体育祭の練習が終わり、ネコは疲れた体を引きずってグラウンドから校門へ向かっていた。
夕陽が校舎を橙色に染め、長い影が地面に伸びている。
すると、後ろから聞き慣れた優しい声がかけられた。
「ネコちゃん」
ネコが振り返ると、ハルが少し息を弾ませて近づいてきた。
「練習、お疲れ様。一緒に帰ろうか?」
ネコは少し驚きながらも、素直に頷いた。
「……はい。お願いします」
二人は並んで校門を出て、いつもの帰り道を歩き始めた。
ネコはまだハルの圧倒的な強さを思い出して、小さくため息をついていた。
すると——
後ろから勢いよく誰かが飛びついてきた。
「わーい! ネコちゃん発見!」
「ひゃっ!?」
ネコはびっくりして体を硬くした。
抱きついてきたのはコトモだった。
コトモはネコの背中にぴったりとくっつき、
楽しそうに笑っている。
ネコは驚きながらも、コトモの顔をまじまじと見た。
「コトモさん!?同じ高校だったんですか!!」
コトモはにこにこしながら頷いた。
「うん! 二年だよ。今まで気づかなかった?」
ネコの視線は、自然とコトモの左目に移った。
暗い路地で会ったときはよく見えなかったが、
今ははっきり見える——左目に黒い眼帯を付けている。
コトモはネコの視線に気づき、
にっこり笑顔で返した。
「ふふっ、どう? 似合ってる?」
ネコが何か言いかけるより早く、ハルが素早く動いた。
「コトモ、離れて」
ハルはコトモの腕を軽く掴んでネコから引き離し、そのままネコを抱き寄せるように守る形で抱きしめる。
ネコはハルの胸に顔を埋め、ドキドキしながら聞いた。
「……あの時のセーラー服って……」
コトモは笑いながら答えた。
「あれはお姉ちゃんのだよ。たまーにドッキリで使わせてもらってたんだよね」
ハルはため息をつきながら、コトモを軽く睨んだ。
「コトモは暇な人だから、気にしないで」
コトモは「えー!」と不満そうにしながらも、
楽しげに二人の横を歩き始めた。
ネコはハルに抱きしめられたまま、
少し照れくさそうに小さく呟いた。
「……めっちゃいい匂い」
「どうしたの?」
「なんでもないです!!」
ハルがネコを抱きしめたまま歩いていると、コトモがにやにやしながら横から口を挟んだ。
「ハル〜、大切なクラスメイトにそんなこと言って良いのかな?」
コトモが笑ってハルのほっぺに指を当てる。
ネコは目を丸くして驚いた。
「……え?」
ハルは少し渋々といった様子で、ため息をつきながら答えた。
「……同じクラスだよ」
コトモは満足そうに笑いながら、さらに明るく付け加えた。
「親友だよ♪」
ネコは二人の顔を交互に見て、完全に驚いた表情のまま固まっていた。
「……同じクラス……親友……?」
ハルは少し照れくさそうに視線を逸らし、コトモは楽しそうにネコの反応を眺めている。
ネコはまだ信じられない様子で小さく呟いた。
「……全然知らなかった……」
コトモはケラケラ笑いながら、ハルの肩を軽く叩いた。
「ほらほら、ハルも素直じゃないんだから」
ハルはコトモを軽く睨み返したが、
その目にはどこか諦めと親しみが混じっていた。
夕陽が三人の影を長く伸ばす帰り道で、
ネコはようやく二人の関係を少し理解したような気がした。
ハル、コトモ、ネコの三人は、夕焼けの道を並んで歩き続ける。
ハルは少し前から何か言いたげな様子だったが、
やがて静かに口を開いた。
「ネコちゃん、言おうと思っていたんだけど……」
