「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
「……不愉快です。その下品な視線、今すぐ潰して差し上げますわ」
リング中央、レフェリーを挟んで対峙したシロオニ・ベスは、あまりにも軽薄なウィンクを投げかけた男へ氷のような冷徹な声で言い放った。アッシュブロンドのショートボブが、会場の照明を反射して銀色に輝く。グレイッシュブルーの瞳には、明確な嫌悪の火が灯っていた。対するボーティス神宮寺は、そんな彼女の刺すような視線をどこ吹く風と受け流す。金模様の入った白いパンツという、清潔感を装った衣装とは裏腹に、その口元には粘りつくような笑みが張り付いている。
「怖いなぁ。でも、美しい女性の怒り顔ほどそそるものはない。……ベスちゃん、君。僕の計算じゃ、この試合が終わる頃には、僕に抱きつきたくて堪らなくなっているはずだよ?」
挑発的な言葉と共に、神宮寺はベスの全身を舐めるように見つめた。その視線は、黒と赤を基調としたビスチェトップから、アラベスク模様が施されたロングレギンスの曲線、そして金色の編み上げブーツに至るまで、執拗に這い回る。観客席からも、彼の露骨すぎる態度にざわめきが広がった。リング上の空気は、開始前にもかかわらず一気に険悪さを帯びる。ベスの肩がわずかに震えたのは怒りか、それとも冷笑の予兆か。
「下衆が……。その口、二度と開けぬようにしてあげます」
ベスが拳を握りしめた瞬間、レフェリーが両者の間に割って入った。彼はまだゴング前だと互いの距離を物理的に引き離す。ベスの足元には、怒気が熱を帯びて立ち上るような気配すら漂っていた。対して神宮寺は、挑発が成功したとでも言いたげに肩をすくめるだけだ。
リング外の放送席では、独特のイントネーションを持つ影山アナの声が響き渡る。
『さあ、1勝1敗からの3戦目、いよいよ対抗戦の副将戦ですネ。太平プロレス襲来からこっち、居候を決め込んでいる誇り高き白鬼、シロオニ・ベスと対戦するのはソロモン72柱の悪魔の名を冠するノワール・ゲートのデータ屋、ボーティス神宮寺! ……あの、エディさん? 随分憂鬱そうな顔をなさってますケド?』
カメラが解説席へ切り替わる。照明を受けたモニターには、「オトギプロレスリング」代表、エディ・ダンテスの沈んだ表情が映し出されていた。椅子にもたれかかり、眉間を押さえる仕草は、画面越しでも疲労感が伝わる。
『いや、神宮寺って地方団体で恋愛がらみで大騒動起こした奴じゃないか。面倒臭い試合になりそうでちょっとな……観客席に移ってもいいか?』
エディは言い終えると、マイクからわずかに顔をそむけた。重い息がヘッドセット越しに漏れ、放送席の空気が一瞬だけ沈む。
『アラ、お仕事ですヨ? ダメにきまってるじゃないですか』
影山アナの即答に、エディは力なく肩を落とした。
『うん、知ってた……』
放送席前のモニターには視聴者コメントが滝のように流れ続ける。影山は慣れた手つきでタッチパネルを操作し、拾いたいコメントを指先で弾くように選び取った。
『視聴者のコメント欄には「仕事しろ巌窟王」「逃げるな、逃げるなぁぁぁ」「エディちゃん、無理するな、俺と逃げよう!」などと温かいコメントが溢れております。とかなんとかやってるうちに試合開始のゴングが鳴りました!』
カーン!
