
ネコは供え物の位置を微調整しながら、小さく息を吐いた。
「……手紙、読んだんですね」
「あ……ごめん、勝手に入って……」
謝ろうとするコトモの言葉を遮るように、ネコはゆっくりと立ち上がり、ふり返った。
「そこに書いてあるの、ただの冗談ですから」
いつも通りの明るさは一切なく、どこか氷のように冷たい声だった。
「……だから、余計な詮索はしないでください」
そう言い残すと、ネコは二人に背を向け、静かな足音だけを響かせて部屋を出て行ってしまう。
「ちょっと、ネコ……どこ行くの?」
ネコは振り返り、先ほどの冷ややかな表情からいつものフラットな顔つきに戻って言った。
「……お魚様にお礼を言いに行くんです。コトモ先輩を助けてくれたのは、きっとあの神様のおかげな気がしますから」
「あ……」
胸元にかかる竹笛をそっと握りしめ、コトモは黙って頷いた。
「……そう。なら、私も行くわ。私を助けてくれたんだもの、直接お礼言わなきゃね」
「私も行くよ!」
壁から抜け出してきたユイも二人の後を追う。
こうして三人――生者二人と幽霊一人は、重苦しい空気を残した家を後にし、あの不思議な静寂に包まれたお魚様の神社へと足を進める。
しかしコトモとユイは疑問を持つ。
なぜネコの家がここまで荒れているのか、なぜ血痕のようなものが壁にあるのか、あげればキリがないのだが
(ネコ本人が触れてほしくなささうだし…聞けるわけないよね…)
何よりもネコのあの目。
普通じゃなかった。
そっとしてあげたほうがいいのか、ユイとコトモはネコにあの部屋のことを追求することはしなかった。
○○○○○○○○
三人は荒れ果てた神社の境内に入り、静かに本殿の前で手を合わせた。
コトモは胸元の竹笛をそっと触りながら、心の中で深く語りかける。
(……私を守ってくれて、本当にありがとうございました)
お参りを終えたユイは、ふと立ち止まり、境内全体を見渡した。
神社は想像以上に荒れ果てていた。
境内のあちこちに不法投棄されたようなゴミや空き缶、割れたビンが散乱しており、鳥居の近くには雑草が生い茂っている。
「ひどいな……これ……」
コトモが眉をひそめてぽつりと呟く。ユイは「うーん……」と困惑したように頭を掻いた。
「ねえ、コトモ……ここ、『お魚様』の神社って呼ばれてる割には、全然お魚の気配とか気配そのものがしないんだけど……」
「……これだけ境内が荒らされてゴミだらけになってたら、神様の力自体が衰えて、どこかに行っちゃってるのかもしれないね」
コトモは納得したように頷くが、ユイの胸の中には、言葉にできない違和感と疑問が拭えずに残っていた。
そんな二人のやり取りを余所に、ネコは荒れ果てた境内の惨状に心を痛めていた。
自分とコトモ先輩を守ってくれた大切な場所が、こんな風に踏みにじられているのが耐えられなかったのだ。
ネコは拝殿の脇に放置されていた古びた竹箒を手にとると、さっそく散らばったゴミを集め始めた。
「あ……ネコったら」
その姿を見たコトモは、溜め息をひとつ吐くと、ネコの元へ歩み寄って箒の柄を握った。
「手伝うよ。私を助けてくれた場所だしね」
「コトモ先輩……」
驚くネコから箒を受け取ると、コトモは境内を見渡しながら指示を出した。
「ネコは家からゴミ袋を持ってきて。……これだけの惨状だし、集めたら結構な量になる。早く行っといで」
「はいっ! すぐ持ってきます!」
ネコはパッと表情を明るくすると、一目散に参道を駆け下りて家へと向かっていった。
コトモがサクサクと箒を動かして境内を掃除していると、ユイが引き寄せられるように神社のお堂の中へと足を踏み入れようとしていた。
「こら、ユイ! 勝手に入ったらダメでしょ!」
コトモが声を張るが、ユイはどこか胸騒ぎを覚えている様子で、そのまま奥へと向かって行ってしまう。
ちょうどそこへ、大きなゴミ袋を何枚も抱えたネコが息を切らせて戻ってきた。
「コトモ先輩、ゴミ袋持ってきました! ……あれ、ユイはどこですか?」
ネコが辺りを見回して尋ねると、コトモは呆れたように溜め息を吐き、お堂の方を指差した。
「サボり…まあいいわ、ほっとこ。まずはこっちの掃除を終わらせちゃおうねた」
一方、お堂の中へと侵入したユイは、慎重に周りの様子を探っていた。やはり神様や霊的な「気配」のようなものは一切感じられない。
代わりにいたのは、数匹の野良猫たちだった。薄暗い畳の上で丸くなったり、のんびりと毛づくろいをしたりしてリラックスしている。
「あ、猫ちゃんだ…お邪魔するね〜」
ユイはくつろぐ猫たちにひらひらと手を振りながら、奥へ奥へと探索を進めた。
すると、薄暗い祭壇の奥、埃をかぶった古い木箱の横に、ぽつんとひとつの巻物が置かれているのが目に入った。
全体が黄ばみ、端が少しボロボロと崩れかけている。見るからに相当な年月が経っていそうなその古めかしい巻物に、ユイは思わず息を呑んで顔を近づけた。
ユイは破れないように気をつけながら、そっと古い巻物を広げていった。
そこに描かれていたのは、恐ろしい異形の絵だった。
無数の不気味なお化けや悪霊たちが、この街を埋め尽くすように荒らし回っている様子が、おどろおどろしいタッチで描写されている。
(……これって、この街が昔お化けだらけだったってこと……?)
