虐殺の夜が明けた時、世界はもう前日と同じ形ではなかった。
街頭モニターには、断片化された映像が何度も流れていた。
白いドレスの皇女。
錯乱した命令。
銃声。
逃げ惑う群衆。
そして、その後から現れたゼロ。
誰も全体を知らない。
だが、誰もが自分に都合のいい断片だけは持っていた。
ブリタニア側は、第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアが突如として日本人虐殺を命じ、その最中に黒の騎士団が武装蜂起したと主張した。
反ブリタニア側は、皇族の本性がついに露わになり、ゼロがそれを止めるために立ち上がったのだと信じた。
どちらも、事実の一部ではある。
だからこそ最悪だった。
真実は、そのどちらよりも醜い。
だが醜すぎる真実は、しばしば最も信じられないものになる。
Lは、夜明け前の会議室で一睡もせずに映像を見返していた。
モニターには、控室前の記録が映っている。
ルルーシュが一歩踏み込み、ユーフェミアと視線が合い、何かを言う。
音声は一瞬の混線と悲鳴に飲まれ、完璧には拾えない。
だが、拾えなくても分かる。
その直後から、ユーフェミアの行動は単一目的へ固定された。
日本人を殺す。
その命令だけが中心となり、そこへ彼女本人の語彙と表情と行動習慣が絡みつく。
「……取り消せない」
Lは小さく言った。
ワタリが静かに問う。
「はい?」
「命令は、状態異常ではありません。洗脳とも少し違う。
もっと単純で、もっと残酷です。達成目標が一本だけ固定され、人格全体がその達成に奉仕させられる」
「つまり」
「皇女殿下が生きている限り、そして“日本人を殺す”が未達である限り、止まりません」
部屋にいた捜査官の一人が顔を上げた。
「鎮静剤で眠らせているんだろう」
「眠っているだけです」
Lは平坦に答えた。
「目が覚めれば再開します。拘束しても、口頭命令や扇動、利用可能なあらゆる手段で達成へ向かうはずです。
自分の能力を最大限活かす、という表現が最も近い」
「そんな……」
「はい。だから、これは発作ではない。
治療でも説得でもありません。命令の完遂か、本人の死か、そのどちらかまで続く可能性が高い」
Lは一度目を閉じた。
この仮説を口にするのは、推理として正しい。
だが、人間としては吐き気がした。
ユーフェミアはもう、単なる被害者ではない。
放置すれば、再び殺す。
善意の皇女の人格を残したまま、殺戮の意志だけが核にある兵器になっている。
「竜崎」
総監の声は低かった。
「結論を言え」
Lは数秒黙り、はっきり答えた。
「皇女殿下は隔離が必要です。厳重な。
対面接触を遮断し、発言も外へ出さない。
少しでも自由を与えれば、命令達成へ向けて周囲を動かします」
「……処分は」
その言葉だけ、部屋の空気が変わる。
Lはすぐには答えなかった。
答えたくなかった。
だが、答えないこともまた逃避だと知っている。
「私は捜査官です」
Lは言った。
「処分の決定はしません。
でも、隔離だけで永続的に解決する見込みは薄いです」
つまり。
誰もその先を言わない。
言わなくても、全員分かる。
ワタリが別の資料を差し出した。
「黒の騎士団側の動きです。ゼロの救出劇で、支持率が急上昇しています」
「当然ですね」
Lの声に感情はなかった。
感情があるとすれば、それは怒りですらなく、冷えた嫌悪だった。
「ルルーシュ・ランペルージは、自分が起こした虐殺を、自分で止める側へ回った。
しかも、もっとも効果的なタイミングで」
「公表するか?」
総監が問う。
「ゼロが元凶だと」
「今は駄目です」
Lは即答した。
「誰も信じません。
皇女殿下の命令は映像に残っている。ゼロは実際に民間人を救った。
順番が強すぎる」
「だが真実だぞ」
「はい。だから、今は負けます」
会議室が静まり返る。
Lは続けた。
「真実には、通る順番があります。
今この瞬間に必要とされているのは、誰が始めたかではなく、誰が止めたかです。
ルルーシュはそこを先に取った。最悪のやり方で」
ワタリが低く言う。
「では、どうするのです」
Lは控室映像の停止画面――謝罪のように唇を動かしたルルーシュの横顔を見た。
「彼はこれで終わりません」
Lは静かに言った。
「むしろここから、自分の罪を正当化するために、さらに勝たなければならなくなった。
だから動く。より大きく、より速く」
同じころ、黒の騎士団本部では歓声が上がっていた。
ブリタニア皇族の虐殺命令。
ゼロによる救出。
日本人の怒りと恐怖と感謝が、一晩で黒の騎士団へ流れ込んでいる。
玉城は酒瓶を振り回し、ディートハルトは興奮した目で映像編集の指示を飛ばし、扇でさえ顔を硬くしながらも「今は支持を固めるべきだ」と言っていた。
ゼロは演壇の中央に立っていた。
仮面。
黒衣。
揺るがぬ声。
だが仮面の内側では、ルルーシュは一睡もしていなかった。
『行政特区日本は、ブリタニアによる欺瞞であった。
彼らは希望を餌に、再び日本人を狩ろうとした!
