「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
合同興行の会場施設、プロレス団体「ノワール・ゲート」側の控室。冷ややかな空気が流れる室内で、神宮寺はモニターに映し出される映像を凝視していた。
勝利を収めたライジング雫が、太平プロレスの古臭い熱気そのままに観客たちに声をかけられ肩を叩かれながら通路を退場していく。映像の端では、格闘技配信サービスから派遣された実況アナウンサー・影山が、スワイプ操作で画面を切り替えつつ、興奮気味に視聴者コメントを読み上げている。
「まさか羽衣君がライジング雫に負けるとは。僕の弾き出したデータの範疇を越えてはいませんが、今日の彼女は随分と上振れている。……古臭い太平プロレスの『根性と気合』とやらも、なかなかどうして大したものですね」
神宮寺はタブレットを指先で弾き、データを更新しながら淡々と言った。その隣では、ノワール・ゲートの取締役である門脇が、不機嫌そうに腕を組んで鼻を鳴らしている。
「他人事のように言うな。この対抗戦は、我が団体がこの二年で積み上げた準備と布陣を見せ、その実力と興行価値を世に知らしめるためのショーだ。全敗などという展開になれば、さすがに今後の営業戦略に差し障りの一つも出ないとは言えんのだぞ」
門脇の焦燥は明らかだった。サブプライムローン問題で一度は全てを失った彼にとって、この新興団体「ノワール・ゲート」の成功は再起をかけた絶対条件だ。控室の空気は、彼の胸中を映すように重く張りつめている。彼に任せて背を押してくれた大恩あるオーナーの期待に応えるためにも、太平プロレスという「時代の遺物」に振り回されるのではなく、巧みに利用して見せねばならない。一方で神宮寺は、門脇の事情を深く知らぬまま、雫の勝利が興行全体に与える影響を頭の片隅で計算しつつ、タブレットの数値を淡々と更新していた。
「大丈夫ですよ、取締役。副将戦で僕も出ますし……。ジェニーはいささか子供っぽすぎますが、実力面では間違いなく若手の中ではトップクラス。その強さは本物だ」
神宮寺の言葉に、門脇は少しだけ表情を和らげたが、すぐに視線を鋭くした。
「ならいい。元々、1勝は譲って太平プロに華を持たせるつもりだった。話題性のために『3勝1敗』での決着を狙っていたが、最低でも2勝2敗の痛み分けには持ち込まねば。次鋒戦は……結城だったな」
「まあ、結城は勝てないでしょうが……。心配性ですね、取締役は」
神宮寺は肩をすくめ、嘲笑に近い笑みを浮かべた。彼にとって、学生プロレス出身の新人・結城蓮は、将来性こそ見込めるものの、現段階ではあくまで頭数合わせの駒に過ぎない。対する太平プロレスのガータ御子柴は、メキシコ遠征帰りの凶悪なヒールだ。データ上、この試合は御子柴が結城をいたぶり尽くす「残酷なショー」になるはずだった。
「外ならぬオーナーの期待を裏切るわけにはいかん」
門脇の重々しい言葉を、神宮寺は「左様で」と適当に聞き流した。門脇の焦りの根を知らぬ神宮寺にとって、この試合はすでに「結果の見えたカード」でしかなく、興味はその先に控える自らの戦術披露へと移っていた。
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会場の照明が落とされ、重厚なビートとともに「ノワール・ゲート」の結城蓮が入場する。肩まで伸びた黒髪を後ろで束ね、赤いバンダナをきつく締めたその表情は、極度の緊張と、それを上回るほどの情熱に満ちていた。筋肉はまだ薄く、ベテランレスラーたちに比べれば華奢な体躯。だが、その瞳には新人の青臭さと、一歩も引かないという強い意志が宿っている。観客席からは期待と不安が入り混じったざわめきが起こり、結城の足取りはそのざわめきを吸い込むようにわずかに硬くなる。