その瞬間、放送席の二人は同時に姿勢を正し、視線をリングへと向けた。実況席の空気が、雑談から「戦いを見る者の顔」へと切り替わる。その音と同時に、ベスが弾かれたように動いた。挨拶代わりと言わんばかりに、長い脚を鋭く振り抜き、空気を切り裂くドロップキックを放つ。その跳躍は高く、鋭い。まさに電撃戦だ。観客席からも驚きの声が上がり、開始直後とは思えない速度にざわめきが走る。しかし、神宮寺は紙一重で半身を引いた。ベスのブーツが空を切り、着地の衝撃を逃がしながら彼女が立ち上がる。神宮寺はその動きを、まるで計測でもしているかのように冷静に見つめていた。
「おっと、危ない。初動の筋収縮は分かりやすいが、速度はデータより僅かに早いな。誤差を修正しよう」
神宮寺は飄々と、まるで見えないモニターでも見ているかのように独り言をこぼした。その声音には焦りの欠片もなく、むしろ楽しげですらある。
「何をわけの分からない事を!」
ベスは苛立ちを隠さず、再び踏み込もうとする。だが、わずかに体重が前へ移ったその瞬間――。神宮寺が素早い身のこなしで彼女の背後へ回り込んだ。流れるような動きでベスの首に腕を回し、ヘッドロックに捕らえる。その動きは軽やかで、まるで相手の未来の位置を先読みしていたかのようだった。
「……っ、速い!?」
「はぁ……いい匂いだ。アロマかな? それとも、恐怖で浮き出た君自身のフェロモンかな?」
神宮寺は締め上げる力を最小限に留め、あろうことかベスの白い首筋に鼻を寄せ、深く息を吸い込んだ。耳元で囁かれる不快な熱を帯びた吐息。ベスの顔が屈辱で赤く染まる。羞恥と怒りが胸の奥でせり上がり、呼吸が乱れそうになる。
「なっ……! 離し、なさい……ッ!」
ベスは羞恥に震える拳を握り、神宮寺の脇腹へ渾身のエルボーバットを叩き込んだ。鈍い音と共に、神宮寺の拘束が緩む。その隙を逃さず、ベスは強引に神宮寺の胴を抱え込んだ。
「そのまま、地獄へ送り届けてあげるわ!」
渾身の力を込め、186センチの長身を後方へと投げ飛ばすエクスプロイダー。ベスの得意技の一つであり、その威力は軽量の相手なら一撃で沈めかねないほどだ。神宮寺の体は弧を描き、まるで重力を忘れたかのように宙へ浮かび上がる。次の瞬間、マットへ叩きつけられた衝撃がリング全体を震わせた。ベスは休まず、追撃のために一歩踏み出す。倒れた相手を逃さず、一気に勝負を決める構えだ。しかし、マットに背をつけたはずの神宮寺は、まるで重力を無視するかのように跳ね起きた。反動を利用した軽やかな起き上がりは、受け身というより「跳ね返る」に近い。ベスが詰め寄る直前、彼はカエルのようなしなやかな跳躍――リープフロッグを繰り出し、突進するベスの頭上を鮮やかに飛び越える。
「無駄だよ。君の踏み込みの角度、その予備動作……すべては計算の内だ」
空中で身を翻し、着地した神宮寺の表情には余裕さえ漂っている。着地の衝撃をほとんど感じさせず、まるで次の動きをすでに決めていたかのような滑らかさだ。着地と同時に反転し、彼は低い姿勢でベスの足元へと滑り込んだ。
「しまっ……!」
振り返りざまのベスが体勢を立て直すより早く、神宮寺の手が彼女の軸足を捉える。流れるような動作で脚を絡め取り、体重をかけて捻り上げるレッグスピン。
「……きゃっ!?」
誇り高き白鬼と呼ばれた彼女が、無様に、そしてあまりにも呆気なくマットへと転倒させられた。背中から叩きつけられた衝撃が全身に走り、捻られた足首の痛みが遅れて襲う。 ベスは思わず顔を顰めた。その耳元に、神宮寺の勝ち誇ったような声が再び突き刺さった。
「君の動きはすべてデータ化されている。三郎太君との試合は特に、コマ送りで見せてもらったよ。君がいつ、どこで、どの筋肉に力を込めるか……僕には未来が見えているんだ」
