コトモが中学生の頃、
教室の蛍光灯の光が、ひどく遠く感じられた。
授業の退屈なチャイムの音が響く中、コトモの意識はまったく別の場所――暗く冷たい夜の世界へと引きずり下ろされていた。
山の神に片目を奪われて以来、コトモの時間は狂っていた。
昼間であっても、安全な場所なんてどこにもない。
窓の外の影に、床の隙間に、そして天井の隅に、化け物たちの気配が這い寄ってくる。授業の最中であっても、頭を突き刺すような悪意や、冷たい冷気がコトモの皮膚を泡立たせた。
(来る……っ! また、来る……っ!)
耐えきれなくなったコトモは、ガタガタと震えながら椅子を押し倒し、そのまま教室を飛び出した。
後ろから担任の怒鳴り声が聞こえた。「コトモ! どこに行くんだ、授業中だぞ!」
――違う。逃げなきゃ殺される。化け物に追いつかれる。
そんな恐怖で心臓が破裂しそうだったのに、大人たちにはそれが「サボり」や「不真面目な態度」にしか見えなかった。
何度も教室を飛び出し、授業を抜けたコトモに下されたのは、冷たい叱責とレッテルだった。
「やる気がない」「反抗期だ」「これだから最近の若い奴は……」
教師たちは誰も、コトモが何に怯え、何と戦っているのかなんて知ろうともしなかった。
そして、学校に呼び出されるのはいつも――大学生の姉、トモコだった。
教授の講義やレポートで忙しいはずのトモコが、申し訳なさそうに頭を下げながら職員室にやってくる。
教師の前で何度も謝罪し、コトモを庇うように小さくなっている姿を見るたび、胸が締め付けられるように痛んだ。
(お姉ちゃん……ごめん、ごめんね……っ)
トモコは一度だってコトモを責めたりはしなかった。だけど、その優しさがかえってコトモの心を抉った。
自分のせいで、大事な姉の未来や時間を削らせている。こんなはずじゃなかった。
私は、ただ普通に生きたかっただけなのに。
友達と笑い合って、授業を受けて、当たり前に進路を悩んで……そんな「普通」の青春が、どうして自分には手の届かないものなんだろう。
こんなおぞましい身体じゃ、社会のどこにも馴染めない。化け物に怯え、ろくに眠ることもできない極限状態で、まともに学校になんて通えるわけがなかった。
放課後の喧騒から逃れるように、コトモは街はずれの静かな公園のベンチに座り込んでいた。
今日も教室の隅に這い寄る化け物の幻影に耐えきれず、授業を途中で飛び出してしまったのだ。
携帯を開けば、大学生の姉・トモコからの「担任の先生から連絡があったよ。大丈夫?」という心配そうなメッセージが届いている。
自分のせいで姉の時間を奪い、迷惑をかけ続けているという罪悪感が、すり減った心をさらに重く押しつぶす。
(私なんて、いない方がいいんだ……こんな化け物に取り憑かれた人間、普通に生きられるわけがない)
膝に顔を埋め、震える指で頭を抱えていたその時だった。
アスファルトを歩く、聞き覚えのある穏やかな足音が近づいてくる。
「……コトモ?」
顔を上げると、そこに立っていたのはハルだった。
「――ハル……?」
息を呑むコトモに対し、ハルはいつもの静かな笑みを浮かべたままでいた。
その左袖は、風に吹かれて痛々しく虚しく揺れている。
その傷跡を隠すこともせず、ハルはまるで何事もなかったかのようにそこにいた。
「どうして……ここにいるの?…」
混乱するコトモに、ハルは困ったように小さく首を傾げた。
「……なんとなく、急にコトモに会いたくなっちゃってさ」
「会いたくなってって……、ハルだって大変なのに……」
「大変じゃないよ。私、もう慣れたし」
ハルは左袖を軽く叩いて、からりと笑ってみせた。その強がりなのか優しさなのか分からない振る舞いが、かえってコトモの胸を締め付ける。
あの凄惨な山の事件から生き延びたあと、ハルはハルで周囲からの注目や、失った身体の不自由さと向き合いながら日常に戻っていたはずなのだ。
それなのに、自分のことよりもボロボロになった自分を気にかけて、わざわざ足を運んでくれたのだという。
言葉を失うコトモの隣に、ハルは自然な仕草で腰を下ろした。ベンチの冷たさが、なぜか少しだけ和らいだような気がした。
「そういえばさ、コトモ。最近、ちゃんと眠れてる?」
ハルはポケットから缶コーヒーを取り出し、コトモに差し出しながら尋ねた。その気遣いに、コトモはぐっと喉を詰まらせる。
「……眠れるわけ、ないよ。昼間でも化け物は見えるし、学校に行っても授業中に出てくるから、また逃げ出しちゃった。先生には怒られるし、お姉ちゃんには謝ってばかりだし……私、本当にどうしようもないんだよ」
情けなさと悔しさで、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
そんなコトモを、ハルは責めることも、同情しすぎることもなく、ただまっすぐに見つめていた。
「……すごいよね、ハルは」
コトモは震える声で、ずっと胸につかえていた言葉を絞り出した。
「全国模試でまた1位だったんでしょ? 学校で聞いたよ。身体があんなことになって、あんな恐ろしい目に遭ったのに……どうして、そんなに普通でいられるの?」
羨望と、底知れない絶望の入り混じった問いに、ハルは少しだけ目を丸くし、それから優しく首を振った。
「そんなことないよ」
ハルは遠くの空を見つめながら、ぽつりと言った。
「私なんて、全然すごくないよ。普通になんて見えないかもしれないけど……私だって、怖いときは怖いし、思い出すこともある。ただ……立ち止まってちゃいけない気がして、前を向いてるだけ。……だから、コトモも無理しなくていいんだよ」
その言葉は、誰よりも過酷な現実に立ち向かってきたハルだからこそ、重みを持ってコトモの心に染み入った。
自分は一人じゃない。同じ痛みを抱えながらも懸命に生きているハルの温もりに触れ、コトモの凍りついていた心が、ほんの少しだけ溶け始めたのだった。
二人は並んで、静かな道をしばらく歩き続けた。
秋の風が木々を揺らし、ハルの空っぽの左袖を優しくなびかせる。
コトモは足元を見つめたまま、重い口を開いた。
「……私、行ける高校、すごく少ないんだって」
「えっ?」
ハルは思わず足を止め、驚いたように声をあげた。
「でも、コトモって全国模試だと50位くらいでしょ? 全然大丈夫だと思うけど……」
「……ううん、ダメなんだよ」
コトモは自嘲気味に小さく笑い、首を振った。
「内申書がすっごく悪くてさ。あと、出席日数も足りないから……見送りになっちゃう学校が多くて」
化け物に怯えて授業を飛び出し、保健室や家に逃げ込む日々。どれだけテストで良い点を取ろうと、学校という組織において「不登校」「態度不良」のレッテルは重くのしかかる。
