「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
第1試合(太平プロ通常興行):シングルマッチ「宮川三郎太VSシロオニ・ベス」
『さぁ、此度は異色の試合! 太平プロレスに道場破りさながらに乗り込んできたのはかのバカオニ……失礼、オニガシマブラザーズの妹を名乗る女子レスラー、シロオニ・ベス!』
会場の興奮を煽る実況の声が、古びた照明に照らされたリングに響き渡る。観客席は満員とは言えないが、この奇妙なカードを目当てに集まったファンの熱気で蒸せ返るようだ。
『モモタロウを出せ、さもなくば太平プロに残された彼のマスクを貰っていく。そんな宣言を代わって受けて立ったのは宮川三郎太! しかし、解説の松平林吾さん。太平プロとしては彼が代表でよろしいのですか?』
実況席には、腰痛気味で体をさすっている太平プロの団体社長であり半引退レスラーでもある松平林吾が座っている。彼はマイクを寄せられると、重々しく、しかしどこか他人事のように頷いた。
『ウム……。三郎太クンは今や我が太平プロの若手のエースの呼び声も高い。それに彼はモモタロウの弟分、いや弟子みたいなものだった。であればこの挑戦、彼の矜持を汲んでやらねば野暮というものだろう』
もっともらしい理由を述べる林吾だが、その視線はリング上の三郎太ではなく、売店の売り上げの方を向いている。実況アナは、その「逃げ」の姿勢を逃さなかった。
『なるほど、昨今は世界各国で強い女子レスラーたちが台頭している中です。ベルトホルダーでエースの林吾氏が受けて立たないのは……もちろん、負けるのが怖いからとかだったりはしませんよね?』
『ちがうよ? そんなことはないよ? 何を言っているのやら、ハッハッハ!』
語尾を震わせながら、あからさまに目を逸らして乾いた笑いを流す林吾。その様子に、実況のトーンには呆れの色が混じり始めた。
『白々しいお言葉ありがとうございました。しかし、ここ数年でのプロレスマット界の変質は一体何が原因なんでしょうか?』
『作者の趣味だな。男同士の試合とか見るのはいけど書くのはテンションあがらないだとか、この作品は私を目覚めさせた責任があるだとか、わけのわからないことをほざくたわけた性癖の……』
『やめてください! 1話冒頭からそんなメタ話をしたら読者がブラウザバックしてしまいます!』
実況が必死に林吾の口を塞がんばかりの勢いで身を乗り出し、慌てたツッコミがマイクを通して会場中に響き渡る。この異様なやり取りに、客席からもパラパラと乾いた笑いと野次が飛ぶ。そんなコント染みたやりとりはどこへやら、リング上の三郎太は、コーナーポストに背を預け、緊張の面持ちで深呼吸を繰り返していた。赤一色のシンプルなプロレスパンツにリングシューズ。身長174センチ、細マッチョと呼ばれる均整の取れた肉体は、日々の鍛錬の賜物だが、その表情には隠しきれない硬さがあった。黒髪短髪の青年は、対角線のコーナーを見やる。そこには、煌びやかな衣装を纏った対戦相手が佇んでいた。
(本当に、シングルで女子とやるのか……僕が)
その時だった。三郎太の足元のキャンバスがごとりと揺れ、エプロンサイドの垂れ幕がめくり上がった。
「……いいかね三郎太クン。彼女はかなりの怪力のようだ」
リング下から心技体のダサいマークとTAIHEIのロゴの入ったトレーナーにジャージズボン姿で顔を覗かせたのは、太平プロレスの中堅悪役レスラーであるグレート・イカサマだ。いつものインチキ臭いペイント顔だが、その眼光はいつになく鋭い。
