待ち合わせ場所は、使われなくなった地下鉄の保守区画だった。
東京の地下には、死んだ動脈がいくつもある。
かつて都市を走らせていたのに、今は誰にも使われず、地図からも半分消えている空間。
ルルーシュは、そういう場所が好きだった。
人間が捨てたものは、しばしば人間の本音をよく通す。
Lもまた、そういう場所を選ぶだろうと、どこかで思っていた。
薄暗い通路。
非常灯。
湿ったコンクリートの匂い。
遠くで水滴が落ちる音。
Lは先に来ていた。
いつもの通り、猫背で、ひどく無防備に見える姿勢。
だがもちろん無防備ではない。
少し離れた死角に最低限の監視がいることも、ルルーシュには分かった。
完全な一対一ではない。
それでも、今までの二人の接触の中では最もそれに近い。
「こんばんは」
Lが先に言った。
ゼロの仮面を外し、ルルーシュとして来た男は、数歩離れた位置で止まる。
「お前が先に来ているのは珍しいな」
「そうですか?」
Lは首を傾げた。
「私はだいたい、相手より少し先に来ています。観察したいので」
「嫌な趣味だ」
「ありがとうございます」
そのやり取りだけなら、以前と変わらない。
だが空気が違う。
どちらも、もう互いの仮面の下を見ている。
そのうえで、なお言葉を選ばなければならない。
Lが先に本題へ入った。
「皇女殿下の件ですね」
「そうだ」
「あなたが殺したい」
ルルーシュの目が、冷たく細まる。
だが否定はしない。
「正確には違う」
彼は言った。
「俺は、あの人をあのままにはしておけない」
「ほぼ同じです」
「違う」
ルルーシュの声が少し低くなる。
「俺が問題にしているのは、感傷じゃない。
ユーフェミアは今、生きている限り命令を遂行しようとする。
それはお前も理解しているはずだ」
「はい」
「隔離は永続しない。
対面、音声、文書、どんな形でも手段を見つければ実行に向かう。
“日本人を殺せ”は抽象命令だ。達成のために取りうる方法が広すぎる」
Lは黙って聞いている。
その聞き方が、妙に不快だった。
まるで同意ではなく、供述を整理しているように見えるからだ。
「続けてください」
「……だから、終わらせるしかない」
Lは少しだけ目を伏せた。
「その“終わらせる”に、あなた自身の責任逃れが混じっていることも理解していますか」
返答が、一瞬遅れる。
それだけでLには十分だった。
だが今回は、そこで追い詰めるために会ったわけではない。
少なくとも、表向きは。
「理解している」
ルルーシュは低く言った。
「全部俺がやったことだ。
ユーフェミアをこんな状態にしたのも、その後の虐殺を利用したのも。
だから、俺が“必要だから死んでもらう”と言えば、それは責任にも聞こえるし、言い訳にも聞こえる。
それも分かっている」
「分かっていて、なお言う」
「そうだ」
Lは少しだけ姿勢を変えた。
膝を抱える代わりに、指先を組む。
「では私からも確認します。
あなたは、皇女殿下が死ぬべきだと思っている。
理由は三つ。
一つ、命令が持続し、再発危険が極めて高い。
二つ、生かした場合にさらに被害が出る。
三つ、政治的にも“虐殺の責任を負って死んだ皇女”という形が自分に都合がいい。
違いますか」
ルルーシュは数秒黙った。
「……違わない」
「ありがとうございます」
その言い方が、ひどく人を苛立たせる。
感情を挟まないことで、かえって残酷になる。
「では次に、私の立場を言います」
Lは続けた。
「私はあなたを追っている。
あなたは虐殺の原因を作り、その後それを利用して支持を得た。
その意味で、あなたに発言権があるとは思っていません」
「ならなぜ来た」
「現実があるからです」
Lの声は平坦だった。
「皇女殿下は今、単なる被害者でも、単なる加害者でもない。
放置すれば再び殺す可能性が高い。
隔離は暫定措置にすぎない。