我々黒の騎士団は、その暴虐を許さない!』
拍手。
歓声。
拳。
涙。
その一つ一つが、彼の耳にはひどく遠かった。
自分が何を言っているのかは分かる。
何を言うべきかも分かる。
それでも、理解と実感の間に分厚い膜がある。
ユーフェミアは今も生きている。
そして生きている限り、命令は消えない。
そこが何より重かった。
もし彼女が意識を取り戻せば、また殺そうとする。
銃がなければ命じる。
命じられなければ唆す。
紙とペンしかなくても、実行手段を作ろうとする。
ルルーシュは、自分のギアスがそういう能力であることを誰より知っていた。
つまり彼は、ユーフェミアを壊しただけではない。
生かしておく限り、周囲を殺し続ける条件を彼女の中へ埋め込んだのだ。
「ゼロ」
扇の声に、ルルーシュは意識を戻す。
「会見はここまでにして、次の声明文を――」
「後でだ」
短く切る。
声音に迷いはない。
迷いがあるのは、内部だけで十分だ。
会見が終わり、幹部たちが散っていく。
最後に残ったのはC.C.だけだった。
「顔に出てるぞ」
「出ていない」
「仮面の下はな」
ルルーシュは黙った。
C.C.は壁に寄りかかり、いつになく軽口を挟まない。
「消えないんだろうな」
彼女が言う。
「……ああ」
「命令は」
「達成されるまで続く」
ルルーシュは低く答えた。
「取り消せない。変更もできない。
だから、ユーフェミアはもう元には戻らない」
「なら、どうする」
その問いに、彼はすぐ答えなかった。
だが答えは、最初から一つしかないのも知っている。
「死んでもらうしかない」
言葉にした瞬間、胸のどこかが硬く軋んだ。
だが、痛みは意外なほど小さい。
小さいこと自体が恐ろしかった。
C.C.は目を細める。
「自分でやるのか?」
「……できれば違う形にする」
「また逃げるのか」
「逃げじゃない!」
思わず声が強くなる。
だがすぐに押し殺す。
「俺が直接やれば、それは“ルルーシュがユーフェミアを殺した”になる。
だが今必要なのは違う。
政治的には、皇女は虐殺命令の責任を負って死ななければならない。
でなければ、この夜を支える意味づけが崩れる」
C.C.は冷たく言った。
「意味づけ、か。便利な言葉だ」
「事実だ」
ルルーシュは吐き捨てるように言う。
「今さら綺麗事を言って何になる。
ユーフェミアが生きればまた殺す。
死ねば、この虐殺はブリタニアの罪として固定できる。
どちらにせよ、俺はもう――」
続きは出なかった。
言えば崩れる。
言わなくても崩れている。
C.C.はただ一つだけ問うた。
「Lは?」
ルルーシュの目が少しだけ動く。
「動くだろうな」
彼は言った。
「俺がここで何を選ぶか、もう読んでいるはずだ」
読んでいた。
Lは、皇族医療棟の隔離計画図を見ながら言った。
「彼は、皇女殿下が生きている限り安心できません」
ワタリが頷く。
「命令が続くからですね」
「はい。だから二つの可能性があります。
一つ、彼女を奪取して自分の管理下に置く。
でもこれは悪手です。ゼロが皇女を抱えれば、いずれ制御不能の爆弾になる。
もう一つ――」
「殺す」
Lは沈黙で肯定した。
「しかも、自分の手ではなく、“政治的に最も意味の通る形”で」
Lは続ける。
「彼は今、罪悪感と戦略を同時に回しています。
だからこそ、いちばん醜い合理に辿り着く」
総監が顔をしかめる。
「なら守ればいい。医療棟を固めろ」
「固めます」
Lは答えた。
「でも、守ることと助けることは別です。
皇女殿下を無傷で生かし続けても、命令は消えない。
つまり、防衛は長期的解決になりません」
「じゃあどうしろという」
Lは初めて、ほんの少しだけ疲れた顔をした。
「分かりません。
私は事件を解くことは得意ですが、壊れた人間を元に戻す方法は知りません」