マットに這いつくばるベスを見下ろす神宮寺の瞳には、冷酷な計算式だけが浮かんでいた。その視線は、相手を「人間」としてではなく、解析対象として扱う者のものだ。ベスがこれまで築き上げてきた誇りが、この「データ屋」という異名を持つ男によって、静かに、だが確実に解体されようとしている。マットに転がされた屈辱と無意識に湧き上がる焦燥を、全身の筋肉を震わせるほどの怒りに変え、ベスは跳ね起きた。
「舐められたものね……! データごときで、私の何がわかると言うのです!」
猛然と踏み込み、その長い右腕を力任せに振り抜く。怒声を乗せた剛腕のラリアット。それは、彼女が「白鬼」として誇りにしてきた、正面から相手を粉砕する暴力の結晶だ。だが、神宮寺は嘲笑うかのように、その場から一歩も引かなかった。
「怒りで軌道がブレているよ、ベスちゃん」
神宮寺は瞬時に両腕を掲げ、ベスの肘裏と手首の位置に的確に差し込んだ。ラリアットの基点を押さえられ、衝撃が最小限に抑え込まれる。それでもベスの腕力は凄まじく、ガードの上から強引に薙ぎ倒される形で神宮寺の身体が後方へ弾かれた。僅かに驚いた表情を浮かべながら、神宮寺はマットへと背中から転がされる。
もどかしさと、自分のすべてを見透かされているような悪寒。その混じり合う感情を振り払うように、ベスはコーナーへと駆け上がった。起き上がろうとしている神宮寺を視界の端にとらえながら、トップロープから宙を舞う。フライングボディアタック。重力に従い、神宮寺を押し潰さんばかりに降下していく。しかし、神宮寺のグレイの瞳は、空中の彼女の軌道を冷徹に、そして完璧に捉えていた。まるで、彼女が跳ぶ前からその位置を知っていたかのように。
「そこだ」
起き上がって構えた神宮寺は避けようともせず、わずかに半身をずらした。ベスの体が最も無防備になる角度、そして衝撃を吸収しやすい「柔らかい腹部」の位置。そこへ腕一本を添えるようにして、彼女の落下のエネルギーを逃がしたのだ。まともな接触すら許されず、ベスは不自然な形でマットへ叩きつけられた。腹部を打った衝撃で、喉の奥から「カハッ」と酸素の抜ける音が漏れる。空振りした自爆のダメージが全身を駆け抜けた。
苦悶に喘ぎ、うつ伏せでマットを叩くベス。その背後で、神宮寺の影がゆっくりと覆いかぶさるように伸びてくる。
「フッ、そんなに焦らなくても、時間はたっぷりあるよ。……おいで」
低く、甘ったるい声。神宮寺の腕が、ベスの脇から首筋、そして脚へと絡みつく。触れられた箇所が順に奪われていくような、いやらしいほど滑らかな動きだった。蛇が獲物を締め上げるかのような、執拗で逃げ場のないコブラツイスト。ベスの背筋が不自然に反らされ、脇腹と腰、太腿が悲鳴を上げる。
しかし、神宮寺の攻撃は肉体的な苦痛だけでは終わらなかった。
「はぁ……。近くで見ると、肌のきめ細やかさがよくわかるね」
「なっ、……や、め……何を……ッ!?」
ベスが拒絶の声を絞り出すが、神宮寺は止まらない。コブラツイストの体勢を維持したまま、空いた手の指先がベスの肋骨のラインをゆっくりとなぞり始めた。薄い皮膚越しに伝わる、男の指の生々しい感触。その指は、彼女の反応を確かめるように、腹部から腰の曲線へと執拗に這い降りていく。黒いレギンスの境界線、柔らかな素肌が露出した部分に指先が触れ、タイツの縁を弄ぶように行き来する。
「いい声だ。理性のタガが外れていく音が聞こえるよ。ほら、ここが弱いんだろ?」
屈辱。羞恥。そして、触れられた瞬間に走る反射的な恐怖が、痛みと混ざり合って胸を締めつける。
「……っ!? ……ぅ、ああああっ!」