(……まあ、当然だよね)
コトモは心の中で冷たく呟いた。自分に明るい未来なんて、最初から訪れるはずがないのだ。
片目を奪われ、昼夜を問わず異形に脅かされるこんな身体で、まともに働ける未来なんて想像もできない。
今はまだ「中学生」という親や学校に守られた立場だから誤魔化せているけれど、高校、そしてその先になれば――
「……私さ、高校に行けても留年しまくって、最後は追い出されちゃうかもね」
冗談めかして笑ってみせたが、その瞳の奥には底知れない冷たさと諦めが満ちていた。
ハルは笑わなかった。
ただ静かにコトモを見つめ、優しく尋ねた。
「……コトモは、どこの高校に行く予定なの?」
「◯△高校ってところ。……すっごい田舎の高校でさ、周りに何もない、本当にわけわかんない場所に立ってるんだよね」
コトモは遠くを見つめながら、どこか投げやりなトーンで言葉を続けた。
「でも……私的には万歳かな。ずっと、この地元から離れたいって思ってたから」
この街にいれば、山の神の影から永遠に逃げられない気がしていた。
たとえ未来に希望が持てなくても、今の場所から遠くへ消え去ることができるのなら、それで十分だと思っていた。
「……ごめんねハル、私、このあと用事があって…久しぶりに会えてすごく嬉しかったよ。忙しいのにありがとう……またね!」
ハルが何かを言いかける前に、コトモは少し無理をした笑顔を浮かべ、逃げるようにその場を後にした。
ハルの優しさに甘えてしまえば、自分の中に溜め込んだ黒い感情が溢れ出してしまいそうだったからだ。
本当は、ハルと会えて心から嬉しかった。
ハルの姿を見るだけで、どんなに絶望的な状況でも「この先、どうにでもなるかもしれない」と思える不思議な強さをもらえた気がした。
(……でも、私はハルみたいにはなれない。将来、普通の人が就くような希望の仕事に就くなんて、きっと無理だろうな)
帰り道、コトモは俯きながら歩く。
たまにテレビで見かける、仲間と楽しそうに笑い合い、未来への希望に満ち溢れた同世代の学生たち。それを見るたび、胸を刺すような強い羨望が渦巻いた。
(私には絶対に届かない未来……羨ましいな)
けれど――どれだけ絶望しても、どれだけ過酷でも、「死んでしまいたい」なんて一度も思ったことはなかった。
だって、命がけで大切なお姉ちゃんを山の神から救い出すことができたのだから。
そして今、こうして大好きなお姉ちゃんと一緒に暮らせているのだから。それだけで、自分の存在には意味があったと思えたのだ。
数日後。
重い足取りで学校に向かったコトモは、教室の扉を開けた。
睡眠不足で霞む目を擦りながら自分の席に着き、眠気と戦いながら鞄の中をガタガタと漁る。
周囲の教室からは、いつにも増して騒がしい会話が聞こえていた。
時期が時期なだけに、クラスメイトたちの話題は「どこの高校を受験するか」で持ちきりだった。
「あの高校、倍率ヤバいらしいよ〜」
「マジで? どこ受けようかな……」
そんな雑談の中、一人の男子生徒が大きな声を張り上げた。
「なぁなぁ、みんな知ってる!? 今年の全国模試でずっと1位取ってるあの有名人、どこの高校受けるか知ってるか!?」
「え、誰だっけ? あの怪物みたいな凄いやつでしょ? 県立のトップ校とかじゃないの?」
「それがさ、◯△高校に行くらしいぞ!!」
その言葉が響いた瞬間、周囲の生徒たちが一斉に素頓狂な声を上げた。
「は!? ◯△高校……? どこそこ!?」
「聞いたこともないんだけど! ちょっとスマホで調べてみ……うわ、偏差値フツーじゃん! なんでそんな田舎のわけわかんない高校行くの!?」
「間違いでしょ? もったいなさすぎるじゃん!」
口々に飛び交う驚きと困惑の声。
その会話を耳にした瞬間――
鞄を探っていたコトモの手が、ぴたりと止まった。
ドクン、と胸の奥で心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
(◯△高校……? 偏差値の低い、あの田舎の……?)
脳裏に浮かんだのは、数日前に公園でハルと交わした会話だった。
『コトモは、どこの高校に行く予定なの?』
『◯△高校ってところ。すっごい田舎の高校でさ……』
全身の血が引いていくような感覚と、激しい動悸がコトモを襲う。
(嘘……でしょ、ハル……!? どうして……!?)
コトモは教室の喧騒の真ん中で、ただ一人、固まったまま震えていた。
学校が終わると、コトモは取り憑かれたような足取りで家へと急いだ。
玄関のドアを開けると、大学から帰っていた姉のトモコが「おかえりなさい、コトモ」と温かい笑顔で出迎えてくれた。
しかし、コトモは返事をする余裕すらなかった。
靴を脱ぎ散らかして自分の部屋へ駆け込むと、震える手で携帯を取り出し、アドレス帳からハルの電話番号を探し出して発信ボタンを押した。
プルルル、と短いコール音が響き、すぐに通話が繋がる。
『……もしもし、コトモ?』
受話器越しに聞こえたハルの穏やかな声に、コトモは挨拶もそこそこに開口一番叫んだ。
「ハル……! どこの高校に行くつもりなの!?」
少しの沈黙の後、ハルは困ったように、けれど隠す風もなくぽつりと言った。
『……もう知ってたんだ』
「なんで……なんでそんなことすんの!?」
『え……?』
予期せぬコトモの強い口調に、ハルが戸惑いの声を漏らす。コトモの胸の奥から、抑えきれない怒りと惨めさが感情となって爆発していた。
「なんで……っ!? 私が感謝するとでも思った!? 一緒に来てくれて嬉しいなんて言うとでも思ってたの!?」
『コトモ、聞いて、私は――』
「うるさい!!」
コトモは携帯に向かって声を荒らげた。
「ハルはハルが行くべきトップの高校に行けばいいじゃん! なんでわざわざそんな偏差値も低い田舎の高校に来ようとするの!? ハルの人生なんだから、私に合わせないでよっ!!」
自分のせいで、全国模試1位を取るようなハルの素晴らしい未来を台無しにしてしまう。
その罪悪感と、憐れみでついてこられるような屈辱感がコトモの心をズタズタに引き裂いていた。
息を荒らげるコトモに対して、ハルは少しも声を荒らげなかった。ただ、静かに、けれど強い意志を込めた声で、まっすぐに問いかけてきた。
『……私の人生なんでしょ。だったら――』
ハルの言葉が、受話器越しにコトモの胸へ突き刺さる。
『――大切な友達の横にいることが、そんなに悪いの?』
「そういうことじゃない……! そうじゃないよハル……!」
携帯を握りしめるコトモの声は、すっかり震え、泣きそうなほど裏返っていた。
『ううん、私が決めたことだから』
ハルの声はどこまでも穏やかで、微塵の迷いも感じさせなかった。