巻き物の脇には古い文字がぎっしりと書かれていたが、崩し字や古文書のような特殊な字体で、ユイには全く読むことができなかった。
首をかしげながら、ユイは隣にあった二つ目の巻物を手にとって広げる。
そこに描かれていたのは、町を荒らす無数のお化けたちに向かって、大量の猫たちが牙を剥き、果敢に立ち向かって戦っている絵だったのだ。猫たちは傷つきながらも、お化けたちを必死に押し返している。
「…!?」
思わず独り言を漏らしながら、三つ目の巻物に手を伸ばし、慎重に紐を解いた。
最後に広がった絵には――無数の猫たちが、ひとつの「竹笛」を囲み、まるで神様を崇めるように深々とお辞儀をしている姿が描かれていた。
その竹笛の形と装飾は、今まさにコトモが首から下げているあの竹笛と、全く同じものだった。
「これ……って……」
息を呑んだユイは、思わずお堂の隙間から外へと視線を向けた。
境内では、コトモとネコが並んで甲斐甲斐しく掃除を続けている。
コトモの胸元で揺れる竹笛――巻物に描かれたそれと、形も装飾もあまりにもそっくりだった。
胸騒ぎを覚えながら、ユイは残された最後の巻物へ手を伸ばし、ゆっくりと広げていく。
「……ッ!?」
目に入った絵の異様さに、ユイは小さく悲鳴を上げ、思わず巻物を床へ取り落としてしまった。
からん、と静かなお堂に乾いた音が響く。
荒い息を吐きながら、ユイは震える手で落ちた巻物を拾い直し、恐る恐るもう一度広げてその絵を凝視した。
そこに描かれていたのは――
竹笛を前脚に携えた、おどろおどろしく巨大な老齢の猫。
そしてその巨猫が、無数の凶悪な化け物たちを、鋭い牙でガチガチと喰らい尽くしているという、あまりにも凄絶で恐ろしい光景だった。
神様というよりは、まるで悪霊すら糧にする異形の怪物。
「……こ、怖いなこれ……っ」
あまりの不気味さに背筋を凍らせていると、背後から急に声をかけられた。
「ユイー、サボっちゃダメだよー!」
「ひゃっ!?」
お堂の入口からネコがひょっこり顔を覗かせていた。
手に箒を持ったネコは、いつもの調子で少し呆れたようにユイを見つめている。
「ユイ、何してるの?」
お堂に入ってきたネコが尋ねると、ユイは広げていた巻物をネコに見せた。
「お魚様っていう神様の気配がしないから神社の中探して見てたら、古い絵があったから漁ってたの」
「へえ、古文書ってやつ? 実物初めて見た」
ネコは興味深そうに目を丸くする。ユイが並べた四つの巻物を順番に指差すと、ネコはそこに書かれた崩し字をじっと見つめた。
「文字は全然読めないけど……うん、なんとなく昔のお話だってことはわかる気がする」
そこでユイは、最後の巻物に描かれた、化け物を喰らう凄絶な巨大猫を指差した。
「ねえ、この化け猫みたいなのってなんだろう……? すごくおっきいし、化け物食べてるし……」
「んー……」
ネコはその絵に顔を近づけ、じっくりと覗き込んだ。そして、ふと首を傾げる。
「この猫ちゃん……なんか、どっかで見た気がするんだけどなぁ……」
「えっ!? 見たことあるの!?」
思いがけない言葉に、ユイは驚いて思わず声を裏返えさせるのだった。
「ちょっと、二人で何してんの!!」
コトモがお堂の入口から顔を出し、肘を張って二人を叱り飛ばした。
「ここ神社なんだから、勝手に奥まで入ってゴソゴソしちゃダメだって!!」
だが、ユイの手元にある巻物に目を留めると、コトモは「ん?」と顔を近づけた。
そして最後の巻物に描かれた、化け物をガチガチと喰らう巨大な老齢猫の絵を見るなり、ぱっと目を輝かせた。
「……あ、なにこれ! 可愛い〜!」
「……えっ。これが……可愛いの……!?」
ユイが露骨にドン引きして退く中、コトモは気にもとめずに絵を覗き込む。
「だって、毛並みとかフサフサしてそうじゃない。こういう古文書の絵って歴史の教科書とかでしか見ないけど、やっぱり実物だと迫力が違うなぁ」
ネコは感心したように巻物を見つめながら、コトモに尋ねた。