ハルはネコの顔を優しく見つめながら続けた。
「怪我が増えてるみたいだけど……どうしたの?」
ネコは一瞬、体を強張らせた。
顔や身体のあざなどは絆創膏や長袖で隠しているつもりだったが、
ハルの目にはしっかり映っていたらしい。
ネコはしばらく黙って考え込み、やがて小さな声で答えた。
「……階段で転んだんです」
ハルは少し目を細め、ネコの顔をじっと見た。
その表情には、明らかに「本当か?」という疑問と心配が浮かんでいた。
ネコは慌てて作り笑いを作り、明るく振る舞おうとした。
「本当に大丈夫です! ただのドジですから……」
ハルはまだ何か言いたげだったが、それ以上は追及せず、静かに頷いた。
やがて三人は分かれ道に着き、ネコは二人に向かって頭を下げた。
「今日はありがとうございました。私はここで……」
コトモは「またね〜」と手を振り、ハルは優しく微笑んで見送った。
ネコは二人と別れ、一人で家路についた。
家に着くと、玄関の明かりが薄暗く灯っていた。
ネコはそっとドアを開け、中に入った。
「ただいま……」
返事はない。
リビングを覗くと、妹のユリナは部屋の隅に隠れるように縮こまっていた。
顔を膝に埋め、震えている。
ネコは声を潜めて母に声をかけた。
「……お母さん?」
母は台所にいた。
振り向いた瞬間、母の目が怒りに燃えていた。
バチン!
突然、母の平手がネコの頰を強く打つと、ネコはよろめき、壁に背中をぶつけた。
母は涙と怒りにまみれた声で叫んだ。
「あなたが帰ってこなかったから……!お父さんに何度も何度も殴られたのよ!私が代わりに……私が……!」
母は泣き叫びながら、ネコの胸ぐらを掴んだ。
ネコはひたすら頭を下げ、謝り続ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
母はネコを突き飛ばし、声を震わせて言った。
「次は……全部あなたが殴られなさい!私がもう、限界なの……!」
ネコは唇を噛み、
小さく、震える声で答えた。
「……はい」
頷くしかなかった。
母は疲れ果てた様子でその場に座り込み、
ネコは静かに自分の部屋へ向かう。
自分の部屋に入る前に、台所でうずくまる母の背中を見つめた。
母はまだ震えながら、床に座り込んでいる。
ネコは恐る恐る、しかしどうしても聞かずにはいられなくて、小さな声で尋ねた。
「……お母さん。なんでお父さんは、私たちを殴るの?」
母はピクリと肩を震わせ、
ゆっくりとネコの方を振り返り、その目は虚ろで、疲れきっていた。
「……知らない」
一点張りだった。
ネコは唇を噛み、勇気を出して続けた。
「もう……離婚してよ」
その言葉が出た瞬間、母の表情が一変した。
母の目が怒りに燃え上がり、突然立ち上がってネコに詰め寄った。
「離婚!? 離婚って簡単に言うんじゃないよ!!」
母は逆上し、ネコの胸を強く突き飛ばした。
ネコは壁に背中をぶつけ、息が詰まった。
母は涙と怒りにまみれた声で叫んだ。
「アンタが覚えてないでしょうけどね……!私がまともに歩けなくなるまで足を蹴られたの、覚えてないの!?全部あなたのせいなのに……!」
母は激しくネコの頰を平手で叩いた。
バチン! バチン!
連続で頰が鳴り、ネコの頭が左右に振られる。
ネコは痛みに顔を歪めながらも、抵抗せずにただ耐えていた。
母はネコの髪を掴み、強く引き寄せた。
「あなたが帰ってこないから……!