その率直さに、部屋が静まる。
Lは視線を落としたまま、続ける。
「でも一つだけ分かることがあります。
ルルーシュは、皇女殿下が“まだユーフェミアである部分”を見るのに耐えられません。
だから、自分で会いには来ない。
来るとしたら、間接的に処理するためです」
ワタリが別紙を出す。
「スザクですか」
「はい」
Lの目が細まる。
「枢木スザクは、皇女殿下の最も近い位置にいて、なおかつルルーシュと個人的な関係がある。
そして今、最も激しく傷ついている。
こういう時、人は利用されやすい」
「ルルーシュが接触すると」
「直接ではなくても、させます。
情報でも、誘導でも、状況でも」
Lは言った。
「彼はたぶん、スザクに“選ばせる”つもりです」
スザクは、医療棟外の警備室で一人、報告書に目を通していた。
読めてはいない。
文字が頭に入ってこない。
入ってくるのは、ユーフェミアの声だけだ。
――日本人を殺してください。
――どうして止めるのですか?
あれはユーフェミアではない。
そう思いたい。
だが、では何だったのか。
答えはもう与えられている。
ルルーシュ。
その名を考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
怒りだけではない。
怒りなら簡単だ。
もっと厄介なのは、理解したくないのに、なぜそうなったのかを考えてしまうことだった。
そこへ、一通の匿名メッセージが届く。
差出人不明。
文は短い。
――皇女殿下は今後も同じ命令を繰り返す。
――隔離は時間稼ぎにすぎない。
――救いたいなら、彼女を解放しろ。
スザクの顔が強張る。
罠だ。
分かる。
分かるが、その中に事実が混ざっていることも分かる。
だから捨てきれない。
続けて第二信。
――お前は見ただろう。
――彼女は止まらない。
――生かしておけば、誰かがまた死ぬ。
スザクは端末を握り潰しかけた。
「誰だ……!」
返答はない。
当然だ。
だが送り主が誰かなど、半分は分かっている。
ルルーシュではない。
少なくとも表向きは。
けれど、その背後にいる意志は、あまりにもそれらしい。
警備室の扉が開き、Lが入ってくる。
気配が薄いくせに、こういう時だけ最悪のタイミングで現れる男だ。
「誰からだと思いますか」
スザクは反射的に端末を隠しかけ、やめた。
今さらだ。
「見たのか」
「表情で分かります」
Lはいつもの調子で言い、端末を受け取る。
数秒、読む。
そして返した。
「彼らしいですね」
「ルルーシュか」
「断定はできません。でも、彼の思考に近い」
Lは壁にもたれた。
「皇女殿下を生かしても命令は続く。
隔離は完全ではない。
なら、誰かが決断しなければならない。
その“誰か”に、あなたを置きたいのでしょう」
スザクの拳が震える。
「ふざけるな……」
「はい。ふざけています」
Lはあっさり同意した。
「でも、怒っているだけでは負けます」
「何が言いたい」
Lは珍しく遠回しにせず言った。
「あなたは、皇女殿下を殺してはいけません」
スザクが顔を上げる。
その反応を待っていたかのように、Lは続けた。
「あなたがやれば、ルルーシュの望む形になります。
あなたは“愛する人を、自分の手で、やむをえず殺した騎士”になる。
そして彼は、“その悲劇すら利用した反逆者”のまま前へ進める」
「じゃあどうしろって言うんだ!」
その声には、怒鳴り以上のものがあった。
泣きそうな人間が、泣く代わりに怒鳴る時の声だ。
Lはそれをまともに受けた。
逸らさない。
だから残酷だ。
「分かりません」
Lは言う。
「でも少なくとも、ルルーシュの代わりにあなたが手を汚す必要はない」
「必要はある!」
スザクは叫んだ。