続いて、太平プロレスのガータ御子柴の入場テーマが鳴り響く。ネコミミをあしらった黒と赤の露出度の高い衣装。網目状のワンピースが、白皙の肌を扇情的に強調している。ゆっくりとリングへ歩を進める彼女は、紅色の瞳で結城を舐めるように見つめ、唇を吊り上げた。その歩みには、愉悦と悪意が滲んでいるかのようだ。
「さぁて、相手は可愛い男の子♡ どう料理して盛り上げてやろうかニャ……?」
リング中央で対峙した際、御子柴が放った吐息混じりの言葉に、結城は顔を赤くしながらも拳を握りしめた。緊張で喉が鳴りそうになるのを必死に押し殺し、震える足を前に出す。
「バ、バカにしないでください! 僕は……僕は全力で戦います!」
実況の影山アナの声が、ボルテージの上がる会場に響き渡る。
『「太平プロレス」と「ノワール・ゲート」による合同興行、いよいよ次鋒戦の時間ですネ。先鋒戦ではライジング雫選手が見事な逆転劇を見せ、勝ち星を太平プロにもたらしましたが、この流れを太平プロが守るのか、あるいはノワール・ゲートが巻き返すのか! 解説のエディさん、この一戦、いかがご覧になりまして?』
放送席に座る「オトギプロレスリング」の女傑、エディ・ダンテスは、腕を組みながら御子柴を注視していた。
『うむ。結城君はいい目をしている。だが、学生プロレス上がりとは言えデビューしたて。相手が御子柴というのは酷なマッチメイクだな。……というか、あれが本当に御子柴? デビューの頃とはまるで別人じゃないか』
『配信サービスの視聴者コメントでは既に「蓮きゅん逃げて!」という悲鳴と、「お姉さんに可愛がってもらえ」「爆発しろ」といった、やっかみみたいなのが吹き荒れてますワ。あら、ガータ御子柴は先月の太平プロの興行では宮川三郎太と互角の死闘を繰り広げたらしいですネ』
問いに答えているのか単なる感想なのか、影山アナが独特のイントネーションでのんびりと告げる。
『メキシコ遠征に出ていたとは聞いていたが、向こうでヒール転向していたのか……』
唸るエディを余所に、レフェリーが両者の間に立ち、右手を高く掲げた。結城は低く構え、獲物を狙う鷹のような鋭い視線を御子柴へ向ける。一方の御子柴は、余裕たっぷりに腰をくねらせ、指先で自分の唇をなぞりながら、結城を挑発し続けていた。その仕草に、観客席からは期待とざわめきが混じった笑いが漏れる。
『先の試合のように下馬評は覆るのでしょうか!? さぁ、今試合開始のゴングが鳴ります!』
カーン、という乾いた音が会場に響くと同時に、結城蓮の体が弾かれるように動いた。その瞬間、空気がわずかに揺れた。観客の視線が御子柴から結城へと一斉に移る。
「はあああぁっ!」
結城は迷わなかった。格上の相手に対し、立ち上がりの主導権を渡すのはどう考えても悪手だ。彼は地を蹴るような勢いで前方に飛び出すと、自らの体を弓のようにしならせた。踏み切りの音すら掻き消えるほどの速さだった。空中で鮮やかに反転し、両足を揃えた一点集中のドロップキックが、まだ余裕の笑みを浮かべていた御子柴の右膝を正確に撃ち抜いた。
「っ……!? ニャっ!?」