私が代わりに……私が……!」
ネコは髪を掴まれたまま、母の怒りと悲しみに満ちた目に怯えるだけであった。
言葉も出せず、ただ小さく震えるしかなかった。
母はネコの髪を乱暴に離し、疲れ果てた様子で再び床に座り込んだ。
ネコは頰を押さえ、静かに自分の部屋へ逃げるように移動した。
部屋のドアを閉めた瞬間、ネコの目から、静かに涙がこぼれ落ちた。
(・・・・・・)
ネコは何も考えない。
考えると辛いからだ。
今の環境が理不尽かつ最低だということは誰でもわかるが、そんな辛い状況を直視するととても辛くなる。
■○
一方、ハルとコトモは二人で近くの公園のベンチに座っていた。
街灯の柔らかい光が二人の顔を照らし、夜風が静かに木の葉を揺らしている。
コトモは足を組んで、からかうような笑みを浮かべた。
「ノラちゃん、かわいい後輩だね〜」
ハルは即座に、静かだがはっきりとした声で答えた。
「私のだから、近づかないでね」
コトモは一瞬目を丸くした後、腹を抱えて笑い出した。
「あははっ! ストレートすぎ!ハル、相変わらず可愛いこと言うね」
ハルは軽くため息をつきながらも、コトモの笑い声に少し頰を緩めた。
コトモは笑いが収まると、ふっと真面目な顔になり、空を見上げながら言った。
「でも……安心したよ」
ハルは首を軽く傾げた。
「安心した?」
コトモは視線をハルに戻し、静かに続けた。
「昔のハルは、いつも何かに囚われてるみたいで……ずっと心配だったんだ。でも最近は、あの子と関わってから、作り笑顔じゃなくて、心の底から笑ってる顔を久しぶりに見れて、本当に嬉しいよ」
ハルは一瞬、目を細めて照れたような表情を見せた。
「……そう?」
声が少し小さくなる。
「ハルが引っ越した後の話は正直わからない。でもハルを知ってる人はユイがいなくなってから変わったって言ってる。泣かなくなったし、弱いところも見せないで、苦手な運動もやり始めて」
コトモの言葉にハルは口を挟まず静かに聞く
「ハルは成長したよ。思い出の場所から離れても弱音を吐かずにずっと頑張ってる。でも、皆んな心配してたんだ。確信はないけどハルがどこか遠くにいってしまいそうで不安だって」
「私はどこにも行かないよ。心配しないでコトモ」
「分かってるよ。でも、本当に良かったと思ってる。ハルが毎日楽しそうで」
コトモとは小学生の頃から知り合ってから今でも友達として付き合っている。
気心が知れた仲でもあって、遠慮しない関係でもあったのだが、コトモは自分のことをより考えて心配してくれたのだと感じ、ハルは嬉しく思う。
ちょっとした沈黙の中、ハルは話題を逸らすようにネコの話をする。
「コトモ、ネコちゃんは棒倒しに出るのかな?」
コトモは足を組みながら、気軽に答えた。
「全員出場種目なんだから、出るに決まってるでしょ」
ハルは小さくため息をついた。
「……怪我してほしくないんだけど。それに、ネコちゃんが相手なら……戦える気がしない」
コトモはくすっと笑って、ハルの肩を軽く叩いた。
「そこはフェアプレイなんだから、全力を出さないと失礼だよ?ハルが手を抜いたら、逆にネコちゃんが傷つくよ」
ハルは少し黙り込み、
気乗りしない様子で視線を落とした。
「……わかってるんだけど」
それでも、少しずつ納得しようとするように、
ハルは小さく頷いた。
「私…ネコちゃんと新聞載りたいな」
「八百長したら塩ぶっかけるからね」
■○
翌朝、ネコはいつもより少し重い足取りで教室に入った。
顔の絆創膏が昨夜より増え、腕にも新しいものを貼っている。
教室に入るなり、数人のクラスメイトがすぐに話しかけてきた。