その一瞬の意識の揺らぎを逃さず、神宮寺はコブラツイストの締め上げに一気に荷重をかけてきた。プロレスという競技のラインを逸脱するかどうかの境界線で辱めながらも痛めつけるという心理攻撃の前に、ベスの瞳から大粒の涙が溢れ出す。
会場の大型モニターには、ベスの顔が残酷なまでに鮮明に映し出されていた。
『あーっと! カメラ担当はボーティス神宮寺の仲間なのか!? 指示もないのにベス選手の顔面アップに切り替えていく! プライドの高い白鬼の瞳が、屈辱と恐怖で潤んでいます!』
影山アナの声が、ボルテージの上がった配信チャットを読み上げる。
『視聴者からは「曇らせ助かる」「ええい、メインカメラ、なぜ指先を映さん!」「この画面を見た時……なんていうか……その、下品なんですが、フフ……」「おいやめろ」と、かつてない熱量のコメントが殺到中! 一方会場内の白鬼ファンの女性たちからは呪詛のような罵声があがっておりますワ』
解説席のエディ・ダンテスは、拳を握りしめ、沈痛な表情でリングを見つめていた。
『……神宮寺め、ベスの「誇り」を完全に砕くつもりか。これは下手をすると選手生命に関わるぞ……!』
『まさに悪魔のような心理攻撃、これもインテリジェンス・レスリングの手管なのでしょうか!? ああ、ベス選手、ついに涙がこぼれました! 鬼からただの女学生に戻ってしまったかのようですわネ』
影山アナの非情な実況が続く中、エディは声を絞り出す。
『……だが、まだ彼女はギブアップしていない』
ベスの意識は、苦痛と屈辱のあまり混濁しかけていた。視界が涙で歪み、観客の怒号も実況の声も、遠くの出来事のように感じる。誇りを蹂躙され、晒し者にされる。神宮寺の指が腰を這うたびに、心が壊れそうな感覚に襲われる。だが、その深い闇の底で、かすかな、しかし鋭い怒りがチリりと燃え上がった。このまま負ければ、それこそ自分が自分を許せない。ベスは残された全神経を、自由の利く唯一の部位、右の肘に集中させた。神宮寺が首筋に顔を寄せたその一瞬。
「ああああっ!」
叫びと共に、背後へ向かって渾身の力で肘を突き出す。バックエルボー。それは狙い澄ました一撃ではなかった。可動部の限界がその軌道を制限する。だが、それでも死に物狂いで放たれたその肘は、神宮寺の顎を鋭く掠めるには十分だった。
「……ッ」
神宮寺がわずかに眉を顰め、喉の奥で短い呻きを漏らす。顎への衝撃で脳を揺らされた彼は、無意識にベスを拘束していた腕の力を解いた。絡みついていた蛇の束縛が消える。拘束を解かれたベスは、乱れた吐息を吐きながらマットに膝をつき、ひきつれるように痛む脇腹を押さえながら呼吸を整える。煮え繰り返るような憤怒を孕んだ瞳で神宮寺を睨みつけるが、その視線はどこか焦点が定まりきらず僅かに揺れている。
顎を掠めた衝撃は神宮寺に効いてはいたが、致命傷には程遠かった。神宮寺は顎をさすりながらわずかに表情を歪めた。だが、その瞳に宿る冷徹な計算の灯は微塵も揺らいでいない。よろめく素振りも見せず、立ち上がろうとするベスの挙動をミリ単位で観察していた。
ベスが痛む体を引きずり、再び立ち上がろうとしたその刹那、神宮寺が矢のような速さで踏み込む。
「お返しだよ」
神宮寺の右足が、鋭い軌道を描いて放たれた。低空ドロップキック。それは、ベスが立ち上がるために力を込めた軸足――その膝の側面を正確に射抜いた。
「ああッ!?」
鈍い衝撃と共に、ベスの膝が反対側に折れ曲がるかのような激痛が走る。力なくマットに崩れ落ちるベス。神宮寺の理詰めの一点集中攻撃により、彼女の機動力は完全に奪われつつあった。 膝をつき、這いつくばる彼女の姿は、先ほどまでの高潔な「白鬼」の面影を失いかけている。だが、それでもベスの心は折れていなかった。
(……まだです。こんなところで、こんな男に……屈してたまるものか!)
