???「ありがとう…ハル」
その2日後——
休み明けの朝、ネコは重い足取りで教室に入った。
まだ体中に痛みが残っている。
顔の腫れは少し引いたけれど、腕の絆創膏と、首元に残る薄いあざは隠しきれなかった。
赤いリボンだけは、いつものように母に結ばれて登校している。
自分の席に座ると、すぐに教室の空気が変わった。
女子の数人が、ちらちらとこちらを見ている。
小声で何か囁き合い、すぐに目を逸らす。
でもその視線は明らかにネコに向けられていた。
(……知られてる)
ネコは机に突っ伏して、頭を腕の上に乗せた。
聞こえないふりを決め込む。
すると、すぐに聞き慣れた足音が近づいてきた。
「ノラー!!」
ハナコが勢いよく机に両手をついた。
目がキラキラしていて、明らかに興奮している。
「ねえねえ! マジで!?ハル先輩の家に泊まったって本当!?」
ネコは顔を上げず、ぼそっと答えた。
「……さぁね」
「えー! 教えてよぉ!どんな感じだったの?先輩の部屋とか!ベッドとか!」
ハナコはさらに身を乗り出してくる。
ネコはため息をつきながら、まだ机に顔を半分くっつけたまま、
小さく言った。
「ただ泊めてもらっただけだよ……もう、疲れてたから」
「うそーん! それだけじゃないでしょ!」
ハナコの声が一段と大きくなった。
「もうさ、クラス中で話になってるんだから!
『ノラがハル先輩と一緒に寝た』とか、『もうやることやった』とか、
もう色々話でてるよ!?」
ネコはぴくりと顔を上げた。
「……は?」
一瞬で血の気が引く。
「やることやったって……何!?飛躍しすぎでしょ! ただ泊めてもらっただけだってば!」
ハナコは目を輝かせてさらに突っ込んでくる。
「えー!一緒に寝たのは本当なんだ!やっぱり! 先輩に抱きしめられたりしたんでしょ!?どうだった!? 柔らかかった!?いい匂いした!?」
ネコは真っ赤になって机に顔を埋め直した。
「もう……やめてよハナコ……本当に何もなかったから……」
周りの女子たちが、ますますざわつき始める。
「やっぱり」「一緒に寝たってマジ?」「ハル先輩がそんな……」という声があちこちから聞こえてくる。
ネコは机の上に額を強く押しつけて、
小さく呟いた。
「……先輩、ごめん……学校、来なきゃよかったかも……」
ハナコはまだ興奮冷めやらぬ様子で、ネコの背中をぽんぽん叩きながら笑っている。
「でもさ、ノラー。ハル先輩に気に入られてるって、ちょっと羨ましいかも……」
「そんなんじゃないって…はぁ…」
私は正直、どれだけ噂がたとうがはっきり言って一般人だ。
一般人が強い話題を持っててもすぐに時間と共に興味はなくなっていき、鎮火する。
でもハルさんはこんな話題でと後で尾を引く。
芸能人の人が不祥事を起こしたら後の活動に傷がつくように学校の顔になりつつあるハルさんはこの先の学校生活に影響が出るかもと考えると憂鬱になる。
私がが机に突っ伏していると、教室の後ろの扉が静かに開いた。
「失礼します」
澄んだ、聞き慣れた声。
瞬間、教室が凍りついた。
ハル先輩だった。
二年生のハル先輩が、一年生の教室に立っている。
左腕のない制服姿が、朝の陽光に映えてあまりにも綺麗だった。
「きゃあああっ!」「ハル先輩!?」「マジで!?」
女子たちの歓声が一気に爆発した。
男子もざわつき、誰もが目を丸くして入り口を見つめる。
ハルは軽く手を挙げて、にこりと微笑んだ。
「みんな、おはよう。ちょっとだけ邪魔していい?」
その笑顔に、教室中の女子がさらに黄色い声を上げた。
ハルは視線をゆっくりと教室の中へ滑らせ、
すぐにネコの姿を見つけた。
「……あ」
柔らかい表情のまま、ハルはまっすぐにネコの席へ近づいてきた。
ネコは机に顔を埋めたまま固まっている。
ハルはネコの隣に立ち、
優しく髪をかき上げて、顔色を確かめるように覗き込んだ。
「ネコちゃん、顔色はどう?…まだ寝ぼけてるのかな?」
そして、にっこり笑って言った。
「でも、今日も可愛いよ」
そのまま、頭を優しく撫でる。
教室が、一瞬で静まり返った。
ネコは真っ赤になって、ハルの手を慌てて押さえた。
「せ、先輩……!みんなの前で、本名言わないでって言ったじゃないですか……!」
抗議の声が震えている。
ハルはくすくすと笑って、
まるで聞こえなかったかのように受け流した。
「ふふっ。だって可愛いんだもん」
そのやり取りを、すぐ後ろのハナコが目を輝かせて見つめている。
「ハル先輩! サインください! お願いします!」
ハナコがノートとペンを勢いよく差し出した。
ネコは慌てて止める。
「ハナコ! 迷惑かけないでよ……!」
するとハルは柔らかく微笑んで、
「いいよ。ネコちゃんの友達だよね?」
そう言って、快くノートを受け取った。
流れるような字で、綺麗にサインを入れる。