「コトモ先輩、これ読めますか?」
「うーん……学校で古文は習ってるけど、こんなミミズがのたくったみたいな文字、全然分からないわよ」
お手上げといった様子で首を振るコトモ。
ユイとネコは改めて巨大な化け猫の絵を見つめ直した。
ユイが「昔はこの街に、こんなおっかないのがいたのかな……」と小さく身ぶるいしながら呟く。
すると、その絵をじーっと見つめていたコトモが、ふと何かを思い出したようにポンと手を打った。
「ねえ……その猫、もしかして『猫又』じゃないかな?」
「ねこまた……?」
首を傾げるユイに、コトモは人差し指を立てて説明を始めた。
「そう、猫又。長生きした猫が妖怪に変化したっていう、日本の有名な伝承。
年をとると尻尾が二本に分かれて、人間みたいな言葉を喋ったり、化け物や霊を操ったりするようになるの」
コトモは巻物に描かれた巨猫の尻尾のあたりを指差し、身を乗り出す。
「ほら、見て。この絵の猫も、よく見たら尻尾の先が二つに分かれてるでしょ?」
ユイとネコが絵に顔を寄せると、たしかに老齢猫の太い尻尾は、途中からふた手に分かれていた。
「ほんとだ……! 二本ある……」
「長生きして強い妖力を持った猫又が、この街を襲う化け物たちを食べて退治してくれた……っていうのが、この巻物に描かれてる物語なんじゃないのかな」
納得したように頷くコトモの横で、ユイは「妖怪かぁ……」と生唾を飲み込み、ネコは二本に分かれた尻尾を不思議そうにじっと見つめていた。
「でも、この猫ちゃん……お魚様の竹笛を持ってますよ」
ネコが巻物の絵を指差しながらぽつりと呟いた。
巨大な猫又の足元には、あの無数の猫たちが崇めていた竹笛――そして今、コトモの胸元で静かに揺れている竹笛と全く同じものが描かれている。
コトモもハッとして絵に顔を近づけた。
「ほんとだ……! なんでこの猫又が竹笛を持ってるんだろう……?」
コトモは首から下げた自分の竹笛を手にとり、絵に描かれたそれと見比べながら眉をひそめた。
「お魚様のお祀りされている神社なのに、魚の気配はしなくて猫ばかり……おまけに神様じゃなくて猫又がこの竹笛を持ってるなんて……」
「ねえ、コトモ……」
ユイがおずおずと声を上げる。
「ここって……本当にお魚様の神社なのかな……?」
三人は顔を見合わせ、荒れ果てたお堂の中に満ちる謎と、手元にある巻物の不気味な絵を交互に見つめ直すのだった。
・・・・・・
「考えても分かんないわ! ほら、とりあえず掃除掃除!」
コトモの号令で、三人は思考を切り替えて再び掃除に取りかかった。
箒で落ち葉やゴミを履き集め、割れた瓶や空き缶を袋に詰め、お堂の埃を払う。黙々と手を動かすこと小一時間。
境内は見違えるほど綺麗に整い、清々しい空気が満ち始めていた。
「ふぅーっ! 終わった〜!」
額の汗を拭いながら、コトモが綺麗になった神社を見渡す。
「綺麗になりましたね。……あ、そういえば家にクッキーがあるんですけど、コトモ先輩、おやつにどうですか?」
ネコの申し出に、コトモの目がパッと輝いた。
「いいね! せっかくだからご馳走になろうかな!」
「食べる食べる! 私も行くー!」
ユイも嬉しそうに跳ね回り、三人は楽しげにお喋りをしながら、賑やかに参道を下ってネコの家へと戻っていった。
――静まり返った神社のお堂の中。
無人になった暗がりで、ユイが散らかしたままになっていた古い巻物が、まるで意思を持っているかのようにカサリと揺れた。
次の瞬間、パラパラと勝手に巻き直され、元の木箱の横へと吸い寄せられるように自然と整然と収まっていく。
そして――
荒れ果てたゴミが取り払われ、清められた神社全体が、ほんの僅かに、暖かな光を「ふっ」と放った。
長きにわたって眠りについていた巨大な気配が、静かに息を吹き返したかのように。
○○○○○○○○○
白く消毒液の匂いが漂う精神病院の廊下を、ハルは静かな足音を立てて歩いていた。
案内するスタッフの後に続き、重厚な扉の先にある個室へと入る。薄暗い部屋のベッドには、ひとりの女性が力なく横たわっていた。