『ねえ、コトモ。私ね、別に1番になりたくて勉強してきたわけじゃないの。それに、どうしてもこれをやりたいっていう夢があるわけでもない。ただ、そうしなきゃいけない気がして、走ってきただけだから』
「だからって……! だからって、私のために……!」
『違うよ。私のために、私が選んだの』
ハルは静かに、けれどはっきりと否定した。
あの公園で、わざわざコトモに「どこの高校に行く予定なの?」と尋ねたのは――最初から、コトモと同じ場所へ行くためだったのだ。
あの穏やかな笑顔の裏で、ハルはすでにその選択を心に決めていた。
「あの時……あの公園で聞いたのって、もしかして……」
『うん。コトモがどこに行くのか、ちゃんと知りたかったから』
ハルの言葉に、コトモの胸が締め付けられる。
左腕を失い、ユイを失い、誰よりも深い傷を負っているはずのハルが、なぜそこまでして自分を気にかけるのか。
自分のせいでハルが縛られてしまうのではないかという恐れと、あまりにも大きな優しさに、コトモは息ができなくなる。
「やめて……お願いだから、私のせいで自分の人生を……!」
『大丈夫だよ』
遮るように、ハルは優しく、しかし揺るぎない響きで告げた。
『私が支えるから。だから、もう一人で抱え込まなくていいんだよ』
「やめてってば……! お願いだから、そんなこと言わないでよ……!」
涙があふれ出し、声が詰まる。コトモが必死に拒絶したのは、ハルが嫌いだからじゃない。
大切だからこそ、自分の泥沼のような苦しみに彼女を巻き込みたくなかったからだ。
静寂の向こう側で、ハルは少しだけ息を吸い、そして、ふっと柔らかく問いかけた。
『ねえ、コトモ……私と一緒にいて、嫌なの?』
その問いに、心臓が大きく跳ねた。
「嫌」なわけがない。あんなに怖くて暗い夜を一緒に乗り越えて、自分を救ってくれたたった一人の大切な友達。
「そんなわけ……ない……っ!」
絞り出すようなコトモの声を聞き届けたように、受話器の向こうでハルがふわりと微笑んだのが分かったような気がした。
『――良かった』
心からの安堵に満ちた、温かい声。
『私、コトモと一緒に高校行けるの、すごく楽しみにしてるから』
それ以上、言葉を継ぐ間もなく、通話は穏やかに切れた。
静まり返った部屋の中で、コトモはスマートフォンを握りしめたまま、あふれ出る涙を止めることができなかった。
通話を終え、携帯を握りしめたまま立ち尽くしていたコトモの背後に、足音が近づいてきた。
「コトモ? さっきから大きな声が聞こえたけど……大丈夫?」
心配そうに部屋のドアをノックし、トモコがそっと顔を覗かせた。
大学の課題やレポートでいつも忙しいはずの姉は、妹の異変を敏感に察知して駆けつけてくれたのだ。
その優しい顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れた。
「お姉ちゃん……っ!」
コトモは堪えきれなくなり、トモコの胸に勢いよく飛び込むと、その服を強く掴んでしがみついた。
「どうしよう……お姉ちゃん、どうしよう……っ! 私、大切な友達の人生を……潰しちゃった……っ!」
耳を塞ぎたくなるような絶望の混じった泣き叫び声が、部屋の中に響き渡る。
「ちょ、コトモ!? 落ち着いて、何があったの……っ!?」
突然のことに驚いたトモコはバランスを崩し、コトモに押し倒されるようにして床へと倒れ込んだ。
しかし、自分の痛みなど気にする様子もなく、トモコはすぐさま必死にもがく妹の身体をしっかりと受け止める。
「どうすればいいの……私、どうすればいいの……っ! あの子を巻き込むつもりなんてなかったのに……っ!」
ぐちゃぐちゃになった顔で、ただただ同じ言葉を繰り返しながら泣き続けるコトモ。
パニック状態に陥り、トモコの言葉はもうまともに耳に入っていなかった。
それでもトモコは焦ったり怒ったりせず、ただ震えるコトモの背中にそっと腕を回し、優しく撫で続けた。
「大丈夫だから……落ち着いて、コトモ。ねえ、ハルちゃん……? ハルちゃんのことなの……?」
問いかける声はどこまでも穏やかで、凍りついたコトモの心を少しずつ包み込んでいく。
「……っ……うっ……うう……っ」
まともな受け答えなどできはしない。
ただ愛する妹の苦しみを分かち合おうとするかのように、トモコは優しくコトモを抱きしめ続け、静かにその涙が和らぐのを待ち続けた。
桜の舞い散る春の日。
◯△高校の正門を潜ったコトモの足取りは、どこまでも重かった。
校庭の隅、少し離れた場所で待っていたハルの姿を見つけた瞬間、胸が押しつぶされそうになる。制服に身を包んだハルの左袖は、春風になびいて静かに揺れていた。
コトモはハルに駆け寄り、ずっと胸に溜め込んでいた言葉を吐き出そうとした。
「ハル……あのね、私……ごめ――」
謝罪の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
コトモが言い切るより早く、ハルは一歩踏み出し、コトモの口を優しく遮るようにして、その身体をぎゅっと抱きしめたのだ。
右腕一本で、けれど驚くほど強く、温かくコトモの体を包み込む。
「ん……っ、ハル……言わせて……っ!」
コトモはハルの胸の中で必死に声を漏らした。自分のせいでハルの輝かしい未来を奪ってしまった罪悪感。
親とも決裂させてしまったかもしれないという恐れ。
その全てを、言葉にして謝りたかった。
だが、ハルは抱きしめる力を緩めず、耳元で静かに囁いた。
「ダメだよ」
「……なんで……っ」
「謝る必要なんて、最初からどこにもないんだから」
ハルの髪からかすかに漂う優しい香りと、伝わってくる心臓の鼓動。コトモはハルの肩に額を預け、震える声で言葉を絞り出した。
「じゃあ……私のこと、ずっと恨んでよ……」
「ふふっ……何それ」
抱擁を解いたハルは、コトモの顔を覗き込むと、いつもの穏やかで少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「恨むわけないよ。自分で決めて、大好きなコトモの隣にいるのが、私が望んだことなんだから」
そう言って、ハルは優しくコトモの手を握りしめた。
ある日の朝。
ハルが校内の廊下を歩いていると、少し先を歩くネコの姿が目に入った。
「ネコ――」
ハルが声をかけようと手を挙げかけた、その時だった。
横からすっと現れたコトモがネコに声をかけ、ごく自然な動作でネコの肩をぐっと抱き寄せるように距離を詰めた。
「うわっ!? コ、コトモ先輩!?」
急に接近されたネコはハルに気づく様子もなく、驚いて目を丸くしながらドギマギしている。
「……?」
ハルはその光景をキョトンとした顔で見つめた。
(あの二人……あんなに仲良かったっけ……?)