「ノラ、おはよ! ……って、また顔の絆創膏増えてる?」
「大丈夫?」
ネコは作り笑いを浮かべて、いつものように答えた。
「うん、階段で転んじゃって……本当に大丈夫だから、心配しないで」
クラスメイトたちは「またか……」と心配そうにしながらも、
それ以上は深く追及しなかった。
ネコは自分の席に座り、周りを見回した。
ハナコの席が空いている。
いつもなら一番に飛びついてくるはずのハナコの姿がない。
ネコが不思議に思っていると、近くの女子が教えてくれた。
「ハナコ、急にブラジル行くことになったみたい。1週間くらい休むって」
ネコは目を丸くした。
「……ブラジル?」
「うん。なんか急に決めたらしいよ。先生もびっくりしてた」
ネコは思わず声を上げた。
「は? ブラジルって……何で急に!?」
頭が真っ白になった。
「あと行く前にブラジルの人聞こえてますかーって叫んで飛んで行ったよ」
「いらないよそんな情報」
そんなことよりもハナコは事前に遠出するとは自分に伝えてはくれていたが、まさかこんなに急にブラジルとは思っていなかった。
しかも——
クラス代表のハナコがいなくなった今、
実質的に副代表である自分がクラスリーダー代行のような立場になってしまった。
ネコは机に突っ伏して頭を抱えた。
「……私、リーダーとか絶対無理なのに……ハナコ、勝手にブラジルとか行かないでよ…てかなんでブラジル…」
周りのクラスメイトが心配そうに声をかけてくるが、
ネコの耳にはほとんど入っていなかった。
体育祭まであと少し。
ハナコの突然のブラジル行きと、突然の責任の重さに、ネコの朝は早くも暗い雲に覆われていた。
そしてその後の昼休み。
ネコはいつものようにおにぎりを一個だけ持って、屋上へ上がっていた。
フェンスにもたれ、空を見上げながら小さく一口ずつかじる。
風が少し冷たく、雲がゆっくりと流れていく。
そこへ、静かな足音が近づいてきた。
「ネコちゃん」
聞き慣れた優しい声。
ネコは振り返った。
「ハル……さん…」
ハルは穏やかな笑顔で立っていた。
「ここだと思ったよ」
そう言って、ハルはネコの隣に自然に腰を下ろした。
ネコはまだ驚いたまま、目をぱちくりさせている。
「…やっぱりおにぎり一個」
ハルはため息をついて鞄から丁寧に包まれた弁当を取り出し、ネコに差し出した。
「ネコちゃんのために、弁当作ってきたよ。食べてくれる?」
ネコは目を輝かせ、素直に喜びを顔に出した。
「わ……ありがとうございます!」
受け取った弁当の蓋を開けると、
彩りの良いおかずがぎっしり詰まっていた。
卵焼き、唐揚げ、野菜の煮物、ミニトマト……
ネコは嬉しそうに箸を手に取った。
ハルは横から優しく見守りながら、軽く叱るような口調で言った。
「もっとちゃんと食べなきゃダメだよ。おにぎり一個だけじゃ足りないでしょ」
ネコは頰を少し膨らませながらも、幸せそうに口に運び続けた。
ハルは微笑みながら続けた。
「体育祭のときは、もっとたくさん作ってあげるね。頑張ってね、ネコちゃん」
ネコはお腹が空いていたこともあり、
あっという間に弁当を平らげてしまった。
最後のひと口を飲み込み、満足そうに息を吐く。
「……美味しかったです。本当に、ありがとうございます」
ハルは優しくネコの頭を軽く撫で、ネコが弁当を平らげたのを見届けてから、静かに口を開いた。
「ネコちゃん……顔や腕の怪我、増えてるみたいだけど……どうしたの?」
ネコは箸を止めた瞬間、体を少し強張らせた。
一瞬だけ目を泳がせ、すぐに作り笑いのような笑顔を作った。
「……階段で転んだだけです。大丈夫ですよ」
ハルは優しい目でネコを見つめ、さらに聞こうと口を開きかけた。