「グレートさん、いつになく真剣な表情だ……はい、そうですね」
三郎太は内心で先輩の助言に感謝し、身を乗り出した。しかし、イカサマは真顔でとんでもないことを口走る。
「だから注意してかいくぐって、おっぱいだ! おっぱいを揉みたまえ!」
三郎太は思わずずっこけた。マットに手をつき、信じられないものを見る目でリング下の先輩を見下ろす。
「この真面目な場面で、何を言い出すんですか、何を!?」
「私はいたって大真面目だぞ! まだ試合のルールに対戦相手のおっぱいを揉んではいけないなどとは書かれて居ない! ノープロブレムなんだよ、三郎太クン!」
自信満々に親指を立てるイカサマに、三郎太は頭を抱える。
「もー……。はいはい、いつものグレートさんお得意の嘘なんですね」
嘘つきギミックで売っている先輩なりの、緊張をほぐすジョークだろう。そう受け流そうとした時、今度は反対側から別のトレーナーとジャージ姿の男が現れた。ぐるぐる眼鏡をかけたバッカス木桜だ。片手には分厚いルールブック、もう片手にはいつもの酒瓶ではなくペンを握っている。
「ルールブックを見たが、残念だが今回は嘘じゃねえみたいだぞ、三郎太」
「バッカスさんまで…」
眼鏡をはずしてフッと気障に笑っておもむろにバッカスは三郎太に優しく告げる。
「三郎太、最初はソフトにな?」
「もう二人ともすっこんでてください!!」
三郎太の悲痛な叫びを背に、先輩レスラーたちは「若いやつは元気でいいなあ」とでも言いたげに、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべてリング下へ消えていった。会場に流れるのは、応援というよりは冷やかしに近い失笑と、どこか同情の混じった拍手。味方であるはずのセコンドにまで梯子を外され、三郎太は完全に孤立無援の四角いジャングルに取り残された。だが、その喧騒を切り裂くように、無慈悲な試合開始のゴングが打ち鳴らされる。
カーン!
空気が一変する。三郎太は構えを取るが、視線のやり場に困っていた。対戦相手、シロオニ・ベス。身長は自分と同じ174センチ。アッシュブロンドのショートボブがライトに輝き、グレイッシュブルーの瞳が冷徹にこちらを射抜いている。何よりその衣装だ。黒と赤を基調とし、金色の縁取りが施されたビスチェトップ。豪華なアラベスク模様が全身を這う黒のロングレギンスは、彼女の脚線美を強調しつつも、どこか禍々しい「鬼」の風格を漂わせている。
(うぅ、目のやり場が……どうしても意識してしまう)
真面目でウブな性格の三郎太にとって、目前の光景は少々刺激が強すぎた。ビスチェから溢れんばかりの白い肌の肢体と、こちらを射抜く冷徹な瞳。その「美」に気圧され、じりじりと後退りする三郎太の足取りは、攻防のそれではなく、蛇に睨まれた蛙のそれであった。手四つ(力比べ)に挑もうと、おずおずと差し出した両手。その指先がわずかに震えた、その刹那――。
「何、照れてるの? さっさと来なさい」
ベスの涼やかな声が聞こえた瞬間だった。彼女の身体が沈み込む。三郎太が反応するよりも速く、鈍い音と共にベスの拳が三郎太の無防備な腹部に突き刺さった。
「ぐはっ!?」