彼女は激痛に走る膝をあえて無視し、自身のプライドを、そして三郎太に恥じない自分でありたいという想いを燃料にして、最後にして最大の力を振り絞った。神宮寺が追撃の手を伸ばそうとした瞬間、ベスは地を這うような体勢から爆発的な力で起き上がり、懐に飛び込んで彼を抱え込む。
「終わりよ……! 醜悪な男……地獄へ墜ちなさい!」
ベスは神宮寺の巨大な体を力任せに持ち上げた。アルゼンチン・バックブリーカーの体勢。そこからシットダウン式に脳天を叩きつける彼女の必殺技、「白鬼金棒落とし」のモーションに入る。これさえ決まれば、データの壁も、屈辱的な言葉も、すべてを粉砕して勝利を掴み取れる。ベスが咆哮を上げ、神宮寺をマットへ叩きつけようとした――その時だった。
「残念。それはもう、『古い』んだよ!」
神宮寺の体が、ベスの腕の中で不思議なほど軽く感じられた。神宮寺は投げられる勢いを殺すのではなく、逆にベスのクラッチを支点にして、自らの身体を前方に回転させたのだ。
「え……っ!?」
空中で神宮寺の体が円を描く。ベスが放った投げのエネルギーは、すべて神宮寺の回転エネルギーへと変換され、増幅された。
「名付けて、鬼切金棒返し!」
神宮寺は落下の自重をすべて乗せ、逆にベスの後頭部と背中をマットへと押し込んだ。ドォォォン! と、リング全体を揺らすような激震。ベスの意識が真っ白に染まる。自分が放ったはずの必殺の破壊力が、鏡のように自分自身へ跳ね返ってきたのだ。
仰向けに倒れたベスの視界には、リングの天井照明が歪んで映っていた。
(……そんな……私の、一番の……)
彼女が最も信頼し、数々の強敵を沈めてきた「誇り」そのものである技。それが、この軽薄な男の手によって、まるでおもちゃを分解するかのように無残に解体され、逆利用された。プライドが音を立てて崩れ落ちる。データで対策されるとはこういうことなのか。自分の歩んできた道、磨き上げた技、そのすべてが「古い」の一言で切り捨てられた絶望。グレイッシュブルーの瞳から、意思の光が急速に失われていった。神宮寺は立ち上がると、無防備に横たわるベスを見下ろした。
「言った通りだったろう? ……計算通りだよ、ベスちゃん」
冷酷な一言と共に、神宮寺は跳躍した。神宮寺の逞しい右脚が、呼吸すらままならないベスの喉元をギロチンドロップとして無慈悲に叩きつける。
「カッ……ゲホッ、……あ……ッ」
気管を潰され、ベスの顔が苦痛に歪む。酸素を奪われ、視界がチカチカと明滅し、世界が遠のいていく。神宮寺はそのまま、ベスの体の上に跨った。マウントポジション。しかし、彼はパンチを叩き込むことも、締め上げることもなかった。ただ、無力化したベスの両手を膝で固定し、屈み込む。神宮寺の手が、乱れた彼女のアッシュブロンドの髪に触れた。
「ねえ、ベスちゃん。今、どんな気分? 自分が世界で一番強いと思っていたお人形さんが、中身を暴かれてボロボロにされている気分は」
指先で、彼女の短い髪を一本、一本、慈しむような手つきで弄ぶ。その過剰なまでの優しさが、逆に彼女の存在を“モノ”として扱っていることを残酷なほど際立たせていた。
「……ぁ……あ……」
ベスの口から漏れるのは、もはや言葉ではなかった。恐怖と絶望、そして底知れない屈辱に支配され、彼女はプロレスラーであることを忘れ、ただの怯える少女のように震えることしかできない。
「三郎太君は見てるよ。君がこんなに惨めに、僕の下で転がされている姿をね。……彼、どんな顔で君を見てるんだろうね?」