「ユフィはこのままじゃまた――」
「はい。だから難しいんです」
Lの声も少しだけ低くなる。
「でも、それと“あなたが殺すべきだ”は同じではありません」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがてスザクが絞り出す。
「お前は、ルルーシュを止められるのか」
Lは少しだけ考えた。
「止めます」
そして、はっきりと言った。
「今度は必ず」
その夜、ルルーシュのもとへも報告が入る。
「スザクは皇女の警護継続。精神状態は不安定ですが、職務からは外れていません」
ディートハルトの声。
有能で、心底うるさい。
「Lは?」
「警備体制の再編に入りました。医療棟とその周辺への監視を強化」
「そうか」
予想通りだ。
Lはもう、自分がユーフェミアの“政治的な死”を必要としていることを読んでいる。
そして、スザクが一番揺れることも。
だが、揺れると分かっていても、そこを突くしかない。
それがルルーシュ自身、たまらなく嫌だった。
C.C.が部屋の暗がりから言う。
「まだ引き返せると思ってる顔だな」
「思っていない」
「嘘をつくな」
ルルーシュは机上のチェス盤を見た。
黒のキングは残っている。
だが周囲の駒は、もう盤上ではなく血の上に立っている気がした。
「……Lは正しい」
彼はぽつりと言った。
「今さらだが、あいつは正しい。
俺がここでさらに勝とうとすれば、もっと醜くなる」
「ならやめるか?」
「やめればユーフェミアはまた殺す」
ルルーシュは低く返す。
「俺が始めた以上、俺が終わらせるしかない」
C.C.はしばらく黙っていたが、やがて冷たく言った。
「それは責任じゃない。支配欲だ」
ルルーシュの視線が鋭くなる。
「何だと」
「お前は、最後まで自分が決めたいだけだ」
C.C.は容赦なく続けた。
「誰が生きて、誰が死んで、誰がそれを正しいと思うか。
その全部を、自分で選ばないと気が済まない。
だからLに見抜かれる」
言い返せない。
言い返せないことが、何より腹立たしい。
「……だったらどうしろ」
「知らない」
C.C.は肩をすくめる。
「ただ、今のお前がどれだけ正しい理由を並べても、ユーフェミアを殺せば、お前はそれを一生使い続ける。
“あの時必要だった”とな」
ルルーシュは目を閉じた。
必要だった。
たぶん本当にそうだ。
だからこそ救いがない。
翌朝、医療棟へ移送命令が出た。
表向きには、ユーフェミアを本国送還前に高度隔離設備へ移す、という名目。
実際には、護衛網の再編と、政治的処理のための準備だ。
Lはその移送経路を見て、すぐに言った。
「狙われます」
「奪取か暗殺か」
ワタリが問う。
「暗殺です」
Lは即答した。
「奪取ではなく。
しかも、現場を混乱させるより、責任主体が曖昧になる形を好むはずです」
「ルルーシュが仕掛ける」
「はい」
「止められますか」
Lは短く息を吐く。
「止めるしかありません」
彼はもう、ただの探偵ではなかった。
ルルーシュが作った因果の後始末をしながら、なおその中心にいる男を追う。
そんな役を、自分で選んだわけではない。
だが選ばれた以上、やるしかない。
「それから」
Lは付け加えた。
「枢木スザクを移送経路から外してください」
「反発しますよ」
「はい。でも必要です。
彼が現場にいると、ルルーシュの誘導が効きやすい」
ワタリがうなずく。
Lは窓の外を見た。
空は明るい。
昨朝と同じように、残酷なほど普通の朝だ。
「ルルーシュ・ランペルージ」
彼は誰にも聞かせるでもなく呟いた。
「あなたは昨日、自分で地獄を開いた。
だから今日は、その地獄を閉じるふりをして、さらに深くしようとする」
その声には怒りがあった。
ようやく、はっきりと。
「今度は、させません」