不意を突かれた衝撃に、御子柴の端正な顔が驚愕に歪む。強靭な脚力に支えられていた彼女の体が、ドロップキックの衝撃に耐えきれず、ガクリと崩れる。思わず片膝を突く形となった御子柴に、結城は着地と同時に次の一手へと意識を加速させる。しかし、膝をついた御子柴の口元には、すぐに健気に抵抗する獲物を見る捕食者のような、愉悦の滲んだ笑みが戻っていた。跪いた御子柴へ、結城は勢いに乗って一気に畳み掛けるべく、低い姿勢のままタックルを仕掛けていく。だが、御子柴の動きは結城の想定を文字通り、軽々と超えていた。彼女は結城が衝突する直前、バネのようにマットを蹴って宙を舞った。リープフロッグ――馬跳びの要領で結城の突進を鮮やかに飛び越えた御子柴は、着地と同時に振り返り、無防備な結城の尻をその掌で思い切り引っぱたいたのだ。
「あはは、良い音だニャ!」
パァン、という乾いた音が場内に響き渡る。あまりにも屈辱的で、挑発的な行為。結城の耳までが、怒りと羞恥心で一気に朱に染まった。学生プロレスを経てプロの門を叩いた彼にとって、プロのリングは憧れの場であり、彼なりに威厳を感じる戦いの場だ。そこでおもちゃのように扱われたことが、新人の純粋なプライドを激しく逆なでした。
「くそぉ! うおおっ!」
結城は吠えた。振り向きざま、感情に任せて御子柴の首元、そして豊かな膨らみが強調された胸元へ、エルボーの乱打を叩き込む。一発、二発、三発。だが、ガードもせず、されるがままに衝撃を受け止める御子柴は、苦悶の表情を浮かべるどころか、喉の奥を震わせて悦びを漏らしていた。
「んっ♡ あん♡ 新人にしてはいい威力だニャ。いや~ん、効くぅ♡」
わざとらしいほどに甘い喘ぎ声を漏らして見せ、御子柴は結城の攻撃を「楽しんで」いたのだ。至近距離で浴びせられる熱い吐息、網目越しに伝わる肌の弾力、そして場内を当惑させるには十分すぎる嬌声。ウブな結城の動きが、その予想外の空気にわずかに鈍る。
その一瞬の隙を、御子柴の野生の猫のような本能は逃さない。彼女は不意に結城のエルボーに押されるように背後へ身体を傾け、そのまま流れるようなバックハンドスプリングへ移行。勢いを利用したサマーソルトキックが、結城の顎を下から鋭くカチあげた。
「……ッ!?」
彼女のしなやかな脚が円を描き、結城の視界が反転する。脳を揺らす衝撃に、結城の視界が白く明滅する。足元がふらつき、膝が笑う。そんな結城を冷ややかに見下ろしながら、御子柴は人差し指を立てて左右に振る「チッチッ」という仕草を見せた。まるで「なってないな、ボウヤ。練習不足かい?」とでも言うように。観客席からは、結城を案じる悲鳴と、御子柴の悪辣な美しさに魅了された溜息、そして卑俗な野次が入り混じったカオスな声が降り注ぐ。結城は意識の混濁を必死に振り払い、泥臭く御子柴の腰に腕を回した。こうなれば力技だ。ボディスラムで叩きつけ、流れを変える。そう確信して彼女の体を抱え上げてマットへ叩きつけようとした瞬間、結城の視界から御子柴の体が消えた。正確には、御子柴は「投げられる動き」をそのまま自らの回転力へと変換していたのだ。御子柴は結城の首を両脚で固く挟み込み、ウラカン・ラナの体勢へと持ち込んだ。力づくで投げようとした結城の踏ん張りが仇となり、彼女の体重と回転エネルギーがすべて首へと集中する。勢いよくマットへ頭部を突き刺された結城の上に、御子柴はそのままの形で跨り、結城の頬を押し潰すように伸し掛かる。
「ほぉら、お姉さんが遊んであげるニャ」
御子柴は結城を見下ろしながら、挑発的に腰をくねらせる。無様にマウントされ、視界を彼女の衣装に塞がれた結城の顔は、屈辱と羞恥、そして呼吸の苦しさでさらに赤黒く染まっていく。
「や、やめ……ろ……っ!」