神宮寺の囁きが、彼女の心に最後の一刺しを加える。恋する人が見ているだろう舞台の上で、これ以上ないほど無様に解体され、玩弄される。ベスの瞳には涙が溜まり、ついにこぼれ落ちた。
「さあ、仕上げだ。君のその綺麗なプライドを、粉々にしてあげるよ」
神宮寺はマウントから降りると、ベスの四肢を強引に引き寄せた。リバース・ロメロスペシャル。神宮寺はベスの背後に回り込むのではなく、彼女と正対するように向かい合い、その両腕と両脚を自らの身体で極め、掲げ上げるようにしてマットから引き剥がした。
「ひ、あ……あああああぁぁッ!」
極限まで反らされた背骨。そして、観衆に向かって大きく股を開かされ、胸を突き出させられた、あまりにも無防備で辱められた姿勢。満員の観衆の前で、ベスは宙に浮いたまま、自分のすべてを晒されていた。
「いい眺めだ。このまま固めておけば、君は僕専用のオブジェだね。……世界一美しい、敗北の鬼姫像だ」
神宮寺の勝ち誇った声が会場に響き渡る。
「ぁ……ぁ……ッ」
ベスはもはや、叫ぶ気力すら残っていなかった。空中に晒されたまま、ただ屈辱の熱さに身を焼かれ、その意識は深い絶望の淵へと沈んでいきつつあった。宙に浮いたまま、四肢を極められる絶望。神宮寺はわざと身体を小刻みに揺らし、ベスの関節、そして極限まで張られた胸部と股関節に、じわじわと嫌らしい荷重をかけ続けている。
(私……何をしているのかしら……)
ベスの意識は、猛烈な痛みと、それを上回る羞恥の濁流に呑み込まれかけていた。計算で完封され、衆人環視の中でセクハラ同然の扱いを受け、あまつさえ涙まで零して。誇りとしていた必殺技すら、この男の「データ」という冷たい刃で切り刻まれてしまった。
美学? 誇り? そんな高潔な言葉は、この無様な吊り天井の上で、熱せられた霧のように消えていく。太平プロの控室で映像を通してこのリングを見ているだろう三郎太。彼にこんな姿を見られているという事実は、死ぬよりも耐えがたかった。だが、意識の混濁の中で、あるイメージが脳裏をよぎる。
それは自分に挑んできた太平プロレスの女子レスラー、雫の姿だった。実力で及ばないと分かっていながら、涙を流し、鼻水を垂らし、それでも泥を啜るようにして自分に掴みかかってきた、あの美しくない、だが凄絶な姿。そして、かつて三郎太の首を鎖で絞め、暴虐の限りを尽くした「獣」のような御子柴の姿と、後のリベンジマッチで、反則抜きで戦った際の御子柴が続けて思い出される。意識を失いかけ、朦朧としながらもなお三郎太に掴みかかり、「見透かすな」と絶叫した、あの剥き出しの執念。
(……ああ、そうか。私は……)
ベスは悟った。自分は「優雅な白鬼」として在りたいと願いすぎていた。「綺麗」に勝とうとし、その型に自分を押し込めていたからこそ、神宮寺の提示する「データ」という枠の中に収まってしまったのだ。「勝ちたい」という願いの純度が変わる。静かに心底で燃え上がる憤怒。その紅蓮の炎の中から、歪な植物が芽を出すように、たった一つの目的――勝利――のために、他全てを、女としての羞恥もレスラーとしての美学も捨てるという「覚悟」が、彼女の魂を塗り替えていった。
「ベスちゃん、ギブアップかい? 無理しなくていいんだよ」
神宮寺が、勝利を確信した余裕たっぷりの声で揺すりながら問う。
「……ぅ……ぁ……」
ベスは反応を返さない。ただ、朦朧とした様子で意味をなさない呻きを漏らす。その瞳は虚空を見つめ、光を失っているように見えた。
