「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
アサルの繰り出した強烈なシュミット式バックブリーカーを食らい、背骨から腰に籠るような痛みにベスは顔を歪めた。しかし、彼女は「白鬼」である。この程度で怯むようなタマではない。何より、愛する三郎太の視線が注がれる中、格下相手に無様な姿を晒し続けるつもりもなかった。
「やってくれたわね……ッ!」
腰をさすりながら立ち上がったベスは、追撃を狙って引き起こしに腕をとろうとするアサルに対し、逆撃にうって出る。立ち上がりざまに振り抜かれた右腕が、容赦のないラリアットとなってアサルの首元を完璧に捉える。
「あぁ……ッ!?」
予想外のタイミングで放たれた剛腕の直撃を受け、アサルの華奢な身体が宙を舞い、白い砂浜へと激しく叩きつけられた。助走すらないその場で繰り出されたラリアットとは思えない威力だ。舞い散る砂塵の中で、ベスのグレイッシュブルーの瞳が苛烈な光を放つ。
「まだまだこれから!」
ダウンして砂にまみれたアサルに対し、ベスは休むことなく追撃を仕掛けた。その場で豪快に倒れ込むようにして、アサルの薄い腹部を目掛けてエルボードロップを投下する。
「ぐぅっ!」
みぞおち近くへ食い込んだ鋭い肘打ちに、アサルは呼吸を乱して苦悶の声を漏らした。だが、ベスの猛攻は終わっていない。彼女は腹を押さえて悶えるアサルの細い腕を強引に掴み、無理やりその身体を引き起こした。そして、正面からガッチリと組み付く。
ベスの得意技、エクスプロイダーの体勢である。
「これでもくらいなさい!」
足元の砂が逃げ、グリップした足裏が沈んで踏ん張りが利かない。しかしベスは、砂地という環境に戸惑いつつも、持ち前の筋力でその分をカバーし、強引に抱え上げたアサルの身体を背後へと投げ捨てた。だが、彼女は空中で身を捩り、プロレスにおける受け身のセオリーを完全に無視する行動に出る。本来、背中から広く落ちて衝撃を分散させるべきところを、あえて真下へ向けて両脚を鋭く突き立てたのである。
ズドッ、という鈍い音と共に、アサルのリングシューズが深く砂浜に沈み込んだ。
「くっ……甘いです!」
アサルは脚のクッションと砂の柔らかさを最大限に利用し、投げ技の衝撃を突き刺した脚から砂へと見事に流しきってブリッジのような体勢で再びのダウンを避ける。
「なっ!?」
驚いたのはベスだ。完璧に決まったはずの投げ技を、あり得ない方法で無効化された事に、驚愕に目を見開く。
この信じられない光景に、周囲で見守るレスラーや練習生たちの戸惑いと衝撃と興奮の入り混じった声がまじりあう。すかさず鋼鉄郎が大音量で実況を語り上げた。
『ここでベス、得意のエクスプロイダー! しかし、アサルこれになんと足を砂に突き立てて対処! 背中から叩きつけられるのを回避しただスッ!?』
拡声器を握りしめた鋼鉄郎が叫ぶ。その横で、キンタロウが冷静な面持ちで解説を加えた。
「リング上でやったら足を痛めかねない。砂浜だからこその対応だね。しかし受け身というものは体に染みつかせる技術、分かっていてもそう簡単には切り替えできるものではないが……。この辺は砂に慣れた人間だからこそということか」
キンタロウの言う通り、長年の鍛練で身体に染み付いた反射行動を、環境に合わせて瞬時に書き換えるのは至難の業である。エジプト出身であり、砂漠をルーツに持つアサルだからこそ成し得た、局地戦ならではの神業であった。
しかし、鋼鉄郎の関心はすでに別の方向へと向かっていた。彼は眼鏡をずり下げ、不満げに鼻を鳴らす。
『ぶっちゃけ、砂漠の戦士をリングネームにした方がよかったんじゃないだスか? ジニー……というかランプの魔人らしさとかこれっぽっちも披露されてなくて、最早悲しい程コッケーに見えるだスッ! つけた奴はどんな気持ちなんだスか!?』
眼鏡の脇から涙をぶわわっと噴き出し、鋼鉄郎はアサルの「アラジンと魔法のランプ」というギミック設定のちぐはぐさを指摘する。その言葉に、オトギプロレスリングの社長であり、アサルのギミックを考案した当の張本人でもあるエディが顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「うるさいな、ほっとけ! ……フック、貴様も笑い転げてんじゃない……ッ!」
外野の騒がしいやり取りをよそに、リング上の闘いはさらに激しさを増していく。
衝撃を殺しきったアサルは、そのまま流れるような動作で反撃へと転じた。
「今度はこちらの番です!」
アサルは片手を砂地につき、それを補助として両脚のバネを爆発させて跳躍した。砂という不安定な足場を、三点支持の要領で克服した見事な跳躍。そのまま、美しい軌道と高い打点を誇るドロップキックが放たれる。
「ちっ……!」
(砂で脚をとられて思うように動けない……!)