「でも……」
そのとき、グラウンドの方からにゃあにゃあという声がいくつも聞こえてきた。
ハルは視線を下に向け、目を細めて微笑んだ。
「あ……猫」
グラウンドの片隅に、十匹近くの猫が集まっていた。
日向ぼっこをしたり、じゃれ合ったりしている。
ハルは嬉しそうに言った。
「可愛い……この街は本当にどこにでも猫が集まるよね。まるで猫の街みたい」
ネコは特に驚いた様子もなく、普通に頷いた。
ハルは不思議そうにネコの顔を覗き込んだ。
「……ネコちゃん、驚かないんだね」
ネコは少し照れくさそうに説明した。
「ここら辺は猫が集まるの、不思議じゃないんです。この町には昔、『お魚様』を祀っていたんですって。
漁が盛んになって、みんなが食べるのに困らないご利益があったそうで……その影響かどうかはわからないけど、人に慣れきった猫が増えて、
今ではどこにでも集まるようになったって、よく聞きます」
ハルは興味深そうに聞きながら、
小さく微笑んだ。
「へえ……そんな話があったんだ」
ネコは得意げに話し続ける。
ハルはネコの話を真正面を向きながら、聞き手としてお魚様の話題に耳を入れる。
「知ってますか?お魚様の像の前に、猫が集会を開いているんです。そしてお魚様のご加護を受けた猫を撫でると、撫でたその人は男運にも女運にも恵まれて恋人に困らないと言われているんですよ」
「詳しいねネコちゃん」
「まぁ結論からいえば、その人はめっちゃ可愛くなるんです!お魚様って食べ物だけのご利益じゃないんですよ!」
ハルはネコの横顔を優しく見つめ、ふっと柔らかい声で言った。
「そうなんだ。……でも、ネコちゃんの方が可愛いけど」
ネコはちょうど水を飲もうとしていたところだった。
「ぶっ……!」
口に含んでいた水を勢いよく吹き出してしまった。
ネコは慌てて口を押さえ、顔を真っ赤にしてハルを見た。
「せ、先輩……! 急に何言うんですか……!」
ハルはくすくすと笑いながら、
ネコの口元にハンカチを差し出した。
「ごめんね。でも本当のことだよ」
ネコはハンカチを受け取りながら、恥ずかしさで耳まで真っ赤になり、
小さく俯いてしまった。
屋上の風が、二人の間に優しく吹き抜けていく。
ネコが弁当を完全に平らげた後、ハルは優しく聞いた。
「そういえば、ハナコちゃん今日は見かけなかったけど……どうしたの?」
ネコは少し困った顔をして答えた。
「ハナコ、ブラジルに行きました。なんか急に1週間くらい休むらしいです」
「ブ…ブラジル?なんでそんな遠いところに…」
ハルは流石に少し困惑した表情になり、珍しく言葉に詰まり、少し間を置いてから小さく笑った。
「……それは…すごいね…」
ネコは苦笑しながら続けた。
「それで……実質的に私がクラス代表になっちゃいました。副代表だったのに……」
ハルはネコの肩にそっと手を置き、優しく慰めた。
「いきなり責任者か…それは災難だね」
ネコはため息をつき、膝の上で指を絡ませながら本音をこぼした。
「クラス代表って、思ったより責任が重くて……練習の段取り決めたり、みんなの連絡取りまとめたり、当日の進行も気にしなきゃいけなくて……
ハナコがいない今、私が実質リーダーみたいな感じになっちゃって……正直、すごく苦しいです。
失敗したらクラスのみんなに迷惑かけるし、プレッシャーで頭がいっぱいになって……」
ネコはそこで言葉を切り、弱々しく笑った。
「私みたいなのが代表やるなんて、絶対向いてないのに……」
ハルは静かにネコの話を聞き終えると、
優しい目でネコを見つめ、穏やかな声で言った。