お魚様神社の掃除や昨日のクッキーでお互いの距離が縮まったのだろうか。それにしても、いつもどこか一線を引きがちなコトモにしては珍しくグイグイいっているように見える。
ハルが不思議そうに首を傾げながら二人を見送っていると、廊下の角を曲がる直前――
コトモがふと立ち止まり、ちらりと振り返った。
そして、ハルとバッチリ視線が合うと、コトモは口元を歪め、何かを企むような笑みを「ニヤっ」と浮かべた。
「……え?」
ハルが反応する間もなく、コトモはネコの肩を抱いたまま、そのまま廊下の角の向こうへと消えていった。
放課後になり、ハルはネコと一緒に帰ろうと彼女の教室へ向かった。
二年生のハルが一年B組の教室の前に姿を現すと、室内にいた女子生徒たちが「えっ、ハル先輩……!?」と一斉にどよめく。学内でも人気の高いハルの不意の訪問に、クラス中がそわそわとした空気に包まれた。
ハルはそんな視線に気づくと、いつものようにニコッと柔らかく微笑んだ。
「ねえ、ネコちゃんどこにいるか分かる?」
先輩の眩しい笑顔に顔を赤らめた女子生徒のひとりが、慌てて声を返した。
「ネコ…?あ、ノラなら……さっきコトモ先輩と一緒に帰りましたよ!」
「え……?」
ハルは一瞬きょとんとして首を傾げた。あんなにいつもハルの後をついてきていたネコが、声をかけずに先に帰るなんて珍しい。
嫌な予感というか、妙な胸騒ぎがして、ハルは廊下の窓から一階の校庭へと視線を落とした。
校門へと続く道を、二人の姿が歩いている。
コトモがネコの頭をぐしゃぐしゃと撫でたり、距離を詰めて頬をつついたりと、まるで弟かペットでも愛でるように全力で可愛がっていた。そして当のネコも、最初はうろたえつつも、どこかまんざらでもなさそうな顔で照れくさそうに笑っている。
「……えぇ……?」
昨日の廊下でのニヤリとした笑みを思い出し、ハルは窓枠に手を置いたまま、完全に困惑していた。
○○○○○○○
翌朝、ハルが校門をくぐると、目の前に信じられない光景が広がっていた。
コトモとネコが、二人並んで登校してきたのだ。一年生の教室へ向かう渡り廊下の前で、コトモはネコの頭をポンポンと優しく撫でる。
「じゃあネコ、また後でね」
「あ、はい! ありがとうございます、コトモ先輩!」
嬉しそうに頷いて教室へ走っていくネコを見送るコトモ。
ハルはすぐさま駆け寄り、コトモの腕を引っ張るようにして校舎裏へと呼び出した。
――とはいえ、呼び出したものの、コトモが何か悪いことをしたわけではない。
ハルは怒るに怒れず、少し眉を寄せて探るように口を開いた。
「……ねえ、コトモ。最近、ネコちゃんとすごく仲が良いよね?」
「ん? 可愛い後輩の面倒を見るのは、先輩として当然じゃない?」
コトモはふんと鼻を鳴らし、どこか得意げな顔で胸を張った。
ハルはその態度に引っかかりを覚え、さらに問い詰める。
「…コトモって今までネコちゃんのことノラって呼んでたのに急に本名で呼び始めたよね…ネコちゃんって自分の名前を呼ばれるの嫌がるのに………昨日、何かあったの?」
「あるわけないじゃん。……っていうかさ、ハル」
コトモはふっと笑みを消し、ハルの顔をじっと見つめて言い放った。
「ネコってさ、別にハルだけのものじゃないでしょ?」
「……っ! 別に、私のものなんて思ってないよ……!」
思わずムッとして語気を強めてしまったハルに、コトモは「待ってました」と言わんばかりのニヤリとした笑みを浮かべた。
「なーんだ。……もしかしてハル、妬いてんの?」
「……っ、そんなんじゃない……!」
図星を突かれたハルは、顔を真っ赤にして思わずパッと視線を逸らしてしまうのだった。
「まあ、いままでネコに悪かったと思うけど……でもさ、私この後もネコと用事あるんだよねー」
コトモは鼻歌交じりに、自分の髪の毛先を指でくるくると弄ってみせる。
「はぁ!?」
ハルは思わず声を荒らげ、逃がさないと言わんばかりにコトモの腕をガシッと掴んだ。
「ちょっとコトモ、ネコちゃんと何する気なの……!?」
「何って……ただ遊ぶだけだけど?」
コトモは掴まれた腕を痛がる様子もなく、ハルの焦る顔を面白そうに見つめ返した。
そして、意地悪く口角を上げる。
「ねえ、ハル。……私たちが2人きりで遊んじゃ、だめなのかな?」
「……っ!」
挑発的な言葉と視線に、ハルはぐっと言葉を詰まらせた。
ダメなわけがない。コトモがネコと遊ぶのを止める権利なんて、自分にはどこにもないのだから。ハルは掴んでいた腕を力なく離し、口を噤むことしかできない。
コトモは満足そうに「じゃ、そういうことだから!」と手を振り、ハルを残して軽やかな足取りで去っていった。
ぽつんと校舎裏に取り残されたハルは、冷たくなった自分の手をギュッと握りしめる。
ただの嫉妬だと思いたいのに、胸の奥から湧き上がってくるのは、息が苦しくなるほどの正体不明の不安だった。
○○○○○○○
その後も、コトモの怒涛の猛攻は収まるどころか加速していった。
校内での休み時間はもちろん、登下校や放課後まで、コトモは常にネコの隣をキープした。ネコも最初は戸惑っていたものの、持ち前の断れない性格もあってか、すっかりコトモのペースに巻き込まれている。
ハルがネコに声をかけようとするたび、まるで計算されたタイミングでコトモが割り込み、楽しそうにネコを連れ去ってしまう。
ハルの視界の先で、二人はどんどん距離を縮めていった。
ついに限界を迎えたハルは、放課後の廊下でコトモの腕を掴み、誰もいない空き教室へと引きずり込んだ。
「いい加減にしてよ、コトモ……!」
ハルは叫ぶように詰め寄った。肩を大きく上下させ、激情を隠そうともしない。
「一体なんのつもり!? 急に私の前でネコちゃんとベタベタして、何がしたいの!?」
急激なハルの剣幕にも、コトモは微動だにしなかった。
驚く素振りすら見せず、どこか冷めたような、けれど余裕に満ちた瞳でハルを見つめ返す。
「そんなの、可愛い後輩と遊んでただけに決まってるじゃん」
「そんなわけないでしょ! 明らかに私に見せつけるみたいにして……っ!」
思わず言い返したハルに、コトモの口角がすっと吊り上がった。
「ふーん……やっぱり、妬いてたんだ」
「……っ!」
ハルは悔しそうに唇を噛み締めた。だが、もうプライドなんて振りかざしている余裕はなかった。このままでは本当に、ネコが自分から離れていってしまうという恐怖が勝っていた。
「……ネコちゃんは私のだからダメだよって、体育祭の前に言ったよね!?」
ハルは必死の思いで過去の約束を引き合いに出した。あの時、確かに二人で交わしたはずの言葉。
しかし、コトモは「あー」と気のない声を漏らし、面倒くさそうに自分の髪の毛先を指でくるくると弄る。
「そんなこと言ってたっけ?」
「コトモ……!」
すっと髪から手を離したコトモは、ハルを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、今まで見せたこともないほど冷ややかで、確固たる意志が宿っていた。
「でもさ、ハルが決めたことに……私が従う必要ないんじゃない?…と言うよりもハルはネコを自分のじゃないってこの前言っときながらそれ言うんだ?都合良すぎだよねぇ?」
「……っ…!」
コトモの鋭い指摘に思わず無言になるハル。
何か言い返さなければ…そう思っているのにハルは出てこない。