ベスは迎撃、あるいは回避を試みたものの、足元の砂が踏み込む足首を捕らえ、動きを鈍らせた。結果、アサルの両足がベスの胸板に突き刺さり、後ろへと吹き飛ばされる。しかし、ベスもただではやられない。背中から砂浜に倒れ込んだ彼女は、その勢いを利用して後転し、瞬時に立ち上がった。
「調子に乗るなっ!」
起き上がりざま、ベスは長い脚を振り上げ、着地して体勢を立て直そうとしていたアサルの顔面めがけてビッグブーツを叩き込んだ。
「きゃっ!?」
まともに顔面を蹴り飛ばされたアサルは、悲鳴を上げて砂の上をゴロゴロと転がった。間髪入れずにベスは追撃に出る。アサルがふらつきながらも起き上がろうとした瞬間を見計らい、自らの身体を弾丸のようにして突っ込ませるフライング・ボディアタックへと移行した。
しかし、ロープの反動を使えない仮設リング、加えて足元の砂が踏み込みの力を吸収してしまい、ベスの跳躍は高さも速度も絶望的に足りていなかった。
「遅いっ!」
アサルは冷静にその軌道を見切り、紙一重で身を躱した。目標を失ったベスの巨体は、そのまま無防備に砂浜へと落下。ドスッ、という音と共に砂煙が上がった。
「くっ……」
(思うように動けない! ただ、代わりに自爆しても砂でダメージは大したことはないわね……)
砂浜の柔らかさがクッションとなり、本来受けるはずのダメージの大部分が相殺されていることにベスは気がついた。だが、安堵している暇はない。回避を成功させたアサルが、自爆してうつ伏せに倒れ込んでいるベスの背後へと素早く回り込んでいたからだ。
アサルはうつ伏せになっているベスの背中越しに片足で彼女の頭と背中を押さえながら、胴と腕を使ってその両腕を捉えて極める。複合関節技「ジムブレイクス・アームバー」だ。
「パワーを封じさせて貰います……!」
アサルの丁寧な口調の中に、勝負を決めにかかる確かな冷酷さが混じる。彼女は己の背筋力を総動員し、ベスの両腕を限界の角度まで引き絞った。
「がぁぁ……ッ!?」
ベスの口から、痛みに耐えかねた獣のような叫びが漏れた。肩の関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。夏の強烈な太陽がベスの背中を容赦なく焦がし、砂の熱が体力をジワジワと奪っていく。
リング上の試合であれば、ロープエスケープを狙うか、自らのパワーで強引に持ち上げて技を解くことも可能かもしれない。しかし、ここは広大な砂浜の一部を区切っただけの仮設リング。触れるべきロープは頼りない紐であり、下半身の力で跳ね除けようにも、足先は砂を掘り返すばかりでベスの力を正しく大地に伝えてくれない。砂をかき上げ、あるいは足先を埋まらせ、空しく空回りするばかりであった。アサルは冷静沈着にベスのスタミナと抵抗力を確実に削ぎ落とすべく、絞り上げる力を微調整していく。少しでもベスが力を抜けば、さらに深く関節が極まる。それはまさに、砂漠の過酷な環境が旅人の命を真綿で首を絞めるように奪っていくかのような、ある種の過酷さを感じる攻防であった。
容赦なく突き刺さる真夏の陽光が、白い砂浜をフライパンのように熱している。その熱を直接顔面で受け止めながら、シロオニ・ベスは歯を食いしばっていた。ベスの喉から、抑えきれない苦悶の呻き声が漏れる。腕の腱が悲鳴を上げ、肩の筋肉がちぎれるような激痛が脳髄を焦がす。視界の端、頼りなさげに渡された麻紐の向こうに、見守る宮川三郎太の姿が見える。今、この合宿には雫やゾーザといった油断のならない恋敵たちも居るのだ。愛する彼の視線が注がれる中で、そして恋敵たちが値踏みするような目を向けているこの場所。元より自らの辞書に降参などという文字はないと豪語するベスだが、いつも以上に屈服するわけにはいかない状況だ。