「でも、ネコちゃんが頑張ってる姿、ちゃんと見てるよ。責任を感じるのは立派なことだと思う。無理しすぎないでね。何かあったら、いつでも相談して」
ネコはハルの言葉に少し胸が軽くなり、
小さく頷いた。
しかし、その直後、ハルの頭の中にふと邪な考えが浮かんだ。
(……私が負けたら、ネコちゃんと一緒に新聞に載れるかも……)
そう思うと、ハルは少し空を見上げる。
ネコはそんなハルの様子をを見て、にやにやと笑った。
「私と写真撮れると思ってますか?」
ハルは驚いて、言葉が詰まってしまう。
「っ……!」
ネコはますますニヤニヤしながら、ハルを見つめた。
ハルは照れくさそうに視線を逸らし、小さく咳払いをした。
「……バレてた?」
ネコはくすくすと笑い、
ハルの横顔をからかうように見つめ続けた。
前やられたことを仕返しとは言いたくはないが、ちょっと見返せた気がして少し上機嫌になるネコ。
だがネコは少し真剣な顔になった。
「……でも手を抜いてほしくないです」
ハルが少し驚いたようにネコを見ると、ネコははっきりと言った。
「八百長なんて、ハルさんらしくないですよ。本気のハルさんに勝って……体育祭で優勝します」
その言葉に、ハルは一瞬目を細め、それから優しく微笑んだ。
「ふふっ……すごいね、ネコちゃん」
ハルはネコの頭を軽く撫で、褒めるように言った。
「その気持ち、すごく素敵だよ。じゃあ、容赦しないからね」
ハルはそう言って、柔らかい笑顔で右手を差し出した。
ネコは少し緊張しながらも、その手に自分の手を重ねた。
二人は屋上のベンチで、静かに握手を交わした。
ネコの手は少し震えていたが、
ハルの手は温かく、確かだった。
ハルは握った手を軽く振りながら、楽しそうに言った。
「楽しみにしてるよ、ネコちゃん」
ネコは頰を赤らめながらも、
しっかりとハルの目を見て頷いた。
○◆
昼休みが終わり、チャイムが鳴った後。
ハルは自分のクラスに戻る途中で、ふと足を止め、突然声を上げた。
「あ……!」
クラスメイトがびっくりしてハルを見る中、ハルは自分の額を軽く叩いた。
「怪我のこと、聞くの忘れた……」
コトモが隣でくすくす笑いながら言った。
「大丈夫だって言ってるんでしょ?だったら良くない?」
ハルは少し眉を寄せて、コトモを振り返った。
「でも……心配だから、様子見に行こうと思うんだけど」
するとコトモは手を腰に当て、呆れたようにため息をついた。
「心配しすぎだって。大丈夫だよ」
ハルは少し不満げな顔をしたが、
コトモの言葉に肩を落として諦めた様子を見せた。
「……わかった」
コトモは満足そうに笑いながら、ハルの背中を軽く押した。
「ほら、授業始まるよ。ネコちゃんのことは後でゆっくり聞けばいいでしょ」
ハルはまだ少し気になりそうな顔をしながらも、自分の教室へと歩き始めた。
コトモはハルの後ろ姿を見送りながら、小さく呟いた。
「心配性だなぁ……」
午後の授業のチャイムが、静かに校舎に響いていた。
○◆
家に帰ったネコは、すぐに自室にこもった。
ドアを閉め、ベッドに座ると、ノートとペンを広げて体育祭の作戦を考え始めた。
ハルの全種目出場という事実は、想像以上に重かった。
リレー、棒倒し、玉入れ、綱引き、騎馬戦……
ハルが出る種目ごとに、ネコは自分のクラスの勝率をシミュレーションしてみた。
結果は悲惨だった。
調べれば調べるほど、自分のクラスが大差で敗れる未来しか見えなかった。
ネコはペンを握ったまま、頭を抱えた。
「……あんなカッコつけた自分が嫌になる……」
昼休みにハルに言った言葉が頭に蘇る。
「本気のハルさんに勝って、体育祭で優勝します」
あんな大見得を切っておいて、