ハナコはサインをもらった瞬間、顔を真っ赤にして飛び跳ねた。
「やばい……やばい……!宝物にする!!」
そのまま上機嫌で教室から飛び出していった。
ハルはペンを返しながら、
ネコの方へ視線を戻した。
「ネコちゃん、ちょっと借りてもいい?」
「え……?」
ネコが戸惑う間もなく、ハルはネコの手を優しく握った。
「少しだけ、話したいことがあるの」
ハルはそう言うと、ネコを立ち上がらせ、そのまま教室の外へと連れ出していった。
ネコはハルの手に引かれながら、
小さく呟いた。
「……先輩、みんなの前で……」
ハルは振り返らず、ただ優しく指を絡めてきた
そしてハルに手を引かれて教室を出たネコは、廊下を少し歩いたところでようやく口を開いた。
「……先輩、急に連れ出してどうしたんですか?」
ハルは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ネコちゃんの様子を見に来ただけだよ。
それに……ハナコちゃん、賑やかな友達だね」
ネコは少し顔をしかめて、ため息をついた。
「あんなの、ただうるさいだけです。迷惑でしかありません」
するとハルはくすくすと笑いながら、
からかうような目でネコを見た。
「でも、楽しそうだったじゃない。きっとハナコちゃん、ネコちゃんのこと大好きなんだよ」
「……楽しそうって、先輩までからかわないでください」
ネコが頰を膨らませると、ハルはますます楽しげに目を細めた。
二人はそのまま校舎の裏手にある自販機の前まで来た。
そしてハルは足を止め、ネコの顔を優しく見つめた。
「友達は大事にした方がいいよ。うるさくても、ちゃんと自分の味方でいてくれる子はなかなか見つからないから」
そう言って、ハルは自販機の前に立った。
「何か飲む?」
ネコは慌てて首を横に振った。
「いえ……いいです。遠慮します」
ハルは少し困ったような、でもとても優しい顔をした。
その表情を見た瞬間、ネコの口から思わず本音が漏れた。
「……コーラ、ください」
するとハルは財布から小銭を取り出し、コーラのボタンを押した。
カコン、という音とともに冷えた缶が落ちてくる。
「はい、どうぞ」
ネコは両手で缶を受け取り、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ハルは自分の分も買うと、
オレンジジュースのペットボトルを手に取った。
二人は自販機の横のベンチに並んで座った。
ハルは少し間を置いてから、静かに言った。
「昨日は……色々とありがとね。…あとごめんね。友達がからかったりして」
ネコはコーラの缶を両手でぎゅっと握り、
少し照れくさそうに答えた。
「いえいえ!先輩がいなかったら、私……どうなってたかわかりません」
ハルは穏やかな声で続けた。
「また何かあったら、すぐに言ってね。私はいつでも、ネコちゃんの味方だから」
ネコは缶を見つめたまま、小さく頷いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
その後はあまり話が続かず、ベンチに並んで座った2人はは、しばらく無言だった。
ネコはコーラの缶を両手で握り、ハルはオレンジジュースのペットボトルを右手だけで軽く持っている。
まだ蓋は閉まったまま。ハルは飲んでいない。
ネコはつい、ハルの手元をジロジロと見てしまった。
(……どうやって開けるんだろう?)
視線に気づいたハルが、くすっと小さく笑った。
「どうやって開けるかって、思ってる?」
ネコは慌てて目を逸らした。
「そ、そんなの気にしません!」
と言おうとした瞬間——
「そんなの気にしません! ……って、言おうとしたでしょ?」
ハルが、ネコの言葉をぴったりと先回りして言った。
ネコは言葉を失い、口をぱくぱくさせた。
ハルはさらに微笑みながら、ネコが次に言いそうな言葉まで、優しく先取りした。
「なんで私の質問がわかったんですか……って、聞こうとしてる?」
ネコは完全に固まった。
「…………」
頭の中が真っ白になる。
何を言おうとしても、ハルに先を越されてしまう。
頰が熱くなり、耳まで真っ赤になった。
ハルは楽しそうに目を細め、
「特別に見せてあげるね」
そう言って、ペットボトルを目の高さに持ち上げた。
そして、わざとらしく大げさな声で言った。
「はぁ……ペットボトルが開けられなくてジュースが飲めないなんて……
もう、いやだ!」
カチッ。
次の瞬間、蓋の部分がまるで最初から切れていたかのように、するりと外れた。
ハルは蓋を軽く振って、
誰かに話しかけるような自然な口調で言った。
「ありがとう」
それからようやく、ペットボトルを口に運んで一口飲んだ。
ネコは完全に唖然としていた。
目が点になり、口が半開きのまま、
状況が全く読み込めない。
(……え? 今、何が起こったの?)