関節を極められ、悲鳴を上げていたベスの全身の筋肉が、怒りと意地によって限界を超えて膨張した。腕へのダメージがこれ以上長引けば、今日この後で他に行う練習試合にも支障をきたす。そう判断したベスは、関節技のセオリーなど完全に無視し、己の純粋な筋力と背筋力だけで、のしかかるアサルの身体ごと強引に跳ね除けにかかった。
「三郎太の前で無様を見せるわけには……離せぇッ!」
猛獣のような咆哮と共に、ベスの体が砂塵を巻き上げて爆発的に跳ねる。完璧にロックされていたはずの腕の拘束が、常識外れのパワーによってへし折られるようにして解かれた。
「む、無理やりこじ開けるとは……ッ!?」
己の技術を力ずくで粉砕されたアサルは、驚愕に目を見開きながらも、すぐさま体勢を立て直して後方へと距離を取った。怒りに肩で息をするベスに対し、アサルは即座に機動力の差を生かした戦術へと切り替えた。彼女は不安定な砂地を全く苦にした様子もなく、沈み込む砂の反発力を的確に計算し、流れるようなステップでベスの周囲を円を描くように走る。そして、ベスの視界の死角となる斜め後方へ回り込むと、その遠心力を乗せた鋭いエルボーバットをベスの後頭部めがけて放った。
しかし、ベスもまた数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の猛者である。背後からの殺気を感じ取った彼女は、振り向くよりも早く、本能的に身を低く屈めてその凶器のような肘打ちを間一髪で下へ潜り抜けた。
「砂の上で大した動きですが……ッ!」
空を切ったアサルのエルボー。ベスは相手の賞賛すべき身のこなしを冷徹な声で評価しながらも、その目は獲物を狙う鬼のそれであった。
「……!?」
渾身の奇襲を躱されたアサルが、体勢を崩して僅かに隙を見せた。その瞬間、エルボーをかいくぐってアサルの懐深くへと潜り込んでいたベスが、下から突き上げるような無慈悲な一撃を放った。太く鍛え上げられたベスの膝が、無防備なアサルの腹部、みぞおちのど真ん中を正確に抉り上げる。強烈な腹部への膝蹴り、通称「キッチンシンク」である。
「調子に乗るな、と言ったわよ」
言葉ほどに余裕なわけではない。膝蹴りでの迎撃は狙ったものではなく強いられたものだ。先の関節技で痛めつけられ、それを無理にこじ開けたせいで腕がなかば痺れたようになっているため、足技に頼るしかなかったのである。
「おぐっ……!?」
肺の中の空気を根こそぎ吐き出させられ、アサルの身体が「く」の字に折れ曲がって砂の上に崩れ落ちそうになる。しかし、ベスは倒れることを許さない。苦悶に表情を歪めるアサルの腕を強引に引き寄せると、彼女の頭を押し下げて腹の前でその両腕を交差(クロス)させるようにガッチリと掴み込んだ。相手の両腕を封じることで、空中で暴れることも、落下時に受け身を取ることも不可能にする絶望的なクラッチから繰り出される自身の必殺技(フェイバリット)、変形パワーボム「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)」の始動体勢。そのまま、ベスは己の強靭な下半身と背筋力を爆発させ、華奢なアサルの身体を高々と天へ向けて抱え上げた。
「……これで決めてあげましょう。W.O.X.B!」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、宣告されたのは死刑宣告にも等しい一撃。ベスは抱え上げたアサルの身体を、全体重と腕力を乗せて、眼下の砂浜へと一直線に叩きつけた。
「かは……ッ!?」
ドォォォンッ! という鈍い轟音と共に、爆発的に砂柱のごとく砂塵が天高く舞い上がる。十字に腕を固められたままのアサルは、防御姿勢をとることもできず、背中から後頭部にかけて砂地へと深々と突き刺さった。
あまりの豪快な一撃に、おおと感嘆の声が上がり、鼓膜を劈くような大音声で鋼鉄郎の実況が飛ぶ。
『出たァーッ! シロオニ・ベスの必殺技(フェイバリット)『W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)』が、かくもゴーカイにアサルを砂のキャンバスに叩きつけただスッ! これは決まっただスか~ッ!?』