必死の思いで彼女の体を跳ねのけ、結城は転がるようにして立ち上がった。屈辱に震える足でロープを背にし、一気に加速する。なりふり構わぬショルダータックル。それは未熟ながらも、彼の全身全霊を乗せた体当たりだった。
「おおおおおっ!」
まともに衝突した御子柴の体が、車に撥ねられたスチール缶のように後方のロープまで吹き飛ばされる。だが、彼女はその勢いで衝突したロープの弾力を逃さなかった。背中で反動を受け、弓のようにしなって前方へ跳ね返る。その勢いを乗せたミサイルキックが、結城の胸板に突き刺さった。
「がはっ……!」
凄まじい衝撃に結城の体が宙を舞い、マットに叩きつけられる。その際、彼のトレードマークである赤いバンダナが解け、床に力なく落ちた。乱れた黒髪がマットに広がる。反則ばかりと聞いてあまり御子柴の試合を見ていなかった一部観客たちが、見事なルチャ仕込みの空中殺法を目の当たりにして評価を改めたのか、観客席のあちこちで感嘆の声が上がった。
御子柴は勝ち誇ったように笑い、息を整えながら、獲物を仕留めるためにゆっくりと歩み寄った。倒れた結城の髪を掴み、引き起こしてさらなる絶望を味合わせようとする、その時だった。死んだふりをしていたわけではない。だが、結城の執念はまだ潰えていなかった。彼は自分を掴もうとした御子柴の右脚を、マットに這いつくばったまま両腕でガッチリと捕らえた。御子柴が眉をひそめた瞬間、結城は残った力を振り絞り、自らの体を軸にして鋭く回転した。
「ニャっ!? あぁっ!」
ドラゴンスクリューによる脚の関節を無理やり捩じり切るような旋回運動に、御子柴の悲鳴が上がる。彼女の美しい体がマットの上で激しく一回転し、今度は御子柴が悶絶する番となった。膝を痛めつけられた御子柴が、苦悶の声を上げてマットの上を転がる。その光景は、結城にとって千載一遇の好機であり、同時に彼の中にある「何か」のスイッチを入れる引き金となった。相手は格上の女子レスラーだ。だが、今は無防備にマットに倒れて身悶えている。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
結城は乱れた呼吸を整える暇もなく、痛む体を叱咤して動いた。倒れた御子柴の元へ駆け寄ると、彼女が体勢を立て直すその前に、空高く躍り上がる。
「とおっ!!」
重力に従い、自身の全体重を膝の一点に乗せて落下する。鈍い音が響き、ニードロップによって結城の膝が御子柴の無防備な腹部に深々と突き刺さった。
「かふっ……!?」
御子柴の口から空気が強制的に吐き出され、その美貌が苦痛に歪む。観客席からはどよめきが起きた。新人の、それも本来ならば嬲られる役回りであるはずの結城が、ヒール相手に的確な一点集中攻撃で逆襲からの攻勢に入ったのだ。
結城は、ニードロップの衝撃で体が「く」の字に折れ曲がった御子柴の脚を両腕で抱え込む。
「まだだ、まだ終わらない!」
結城は叫び、そのまま御子柴の体を裏返すようにステップオーバー。うつ伏せになった彼女の腰にどっかりと腰を下ろすと、抱え込んだ両脚を強引に引き絞り、自身の背を反らせた。プロレスの基礎中の基礎でありながら、逆エビ固めの威力は絶大だ。腰と背骨が、限界を超えた角度へと反り上げられる。
「う、ぐうぅぅっ……! ギブアップ……してください!」
結城は顔を歪めて叫んだ。それは懇願に近い叫びだった。これ以上女性を痛めつけたくないという優しさと、ここで決めなければ自分に勝機はもう来ないという必死さが入り混じっている。背骨が軋む音が聞こえてきそうなほどの急角度。だが、マットに顔を押し付けられた御子柴の反応は、結城の想像を絶していた。