だから、あなたに発言権がなくても、問題は消えません」
ルルーシュは壁にもたれた。
冷たいコンクリートの感触が、少しだけ思考を繋ぎ止める。
「お前はどうしたい」
Lは、そこで珍しくすぐには答えなかった。
長い沈黙ではない。
だが、普段の彼にしては明らかに長い間。
「分かりません」
やがてLは言った。
「いえ、分かっていることはあります。
医学的に回復不能で、再発危険が極めて高く、そして本人の意思では止められないなら、最終的に殺すという選択肢は排除できません」
ルルーシュの目がわずかに動く。
Lがそこまで言うとは思っていなかった。
「ただし」
Lは続ける。
「それを“政治的に都合がいいから”と混ぜた瞬間に、私はあなたを許容しません。
皇女殿下の死を、ゼロの物語の燃料にするなら、私は全力でそれを壊します」
「壊せるのか?」
「やります」
Lは即答した。
「少なくとも、あなたに気持ちよく使わせはしません」
ルルーシュは、ほんの少しだけ笑った。
乾いた、疲れた笑いだった。
「お前は本当に嫌な男だ」
「よく言われます」
「褒めていない」
「知っています」
再び沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、互いに探っているというより、互いに自分の中の最低線を測っている沈黙だった。
先に破ったのはルルーシュだ。
「スザクを外したな」
「はい」
「正解だ。今のあいつは揺れすぎている」
「あなたが揺らそうとしたからです」
「そうだ」
そこも否定しない。
否定しないことが、今は妙に重かった。
Lは少しだけ視線を上げた。
「でも、次は使わない」
「なぜそう思う」
「あなたが今ここに来たからです」
Lは言った。
「本当にスザクを使い切るつもりなら、私に会う必要はない。
彼を揺らし続ければ、そのうち壊れる。
でもあなたはそうしなかった。
つまり、どこかで線を引いた」
ルルーシュは小さく息を吐いた。
そこまで読まれているなら、下手な否定は意味がない。
「……スザクは、あいつには重すぎる」
「彼にとって、ですか。あなたにとって、ですか」
「両方だ」
Lはそれを聞いて、わずかに目を細めた。
今の答えは、ルルーシュにしては珍しく飾りがなかった。
「では提案があります」
Lが言った。
「何だ」
「皇女殿下を、あなたの物語から切ります」
ルルーシュの眉が動く。
「具体的に言え」
「公式には、皇女殿下は事件後の精神錯乱と負傷で、本国送還前に重篤化したことにする。
細部は調整可能です。
重要なのは、“ゼロが関与して終わらせた”という形を消すことです」
「……そんなもの、ブリタニアが飲むと思うか?」
「状況次第です」
Lは平然と言った。
「皇族に対する失点を最小化したい勢力もあります。
虐殺命令の異常性を、“狂気と急変”に押し込みたい人たちもいる。
彼らにとっても都合がいい。
もっとも、その場合あなたは“皇族の本性を暴いた英雄”としての利得の一部を失います」
ルルーシュは黙った。
そこだ。
Lは必ずそこを突く。
ユーフェミアを死なせることそのものではなく、その死がゼロにとってどれだけの意味を持つかを。
「……全部は失わない」
ルルーシュは言った。
「虐殺の事実自体は消えない。
民衆は十分に見た。
今さら詳細の公式整理がどうなろうと、ブリタニアへの憎悪は残る」
「はい。だからあなたは承諾できる」
Lは即座に返した。
「完全に損はしない。でも、最大限の政治利用はできなくなる。
そこが妥協点です」
その言い方に、ルルーシュは舌打ちしたくなった。
まるで商談だ。
そして最悪なことに、その商談が成立しうる形になっている。
「条件がある」
ルルーシュが言う。
「聞きます」
「お前は、この件をもって今すぐゼロ=ルルーシュを公表しない」
Lはすぐには答えない。
そこだけは、互いに最も重い条件だ。
「今すぐはしません」