鋼鉄郎の興奮ぶりとは対照的に、隣に立つ息子のキンタロウは、サングラスの奥の目を細め、極めて冷静な口調で分析を下した。
「受け身もとれずに頭から突き刺さったな。なるほど、これが完全に決まった時の彼女のフェイバリットの姿か……。彼女のパワーをもってすればたしかに恐るべき威力の技となる。だが……」
キンタロウの言葉に含みを感じ取った鋼鉄郎が、拡声器を下ろして聞き返す。
「だが、何だスか?」
キンタロウは腕を組み、ダウンしたアサルを押さえ込み、フォールの体勢に入ったベスを見据えながら静かに答えた。
「ここはプロレスのリングではない、ということだ」
その言葉の真意は、リング上でフォールに向かったベス自身が一番強く実感していた。
「ワン!」
砂地に沈んだアサルの身体を押さえ込み、エディの指示で滑り込んで砂を叩くオトギプロの所属レフェリー人間(ひとま)が数えるカウントコールを聞きながら、ベスの美しい眉が微かにひそめられる。
「む……」
ベスの脳裏に過ぎった違和感。それは、叩きつけた瞬間に腕を通して伝わってくるはずの、手ごたえがほとんど無かったことだ。
「ツー!」
リングのキャンバスであれば、相手の身体を打ち据えたエネルギーは逃げ場を失い、相手の肉体を破壊する。
(手ごたえがいつもと違う、まさか……?)
しかしここは、衝撃の大半を吸収して流してしまう砂の粒子の集まり、柔らかい砂浜なのだ。
「があ……ッ! ま、まだです!」
危惧は正しかった。カウントスリーが入る直前、砂に埋もれていたアサルの両脚が跳ね上がり、全身のバネを使ってベスの押さえ込みを強引に跳ね返したのである。必殺技を食らい、意識が飛びかけるほどの衝撃を受けながらも、アサルは決して戦意を喪失していなかった。
「……やはりか!」
ベスは舌打ちと共に体勢を立て直し、すぐさま戦闘態勢へと戻る。己の最高の切札が、砂という自然のクッションによって威力を殺されてしまう事実を、彼女は苦い表情を浮かべて即座に理解した。
アサルによって絶体絶命の窮地が打ち破られた。信じられないキックアウトに、外野の鋼鉄郎が拡声器を掲げて再び狂ったように叫び声を上げる。
『返したァ! カウントはツー! よもやのシロオニ・ベスの必殺技(フェイバリット)を受けてアサル生還だスッ!』
キンタロウは当然の結果だと言わんばかりに頷いた。
「やはりか。砂浜の柔らかい砂に衝撃が吸われて拡散してしまったんだ。あの表情を見るに、ベス嬢もうすうす違和感を覚えてはいたようだが……」
トップレスラーであるキンタロウの的確な解説を背に受けながら、鋼鉄郎はなぜか突然、どこから取り出したのか、赤い画用紙と段ボールで作られた手作りの龍の被り物を頭からすっぽりと被り、両手を広げて天を仰いだ。
「さぁ、互いに立ち直って仕切り直しだス! 格下と思われていたアサルの健闘ぶりに感嘆するばかり、これにはオシリスの天空竜も涙ちょちょぎれるだス!」
どうやらこのみすぼらしい被り物はエジプトの砂中から読みがったと言うオシリスの天空竜のつもりであったらしい。段ボール製の竜の目の隙間から覗く鋼鉄郎の眼鏡の脇から感動の涙がぶわわっとこぼれ落ちる。そのあまりにも場違いで狂気じみた姿に、キンタロウはついに堪忍袋の緒が切れ、父親の頭を容赦なく引っ叩いた。
「くだらん扮装はせんでいいっ! というかオシリスの天空竜は関係ないだろう! ……関係ないよな?」
同誌の後輩漫画だと言うのに遊戯王に詳しくないキンタロウはちょっぴり自信なさげであった。
キックアウトから、ふらつきながらも落ち着いて立ち上がるアサルの姿に、ベスは息を乱しながらも、即座に次の手を打つべく思考を回転させていた。己の誇るパワーを乗せた相手を脳天からマットへ沈める豪快な投げ技。それがこの砂浜という特殊な環境下においては、衝撃を無限に拡散させる自然のクッションによって大幅に軽減されてしまう。現に「W.O.X.B」をもってしても、ノーダメージというわけではないようだが、アサルは朦朧とする様子もなくしっかりと構えて立っている。