肺の中の空気を強制的に吐き出され、三郎太の身体がくの字に折れる。強烈なボディブローだ。女子とは思えない重い衝撃が内臓を揺らす。前のめりに崩れ落ちそうになる三郎太の身体を、ベスはあろうことか両手で鷲掴みにした。
「ふんッ!」
ベスが気合と共に三郎太の身体を宙へ持ち上げる。リフトアップスラムだ。身長174センチの男子レスラーを、まるで軽い荷物のように頭上高く差し上げるその怪力。観客席からどよめきが起きる。
『信じられない! 鍛え抜かれた男子レスラーである宮川三郎太の肉体を、シロオニ・ベス、軽々と天高く掲げ上げたーっ! まさに重力を無視した鬼の怪力だ!』
実況の絶叫がホールを震わせる。解説席の松平林吾も、腰の痛みを忘れたように身を乗り出した。
『……あれは相当な背筋と体幹の強さだ。三郎太クン、完全に面食らっているな』
「あら、もう息切れですか? 女学生の私に負けるなど、団体若手エースとしては恥ずかしいと思いませんか?」
自分を抱え上げ、顔を上げた女子から放たれる挑発的な言葉。屈辱と遠心力が同時に襲い掛かり、次の瞬間、三郎太の背中はマットに叩きつけられていた。派手な音を立てたマットから強烈な衝撃が背中を走り、三郎太は苦悶の表情でバウンドする。
「なんて奴だ。三郎太の奴を軽々と持ち上げやがった!?」
セコンドについていたバッカスがスキットルを握りしめて驚愕の声を上げる。三郎太は痛みに顔を歪めながらも、本能的に跳ね起きた。やられたままでは終われない。若手エースの意地が彼を突き動かす。
「うおおおっ!」
雄叫びと共にロープへ走り、反動をつけてベスへ突進する。ショルダータックルだ。体重を乗せた一撃で吹き飛ばそうと迫るが、ベスは微動だにしない。
「遅いですね」
ベスの長い脚が鞭のようにしなった。カウンターのビッグブーツ。金色の編み上げロングブーツの硬いソールが、突進の勢いそのままに三郎太の顔面を捉える。
「がっ……!」
視界が火花で埋め尽くされる。たまらずのけぞり崩れ落ちる三郎太に対し、ベスは休むことなくロープへと飛んだ。背に反動を受け、しなやかな身体が宙を舞う。立ち上がろうとしていた三郎太の胸板に、フライングボディアタックによる弾丸のような体当たりが直撃した。三郎太は再びマットに這いつくばる。圧倒的だ。パワー、スピード、そして迷いのなさ。全てにおいて、今の三郎太を凌駕している。
『一方的な展開だ! 太平プロの若きエース、キャンバスに這いつくばったまま動けない! 林吾さん、宮川三郎太の意識は……!?』
悲鳴に近い実況の声に対し、林吾はマイクを掴むと、静かに、しかし確信を持って答えた。
『いや……まだだ。あいつの目は生きている。だが……』
喉元に重みを感じて、三郎太は薄く目を開けた。ベスの編み上げブーツが、無慈悲に彼の喉を踏みつけている。見上げると、そこには冷ややかな軽蔑の眼差しがあった。
「大した事ないのね? まぁ、あなたは私にとって踏み台でしかない。けれど、モモタロウの手がかりを得るため、容赦しませんよ」
踏み台。その言葉が、朦朧とする三郎太の意識に冷水を浴びせかけた。相手が女子だからと視線を逸らし、無意識に手加減をしていた自分。それは、目の前の強敵に対する最大の侮辱であり、レスラーとしてあるまじき慢心だ。三郎太の手が動く。喉を踏みつけるベスの足首を、強く、強く握りしめた。指先から伝わるのは、女子特有のしなやかな質感などではない。それは、いっそ岩を思わせるほどに硬質で、強固な筋肉の塊だった。
(……そうだ。失礼なのは、僕の方だ。けど!)
