特区宣言の当日、朝の空はひどく青かった。
その青さが、ルルーシュには気に入らなかった。
こういう日は、世界が残酷なほど平然として見える。
誰かの決断や、誰かの破綻や、誰かの祈りなど、最初から存在しなかったかのように。
テレビも、ラジオも、街頭モニターも、第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアの演説予定を繰り返していた。
特区日本。
その名称だけで、黒の騎士団内部の空気は昨日から不安定になっている。
賛成すべきか。
警戒すべきか。
乗るふりをして奪うか。
潰すか。
どの選択肢も、ゼロなら取れる。
だが、今のルルーシュには、そのどれにも決定的な“正しさ”が見えなかった。
「……最悪だ」
自室で制服の襟を整えながら、彼は小さく吐き捨てた。
C.C.が窓辺から言う。
「最悪なのは天気じゃないだろう」
「分かっている」
「Lか。ユーフェミアか。特区か」
「全部だ」
ルルーシュは短く答える。
「Lは待っている。今日、私がどちらへ傾くかを見るために。
ユーフェミアは前に出る。本気で。
特区は、その二つを同時に盤面へ乗せる装置だ」
「で、お前は?」
ルルーシュは答えなかった。
答えられないのではない。
まだ答えを口にした瞬間、それが現実になるのが嫌だった。
C.C.は皮肉げに笑う。
「珍しいな。王様が、まだ王手の方向を決められないとは」
「黙っていろ」
「黙っていても同じだ。
Lはもう、お前が“迷う時にだけ遅れる”と知っている。
なら今日、どこかで必ずその遅れを測りに来る」
その通りだった。
だからこそ、ルルーシュは朝から何通りものプランを組んでいた。
ゼロとして公然と反対声明を出す。
黒の騎士団を沈黙させ、民衆の反応を見る。
会場周辺で別件の攪乱を起こし、特区宣言の政治効果だけを削ぐ。
ユーフェミア本人に接触し、条件付きで飲む形へ話を持ち込む。
どれもありうる。
どれも、決め手に欠ける。
「選べないのではない」
ルルーシュは自分に言い聞かせるように呟いた。
「選んだ後の被害が、読めすぎるだけだ」
一方、Lはすでに会場近辺の観測点へ入っていた。
特区宣言は巨大スタジアムを改修した公会堂で行われる。
外周は軍警、内周は皇族警護、さらに非公開で配置された観察要員が重なる。
L自身は表舞台には出ない。
だが、最もよく見える位置にいた。
高所の調整室。
複数モニター。
入退場記録。
来賓席の顔認証。
音声解析。
そして、ルルーシュ・ランペルージの現在位置。
「会場入りしています」
ワタリの報告に、Lは視線を動かさない。
「単独ですか」
「表向きは。学園関係の同行者はいますが、直接の接触は少ない」
「そうですか」
Lは小さく頷いた。
それだけで、周囲にいた捜査官たちは少し緊張を強める。
彼が静かになる時は、大抵すでに何かを半分掴んでいる時だ。
「竜崎」
総監が低く言う。
「今日、本当にゼロは動くのか」
「はい」
「根拠は」
Lはモニターの一つを指した。
そこには会場周辺の群衆が映っている。
特区支持、反対、様子見。
入り混じりながらも、致命的な暴発はない。
秩序はかろうじて保たれている。
「ゼロにとって最悪なのは、特区が“成功すること”ではありません」
Lは言った。
「もっと悪いのは、自分が何もせず、しかも何もできなかったように見えることです。
彼は象徴です。象徴は、反応しないという選択を最も長く取れません」
「だから、どこかで手を出す」
「はい。ただし直接会場を襲うとは限りません」
Lは続けた。
「彼は今、能力を読まれている。
なら、むしろ能力なしで成立する最も大きな意味づけを狙うはずです。
例えば――」
「例えば?」
Lの声はひどく平坦だった。
「ユーフェミア皇女が掲げる善意そのものを、別の物語に変える」
総監が顔をしかめる。
「抽象的だな」
「はい。でも彼は、抽象を具体へ落とすのが上手いので」
ワタリが別モニターを見て言う。
「ルルーシュ・ランペルージ、来賓導線を外れました」
Lの目が少し細まる。
「どちらへ」
「皇族控室側です」
部屋の空気が一段変わった。
Lはすぐには命令を出さない。
数秒。
その短い沈黙の間に、彼の中では複数の盤が同時に展開していた。
止めるべきか。
泳がせるか。