ベスは、戦法を根本から切り替える決断を下した。
(……投げて駄目ならば、打ち砕くまで)
ベスは深く腰を落とし、両腕を顔の前に構えた。プロレスラーとしてのダイナミックな構えから一転、隙の無いボクシングスタイルの構えへの移行である。それは知る者にとっては、オニガシマブラザーズの三男、クロオニ・ジョニーを思わせた。
格下と言っていいか環境のせいで分からなくなったが、だからと言って愛する男の前では最高の自分でありたい。翻弄されたままでなど居られるものか。焦りにも似た感情を冷徹な意思で押さえ込み、ベスは砂に足を取られないよう、小刻みなステップでアサルへと肉薄した。
そして、顔面や急所を狙ったコンパクトで鋭い小振りのパンチ、ナックルパートを連続で繰り出す。一撃一撃が重いハンマーのようなベスの拳は、まともに貰えば一瞬で意識を刈り取られるほどの威力を秘めている。しかし、アサルはその猛烈な拳の雨を、まるで砂の上を滑るようにして躱していった。足元の崩れやすい砂を逆に利用し、姿勢を低く腰を落とし、自らの身体をゆらゆらと一定させないことで、ベスの拳の軌道を紙一重で逸らしていく。
それは、EQT本戦においてエル・アオルカドの前にルチャ殺法でただ打ち倒され続けた姿からは想像もつかないほど、躍動感に溢れた軽快な身のこなしであった。
「配信映像で見たリング上での動きとは別人のようね……!」
鋭いパンチを空振りさせられながら、ベスは目の前の対戦相手への評価を改めざるを得なかった。団体から押し付けられた「アラジンと魔法のランプ」という滑稽なギミックに隠された、彼女の本来のポテンシャル。その称賛にも似たベスの言葉に対し、回転回避を続けるアサルは、誇り高き笑みを浮かべて返答した。
「砂の上で育ったもので!」
彼女の故郷であるエジプト。果てしなく広がる砂漠の過酷な環境こそが、アサルのルーツであった。リングという平坦なキャンバスでは発揮しきれなかった彼女の真の力は、この海辺の砂浜において完全に解き放たれていた。アサルはベスのナックルパートを回転でいなしきったその瞬間、勢いを殺すことなく右足で足元の砂地を激しく踏み鳴らした。
ドンッ! という重い震脚と共に、周囲の砂が爆発したかのように舞い上がる。
「シッ!」
鋭い呼気と共に放たれたのは、アサルの得意技「サンドストーム」であった。
「また砂を……!?」
蹴立てられた砂塵が文字通り砂嵐となってベスの視界を完全に奪い、その目くらましの奥から、遠心力を極限まで乗せた烈風の如きバックスピンナックルが襲い掛かる。
「あっ!?」
序盤の超低空タックルの際に見せられた砂塵の目くらまし。その記憶がベスの脳裏を過り、咄嗟に目を庇おうとしたその一瞬の隙。アサルの硬い拳が、砂のベールを突き破り、ベスの無防備な顎先を完璧なタイミングで捉えた。鈍い打撃音が響く。顎を掠めるように打たことで、ベスの脳が激しく揺らされた。どれほど強靭な筋肉や体幹をもってしても脳が揺らされることによる、感覚の混乱や三半規管の狂いは気合いの類で耐えられるものではない。
ベスの視界が急激に歪み、足から力が抜け、膝からガクリと崩れ落ちる。
「……?」
膝をつき、焦点の定まらないグレイッシュブルーの瞳で虚空を見つめるベス。その意識は一瞬の朦朧状態に陥っていた。
すかさずアサルは崩れ落ちるベスの身体へとしなやかに絡みついた。
「今ですっ!」
ベスの腕を瞬時に取り、同時に自らの脚をベスの脚に絡める。そのまま身体を鋭く捻りながら、後方へと勢いよく倒れ込んだ。アサルは得意とする奇襲技「デザートクラッチ」で、砂中へとベスを誘い込む。それは、つい数秒前にアサル自身がサンドストームを放つために力強く震脚を踏み鳴らし、深く抉り取られた砂の窪み、すなわち「砂穴」のど真ん中であった。丸め込まれたベスの頭部は、図ったかのようにその擂鉢状に凹んだ砂穴の最深部へとすっぽりと収まった。