「あぁっ♡ ……いまの、いい刺激だニャ……もっとぉ♡」
苦悶の声に混じる、明らかに場違いな甘い響き。御子柴は涙目で喘ぎながら、激痛を快楽として貪るかのような声を漏らしたのだ。
『決まったー! 結城選手、渾身の逆エビ固め! しかし、これにガータ御子柴、悦楽の表情! アラアラ、視聴者コメント欄は「お巡りさんこっちです!」「なんなのあの女!?」「放送事故だろw」と大荒れですわネ。プロデューサー、平気ですの? あ、まだセーフ?』
影山アナの興奮とも困惑ともつかない実況が響く。会場の空気も、結城の健闘を称える熱気と、御子柴の倒錯したキャラクターに引く冷気が入り混じった奇妙なものになっていた。 しかし、解説のエディ・ダンテスだけは冷静にリング上の「真実」を見抜いていた。
『……いや、御子柴の指先を見てみろ、マットを掴む力が尋常じゃないぞ。声や顔とは裏腹に、なりふり構わずロープへ逃げようとしている』
エディの指摘通り、御子柴の指はマットのキャンバス地を食い破らんばかりに強く握りしめられ、白くなっていた。口では挑発的な台詞を吐きながらも、その体は生存本能に従い、僅かずつ、だが確実にロープの方へと這っている。
『えっ? ……あ、本当ですネ! どうやら効いているみたいですヨ、視聴者の皆さん!』
『御子柴の奴、めんどくさい女になったな……。だが、結城君の腰の入れ方は本物だ。ここでダメージを蓄積できればあるいは。いやそれでも苦しいだろうが……』
エディの声には、素直じゃない女への呆れと、新人の奮闘に対する僅かな期待が滲んでいた。結城は必死だった。汗が目に入り視界が滲む。腕の筋肉が悲鳴を上げている。それでも、この技を解くわけにはいかない。
「逃がすもんか……!」
さらに腰を落とし、角度をきつくする。御子柴の背中が限界までしなる。だが、彼女の執念もまた凄まじかった。痛みと快楽の狭間で震えながらも、指先を伸ばし続ける。あと数センチ。あと数ミリ。
『あ~っと、ガータ御子柴、ここでロープブレイク! 結城蓮、決めきれなかったか!?』
御子柴の手がロープに触れた瞬間、レフェリーが即座にブレイクを命じた。
「ブレイク! ブレイクだ!」
結城は無念の表情で技を解いた。拘束から解放された御子柴は、全身にびっしょりと脂汗を浮かべていた。荒い息をつきながら、這うようにしてロープ際へと退避する。チャンスを逃した結城だったが、彼の闘志は衰えていなかった。ふらつきながらもロープを掴んで立ち上がろうとする御子柴の背中を見て、追撃の手を緩めない。
「立て! まだ試合は終わってないぞ!」
結城は御子柴の背後から近づき、乱れた黒髪を鷲掴みにして無理やり引き起こそうとした。新人らしい、なりふり構わぬ荒々しさだ。だが、それが彼女の逆鱗に触れた――あるいは、彼女に「反撃の口実」を与えてしまった。結城の手が髪にかかったその刹那、御子柴の目が鋭く光った。彼女は振り返りざま、その前腕を強烈な勢いで振り上げた。
「オラッ!」
鈍く、嫌な音がした。狙いは正確無比。無防備に開かれていた結城の股の間を、硬い前腕がローブローでカチ上げたのだ。
「ひんっ!?」
結城の口から、およそプロレスラーらしからぬ情けない悲鳴が漏れた。脳天まで突き抜けるような激痛に、彼の体は一瞬で硬直し、そのまま膝から崩れ落ちて悶絶する。御子柴は冷酷に見下ろしながら、鼻を鳴らした。
「生意気におねーさんの髪つかんでんじゃねーニャ」