押さえればゼロとしての証拠は逃げる。
泳がせれば、ユーフェミアに接触される危険がある。
「竜崎」
「泳がせてください」
Lは言った。
「ただし、接触の前後をすべて記録します。
それから、皇女殿下の直近護衛には遮光具を準備」
「能力対策か」
「仮説対策です」
「本人を止めないのか」
「止めると、彼は今日“何もしないまま終わった人間”になれます」
Lは静かに答えた。
「それではだめです。
今日は、彼自身に選ばせる必要がある」
ルルーシュは、皇族控室へ続く長い回廊を歩いていた。
足音は一定。
表情も崩さない。
だが頭の中では、もはや何十手先というより、何十通りの破局が並列していた。
ここで会うべきではない。
理性はそう言っている。
Lが見ている。
見ているどころか、ここへ来ること自体を折り込んでいる可能性が高い。
それでも来た。
来なければ、ユーフェミアは特区を宣言する。
善意のまま。
自分の知らない場所で。
その後にゼロがどう動いても、もう“後から壊しに来た”形になる。
なら、せめてその前に会う。
止める。
条件をつける。
あるいは――。
「ルルーシュ」
呼び声。
振り向くまでもない。
ユーフェミアだ。
彼女は警護を下げ、控室の外廊下で待っていた。
あまりにも不用意で、あまりにも彼女らしい。
「こんなところで待つなんて、危険です」
「待っていないと、あなたは逃げるでしょう?」
ルルーシュは眉を寄せた。
否定できない。
「演説前です。話は短く」
「はい」
ユーフェミアは頷いた。
「そのつもりです」
彼女の顔に、迷いはなかった。
それが何より、ルルーシュには不吉だった。
「本当にやるんですね」
「やります」
「引き返せます」
「引き返しません」
「あなたは――」
そこで、ルルーシュは言葉を止めた。
説得の言葉が、どれも薄い。
軍が反発する。
民衆は不安定だ。
制度設計が甘い。
どれも事実だ。
だが彼女は、そんなことは最初から分かった上でここにいる。
ユーフェミアは静かに言った。
「私は、ゼロと戦いたいわけではありません」
「だが結果的にはそうなる」
「そうかもしれません。
でも、それでも構わないと思っています」
ルルーシュの目が細まる。
「なぜ」
「あなたが怖がっていたからです」
一瞬、彼の思考が止まった。
「……何だと?」
「この前、あなたは私に“絶対にやめてください”と言いました」
ユーフェミアは真っ直ぐ彼を見る。
「ただの政治的反対なら、あんな言い方にはならない。
あなたは、特区が失敗すること以上に、“これが本当に届いてしまう可能性”を怖がっていた」
喉が熱くなる。
怒りではない。
もっと厄介な、見透かされた感覚だ。
「馬鹿なことを」
「馬鹿かもしれません」
ユーフェミアは微笑んだ。
「でも、もし届く可能性が少しでもあるなら、私は試したいんです」
「試した結果、死ぬかもしれない」
「はい」
「それでも?」
「それでも」
間髪入れない返答だった。
その速さに、ルルーシュは理解する。
彼女は、もう自分の中で終わっている。
決断を済ませた人間だ。
「……あなたは本当に厄介だな」
「ルルーシュに言われるとは思いませんでした」
彼はわずかに顔を逸らした。
このままではだめだ。
言葉では止まらない。
なら、条件をつけるしかない。
「一つだけ約束してください」
「何でしょう」
「ゼロと直接会おうとはしないことです」
ユーフェミアは少しだけ考えた。
その“考える間”が、ルルーシュには重い。
「今は、そうします」
「今は?」
「ええ」
ユーフェミアは柔らかく、しかし逃げずに言った。
「だって、その先のことまで、あなたに全部決めさせるわけにはいきませんもの」
ルルーシュは舌打ちしたくなった。
この人は、本当に最後の一線だけこちらに譲らない。
その瞬間、無線を持った侍従が慌てて近づいてくる。
「皇女殿下、そろそろ――」
ユーフェミアは頷き、ルルーシュへ向き直る。
「見ていてください」
「何を」
「私が、本気だということを」
そう言って、彼女は去った。
ルルーシュはその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。
見ていてください。
その言葉が、奇妙に重く残る。
見ている。
Lも。
自分も。