その皮膚の硬さが、彼女の積み上げてきた鍛錬の証として三郎太の掌を打つ。彼女は本気で自分を叩き潰しに来ている。ならば、キャンバスの泥を舐めているこの無様な姿こそが、自分の甘えに対する正当な報酬なのだ。三郎太の瞳から濁りが消え、純粋な闘志が宿る。
「……!」
ベスの眉がピクリと動く。足首から伝わる、獲物の明確な「変質」を彼女の直感が捉えていた。
「……だとしても! たとえ踏み台や障害だとしても、プロレスラーなら試合中の対戦相手にまっすぐ向き合うのが礼儀だろう…っ!」
喉を圧迫され、掠れた声。それでも三郎太の瞳には、先ほどまでの迷いは消えていた。ただ純粋な闘志だけが燃えている。
「……ッ!?」
ベスは一瞬、ハッとした表情を見せた。冷徹な仮面の下にある感情が揺らぐ。
「……ふふ、成程、痛い所を突かれました。が……それを言うなら『女子』相手だからと要らぬ遠慮をしたり、まっすぐに見なかったりしていた先ほどまでの貴方も同じことでは?」
痛烈な返し。だが、それは先ほど自分でも思い至っていた耳に痛い真実だった。
「……っ、それは、そうだ…。ごめん、非礼を詫びるよ、ベスさん……いや、シロオニ・ベス!」
三郎太の素直な謝罪。その言葉に、ベスはわずかに口角を上げた。嗜虐的な笑みではない。戦士として、相手を認めた笑みだ。彼女は喉元から足をどけ、スッと後ろに下がって手招きをした。
「いいわ。ではここまでの事はお互い様として水に流すということで。……そしてここからはお互い本気の勝負よ」
三郎太はゆっくりと立ち上がる。腹の痛みも、喉元の痺れも、納得の元で今はどこか心地よい。
「……ああ、もう遠慮はしない」
対峙する二人。その間に流れる空気は、先ほどまでの奇妙な違和感が消え、張り詰めた真剣勝負のものへと変質していた。
ベスが動く。鋭い呼気と共に放たれたのは、右のミドルキック。
「ぐっ……!」
肉を打つ音と共に三郎太の脇腹を、鉄の棒のような脛がえぐる。骨がきしむ音が聞こえるほどの威力。だが、三郎太は下がらない。歯を食いしばり、痛みを受け止める。肉を切らせて骨を断つ、それもまたプロレスだ。蹴り足が戻る一瞬の隙。三郎太は踏み込んだ。迷いのないステップイン。右肘を振り上げ、全身のバネを使って叩き込む。
「渾身の力……込めるんだ! ファイナルエルボーッ!!」
気をこめて、かすかに輝きを帯びた三郎太の肘が、ベスの美しい顔面を捉えた。汗が飛び散り、ベスの首が大きくのけぞる。
『入ったぁぁー! 三郎太の起死回生、ファイナルエルボーがベスの顎を打ち抜いた! 汗がダイヤモンドのように飛び散る!』
放送席の興奮に呼応するように、観客席のボルテージも最高潮に達した。
「……ぐっ!?」
よろめくベス。だが、その瞳は爛々と輝いていた。
「ふふ…遠慮なしは嘘ではないようね、上等ォ!」
髪を振り乱し、ベスは笑う。彼女もまた、闘いの中に悦びを見出す人種なのだ。追撃しようと組み付いてきた三郎太の腕を、ベスは逆に強引に巻き込んだ。体勢が崩れる。三郎太が気づいた時には、身体が宙に浮いていた。
「なっ!?」
ベスの得意技、エクスプロイダー。女学生の姿をした「白鬼」が、三郎太の身体を豪快に後方へと投げ捨てる。受け身をとる余裕すら与えぬ急角度。マットが悲鳴を上げ、三郎太の視界が明滅する。
「むぅ、最近伸び悩んでいるとはいえ、三郎太クンを相手に一歩も退かないとは……いやむしろ三郎太クンの方が押されている……!」
リング下のイカサマが、いつもの軽口を忘れて唸る。大の字になった三郎太を見下ろしながら、ベスは優雅に、しかし残酷に微笑んだ。
「フフ…少し熱くなってきました♪」
彼女は倒れた三郎太に歩み寄ると、その場で高く跳躍した。重力と体重、そして自身の肘の硬度を一点に集中させる。エルボードロップ。狙いは三郎太の鳩尾。
「がはっ……!!」
胃の内容物が逆流しそうな衝撃に、三郎太の身体がエビのように跳ねる。ベスは攻撃の手を緩めない。苦悶する三郎太の身体を強引に引き起こすと、アルゼンチンバックブリーカーの体勢へと担ぎ上げた。
「くっ、離せ……!」
「無駄です。これで……」
ベスが三郎太を担いだまま、不敵に宣言する。その体勢から、シットダウン式に相手の脳天をマットに突き刺す荒技、彼女が必殺と誇るフェイバリットの「白鬼金棒落とし」を狙っているのだ。ベスの膝が折れ、三郎太の頭部がマットへ向かって急降下する。死の恐怖が三郎太を襲う。だが、その刹那、三郎太の伸ばした指先が、奇跡的にロープへと触れた。
「だ……めだぁっ!」
指がロープに引っかかり、落下の軌道がわずかにズレる。
「おしまいよ! 堕ちろ! ……何っ!?」
勢いが殺され、三郎太は辛うじて致命傷を避けてマットへ転がった。フィニッシュを確信していたベスが、目を見開いて驚愕する。ふらふらと、しかし確かに、三郎太は立ち上がろうとしていた。その瞳には、まだ諦めの色は微塵もない。ベスの顔に初めて、焦りの色が浮かんだ。
(まだ……終わらせない。モモタロウさんがいなくても、僕が……僕が太平プロを守るんだ!)