(蓋が勝手に……?)
ハルはネコの呆然とした顔を見て、
くすくすと笑いながら言った。
「どうしたの? そんなに驚いた顔して」
ネコはようやく掠れた声を出した。
「……せ、先輩……?」
ハルはオレンジジュースを一口飲んでから、
くすくすと笑いながらネコを見た。
「驚いた?これはね、コトワリ様のおかげなんだよ」
「……コトワリ様?」
「うん。縁を切る神様。ある一件からご贔屓してもらってて、私のことを助けてくれるの。悪用は厳禁だけど……このくらいのことは、目を瞑ってくれるって」
ハルはそう言って、軽く肩をすくめた。
ネコはまだ信じられない顔をしていたが、
次第に興味が湧いてきた。
「……すごい」
小さく呟くと、ネコは自分の財布を取り出した。
自販機に向かい、百円玉を入れてコーラの缶を買い、それを持って、ハルの元に戻ってきた。
「先輩……これ」
ネコは少し照れくさそうに、缶ジュースをハルに差し出した。
ハルは一瞬目を丸くして、それから優しく微笑んだ。
ネコの気持ちをちゃんと汲み取ったようだった。
「ありがとう。じゃあ……せっかくだから」
ハルは軽く咳払いをして、
再びわざとらしく大げさな声を出した。
「はぁ……缶ジュースが開けられなくて飲めないなんて……もう、いやだ!」
カチッ。
次の瞬間、缶のプルタブが勝手に持ち上がり、プシュッという音とともに炭酸が抜けた。
缶ジュースが、きれいに開いている。
ネコは目を大きく見開いて、思わず声を上げた。
「すごい……!」
ハルは満足そうに笑って、
開いた缶を軽く持ち上げた。
「どう?コトワリ様、今日は機嫌がいいみたいだね」
ネコはまだ缶を見つめたまま、
何度も瞬きを繰り返している。
「なんだが…とっても優しい神様なんですね!」
「いや、たまに怒られてハサミ飛んでくる時あるよ」
「こわっ!?なんですかそれ!」
ハルのとんでもない情報にネコは驚く。
「そうなんだよね…神社の掃除を放置したり、男の子と長時間遊んだりした時はかなりの確率で切り掛かってくるし…あと何の目的もなく『もういやだ』って言うと急に出てくるし…」
ちょっと待って…
「ハル先輩!その言葉!」
ネコの言葉にハルは「あっ、やっちゃった」と軽くリボンを揺らす。
ため息をつくハルの背後に、黒い影が音もなく浮かび上がった。
顔はなく、ただ暗い穴のような部分がある。
その右手には、巨大な赤い裁断ハサミが握られていた。
ーーコトワリ様。
ネコは驚いてただ立っていた。
声は出ず、ハルに向かって何かを指すように指を向けるだけだった。
影は一瞬で距離を詰め、ハルの首筋に向かってハサミを大きく開き、勢いよく振り下ろした。
その瞬間——
ハルは一切振り返らず、右手を素早く後ろに伸ばした。
カチンッ!!
鋭い金属音が響いた。
ハルの右手の指の間に、いつの間にか現れた小さな赤いハサミが、コトワリ様の巨大なハサミを真正面から受け止め、刃と刃が激しくぶつかり合っていた。
火花が一瞬散り、
二つの赤いハサミが、ギリギリと音を立てて押し合いを続ける。
ハルは静かに、でもはっきりと言った。
「……今日はもういいでしょ?」
コトワリ様のハサミが、わずかに震えた。
数秒の押し合いのあと、巨大な赤いハサミがゆっくりと引き上げられ、影は不満げに身を翻した。
そして、霧のようにふっと消えていった。
残されたのは、静かな廊下と、ハルの右手にある小さな赤いハサミだけ。
胸元にハサミをしまい、いつもの柔らかい笑顔でネコを振り返った。
「ごめんね、びっくりさせた?コトワリ様、時々調子に乗るんだよ」
ネコは息を呑んだまま、言葉が出てこない。