そして、たぶんこの国全体が。
高所調整室で、Lは今の接触映像を無音で再生していた。
音声はまだ処理中。
だが、音がなくても十分な情報は取れる。
距離。
立ち位置。
最初に近づいたのはユーフェミア。
視線を逸らしたのは、二度ともルルーシュが先。
会話後半、彼は一歩だけ前に出たが、ユーフェミアが引かないと分かると、それ以上詰めていない。
「どう見ますか」
ワタリが問う。
「止めに行っています」
「利用ではなく?」
「はい。少なくとも、最初の目的は」
Lは答えた。
「でも、問題はそこではありません。
彼は止められなかった」
ワタリは黙る。
Lもまた少し黙ったあと、続けた。
「止められなかった人間は、その後の行動が二つに分かれます。
諦めるか、もっと強い手段に出るかです」
「ルルーシュはどちらに?」
「……両方をやろうとするタイプです」
総監が苛立たしげに言う。
「はっきりしないな」
「はい。だから危険です」
Lは平然と答えた。
「彼はゼロとして特区を利用する算段を最後まで残しつつ、ルルーシュとしてユーフェミア皇女が壊れる未来も避けようとする。
両方を同時にやろうとした時、人は一番壊れやすい」
「つまり、今日が山場か」
「はい」
その時、会場側から歓声が上がった。
ユーフェミアが登壇したのだ。
Lはモニターを切り替える。
壇上。
白い照明。
ブリタニア旗。
そして群衆。
ユーフェミアは原稿を持っている。
だが、その持ち方が硬くない。
緊張はしている。
それでも前へ出る人間の手だ。
「始まります」
ワタリが静かに言う。
Lの目は、壇上ではなく来賓席の一角に向いていた。
ルルーシュ・ランペルージ。
座っている。
静かに。
静かすぎる。
「……まだ動きません」
「なぜ」
「決めきれていないからです」
Lは息を詰めるでもなく、ただ観察を続ける。
彼が欲しいのは犯行の瞬間ではない。
その前の、選択の瞬間だ。
壇上で、ユーフェミアが話し始めた。
差別の終わり。
奪われた名前。
共に生きる場所。
古い支配の形を変えること。
演説は、驚くほどまっすぐだった。
技巧はない。
だが、だからこそ刺さる。
痛みを知った者の言葉ではない。
それでも、痛みを無視しない者の言葉だった。
群衆の空気が変わっていく。
猜疑が薄れ、代わりに“もしかすると”が広がる。
その“もしかすると”こそ、ゼロにとって最大の脅威だった。
ルルーシュは来賓席で拳を握っていた。
爪が掌に食い込む。
これはだめだ。
本当に届いてしまう。
ユーフェミアの善意が、ただの皇族の芝居としてではなく、民衆の希望として定着し始めている。
ここで何もしなければ、ゼロは遅れる。
動けば、ユーフェミアを壊す。
あるいは、Lに読まれた形でしか動けない。
「……くそ」
ほとんど声にならない吐息。
その瞬間、ルルーシュは一つの視線を感じた。
遠い。
だが分かる。
Lだ。
見られている。
いや、待たれている。
お前はどちらを選ぶ、と。
来賓席の後方で、一人の軍人が動いた。
スザクだった。
彼もまた、ユーフェミアを見ている。
守る者の目で。
そして同時に、何か嫌な予感を振り切れない者の目で。
ユーフェミアは演説の核心へ入る。
『本日ここに、行政特区日本を――』
その瞬間だった。
来賓席の袖から、ディートハルト経由で流していた極秘短波がルルーシュのイヤーピースに入る。
「ゼロ、民衆側の反応は想定以上です。このままでは黒の騎士団の主導権が――」
切る。
そんな報告は不要だ。
分かっている。
だがその一瞬の判断遅れを、Lはモニター越しに拾っていた。
来賓席のルルーシュが、演説の最重要箇所で初めてユーフェミアから視線を外した。
そして、外した直後に戻している。
「今です」
Lが言った。
「何が」
「彼は今、何かを決めました」
壇上では、ユーフェミアが宣言を完了し、会場がどよめきから拍手へ傾き始める。
空気は変わった。
もうこれは、ただの演説ではない。
現実になった。
ルルーシュは立ち上がった。
来賓席から。
静かに。
周囲に不審を与えない速度で。
Lはすぐに命じる。
「追跡。ただし接触しないでください。
彼がどこへ行くかを見ます」
「会場妨害では?」
「いいえ」
Lは断言した。
「彼は今、会場ではなくユーフェミア皇女へ向かいます」
「なぜ」