「んぐっ……!?」
意識の朦朧から辛うじて我に返ったベスを待っていたのは、未体験の恐怖であった。擂鉢状の砂穴の底に顔を固定された状態。そこへ、崩れた周囲の砂がサラサラと音を立てて、蟻地獄のようにベスの顔面へと容赦なく流れ込んできたのである。
「ぷはっ、砂が……ゲホッ……!?」
目、鼻、口。呼吸をするたびに細かい砂の粒子が容赦なく気管へと侵入してくる。どれだけ力ずくで振り解こうにも、片方の腕と脚はアサルの「デザートクラッチ」によってロックされており、思ったように動けない。数々の死闘を乗り越えてきた誇り高き「白鬼」の精神が、未経験の脅威を前にかつてないパニック状態に陥った。痛みやダメージによる敗北の予感ではない。単純な「窒息への本能的な恐怖」と、顔を埋め尽くす砂の感触による極度の混乱であった。
状況を把握できず、砂にまみれて暴れるベス。その無防備な両肩は、白い砂浜のキャンバスにガッチリと押し付けられ──いや埋まっていた。
「ワン! ツー! ……スリー!」
レフェリーの手が、無情にも砂浜を三度叩いた。
カンカンカンカンカンッ!!
鋼鉄郎の手によって勝負を決するゴングが打ち鳴らされる。格上と目されていたシロオニ・ベスから、オトギプロレスリングの若手、アサル・ザ・ジニーが見事なピンフォール勝ちを収めた瞬間であった。
「決まった! 決まっただス! デザートクラッチの丸め込みでまさかのスリーカウントォォォ! シロオニ・ベス、練習試合とは言えまさかの黒星だスッ!?」
仮設リングの外で、水着に頭部タオル巻きという出で立ちの坂田鋼鉄郎が、狂ったように鐘を乱打しながら絶叫した。拡声器を折り畳み式机の上に放り出し、ゴングをハンマーで叩き続けるその姿は、完全にただの熱狂的なプロレスファンと化していた。
その横で、息子であるキンタロウが顔をしかめ、父親の後頭部に容赦のないチョップを見舞った。
「やかましい、ゴングを乱打するなッ!」
「ぶはッ!?」
物理的なツッコミで父親を黙らせた後、キンタロウは目を細め、砂まみれになって咳き込んでいるベスと、彼女を解放して一礼し、その砂を払い落す手伝いをしているアサルの姿を見つめて、静かに解説を紡いだ。
「……顎にバックスピンナックルが霞めて脳が揺らされた所を丸め込んだのは巧かった。それと砂に埋まりそうで混乱したんだろう。まさに環境への適応が勝負を決めた一戦だった」
トップレスラーであるキンタロウの目から見ても、アサルの地の利を活かした戦術は称賛に値するものであった。パワーで勝る相手とまともに機能しない投げ合いをするのではなく、打撃で布石を打ち、足場の悪さと砂の性質を最大限に利用して心理を攻める。それはまさに知略と技術の勝利であった。
チョップを食らって頭をさすっていた鋼鉄郎が、懲りずに机を離れると見物していた三郎太の元へ向かう。そしてその肩をバンバンと力強く叩いた。
「あまりの事態にベスちゃんはボーゼンとしとるだス! さぁ、今だス、三郎太クン! 慰めて好感度を稼ぐチャンスだス!」
鋼鉄郎のデリカシーの欠片もない無責任な煽りに、真面目な三郎太は顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。
「茶化さないでくださいッ!」
自分への恋心を隠さないベスが敗北にショックを受けている状況で、このような軽口を叩く鋼鉄郎の無神経さに、三郎太は怒りすら覚えていた。
「父が迷惑をかけて済まない……本当に済まない……」
そんな青年の真っ直ぐな怒りを受け、キンタロウは深く、深くため息をつき、日本のトップレスラーとは思えないほど小さく身を縮めて頭を下げた。
「もー! 大丈夫です、ベスがあの程度で凹むわけないじゃないですか」