三郎太は咆哮と共に、立ち上がりざまの頭突きを見舞う。
「きゃっ!?」
突然のヘッドバットにベスの顎がかち上げられる。野暮ったく、泥臭い、三郎太の意地の一撃だった。
「まだだぁっ! パワーじゃ負けても気力じゃ負けるものかっ!」
叫びと共に、三郎太は宙へ舞った。両足を揃え、無防備になったベスの喉元を狙う。起死回生のドロップキック。
「がはっ、げほっ……!」
喉を直撃され、ベスが激しく咳き込みながら膝をつく。これまでの優雅な余裕は消え失せ、苦痛に顔を歪めている。三郎太は肩で息をしながら、膝をつく彼女を見下ろした。お互いにダメージは深い。だが、ようやく対等の位置に立てた気がした。
「ハァ…ハァ…この辺でギブアップする気はないかい?」
三郎太の問いかけに、ベスは充血した瞳で睨み返す。その瞳の奥には、鬼の炎が揺らめいていた。
「……私の辞書に降参という二文字はありません。鬼の矜持に賭けて、例え首の骨が折れてもギブなんてしません…よ…!」
言葉とは裏腹に、彼女は笑っていた。極限の痛みの中でこそ輝く、狂気的なまでの闘争本能。三郎太もまた、口元の血を拭って笑みを返した。
ベスの双眸に宿る炎は、喉へのダメージで翳るどころか、より一層激しく燃え上がっていた。その執念は、まさに「鬼」の異名に相応しい。だが、その言葉を聞いた瞬間、三郎太の胸中にあった恐怖心は完全に消え去っていた。目の前にいるのは、単なる異性の対戦相手でも、得体の知れない怪力女でもない。命を賭してリングに立つ、一人の誇り高きプロレスラーだ。ならば、それに応えるのが礼儀であり、プロとしての誠意。
(なら、やるしかない。僕の持てる全てで、君を超える!)
三郎太が吼える。その気迫に呼応するように、ベスが立ち上がった。余裕という名の仮面が剥がれ落ちた今、彼女の表情に露わになったのは純粋な怒りと闘争本能を示す笑み。
「よくも……よくも降伏勧告などと私をコケにしてくれたなぁっ!!」
ベスが叫び、全霊の力で地を蹴る。憤怒に燃える彼女が放ったのは、もはやプロレスの技術を超えた、純粋な殺意の塊――怒りのラリアットだ。ぶん、と空気が爆ぜる音がした。喰らえば首が吹き飛ぶ。そう確信させるほどの凄まじいスイング。しかし、死線に身を置いた三郎太の脳裏には、皮肉にも兄貴分であるモモタロウの能天気な教えがスローモーションで蘇っていた。曰く、怒りに身を任せた攻撃は大味になる。
(直線的だ……!)