今思えば、コトモに口喧嘩で勝ったことなんてない。
それだけじゃなく、人間関係の構築やコントロールは自分よりもコトモの方が断然上だった。
ハルはこの学校のアイドルのような存在で、誰からもモテるほどの美少女だが、ハルはそれを強く自覚はできない。
ハルが元々謙虚な性格なのもあるが、隣にいるコトモの存在も関係している。
コトモはハルのように容姿が整っているだけでなく、人が何をしたら喜ぶのか何をされたら嫌なのかを的確に読み取ることができる。
それでもコトモに彼氏ができないのは、コトモの身体が夜の世界に囚われて、常に化け物が見えるようになっていたから。
そして無関係の人を巻き込まないように意図的に距離を調整していた。
ネコ相手にも同じかと思っていたハルだが、最近のコトモは寝不足による目の下のクマもなくなってきて、空元気じゃなくて本来の口調に戻ってきている。
もし仮に…もし本当にコトモが本気を出してネコを取ろうとしてるのなら…ハルに勝ち目はないのかも知れない。
「……お願いだから、もうやめてよ」
ハルは叫びたいのを必死に抑え込み、震える声で哀願するように口を開いた。どうしても、急にネコとの距離を詰め始めたコトモの真意が分からなかった。
「私を困らせたいとか……ヤキモチを妬かせたいとかなら、もう私の負けでいいよ。十分困ったし、十分焦ったから……だからもう、こんなことやめて」
情けない敗北宣言。
これだけ言えばコトモも満足して、いつもの関係に戻ってくれるはず――ハルはすがるような思いで彼女を見つめた。
だが、コトモから返ってきたのは、嘲笑すら含まない冷ややかな視線だった。
「……ハルってさ、これをただの遊びだと思ってるんだ」
「え……?」
困惑するハルを前に、コトモは淡々と、けれどハルの心の最も深く鋭い場所へ言葉の刃を突き立てた。
「ハルってネコのこと好きだけど……それってさ、亡くなったユイと重ねてるだけでしょ?」
「――っ!?」
一瞬で脳内が真っ白になった。激痛と衝動に突き動かされるまま、ハルはコトモの胸倉を力任せに掴み上げていた。
「なにを……っ!」
激しく胸を上下させ、コトモを睨みつけるハル。
だが、胸倉を掴まれた当のコトモは、痛がる素振りも怯える様子もなく、ただ冷ややかな瞳でハルの顔を見つめ返している。
その静かな視線に毒気を抜かれ、ハルはハッと正気に戻った。乱暴に掴んでいた手を弾かれたように離し、青ざめた顔で一歩後退る。
「あ……ごめん、私……っ」
取り乱した自分自身への恐怖と自己嫌悪で震えるハルに、コトモは乱れた服のシワを優しく撫で伸ばしながら、ぽつりと呟いた。
「……私さ、ユイとか関係ないから」
それだけ言い捨てると、コトモはハルに背を向け、迷いのない足取りで空き教室を後にした。
静まり返ったその場にぽつんと一人取り残される。
○○○○○○○○○
放課後を告げるチャイムが鳴り響き、ハルはすぐさま教室を飛び出した。
だが、一年B組の廊下にたどり着いた時、そこに広がっていたのはまたしても同じ光景だった。ネコと楽しそうに笑い合い、親密そうに言葉を交わすコトモの姿。
(おかしい……いくらなんでも早すぎる……)
ハルは眉をひそめた。学校内では移動教室や部活の準備などがあり、ネコが終業時に必ず自分の教室にいるとは限らない。
それなのにコトモは、まるで最初からネコの居場所を知っていたかのように、いつでも正確に彼女を「占拠」してみせるのだ。
ハルが拭いきれない違和感を抱え、何気なく廊下の壁へと振り返った――その瞬間。
壁のわずかな隙間へ、ワサワサと黒い影が滑り込んでいくのが見えた。
無数の脚を蠢かせ、すっと影に身を潜めたのは――ムカデだった。
「……そういうこと」
ハルは冷ややかな目を細め、納得がいったように呟いた。
校内の至る所に潜ませた何十匹ものムカデ。
それらと視界や情報を共有することで、コトモはいち早くネコの居場所をリアルタイムで察知していたのだ。
力技とも言えるそのからくりを看破したハルは、静かに拳を握りしめた。
コトモが本気で、あらゆる手を使ってネコにアプローチしてくるというのなら。
(なら――)
ハルは冷たい瞳に確固たる意志を宿し、次の一手を繰り出すべく、静かに歩き出す。
放課後を告げる最終下校のチャイムが、校内に寂しげに鳴り響いた。
コトモは鞄を肩にかけ、自分の教室を出る。
廊下へ踏み出す際、向かいの教室の中にぽつんと残っているハルの姿が目に入った。
ハルは机に座ったまま微動だにせず、ただじっと手元を見つめている。
(……諦めたんだ。案外早いな)
コトモは内心でそう嘲笑うと、ハルには視線すら送らず、軽やかな足取りで廊下を歩き出した。
ハルが引いてくれたのなら好都合。
歩みを進めるコトモの首元、サラリとなびく髪の隙間から、一匹のムカデがすっと這い出てきた。
耳元でカサカサと小さな脚を蠢かせ、校内に散らせた同胞たちからの情報がコトモの脳内へ共有される。
「ふふ、ありがと」
コトモは口角を上げると、迷いのない足取りで裏庭へと向かった。
校舎の陰になった静かな裏庭。日陰の湿った空気が漂うその場所にたどり着き、コトモは声をかけようとして――ぴたりと足を止めた。
誰もいない。
花壇の陰も、用務員倉庫の裏も、そこには人影ひとつ存在しなかった。
ただ風に揺れる草木の音だけが虚しく響いている。
「え……? どういうこと……?」
コトモは思わず眉をひそめ、髪の毛の中のムカデに意識を向けた。情報が間違っていたはずはない。
つい数十秒前まで、ネコはここにいたはずなのだ。
その時、ふと虫の報せのような胸騒ぎが走り、コトモはハッと息を呑んで校舎の窓際へ駆け寄った。
視線を遠く、夕日に染まる正門へと向けたコトモの瞳が、驚愕に見開かれる。
校門をくぐり、夕暮れの通学路へと歩みを進める二つの影があった。
ハルと、ネコだ。
ハルはネコとしっかりと手を繋ぎ、優しく微笑みかけながら歩いている。ネコもまた、嬉しそうに頬を緩ませてハルの顔を見上げていた。
コトモが教室に閉じこもるハルに気を取られ、裏庭の情報を信じ切って移動しているそのわずかな隙を突き――ハルはネコのもとへ先回りし、連れ出したのだ。
「っ……ハル……!」
遠ざかっていく二人の睦まじい背中を見下ろしながら、コトモは校舎の窓枠をきりきりと強く握りしめた。
○○○○○○
その日を境に、立場は逆転した。
コトモがムカデの情報網を駆使してネコを探そうとしても、あと一歩のところでハルに先回りを許してしまう。
ハルはコトモの動向や虫の報せの裏をかき、ネコを自分の側から離さなかった。
ある日の放課後、校庭の木陰でハルはネコを優しく抱きしめていた。
ハルに甘えられて嬉しそうに頬を染めるネコ。
その頭を撫でながら、ハルはふと視線を上へと向けた。
校舎の三階、窓越しに自分たちを見下ろしているコトモと目が合う。
ハルは口元に余裕の笑みを浮かべると、コトモに向けてパチンと軽やかにウインクしてみせた。
(……っ! いい気になってんじゃないわよ……!)
窓枠を強く掴み、コトモは内心で烈火のごとくブチギレていた。
同じ二年生の教室に戻っても、二人の間の空気は冷え切り、火花が散るような緊張感が漂っていた。
そして訪れた、ある日の放課後。
ハルが教師から用事を頼まれ、教卓の前でプリントの処理に追われて動けない様子を見て、コトモの瞳が妖しく光った。
(勝機……!)