先ほどまでのマゾヒスティックな表情は消え失せ、そこには冷徹なハンターの顔があった。金的攻撃という反則にレフェリーが慌てて注意に入るが、御子柴は「手が滑っただけだ」と言わんばかりに肩をすくめる。
痛みでうずくまる結城の髪を、今度は御子柴が鷲掴みにした。
「さぁて、こっからはお姉さんのターンだニャ」
抵抗できない結城を引きずり、彼女はコーナーポストへと向かう。脂汗を流し、意識が朦朧としている結城を、彼女は強引にコーナーの最上段へと座らせた。
「な、何を……」
結城が弱々しく抵抗するが、金的攻撃のダメージから脱していない体では御子柴の怪力を振りほどけない。御子柴もまたコーナーに登り、結城の正面に立つ。彼女は結城の首裏と膝裏に腕を回し、その体をやさしく抱きしめるように抱え上げた。
「頑張ったごほーびをあげるニャン」
耳元で囁かれた処刑宣告。結城の視界が回転し、天井の照明が眩しく目に刺さる。
「や、やめ……」
結城の懇願は、無慈悲な重力によって掻き消された。御子柴は自らも跳躍しながら水平に旋回し、抱え上げた結城の体を下方マットへと叩きつけた。雪崩式の変形スパインバスターであるアビスキャットドライバー。高低差と遠心力、そして二人の体重がすべて結城の背面に集中する。リングが悲鳴を上げ、マットが大きく波打った。凄まじい衝撃音が会場を揺らす。結城の体はバウンドし、そのままぐったりと動かなくなった。観客席から悲鳴に近い歓声が上がる。勝負は決した。誰もがそう確信した。
御子柴はゆっくりと体を起こし、乱れた衣装を直しながら、大の字で伸びている結城を見下ろした。すぐにフォールにいけば3カウントは確実だ。しかし、彼女はその選択をしなかった。代わりに、結城の体を足先で小突き、うつ伏せに転がすと、その無防備な背中を自身のブーツで踏みつけた。体重を乗せた容赦のないストンピング。肋骨がきしむ音が聞こえてきそうだ。
「あぁっ……! ぐぅぅ……ッ!?」
「いい声で鳴くじゃねーか。お姉さん興奮してきたニャ……♡」
御子柴は恍惚とした表情で、動かない結城を蹂躙し続ける。それは試合という枠を超えた、一方的な刑罰のようだった。
「……う、あ……」
結城の口から呻き声が漏れる。弱々しい動きを見て、御子柴はふと足蹴にするのをやめた。「お、まだ頑張るのかな?」と品定めするような視線を送る。
その一瞬の静寂の中、結城は動いた。意識はほとんど飛んでいる。体は鉛のように重い。だが、本能だけが彼を突き動かしていた。彼は震える手で御子柴の脚にしがみつき、すがりつくようにして膝立ちになった。
「……っ!」
目の前に立つ御子柴の腹部へ、結城は右腕を振るった。水平チョップによってパチンという乾いた音がした。だが、それはあまりにも軽く、あまりにも弱々しい一撃だった。御子柴の体は揺らぎもしない。攻撃と呼ぶにはあまりにも無力で、しかし、彼の折れない心を示すには十分すぎる一撃だった。
「……まだ、だ……」
結城は掠れた声でそう呟くと、それが限界だったのか、そのまま御子柴の体に寄りかかるようにもたれかかった。力尽き、崩れ落ちてきた結城の身体を、御子柴は愛おしげに、そして残酷に受け止めた。彼女は獲物を絡め取る大蛇のように、あるいは戯れる猫のように、しなやかな両脚を結城の胴に巻き付ける。すでに抵抗する力すら残っていない結城の首に、彼女の白く細い、しかし鋼のように鍛え上げられた腕が滑り込んだ。
「……あ、が……っ、は……っ!!」
気道を瞬時に塞がれ、結城の喉から空気の漏れる音が鳴る。御子柴は恍惚とした表情で、自らの腕に力を込めた。頸動脈を圧迫し、意識を刈り取るための拷問技――胴締めスリーパーホールドだ。