そんな三郎太の言葉に反応したのはベスであった。敵手としての信頼、強さを認めるニュアンスを言葉の裏に感じた彼女は、がばりと砂から身を起こすと一瞬で頬を上気させて乙女の瞳となった。
「……はい!」
静かに勝利を噛み締めつつ、アサルはたちまち恋する女と化したベスを見てちょっとだけ引いていた。試合中の闘志みなぎる白鬼の姿とあまりに落差がありすぎる。空気の温度差に風邪でも引いてしまいそうであった。
リング内外で繰り広げられるカオスなやり取りはさておき、この砂浜特設リングでの第一試合は、今後の合宿の過酷さを暗示するに十分すぎるほどの模範試合となった。リングという平坦で反発力のあるキャンバスとは全く異なる、底なしの泥濘のような砂浜という特殊環境。自らのパワーや得意技が通用せず、環境適応能力が勝敗を分けたこの結末を目の当たりにし、周囲で観戦していた太平プロレスやオトギプロレスのレスラーたち、ついでにおまけのジェニーは、一様に息を呑み、砂地マッチの本当の恐ろしさを肌で実感していた。
この衝撃的な結果を受け、合宿は本格的な練習へと移行していく。広大な砂浜に等間隔で設営された複数の簡易リングへ散開し、各所でそれぞれの課題を見据えた練習試合が開始されようとしていた。
「なるほど……砂地で投げ技や落下技の威力が激減するのか」
波の音が響く中、宮川三郎太が真剣な面持ちで顎に手を当て、ぽつりと呟いた。彼の得意とするファイトは、ダイナミックな投げ技や、相手をキャンバスへ強烈に叩きつけるドロップ技を主体としている。先ほどの試合でベスが放ったエクスプロイダーや変形パワーボムが、砂の柔らかいクッションに衝撃を吸収され、どれも威力を大幅に減じていた光景は、三郎太にとって決して他人事ではなかった。生真面目で研究熱心な三郎太の脳内では、早くも自らのファイトスタイルを、この環境にどう適応させるべきか、思索にふけっていた。
「飛び技の自爆ダメージは少なそうだね」
一方、三郎太の深刻な考察とは対照的に、ノワール・ゲートの若手エースであるジェニーが、明るい声で自身の見解を口にする。彼女もスープレックスを決め技に持つレスラーではあるが、持ち前の身軽さと運動神経を極限まで活かした空中殺法がもうひとつの柱だ。コーナーからのダイブこそ頼りない木の棒では無理だろうが、それでも空中戦を得意とする彼女にとって、技を躱されて自爆した際のダメージは常に付き纏う重大なリスクであった。過日のEQTの本戦二回戦でベスに負けた敗因がまさにそれだというのも大きい。
しかし、この分厚く柔らかい砂浜が相手ならば、落下の衝撃は軽減される。それはすなわち、普段であれば躊躇してしまうような大博打の飛び技であっても、この環境下においてはリスクを恐れずに積極的に狙っていけるという、彼女にとっての大きなアドバンテージを意味していた。
「ルールとコンセプトは理解したわ。さぁ、誰が相手してくれるの?」
ちょうど良いハンデだとばかりにウズウズしているのは新参の英国団体からの出向者ローラ・ザ・チャージである。明らかに三郎太の方を見ているのは、おそらくなんでもいいから再戦したいだけだろう。プライド高い彼女にとって一度は自分を打ち負かした男を放置できようはずもない。
それぞれの視点で砂地マッチの戦術分析が進む中、別の思惑を巡らせて目を輝かせている女がいた。
「相対的に関節、絞め、寝技が強いと……閃いた」
太平プロレス所属のキャリア二年目、ライジング雫であった。投げ技の威力が落ち、飛び技の決定力が不確定であるならば、相手の肉体を直接拘束し、逃げ場のない砂地へと引きずり込んで締め上げるグラウンドの攻防――関節技や寝技こそが、この環境における絶対的な最適解となる。先ほどアサルがベスのスタミナを奪い、腕を痛めつけた流れが、それを何よりも雄弁に物語っていた。