虚ろな目で天井の一点を見つめ、ピクリとも動かない。
かつての面影を失ったその姿に、ハルは静かに視線を落とした。
「……様子はどうですか?」
ハルが低く尋ねると、スタッフは困ったように眉をひそめ、溜め息を吐いた。
「ずっとこのままです。最近は食事も拒絶されることが多くて……会話を試みようとしても、ずっと亡くなった娘さんの名前を連呼したり、急に叫んで暴れ出したりして、正直手がつけられない状態なんです」
「……そうですか」
ハルはスタッフに向かって軽く頭を下げた。そして、ベッドの上の女性を見つめたまま、静かに言葉を続ける。
「……少し、二人きりにしてもらえますか」
「ええ、何かあればすぐにナースコールを押してくださいね」
スタッフは少し躊躇いを見せたものの、静かに頷くと足音を忍ばせて部屋を後にした。パタンと扉が閉まり、静寂が室内に満ちる。
ハルはゆっくりと歩みを進め、ユイの母親が横たわるベッドの脇に立った。
痩せ細り、生きている心地のしないその顔を見下ろし、ハルはぽつりと声をかけた。
「……こんにちは」
ハルの挨拶にも、ベッドの上の女性はピクリとも反応しない。ただ虚ろな瞳で、誰もいない天井を見つめ続けている。
そんな女性を見下ろしながら、ハルは静かに言葉を紡いだ。
「……首を吊ろうとしたらしいですね」
女性の指先が、微かに跳ねた。
「ユイのところへ行きたいんですか?」
ハルの問いかけに、女性の唇が震え始める。虚構の静寂を破るように「ユイ……ユイ…」と掠れた声が漏れ出した。
だが、ハルは顔色ひとつ変えず、冷徹な眼差しで女性を見据える。
「……ですが、貴方を楽にはさせませんよ」
ハルはゆっくりと腰を落とし、女性の耳元へ顔を近づけた。一字一字を脳裏に刻みつけるように、低く深惨な声で語りかける。
「私も、貴方も……ユイに対して、決して許されないことをしたんですから」
「あ……が……っ」
女性の瞳に、恐怖と混乱の色が激しく波打ち始める。逃げようとするかのように頭を振る女性に対し、ハルは逃げ道を塞ぐように言葉を重ねた。
「貴方はユイを傷つけ、私はユイを助けられなかった」
ハルの声は感情を押し殺したように静かで、だからこそ取り返しのつかない重みが病室内を満たした。
女性の体が小さく震える。虚ろだった瞳に溢れ出したのは涙か、それとも底なしの恐怖か。ハルはその姿から一切目をそらそうとはしなかった。
「……永遠に、私たちは罪と向き合うんです」
死んで楽になることも、記憶を失って逃げ出すことも許さない。ユイを追い詰めた母親の罪も、ユイの手を掴みきれなかった自分自身の無力さという罪も、すべて背負い続けて生きていく。
それが、遺された者に課せられた唯一の罰なのだと言い聞かせるように。
そしてハルは冷ややかな目を崩さないまま、どこか遠くを見るようにぽつりと語り始めた。
「ユイが死んで、数年経った後でしょうか……ユイの家にふと行きたくなって家の前に着いたら、本当に驚きましたよ」
女性の身体がビクッと跳ね上がる。ハルはその反応を味わうように、言葉を紡いでいく。
「家のドアが開きっぱなしで、その先を見ると……髪がボサボサでうめき声をあげている貴方を見つけたんですから。あの時は可哀想と思って救急車を呼びましたが……」
ハルは口元に、冷たく歪んだ笑みを浮かべた。
「…これは予想つきませんでした。まさかユイの『怪我』の原因が、貴方の虐待だったとは」
「あ……あぁ……っ」
「警察の人に全部バレて、貴方は精神病院に連れて行かれましたね」
ハルの声から温度が完全に消え去る。思い出すのは、痛みに耐えながら自分に微笑みかけていた少女の姿。
「ユイはいつだって『階段で転んだだけだから気にしないで』と私に言ってくれましたが……今思えば、ユイは本当のことを言えなかったんです」
ハルは動かなくなった自分の左腕――衣服の上からでも分かる、今はもう存在しない失われた腕のあたりを強く握りしめた。