3位以内にも入れなかったら……ハル先輩に顔向けできない。
ネコはベッドに突っ伏して、枕に顔を埋めた。
「うう……どうしよう……」
しばらく悶々としていたが、ふとハナコのことを思い出した。
(ハナコなら……何か策を考えてくれそうだけど……)
ハナコの不在を愚痴りながらも、ネコはもう一度ノートを見直した。
すると、ある競技に目が止まった。
棒倒し。
自分の学校の棒倒しは、他の学校とルールが少し違っていた。
• 棒を倒せば300ポイント
• 大将の鉢巻を取れば追加で500ポイント
他の競技の一位が100ポイント程度だと考えると、
棒倒しで勝利すれば一気に大量ポイントを稼げる。
ネコは目を細めて考え込んだ。
(……なるべく他の競技で2位や3位を取って、
棒倒しでハルさんのクラスに勝てば……逆転の可能性があるかも)
しかし、次の瞬間、ネコは大きく落ち込んだ。
相手チームには、ハルだけでなくコトモもいることを思い出した。
コトモのあのアクロバティックな動きを思い出して、
ネコは再び枕に顔を埋めた。
「……最悪……」
自室の小さなデスクライトの下で、
ネコの体育祭作戦ノートは、
まだ白紙のページが多く残っていた。
○◆
翌朝、ネコは登校中も体育祭のことで頭がいっぱいだった。
いい作戦が一向に出てこず、ため息ばかりついていると、
前方に一人の少女の姿が目に入った。
少女は道端に立ち、強く吹く風に長い髪とスカートを激しくなびかせながら、
ぼんやりと遠くを見つめていた。
その後ろ姿が、ネコの目に妙に馴染んで見えた。
(……ユリナ?)
妹のユリナ。
目の前に妹がいたのだ。
そんなわけがなかった。妹が通ってる小学校とは真逆。
こんなところにいるのは普通におかしい。
思わず声をかけようとして足を速めた。
「ユリナ! ここで何してるの!?」
少女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
ネコはさらに声を大きくした。
「小学校と全然道が違うじゃん! どこ行くつもりなの!?」
少女は驚いたように目を大きく見開き、次の瞬間、慌てた様子で視線を逸らした。
そして、急ぎ足でその場を離れていった。
ネコは胸がざわついた。
(………ユリナ?学校をサボる子じゃないのに…)
放っておけない気持ちが強く湧き上がり、
ネコは迷わず少女の後を追いかけた。
「待って! ユリナ!」
少女は足を速める。
ネコは小走りになりながら、息を弾ませて追いかけた。
風が強く吹き、二人の影が朝の道に長く、慌ただしく伸びていた。
やがてネコは少女を路地の行き止まりまで追い詰めた。
息を切らしながら、ネコは少女の背中に声をかけた。
「もう……逃げないで!学校に行く時間でしょ! こんなところで何してるの!?」
少女はゆっくりと振り返った。
近づくにつれて、ネコは違和感を覚えた。
後ろ姿は似ていたが、顔が違う。
髪の長さも、雰囲気が、ユリナとは明らかに違っていた。
ネコは慌てて頭を下げた。
「あ……ごめんね。妹と勘違いして……追いかけちゃって……」
少女は無言でネコを見つめていた。
その表情が、ふっと変わる。
唇の端が、ゆっくりと不気味に上がった。
怪しい笑み。
ネコの背筋に冷たいものが走った。
少女は無言のまま、ゆっくりと上に指を差した。
ネコが反射的に上を見上げた瞬間——
ドンッ!!
大きな音とともに、頭の上からタライが落ちてきた。
「っ……!?」
激しい衝撃。
視界がぐらりと揺れ、ネコはその場に崩れ落ちた。
意識が遠のいていく。
最後に見たのは、
少女が静かに微笑んでいる姿だった。
……
ネコは気を失ってしまった。