「三郎太も、お前みたいに可愛く鳴けばいいのにニャ……。ほら、もっと苦しそうな顔を見せて、ボウヤ……♡」
御子柴は結城の耳元で甘く囁きながら、全身の筋肉を連動させて締め上げの威力を増していく。意識が遠のく結城の視界には、歪んだ天井の照明と、悪魔のような笑みを浮かべる御子柴の口元だけが焼き付いていた。
「やめなさい! 首に入ってる! チョークだ!」
異変を察知したレフェリーが、すぐさま二人の間に割って入ろうとする。
「警告だ! 離さないとカウントを取るぞ!」
レフェリーの鋭い叱責が飛ぶ。だが、愉悦の絶頂にある御子柴の耳には、その警告すらスパイスに過ぎなかった。
「うるせえニャ、これでいいんだろ」
彼女はあろうことか、スリーパーをロックしている腕の位置をずらし、結城の口と鼻を強引に腕で覆い尽くしたのだ。これでは呼吸ができないどころか、「ギブアップ」と叫ぶことすら許されない。完全なる窒息状態。結城の目が白黒し、手足が痙攣し始める。会場がどよめきから悲鳴へと変わる中、結城の意識は暗闇へと沈みかけていた。だが、その深淵の縁で、生存本能だけが微かに明滅する。
(負け……たくない……!)
朦朧とする意識の中で、彼は足を動かした。どこにあるかもわからないロープを求めて、無様に、しかし必死に足を伸ばす。
つま先が、硬い感触を捉えた。ロープだ。
「ロープ! ロープブレイクだ! 離せ!」
レフェリーが叫び、御子柴の肩を揺さぶって技を解くように促す。だが、今の御子柴にとって、いちいちうるさいレフェリーは邪魔なノイズでしかなかった。
「何度も何度もうるせえニャ! 今いいところだからちょっとひっこんでろ!」
興奮と加虐心が理性を凌駕していた。御子柴は絡みついていた技を乱暴に解くと、怒りのままに目の前の邪魔者――レフェリーの胸を両手で力任せに突き飛ばした。
「うわっ!?」
不意を突かれたレフェリーの体が宙を舞う。彼は為す術もなく吹き飛ばされ、コーナーの鉄柱に背中から激突した。鈍く重い音が響き、レフェリーがマットにうずくまる。
一瞬の静寂。事態を理解できていない観客たちが息を呑む中、痛みに顔を歪めながらも立ち上がったレフェリーは、毅然とした態度でゴングを要請し、両手で×印を作った。
カンカンカンカンカン!!
試合終了のゴングが乱打される。
「あっ」
その音を聞いて、ようやく御子柴の熱が冷めた。我に返った彼女は、きょとんとした顔で周囲を見渡す。
『あーっと! 何ということでしょう! 興奮したガータ御子柴、邪魔だとばかりにレフェリーを突き飛ばしてしまいました! ここで反則負け裁定!? なんと一発レッドカードですワ! ガータ御子柴、これはやってしまった~!』
影山アナの素っ頓狂な声が、事態の深刻さと滑稽さを同時に伝える。解説席のエディ・ダンテスが、気まずそうに頭を抱えた。
『……あ~あ、人間さんは厳しいからなぁ……』
『珍しい名字ですわネ、人間と書いてひとまさん。普段はオトギプロの興行でレフェリーをなさっているとか?』
影山は指先でレフェリーのデータを画面に呼び出し、読み仮名を確認して首を僅かに傾けた。
『うん。まぁ、でも注意を経てるしちゃんと段階は踏んでるからなぁ。御子柴の自業自得だろう……だよね?』
エディの声には自信がなかった。自分が連れてきたレフェリーが試合を止めたことで、空気が凍りついていることへの責任を感じているようだ。