ハルが動けない今なら、邪魔者はいない。コトモはすぐさま教室を飛び出し、一年B組へと駆け出した。
しかし、教室にネコの姿はない。
「……え!?」
舌打ちを漏らしたコトモはハッと息を呑み、罠に嵌められたような予感に背筋を凍らせて大急ぎで自分の教室へと引き返した。
息をを切らして教室の扉を激しく開けたコトモは、目の前の光景に思わず絶句した。
教卓の前で用事を済ませていたはずのハルの膝の上に、なぜかネコがちょこんと座っていたのだ。
「あ、コトモ先輩!」
ハルの腕の中でネコが呑気に手を振る。
動けないなら、最初から自分のいる場所にネコを呼んでおけばいい――そう言わんばかりに、ハルは驚愕で立ち尽くすコトモを見つめ、満足げに微笑んだ。
その日は結局、コトモは放課後もネコに会うことができなかった。
まんまとハルに先手を打たれ、ネコを丸ごと掻っ攫われてしまったのだ。
誰もいなくなった教室で、コトモはネコの監視に当たらせていた一匹のムカデを呼び出した。机の上に這い出てきた虫に向かって、コトモは苛立ちを隠さずに詰め寄る。
「ネコがいなかったんだけど……どういうこと!? 嘘の情報教えたわけ!?」
責め立てられたムカデは、身を縮こまらせるようにして、伝達の術でことの顛末をコトモへ伝えた。
――少し時間を遡る。
コトモの命を受け、一年B組の廊下の陰から密かにネコを監視していたそのムカデは、突如として背後から差し伸べられた手にパッと捕まえられてしまった。
捕獲したのはハルだった。
ハルは周囲にいたネコや他の生徒に気づかれないよう、素早い動作でムカデを掴むと、そのまま手の中に閉じ込めたまま女子トイレへと向かう。
個室に入り、鍵をかけたハルは、手の中で蠢くムカデを冷たい目で見下ろした。
「ネコちゃんを監視しちゃダメって、前に言わなかったっけ?」
ハルの声には一切の温度がなかった。指先にぐっと力が込められ、殻がみしりと嫌な音を立てる。
「約束破ったんだから、このまま潰すね?」
圧倒的な死の恐怖。潰されると直感したムカデは、必死に脚をバタつかせ、命乞いをするようにハルの指の中で激しく暴れ回った。
それを見たハルは、ふっと薄い笑みを浮かべ、提案を持ちかけたのだ。
「って普通ならそうするんだけど……まだ2回目だし、条件次第で許してあげる。ムカデさん、コトモに嘘の情報流したら、許してあげてもいいよ?」
生存本能には抗えなかった。コトモへの忠誠心よりも死の回避を選んだムカデは、ハルからの提案を飲み、コトモへ偽の居場所を伝達するしかなかったのだ。
すべての事情を理解したコトモは、怒りでプルプルと肩を震わせた。
「……あの女……虫まで脅迫して手中に収めるとか、どんだけ本気なのよ……っ!」
机の上のムカデを睨みつけながら、コトモは屈辱と激痛のような嫉妬に歯噛みするのだった。
「……ハルにビビって私に嘘教えるなんて、どういう覚悟があってのことなのかしら?」
コトモは冷ややかな笑顔を浮かべながら、ボキボキと指の関節を鳴らした。
机の上のムカデは死を察知したように体を小さく丸め、必死に脚を震わせて平伏し、許しを乞うように頭を低く落とした。
その痛々しいほどの怯えように、コトモは「はぁ」と小さくため息をつく。
「……まぁ、いいや」
あっさりと腕を下ろしたコトモに、ムカデは安堵したように体を弛ませた。
ここで身内の虫を押し潰したところで、奪われたネコが戻ってくるわけではない。
そもそもハルのことだ。
最初からムカデを潰すつもりは毛頭なかっただろう。
「ハルがその気なら、こっちだっていくらでも手はあるから」
コトモの瞳に妖しく、けれど確固たる意欲の火が灯る。
「明日は……絶対に逃がさないよ」
コトモはふっと不敵な笑みを浮かべると、次なる作戦の決行に向け、速やかに動き出した。
○○○○○○○
休み時間、校内の廊下でハルとネコは仲睦まじく言葉を交わしていた。ハルの柔らかい微笑みに、ネコも嬉しそうに顔をほころばせている。
そこへ、何事もなかったかのような足取りでコトモが近づいてきた。
「ネコ〜! なに話してんの?」
「あっ、コトモ先輩!」
コトモはごく自然な動作で二人の間に割り込むと、フレンドリーにネコへ戯れついた。
ハルは一瞬目を見開いて驚いたものの、すぐに冷ややかな視線をコトモへと向けた。
ハルからすれば、『よくもまあ抜け抜けと来られたね』と言わんばかりの圧であった。
だが、コトモは怯むどころか、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべ、ネコの肩にグッと腕を回して引き寄せる。
そのコトモの瞳は、はっきりと物語っていた。
(ネコの前で、私のことボコれるもんならやってみなよ?)
ネコという無垢な観客がいる前で、ハルが乱暴な手段や脅迫めいた態度をとれるはずがない。
ネコを盾にした完璧な逆手返し。ハルは口元をひくつかせる。
「ねえネコ、ハル。この後さ、3人で一緒に遊ばない?」
コトモが楽しそうに提案すると、ネコはパッと表情を輝かせた。
「えっ! 3人でですか!? はい、行きたいです!」
純粋に喜ぶネコを前に、ハルが「ダメ」と言えるはずもなかった。ネコの笑顔を壊すわけにはいかないハルは、「……そうだね、行こうか」と引きつった笑顔で頷くしかない。
完全に後手に回らされたハルが殺気立った視線で睨みつけると、コトモは勝利を確信した顔で「にっ」と八重歯を覗かせて笑うのだった。
放課後、コトモの先導のもと、三人は見覚えのない道を歩いていた。普段ハルがネコと歩く通学路とは全く異なる、潮の香りが微かに混じる見知らぬ路地だ。
「いやぁ、ハルも来てくれて本当に嬉しいなー!」
コトモは隣を歩くハルへ向き直り、わざとらしいほど朗らかな声を張り上げた。
(……どの口が言ってるの…)
ハルは内心で煮えくり返るような苛立ちを覚えていたが、すぐ隣で無邪気に歩くネコの視線がある手前、露骨に険悪な態度を取るわけにはいかない。
「うん……私も、コトモとネコちゃんと一緒にいられて嬉しいよ」
ハルはピキピキと額に青筋を立てそうになるのを必死に抑え込み、営業用の完璧な笑みを貼り付けて返した。
コトモはその引きつった笑顔を横目で捉え、満足そうに鼻を鳴らす。
「で、コトモ先輩、どこに向かってるんですか?」
ワクワクした様子で尋ねるネコに、コトモは「ふふん、もうすぐ着くよ」と人差し指を口元に当てて見せた。
路地を抜け、視界が急激に開ける。
目の前に広がっていたのは、夕日に赤く染まる小さな港だった。
波に揺れる木造の桟橋と、そこに一隻、繋留されている小型の船。
「じゃーん! 到着!」
コトモが両手を広げて指し示したのは、まさにその船だった。
ハルが驚きで目を見開く横で、コトモは誇らしげに胸を張る。
「知り合いの漁師さんに頼んで、特別に許可もらったんだよね。これからこの船に乗って、海の上で釣りしようよ!」
「えっ、海の上で釣りですか!? 私、釣りなんてやったことないです……!」
ネコが目を丸くして声を上げると、即座にハルとコトモの声が重なった。
「教えてあげる!」
「教えるよ!」
完全にハモった二人はハッと顔を見合わせ、同時にお互いへ向けてムッとした視線を走らせる。
「……ハルさんは片腕しかないんだからさ。両腕がちゃんとあって、ネコにわかりやすく竿の持ち方から教えてあげられる私がやるよ」
「海の上で船が揺れた時、転ばないようにネコちゃんをしっかり支えながら教えてあげられるのは私だから。……コトモさんは、どうぞご自由に自分の釣りを楽しまれてくださいね?」