やがてLは言った。
「でも、それは取引ではありません。
今公表しても通らないからです。
順番の問題でしかない」
「それでもいい」
「よくありません」
Lは静かに返した。
「私は、あなたを見逃すとは言っていない」
「分かっている」
「本当に?」
ルルーシュは目を逸らさなかった。
「分かっているさ」
彼は低く言った。
「お前はこの件を処理しても、俺を追う。
むしろ、もっと冷たく追うだろう。
ユーフェミアの件で“人間としての迷い”があった分だけ、次からは余計に」
Lは、その言葉に少しだけ驚いたようだった。
驚いたのは内容ではない。
ルルーシュがそこまで正確に自分を見ていることに対してだ。
「はい」
Lは素直に認めた。
「たぶん、そうなります」
「なら構わない」
その返答もまた、少し意外だった。
Lは問い返す。
「構わない?」
「今の俺に必要なのは、ユーフェミアの件をこれ以上利用しない形で終わらせることだ」
ルルーシュは言った。
「お前がその後でどう来ようと、それは別の勝負だ」
「本当に切り分けられますか」
「切り分けるしかない」
Lはその言葉を数秒かけて咀嚼した。
そこに嘘は薄い。
だが、薄いからこそ危うい。
ルルーシュは今、本気でそう思っている。
その本気は、後でいくらでも別の合理に上書きできる種類の本気だ。
「もう一つ条件があります」
Lが言う。
「何だ」
「皇女殿下に、あなたは二度と会わない」
ルルーシュの顔が、ほんのわずかに固まる。
「重ねがけはできない。会う意味はないはずだ」
「意味はあります」
Lの声が少しだけ低くなる。
「あなたは、自分で壊した相手を前にすると、判断が鈍る。
それを私は見ています。
だから会わせません」
「お前にそんな権限があるのか」
「ありません。
でも、会わせないよう動くことはできます」
通路の湿った空気が、急に重く感じられた。
ルルーシュはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……分かった」
「意外ですね」
「意外でも何でもない」
ルルーシュは吐き捨てるように言う。
「会えばまた迷う。
迷えば、また最悪の選択をするかもしれない。
そこまで分からないほど愚かじゃない」
その認め方に、Lは一瞬だけ言葉を失った。
ここまで素直に自分の危うさを認めるルルーシュを見るのは初めてだった。
「なら、話はまとまりました」
Lが言う。
「そう簡単に言うな」
「簡単ではありません」
Lは立ち上がる。
「ここからが一番難しいです。
皇族、軍、行政、報道、全部に“都合の悪い真実”と“都合のいい嘘”を配分しなければいけないので」
「お前、そういうのもやるんだな」
「好きではありません」
Lは平坦に言う。
「でも今回は、好き嫌いで済む段階を越えました」
二人はしばらく向かい合ったまま動かなかった。
もう会話は終わっている。
だが、どちらもすぐには背を向けられない。
最後にLが言った。
「一つだけ、確認しておきます」
「何だ」
「皇女殿下のことを、“必要な犠牲だった”とは思わないでください」
ルルーシュの目が細くなる。
それは、さすがに傲慢だと反射しかけた。
だがLは続ける。
「思えば楽になります。
そして楽になった瞬間、次も同じことをします」
水滴が落ちる音が、やけに大きく響いた。
ルルーシュはすぐには答えなかった。
長い時間をかけて、ようやく言う。
「……分かっている」
「本当に?」
「うるさい」
ルルーシュは低く返した。
「分かっているから、今こんなところにいるんだろうが」
Lはそこで初めて、ほんのわずかに表情を緩めた。
笑みですらない。
ただ、“その返答だけは信用してもいいかもしれない”と思った時の顔。
「そうですね」
そして彼は背を向けた。
「次は、また別の話になります」
「ゼロとLの話か」
「はい」