三郎太は引かなかった。むしろ、死のラリアットに向かって飛び込むように姿勢を低く沈み込ませた。頭上をベスの豪腕が通過する。空振った勢いで、ベスの身体が大きく流れた。その刹那、三郎太は死角となったベスの背後へ滑り込んでいた。好機。だが、相手は自分と同じ体格を持ち、しっかりと低い重心でラリアットへ力をこめて突進している相手だ。生半可な力では持ち上がらない。しかし、三郎太は迷わなかった。両腕をベスの腰に回し、深く、強くクラッチする。
「うおおおおおっ!!」
全身の筋肉が悲鳴を上げる。足腰のバネ、背筋、そして何より「負けられない」という心の力が爆発する。三郎太はベスの身体を一気に引き抜いた。
「なっ……!?」
ベスの視界が反転する。天井の照明が流れるように視界を過ぎ去り、己の身体が宙高く舞い上がっていることを認識する。ハイアングル・バックドロップ。三郎太が放ったのは、単なる背後への投げではない。相手を垂直に近い角度まで抱え上げ、脳天から落とす危険な荒技だ。マットが大きく波打つほどの衝撃音。受身を取り損ねたベスの後頭部と背中が、容赦なくキャンバスに叩きつけられた。肺の中の空気が全て弾け飛び、ベスの口から声にならない呻きが漏れる。
「がっ……は……っ」
会場が静まり返るほどの威力。だが、三郎太の手はまだ離れていない。ここで終わらせてはならない。相手は「鬼」だ。一瞬でも気を緩めれば、その驚異的なタフネスで蘇ってくる。三郎太は、確信を胸に自らも背中を強打した痛みに耐えながら、跳ね起きた。朦朧としてすぐには動けないベスの身体を、無理やり引き起こす。
「こ、これで……終わりにするんだ……!」
三郎太の息も絶え絶えだ。視界は霞み、腕の感覚も麻痺しかけている。それでも彼は、ベスの正面に立った。ベスの左脇に自身の頭を差し込み、腰をクラッチする。意識が飛びかけているベスは、抵抗できない。その白くなめらかな肌に、三郎太の汗ばんだ腕が食い込む。三郎太はベスの両腕ごと腰を深くロックした。逃げ場を完全に封じる。そして、残された全ての力を脚に込め、後方へと反り投げた。
「これが僕の、全力だぁ……っ!!」
三郎太の絶叫がホールに響き渡る。美しい放物線を描き、二人の身体が宙を舞った。ノーザンライトスープレックス。三郎太にとって長らくつきあってきた相棒たる技、美しいブリッジを。誰よりも高く、誰よりも華麗に。
二度目の衝撃がベスを襲う。だが、今度は投げっぱなしではない。三郎太は着弾の衝撃に耐え、爪先立ちで身体を反らせたまま、完璧なブリッジを描いて固めた。
『出たー! 伝家の宝刀、ノーザンライトスープレックス・ホールド! 見てくださいこのブリッジ、一点の淀みもありません!』
実況が喉を枯らして叫ぶ中、林吾はただ一言、『……勝ったな』と、自らの団体が誇る若手エース選手の勝利を予見するように呟いた。美しい虹のようなアーチがリング上に架かる。ベスの両肩は完全にマットにつけられている。どんなに暴れようとしても、がっちりとクラッチされた腕と、極限まで反り上がったブリッジがそれを許さない。これが、宮川三郎太の必殺技、ノーザンライトスープレックス・ホールド。
レフェリーがマットに滑り込む。掌がキャンバスを叩く音が、静寂を切り裂いた。
「ワン!」
ベスの脚がわずかに動く。だが、跳ね返す力はない。
「ツー!!」
観客席から悲鳴のような歓声が上がる。ベスの瞳から光が消えかけている。
「……スリー!!!」
カンカンカーン!!!