しかし、雫が『閃いた』のは、純粋なプロレスの戦術としてだけではない。彼女の視線は、先ほどからずっと、生真面目に砂の性質を分析している三郎太の逞しい背中に固定されていた。寝技や関節技。それは言い換えれば、対戦相手との『極限の密着』に他ならない。「環境適応の特訓」という大義名分さえあれば、この合宿中、公然と三郎太の身体に組み付き、砂まみれになりながら濃厚なスキンシップを図ることができる。現在進行形で彼に夜這いを仕掛けようと目論むゾーザや、今しがた敗北して隙を見せているベスといった恋敵たちを出し抜き、三郎太との物理的・精神的な距離を一気に詰める絶好のチャンス。悪役の経験を経て新生を果たした彼女の脳内には、プロレスラーとしての技術向上よりも遥かに不純で、かつ計算高い欲望が渦巻いていた。雫はさぁ……。
「なーに企んでんだニャ」
そんな雫にジト目で声をかけたのは御子柴であった。彼女は、その野生の勘と鋭い観察眼で、雫から発せられる妙に粘着質な気配、すなわち三郎太を狙う邪悪なエネルギーを敏感に察知していた。牽制する御子柴に対し、雫はすぐさま笑顔を繕う。
「いーえ、なにもー?」
わざとらしい声を出して首を傾げる雫。その白々しい態度に、御子柴は溜息をつく。どうも最近のふっきれた雫は自制と躊躇というものを知らない。そういうのはオレのポジションだろう。なんで自分が優等生のようにブレーキをかける側に回らなきゃいけないのか。もともと雫を焚きつけた当事者である自分の咎も忘れて御子柴は内心で愚痴っていた。因果応報である。
各々が砂浜という新たな戦場に対して様々な思いを巡らせる中、合宿の特別コーチとして全権を握るキャプテンB・O(バイシクル・オショー)が、その威厳に満ちた姿で本格的な練習開始の号令を下した。彼は広大な砂浜を見渡し、鋭い眼光で次々と練習試合の組み合わせを指名していく。
「ふむ、そこのそなたと、そなたでやってみよ」
指名されたのは、「ノワール・ゲート」の若きエース、ジェニー・葛葉と、オトギプロレスリングの若手エース格、赤ずきんであった。所属団体が異なり、友好団体同士の太平プロとオトギプロのような合同興行の機会もない両者は、これまで公式のリングはおろか、合同練習の場においても本格的に肌を合わせた経験がない。互いに若手のトップを走る存在として、その名や活躍は耳にし、試合の映像こそ見た事があったものの、直接対峙するのはこれが初めてのことであった。
「そういややったことありませんね」
突然の指名を受けた赤ずきんは、のんびりほんわかした声音で言った。彼女の表情に動揺はなく、おだやかな声音と裏腹に、静かだが確かな闘志の炎をその瞳の奥に灯していた。一方でジェニーは、目をパッと輝かせ、底抜けに明るい闘争心を隠そうともしない。
「よっしゃ、勝負だね!」
快活な声を上げ、拳を力強く握るジェニー。持ち前の身体能力とスピード、そして先ほど見出した「飛び技へのリスク軽減」という仮説を、初対決となる他団体の若手エースを相手に存分に試すことができる。未知の強敵との遭遇は、彼女にとってプレッシャーではなく、最高のエンターテインメントであり、己を成長させるための絶好のチャンスであった。
団体の未来を背負う二人の若き才能が、照りつける太陽の下、波打ち際に設けられた仮設リングの中央で向かい合う。周囲では他の組み合わせに指名されたレスラーたちが続々と指定の仮設リングへと向かい、砂浜全体がかつてない熱気に包まれようとしていた。
太陽の光を反射して白く輝く砂地の上で、ジェニーと赤ずきんは互いの目を見据え、筋肉を張り詰めさせて開始の合図を待つ。やがて、手に取った簡易ゴングで紫髪の練習生が試合開始の甲高い金属音を鳴らし、砂浜の空気を切り裂いた。
カーン!!
練習試合開始を告げるゴングの音が夏の空へ溶け込むよりも早く、ジェニーと赤ずきんは同時に砂地を蹴った。舞い上がる白い砂煙。互いの意地と誇り、そして底知れぬポテンシャルが真っ向からぶつかり合うべく、二人の若きエースは一直線に駆け出していった。
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