Lの答えは短かった。
「壊すか守るかを、まだ本人の前で決めようとしているからです」
その読みは当たっていた。
ルルーシュは壇上裏の控室導線へ向かっていた。
護衛線の厚い場所。
今の彼にとって最も危険な場所。
そして同時に、最も行かざるをえない場所。
止める。
いや、飲ませる。
条件をつける。
黒の騎士団の存在意義を確保する文言を入れさせる。
ブリタニアの管理権限を削らせる。
表向きユーフェミアを立てつつ、実質の主導権を奪う。
間に合うか。
分からない。
だが行くしかない。
控室前で、スザクが先に彼を見つけた。
「ルルーシュ?」
その呼びかけに、ルルーシュはほんの一瞬だけ顔を歪めた。
最悪だ。
ここでこいつか。
「何しに来た」
「それはこっちの台詞だ」
スザクの声は低い。
「今は関係者以外立ち入り禁止だ。
お前、来賓席を抜けただろ」
「ユーフェミア皇女に用がある」
「今?」
「今だ」
スザクは数秒黙った。
そして、普段の友人の顔ではなく、軍人の顔になる。
「通せない」
「どけ」
「どかない」
廊下の空気が張り詰める。
ルルーシュは奥歯を噛んだ。
ここでギアスは使えない。
いや、使える。
目を合わせれば。
だがスザクは最悪だ。
一度きりの価値が重すぎる。
しかも、今ここで使えば護衛線とLの観察網の中で痕跡が増えすぎる。
「ルルーシュ」
スザクは言う。
「今のお前、顔がまずい。
何をする気か知らないけど、絶対にこのまま通しちゃいけない感じがしてる」
その直感の鋭さに、ルルーシュは舌打ちしそうになる。
スザクは理屈ではないところで、時々どうしようもなく厄介だ。
「これは、お前に説明している時間がない」
「ならなおさら駄目だ」
その時、控室奥の扉が開いた。
ユーフェミア本人が、護衛を伴って出てくる。
「スザク? それに、ルルーシュ?」
最悪の形で、三者が揃った。
ルルーシュの思考が一瞬で加速する。
Lはどこかで見ている。
スザクがいる。
ユーフェミアがいる。
ここで選ぶ。
今ここで。
「皇女殿下」
彼は一歩出た。
「特区について、今すぐ話す必要があります」
スザクが間に入る。
「下がれ、ルルーシュ」
「退け!」
その声は、ついに制御を外した。
護衛が一斉に身構える。
ユーフェミアの目が見開かれる。
そしてその一瞬、彼女とルルーシュの視線が正面から噛み合った。
時間が、止まったように感じられた。
駄目だ。
ここで使うな。
使えば終わる。
Lの思う通りになる。
ユーフェミアを壊す。
壊した瞬間、ゼロとしてもルルーシュとしても戻れない。
だが同時に、使わなければ。
このまま特区が現実になる。
ゼロの意味が変わる。
黒の騎士団の立ち位置が崩れる。
革命の物語が奪われる。
そしてLは、その“両方が真実である数秒”を待っていたのだと、ルルーシュははっきり理解した。
「ルルーシュ……?」
ユーフェミアの声。
それは警戒ではない。
心配の声だった。
その心配が、最悪だった。
赤い光が走る。
ルルーシュの瞳から。
視線の直線上へ。
一度きり。
決定的に。
「ユーフェミア」
彼の声は、あまりにも静かだった。
「――」
その瞬間。
廊下の角から、Lの声が飛んだ。
「遮光!」
遅い。
一拍、遅い。
だが、その一拍で場の全員が何か異常が起きたことだけは悟った。
スザクがユーフェミアの前へ出ようとする。
護衛が動く。
L自身も走り込んでくる。
だが命令は、もう入っていた。
ユーフェミアの表情が、ふっと空白になる。
ルルーシュの胸が、凍りついた。
自分が何を言ったのか。
その言葉が、耳の中でまだ熱を持っている。
理性は理解している。
取り返しがつかない。
Lだけが、その一瞬に別の種類の絶望を見ていた。
能力の存在ではない。
それを使ったルルーシュの顔だ。
勝つために切った顔ではない。
追い詰められた末に、自分で自分の急所を刺した人間の顔だった。
「……っ!」
Lが初めて、あからさまに表情を変えた。
「止めてください!」
誰に向けた叫びか、自分でも分からないまま。
しかし、もう遅かった。
ユーフェミアが、ゆっくり口を開く。
その口から出る次の言葉が、
この盤面のすべてを、
二人の知性も、駆け引きも、
善意も、論理も、
まとめて地獄へ突き落とすことを、
その場にいた誰もが、まだ知らなかった。