『さて、どうですかしら? これで記録上は結城選手の勝利……ですがあの姿。勝者としてコールされているのに、ピクリとも動けません。ぶざ……ちょっと可哀想なお姿に視聴者コメント欄も「蓮きゅんが壊れた!」「御子柴、地獄に落ちろ!」「なんていうか……その…下品なんですが…フフ……」「それ以上いけない」と阿鼻叫喚ですワ』
リングアナウンサーが、戸惑いながらもコールを行う。
「勝者、結城~! 結城~! ガータ御子柴の反則負け裁定により、結城蓮の勝利です!」
勝者の手が挙げられることはない。結城はマットの中央で大の字になり、なかば白目を剥き、口端からよだれを垂らしながら、浅く荒い呼吸を繰り返していた。その姿は勝利者などではなく、まるで被害者とでも形容した方が近い有り様だった。会場の女性ファンからは悲鳴が上がり、男性ファンからは御子柴への容赦ないブーイングと野次が浴びせられる。ペットボトルや紙屑がリングへと投げ込まれ、殺伐とした空気が充満していく。
御子柴はバツが悪そうに頭をかきながら、視線を彷徨わせた。その視線が、花道の奥、控室へと続く通路の入り口で止まる。そこには、タオルを首にかけたライジング雫が立っていた。先鋒戦で見事な勝利を収めた彼女は、まるで理解の外にある外宇宙の生物にでも出くわしたかのような、あるいは信じられないほど愚かな行為を見るような目で、御子柴を見つめていた。
御子柴の視線が泳ぐ。これは控室に戻った時に間違いなく面倒くさい事になる。いや、それどころか三郎太にすら罵られるかもしれない。前回試合であんなやりとりをして一月ばかりしか経っていないのに、舌の根も乾かぬうちに反則負けになってどのツラさげて顔を合わせればいいのか。
「……。ごめんて。マジで。ついね、つい」
誰にともなく呟き、御子柴は逃げるようにロープをくぐった。リング上に残されたのは、意識のないまま「勝利」という結果だけを押し付けられ、公衆の面前で無残な姿を晒す結城蓮ただ一人。
それは「ノワール・ゲート」が描いたシナリオ通りの勝利でもなければ、太平プロレスが望んだ熱血の勝利でもない。ただただ後味の悪い、しかし強烈なインパクトを残した次鋒戦の結末だった。
────────────────────
静まり返った「ノワール・ゲート」側の控室。モニターには、担架で運ばれていく結城の姿と、混乱する会場の様子が映し出されている。門脇取締役は、まるで石像のように固まったまま、画面を凝視していた。
「…………」
言葉が出ない。怒りとも呆れともつかない感情が彼を支配していた。勝ったことは勝った。これで1勝1敗で先鋒戦を落とした帳尻も十分に合わせられる。しかし……あの御子柴が、あろうことかレフェリーへの暴行で反則負け。お前それでいいのか? と、誰に向けたものか分からない問いが脳内を駆け巡る。
「……バカな」
沈黙を破ったのは、神宮寺だった。彼は手元のタブレットをデスクに叩きつけるように置いた。普段の冷静沈着なインテリジェンスは消え失せ、その端正な顔は屈辱に歪んでいる。
「僕の完璧なデータと計算を逆方向に凌駕した……だと……!?」
神宮寺の怒りの矛先は、結城の健闘に対してではない。彼のデータには収集した情報、構築した予測と布陣、選手の能力値、相性、さらには観客の心理状態まで組み込まれていたはずだった。しかし、御子柴という変数の「愚かさ」と、「狂気とすら言える制御不能な無軌道さ」が、ただそれだけでズタズタに引き裂いたのだ。
「……。御子柴紅子……その名前、覚えておくぞ!」
神宮寺にとって、この歪みは看過できるものではなかった。自らの知性が、野蛮な感情によって否定されたに等しい。
彼はギリと奥歯を噛み締め、画面の中で逃走する御子柴を睨みつけていた。