「……は? 支えるくらい私だってできるし」
「へえ、ネコちゃんの安全より釣りに夢中になりそうな顔をしてますけど?」
バチバチと火花を散らす二人を前に、船の横で待っていた漁師のおじさんは後ずさりしながら引きつった顔で困惑していた。
ハルはコトモの企みをすべて看破していた。
(……私を誘った理由は目に見えているよ。船の上で私が激しく船酔いして、ネコちゃんの前で惨めにつぶれる姿を見せつけたいんだろうね。)
だが、ハルに抜かりはなかった。ハルはあらかじめ制服の胸ポケットから酔い止めの薬を取り出すと、
コトモに見せつけるように喉の奥へ流し込み、水で一気に飲み干した。
コトモの浅はかな思惑を完膚なきまでに打ち砕いてから、堂々と船へ足を乗り出す。
エンジン音が響き、小型船は波をかき分けて港を離れていく。
「うわあ……! すごい、海から学校や街が見える……!」
潮風に髪をなびかせ、ネコは船べりに張り付くようにして目を輝かせていた。コトモはネコの隣にすっと寄り添い、胸を張る。
「ふふ、すごいでしょ? 岸からの浅瀬で釣れるような小さい魚と違って、ここならもっと大きくて立派なのが釣れるんだから!」
「本当ですか!? 楽しみです!」
ハルも船酔いの気配すらない爽やかな笑顔でネコの反対側に並び、一緒に海を見つめた。
操縦席から顔を出した漁師のおじさんに、コトモが「おじさん、船出してくれてありがとー!」と手を振る。おじさんは豪快に笑いながら波間に声を張った。
「いいってことよ! いつもコトモちゃんには世話になってるからな、これくらいお安い御用だ!」
「世話……?」
ネコが不思議そうに首を傾げると、コトモは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ああ、うん。たまにここで漁のお手伝い……っていうか、バイトさせてもらってるんだよね」
「えっ、バイト!? コトモが……!?」
これにはハルも思わず素の声を上げて驚愕した。
「高校生なんだから、バイトくらい普通にするでしょ」
コトモは照れ隠しのようにフンと鼻を鳴らした。ハルは「……へえ、意外」と呆然と呟くのが精一杯だったが、ネコは尊敬の眼差しで目を輝かせた。
「コトモ先輩、海に関わることしてるんですね…! かっこいいです!」
「ふふん、まあね!」
ネコに褒められて鼻高々なコトモを横目に、ハルは一人で密かに衝撃を受けていた。
(………メイドのバイトやめて漁業でもやろうかな)
ハルが勝手に一人で敗北感を覚えて歯噛みしていると、ポンポンと軽快なエンジン音が鳴りやみ、船がゆっくりと停止した。
「よし、釣り場に到着だぞー!」
漁師のおじさんの声と同時に、二人の空気が一瞬で切り替わる。
ハルも余計な雑念を振り払い、キッとコトモを睨みつけた。
「さあネコちゃん、まずは竿の持ち方から教えるね」
「待ちなさいハル、まずはエサの付け方からでしょ! ネコ、こっちおいで!」
ポイントに到着するやいなや、ハルとコトモは左右からネコに迫り、我先にと釣りの手ほどきを始める。
二人の必死な指導の甲斐あって、ネコはすぐにコツを掴み、一人で滑らかに糸を垂らせるようになった。
「すごいよネコちゃん! 筋がいいね!」
「本当、筋がいいわネコ。もう一人でバッチリじゃん」
二人に同時に絶賛され、ネコは「二人のおかげです!」と嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
そんな和やかなネコの横で、ハルとコトモの脳内では激しい愚痴の応酬が繰り広げられていた。
(……ちょっと待って。ハルって釣りまでこなせるわけ!? こんな男っぽい趣味、ハルが知るはずないと思ってここを選んだのに……! なんなのよこの完璧超人は……隙がなさすぎてムカつく!!)
コトモは平静を装いながら、内心で歯噛みする。
一方のハルも、爽やかな笑顔の裏で冷や汗を拭っていた。
(……あーっ、危なかった……! 学校を出る前に、コトモがスマホで船の予約確認をしてるのを偶然見かけてなかったら、本当に終わってた……! 急いで本屋に駆け込んで釣りの基礎参考書を丸暗記したから対応できたけど……もし見てなかったら、今頃ネコちゃんの前で恥をかいてたよ…っ!)
ハルは釣竿を握る手にぐっと力を込め、隣で何食わぬ顔をしているコトモを横目で冷ややかに睨みつける。
その時だった。
コトモの持つ釣竿の先端が、グググッと激しく海面に向かって引き込まれた。
「っ……!! き、きたんじゃないこれ!? ネコ、見てて! すごい大物かかったかも!!」
コトモの顔が一瞬で輝き、嬉々としてリールに手をかける。
ネコも「うわあ! すごいですコトモ先輩!」と目を丸くして身を乗り出した。
(よっし!!ハルに知識で張り合われようが、先に大物を釣り上げちゃえば私の勝ち——)
勝ち誇るコトモの横顔を、ハルは冷ややかな眼差しで見つめていた。
これ以上、コトモに良いところを見せつけられ、ネコの前で調子に乗られるのは耐えがたい。
ハルは聞こえるか聞こえないかほどの静かな、しかし氷のように冷たい声でボソリと呟いた。
「……このまま釣れるのは、もういやだ」
——バチンッ!!!
鋭い断線音が夕空の港に響き渡る。
手応えを失ったコトモの釣竿が虚しく空を切り、仕掛けを失った糸が力なく海風に舞った。
「あーーーーーーっっ!? 」
コトモは悲鳴とも絶叫ともつかない声を上げ、頭を抱えて船の上で絶望した。
「えっ、ええっ!? 大丈夫ですかコトモ先輩!?」
「なんで!? なんで糸切れたの!?」
慌てるコトモを横目に、ハルは勝利の笑みを浮かべた。
そんなハルの顔を、コトモは「まさかお前……!?」と言わんばかりの猛烈なギロ顔で睨みつける。
しかし、コトモの強い視線を感じ取った瞬間、ハルは瞬時に表情をリセット。
何事もなかったかのようにしれっと明後日の方向へ視線を逸らし、フイッとそっぽを向いて見せたのだった。
するとハルの方の竿が大きくしなり、ハルは落ち着いた手つきでリールを巻いていった。
水面を割って姿を現したのは、このあたりでもめったに見られないほど立派な大物だった。
「おおーっ! こりゃ大したもんだ! 素人がこのサイズを引き揚げるたぁ、なかなかできることじゃねえぞ!」
操縦席から見ていた漁師のおじさんが、思わず声を張り上げて感心する。
「ハル先輩、すごいです……! こんな大きな魚、初めて見ました!」
目を輝かせるネコに、ハルは誇らしげに微笑んで見せる。
「ふふ、ありがとうネコちゃん。このお魚、後で私が綺麗に捌いてネコちゃんにご馳走してあげるね」
(……は!? 魚まで捌けんの……!? 嘘でしょ、なんなのこの人……)
料理の手際まで完璧であることを示唆され、コトモは隣で顔を引きつらせ、絶句していた。
――だが、その直後のことだった。
ハルの身体に、唐突な異変が襲いかかる。
「あ……」
一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ。
激しい眩暈とともに、みぞおちのあたりから経験したことのないような不快な吐き気が込み上げてくる。
ハルはネコに勘づかれないよう、静かに「ちょっと風に当たってくるね」と声をかけると、ふらつく足取りで船の船尾へと向かった。
手すりにしがみつくものの、足元が定まらず、身体がぐらぐらと揺れる。
立っていることすら困難なほどの猛烈な不快感に、ハルの額から嫌な汗が吹き出した。
(な、なにこれ……嘘でしょ……まさか、これって……船酔い……!?)