Lは振り返らずに言う。
「今夜のことは、たぶん一度だけです。
次からは、もう少し容赦なくやります」
ルルーシュは壁から身体を離した。
「望むところだ」
それは強がりでもあった。
本心でもあった。
そして、その両方であることが、この二人の関係を最悪にしていた。
Lが去り、足音が遠ざかる。
地下通路に残されたルルーシュは、しばらく動かなかった。
交渉は成立した。
ユーフェミアは、自分に最も都合のいい死に方から切り離される。
ゼロはその果実を満額では受け取れない。
Lは事件を握り潰す代わりに、後で必ず刃を深く入れてくる。
どれも損だ。
どれも完全な勝ちではない。
だからこそ、今の二人にはこれしかなかった。
ルルーシュは目を閉じる。
ユーフェミアの顔が浮かぶ。
礼拝堂の夜。
控室の廊下。
「見ていてください」と言った声。
そして、命令の後の空白。
胸の奥で、何かが静かに沈む。
罪悪感なのか、後悔なのか、それとももっと単純な喪失なのか、自分でもまだ名前がつかない。
だが一つだけ、はっきりしていた。
Lは、ユーフェミアを救わなかった。
自分も救わなかった。
ただ、最悪の使い方を一つ潰した。
その残酷さが、妙にありがたかった。
地下から地上へ戻る階段を上がりながら、ルルーシュは思う。
もう後戻りはない。
だが、少なくともこの先、
ユーフェミアを“必要だった”という言葉で塗り潰すことだけは、
あの探偵が許さない。
そしてそれは、
たぶん自分自身が一番欲していた罰でもあった。
地上では、曇天の下で街が動き続けている。
黒の騎士団は拡大し、ブリタニアは揺れ、スザクはまだ壊れ切らず、
Lはすでに次の包囲網を組み始めている。
今夜の交渉は休戦ではない。
慈悲でもない。
ただ、同じ地獄を見た二人が、その地獄の後始末だけを一度だけ共同で引き受けたにすぎない。
だから次にぶつかる時は、
もうこの情けはどこにも残らない。
それでも、確かに一つだけ変わったものがあった。
Lはもう、ゼロをただの“追うべき首謀者”としては見ていない。
ルルーシュもまた、Lをただの“排除すべき探偵”としては見ていない。
互いに、相手が最も醜い現実を見てもなお機能する人間だと知ってしまった。
それは信頼ではない。
尊敬でもない。
もっと嫌なものだった。
だからこそ、この先の勝負はさらに深くなる。
相手の手を読むだけでは足りない。
相手が“自分のどこをまだ切り捨てていないか”まで読まなければ、勝てない。
地下鉄の出口で、ルルーシュは一度だけ立ち止まり、曇った空を見上げた。
次はもう、ユーフェミアの件のような例外はない。
Lは来る。
今度こそ、容赦なく。
そして自分もまた、もう迷いを見せれば終わる。
都市のざわめきの中へ歩き出しながら、彼は静かに思った。
――いいだろう、L。
次は本当に、ゼロとして相手をしてやる。
その頃すでにLは、車内で新しい報告書の見出しを書き始めていた。
記すべき名前は、一つしかない。
ルルーシュ・ランペルージ。
最重要容疑者。
観察対象ではなく、包囲対象へ。
ペン先は迷わない。
だが、書きながら彼もまた知っていた。
今夜の対話で、自分は一つだけ不利になった。
あの男が、必要なら“自分に不都合な形で終わらせる”ことも選べると知ってしまったからだ。
それは善性ではない。
贖罪ですらない。
だが、ゼロという戦略家を読む上では、最悪のノイズになる。
Lは小さく息を吐き、窓の外を見た。
「本当に、面倒です」
誰に向けるでもない独り言。
だが声の底には、奇妙な熱があった。
追う価値がある。
止める価値がある。
そして、止めなければならない。
そう確信した相手を前にした時だけ、
Lは少しだけ生きている顔になる。
街はまだ曇っていた。
だが、雨は降っていない。
降らないからこそ、
次に流れるものが何なのか、
二人ともよく分かっていた。