爪が食い込むほど拳を握りしめ、ハルはベッドの上の女性を見下ろす。その瞳には、溢れ出しかけた激情と冷徹な憎悪が入り混じっていた。
「……なんで小学生だったユイに、あんな力で殴ることができたんですか?」
静かな部屋に、ハルの震える声が響く。
「なんで蹴ったんですか? なんでまともに家事すらしようとしなかったんですか? なんで傷ついたユイを支えてあげなかったんですか? なんで……前を向いて生きようとしなかったんですか!?」
次々と溢れ出す問いかけ。女性は頭を抱え、「あ、あぁ……っ」と掠れた悲鳴を漏らすことしかできない。
だが、ハルは止まらなかった。ずっと胸の奥底で燻り続けていたドロドロとした怒りが、歯止めを失って噴出していく。
「そしてそのくせに……なんで今は、ユイのことで心を壊しているんですか!?」
ハルはついに声を張り上げた。病室の冷たい壁に、感情の乗った叫びが激しく反響する。
「ユイを追い詰めておきながら……なぜ貴方が被害者みたいな顔をして精神病院にいるんですか!! 貴方は一体、何がしたかったんですか!!」
取り乱して叫んでしまった自分にハッと息を呑み、ハルは胸を激しく上下させながら、震える手で二度と戻らない左腕をただ強く抱きしめた。
「貴方に言ってもしょうがない……! もうユイは戻ってこない……ッ! でも……っ!」
ハルは叫びながら、ボロボロと溢れ出す涙を止められなかった。一度堰を切った感情は、もう抑えようがなかった。
「……なんでユイが生きてる時に、その愛情をちゃんと向けてあげなかったんですか……っ!」
失われた左腕を抱きしめたまま、ハルは声を詰まらせて訴える。
どれだけ叫んでも、目の前の女性はただ震え、怯えた目を泳がせるだけだ。
その姿が余計にハルの心を苛んだ。
「……ユイの死因は、山の神によって自殺させられたことです」
ハルの声から、急激に熱が引いていく。涙で濡れた瞳に、凍てつくような冷徹さが戻っていた。
「でも、貴方に責任がないわけじゃないですよ……貴方と私が、ユイを殺したのと同じです。精神が壊れたからと言って、逃げられると思わないでくださいね」
ハルは涙を乱暴に拭うと、ベッドの上の女性の顔へゆっくりと近づき、耳元で低く誓うように言い放った。
「……自殺なんてさせない。ずっと生き続けてもらいます」
病室の重い扉を閉め、ハルは逃げるように精神病院を後にした。
病院を出て冷たい風に当たると、溢れ出ていた涙を袖で乱暴に拭う。
胸の奥に残るのは達成感などではなく、酷い徒労感と後悔だけだった。
「……こんなことしても、ユイは喜ばないのに……私、何やってるんだろう」
ぽつりと漏れた言葉は、自分自身への激しい自己嫌悪となって胸を刺した。
あんな母親を詰めたところでユイが戻ってくるわけではない。
自分自身が犯した「ユイを助けられなかった」という罪が消えるわけでもないのだ。
重い足取りで舗道を踏みしめ、俯きながら歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、ネコからのトーク通知だった。ハルは足を止め、すぐに画面を開く。
『みんなでクッキー食べてるので、ハル先輩もどうですか?』
続いて送られてきた画像には、テーブルを囲んで嬉しそうにクッキーを頬張るコトモと、満足そうに微笑むネコの姿が写っていた。
賑やかで温かな空気感が、画面越しに伝わってくる。
「……ふふっ」
さっきまで暗闇に沈んでいたハルの口元から、思わず笑みが溢れた。
ハルはスマホの画面に写る二人の姿を優しく見つめながら、静かに呟いた。
「……ネコちゃん。本当に助かってるよ」
冷え切っていた心にほんのりと温かさが灯るのを感じながら、ハルは二人の待つ場所へ向けて、一歩を踏み出した。
ムカデ様とコトモさんは上下関係があるわけではなく、お互いに対等な関係です。
ハルとコトワリ様は普段はコトワリ様が上ですが、本気でハルさんが怒るとコトワリ様は頭が上がりません。