視界が白く霞んでいく中、ハルは必死に混乱する頭を回転させた。
(なんで……!? 乗る前にちゃんと飲んだのに……! それも、一番効き目が強いやつを飲んだはず…っ!)
完璧に計算していたはずの計画が足元から崩れ去り、ハルは猛烈な焦燥感と吐き気に苛まれていた。
ふらつく足取りで手すりにしがみつき、激しい吐き気と戦うハルの背後から、足音が近づいてきた。
「ハルってさ……船酔いするかどうか分かんなかったけど」
クスクスと愉悦を孕んだ声が耳に届く。
ハルが青ざめた顔で振り返ると、そこには心底楽しそうなコトモが立っていた。
「いざ船酔いしてるところ見るとさ……やっぱりハルって可愛いね?」
「っ……コトモ……あんた……っ」
ハルは必死に言い返そうとするが、喉元まで込み上げてくる猛烈な吐き気に襲われ、咄嗟に口元を強く手で押さえた。
まともに喋ることすらできないハルを見下ろし、コトモはわざとらしく首を傾げてみせる。
「あれ〜? おかしいね。ハル、さっき乗る前にちゃーんと薬飲んでたよね? なんで効かないのかなー?」
そう言いながら、コトモはポケットから小さな薬のシートを取り出し、ハルの目の前でひらひらと揺らしてみせた。
見覚えがありすぎるそのシート――さっきハルが制服の胸ポケットに入れていたはずの、強力な酔い止め薬だった。
「……え?」
ハルは目を見開いた。じゃあ、自分が飲んだのは一体――。
「まさか……酔い止めとラムネを間違えるわけないよねー?」
すべてを悟ったハルは、激しい頭痛と吐き気の中で悟る。
あの時、ムカデを使ってすり替えられていたのだ。
「安心して? ネコにはちゃーんと本当の酔い止め渡してあるから。ネコが潰れる心配はないよ」
コトモは手の中のシートをポケットにしまい込むと、憐れみと愉悦が混ざったような瞳でハルを見下ろした。
「じゃ、私はネコと釣りの続き楽しんでくるからさ。ハルはそこで大人しく横になってなよ」
くすくす笑いながら、コトモは軽やかな足取りでネコの待つデッキへと戻っていく。
「待っ……て……っ!」
ハルは手を伸ばして引き止めようとしたが、身体を動かした反動で胃が激しく突き上げられ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
喉を鳴らし、口元を必死に押さえるのが限界だった。
(完全に嵌められた……! ムカデを使ってポケットの中身をすり替えるなんて……っ!)
完璧に裏をかかれ、ネコの前で無力化された悔しさと焦燥感で胸が押し潰されそうになる。
しかし、立ち上がるどころか首を動かすことすらままならない。
そこへ、異変に気づいた漁師のおじさんが駆け寄ってきた。
「おいおい大丈夫か!? あらら、完全に船酔い回っちまったな……。無理すんじゃねえ、奥のベッドで休んでなさい!」
「あ……いや……私、ネコちゃんのところへ……」
「ダメだダメだ! こんな顔色で出たら余計心配かけるぞ!」
おじさんに肩を抱えられ、半ば強制的に船内の簡易ベッドへと連れて行かれてしまう。
「ネコ、大丈夫? ハルはちょっと気分悪くなっちゃったみたいだけど、私たちは……」
コトモが楽しげに話しかけながら戻ると、そこには手すりにしがみつき、青ざめた顔で口元を押さえるネコの姿があった。
「えっ、ネコ……!?」
コトモは慌てて駆け寄り、優しく背中をさすった。
だが、手に伝わってくる震えと浅い呼吸からして、どう見てもネコは完全に船酔いしている。
(なんで……!? 嘘でしょ、ちゃんと酔い止め渡したのに……!)
コトモは動揺を隠せないまま、必死に声をかけた。
「ネコ、私があげた薬飲まなかったの?」
「あ……ごめんなさい、コトモ先輩……。飲もうと思ったんですけど……船に乗る前に、ハル先輩が強いやつを半分分けてくれて……だから、先輩の薬は飲まなかったんです……」
ネコは苦しそうに息を吐きながら、途切れ途切れに答えた。
(ハルって薬シェアしてたの!?)
駆けつけた漁師のおじさんは、「あらら、ネコちゃんまで酔っちまったか! ほら、奥で休みな!」と、手際よくネコを船内の簡易ベッドへと連れて行った。
通されたのは、ハルが倒れている「同じ」船室だった。
狭い簡易ベッドの上、ネコがハルの隣に横たわる。
先ほどまで死にそうな顔をしていたはずのハルは、ネコが隣に来るなり、そっとその小さな手を優しく包み込むように握りしめた。
「ネコちゃん……大丈夫? 」
「お腹が気持ち悪い…です…」
寄り添う二人。ハルはゆっくりと首を巡らせ、船室の入り口で呆然と立ち尽くすコトモへと視線を向けた。
そして――弱々しい態度を一変させ、勝ち誇ったような笑みを浮かべると、コトモに向けて「ニコッ」と最高に挑発的な笑顔をみせたのだった。
「あらら、お友達ふたり揃って船酔いしちゃったか! 景気よく釣りどころじゃなくなっちゃったなー!」
操縦席の窓から呑気に笑いかけてくる漁師のおじさんの声が、虚しく船室に響き渡る。
二人が仲良く手をつないでベッドに横たわり、ハルが自分に向けてドヤ顔の勝利スマイルを浮かべている光景を前に、コトモの顔から完全に感情が消え失せた。
「……はぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
コトモは天を仰ぎ、この日一番の深くて重い、怨念の籠もったため息を吐き出した。
「おじさん、もう帰る」
「え? せっかくポイント着いたばっかりだぞ? コトモちゃん釣らねえの?」
きとんと首を傾げる漁師に向かって、コトモはプツンと何かが切れた音とともに、血管が切れそうなほどの大声を張り上げた。
「回れ右!!!! 早く港に戻して今すぐに!!!!」
「うおっ!? わ、分かった分かった!! 急いで戻すから怒るな!!」
コトモのあまりの気迫と怒号に恐怖した漁師は、慌てて操舵輪を限界まで切り、船を旋回させた。