試合終了を告げるゴングが乱打された。会場が爆発したような大歓声に包まれる。三郎太はブリッジを解くと、崩れ落ちるように横たわった。天井のライトが眩しい。全身の筋肉が痙攣し、指一本動かせないほどの疲労感が襲ってくる。だが、その疲れすら心地よかった。勝ったのだ。強敵に、意地を見せて。
「……はぁ、はぁ……」
しばらくして、三郎太はよろめきながら立ち上がった。レフェリーに手を挙げられ、勝利の名乗りを受ける。しかし、彼の視線はすぐに足元の対戦相手に向けられた。ベスは仰向けに倒れたまま、呆然と天井を見上げていた。アッシュブロンドの髪は乱れ、激闘の痕跡を物語っている。彼女はゆっくりと上体を起こすと、信じられないものを見るような目で自らの掌を見つめ、そして三郎太を見上げた。
「……負け……た……? 私が? モモタロウですらなく、その弟分を名乗る男に……?」
震える声。そこには屈辱よりも、理解が追いつかないという困惑が色濃く滲んでいた。三郎太は、やはり胸が痛んだ。いくら試合とはいえ、女子相手に全力で叩きつけてしまったのだ。彼は腫れた顔を引きつらせながら、ベスに歩み寄った。
「……ベスさん。悪いけどモモタロウさんは……」
せめてもの誠意として、彼女が探している兄貴分のことを話そうとした。マスクの件も、何とか話し合いで解決しなければならない。しかし、ベスの反応は予想外のものだった。彼女はふらりと立ち上がると、まるで憑き物が落ちたような、それでいてどこか熱っぽい瞳で三郎太を凝視した。
「……モモタロウ? そんなことはもうどうでもいいわ」
「えっ?」
三郎太は耳を疑った。あれほど執着していた相手のことを、どうでもいいと切り捨てたのだ。ベスは一歩、また一歩と三郎太に詰め寄る。その迫力は、試合中の殺気とはまた異なる、ねっとりとした圧力を孕んでいた。
「宮川……三郎太さん……だったわね? 貴方、私のリベンジリストのトップに入ったわ。覚悟しておいてくださいね」
彼女は三郎太の胸板に人差し指を突きつけ、妖艶に微笑んだ。その笑顔は、背筋が凍るほどに美しい。
「くっ……わかった」
三郎太は身構えた。リベンジ。当然だろう。これだけの激闘をしたのだ、彼女のプライドが許すはずがない。いつでも挑戦は受けて立つ。プロレスラーとして、それが務めだ。そう覚悟を決めて頷いた三郎太の耳に、ベスは顔を寄せ、甘い声でとんでもない爆弾を投下した。
「……三郎太さん、貴方は今日この時から私の『旦那様候補』よ……!」
「いつでも挑戦は……。……なんて?」
三郎太の声が裏返った。
『……えー、実況の私、長年プロレスを見て参りましたが、リング上での「公開プロポーズ」ならぬ「公開旦那様候補指名」は……初めて見ました……』
実況が絶句し、放送事故寸前の静寂が流れる。思考が停止する。旦那様? 候補? リベンジリストというのは、そういう意味のリストだったのか? パニックに陥る三郎太をよそに、ベスは満足げに微笑むと、優雅にリングを後にした。その背中は、負けた者とは思えないほど晴れやかで、そして新たな獲物を見つけた狩人の歓喜に満ちていた。リングに残されたのは、観客の拍手と、理解不能な状況に呆然と立ち尽くす勝者一人。解説席の松平社長が「若いねぇ」と他人事のように笑い、グレート・イカサマが「……結果的にはおっぱい揉まなくてよかったですなぁ、三郎太クン……」と感慨深げにしたり顔で頷いている。
これが、宮川三郎太の受難の日々の幕開けであったことは、言うまでもない。鬼の求愛から始まるこれからの日々が、プロレスの試合よりも遥かに過酷で、タフな戦いになることを、彼はまだ知らなかったのだ。