「レフェリー、もういいだろう? 彼女の心は折れ、もう戦意喪失して――」
神宮寺は自ら技を解いた。完全に仕留めたと判断し、もはや抵抗の余地はないと、優雅な仕草で立ち上がり、ベスに背を向けてレフェリーに語りかける。
その瞬間だった。
「……ッ!」
死体のように転がっていたベスが、弾かれたように動き出した。獲物を狙う獣のような俊敏さで、神宮寺の脚に低く這いつくばりながらしがみつく。
「うわっ!? なんだ、離せよ!」
驚愕に目を見開く神宮寺。ベスは逃がすまいと、その力強い指先を神宮寺の白いタイツの縁に強引に引っ掛け、生爪が剥がれんばかりの勢いでマットへと引きずり倒した。
「……逃が……さない……ッ!」
地を這うような低い声。そこにはもはや、お嬢様のような丁寧さなど欠片もない。仰向けに倒れた神宮寺の上に、ベスは素早くマウントポジションに跨った。
「オラァッ! 死ねっ! 汚い手で触るなッ! このっ、このっ!」
渾身の力を込めたエルボーが、神宮寺の顔面を捉えた。一発、二発。アッシュブロンドの髪を振り乱し、整っていたはずのビスチェの肩紐が上腕へズレようとも、彼女は構わない。
「がっ!? やめろ……君はロジックでプロレスをするタイプ、野卑な暴れ方をするようなレスラーではないはず……!?」
狼狽する神宮寺に、ベスは自らの額を叩きつけた。
「知るか、大好きなデータを抱いて息絶えろっ!」
ドゴッ! という鈍い音が響く。自分自身も鼻血を吹き出すほどの、躊躇のないヘッドバット。ベスの白い肌に紅い血が散り、その表情は鬼気迫るものへと変貌していた。
「ぶっ!?」
鼻を砕かれた神宮寺の顔面からも鮮血が噴き出す。さらにベスは、神宮寺の髪を力任せに掴み、逃げ場を塞いだ。
「レ、レフェリー! 反則だ! 髪を掴んでる! 痛い、痛いよおっ!」
「アハ! 御子柴はこんな楽しさを味わっているのね! オラァ!」
髪を掴んだまま、逆の手でナックルパートを乱打する。握った拳が、神宮寺の端正な顔立ちを無残に歪めていく。
『あーっと! 拳だ! 髪だ! 清楚なベス選手が完全に「野獣」と化してますネ! 反則に厳しいレフェリーの前で大丈夫なのかしら?』
影山アナの叫びが響く中、放送席のエディ・ダンテスが狂乱したように身を乗り出した。
『待て人間(ひとま)さん! 落ち着け! ……ベス、頼むから離せ! 反則負けの連鎖で興行壊したとか言われたら私の立場がとても不味い!!』
『エディ代表、素が出てますヨ? 善玉の矜持より団体のメンツを優先しちゃってますワ』
『いやその……プロレスを成立させろって言ってるんだ! ベス、離せ! とりあえず髪を離せ!』
しかし、エディの悲鳴のような懇願は届かない。理性をかなぐり捨て、勝利という呪縛に取り憑かれた「白鬼」の暴走に、ルールを重んじるレフェリーが、厳しい表情で割って入ろうと動き出した。
『エディさんの絶叫むなしくレフェリー人間(ひとま)、今まさに動き出しましたワ!』
『あああああ!?』
解説の席から立ちあがり、エディは頭を両手で抱えて絶望の声を上げた。
リング上では、レフェリーが、鬼の形相で拳を振り下ろすベスの元へと駆け寄っていた。
「ブレイク! ブレイクだ! 髪を離せ!」
レフェリーがベスの肩を掴み、強引に引き剥がそうとする。だが、その手が触れるか触れないかの刹那、ベスはパッと手を離し、自ら神宮寺から距離を取った。まるで、最初から限界まで痛めつけた後にどう動くか決めていたかのような、冷めた動きだった。
「……チッ」
ベスは舌打ちと共に乱れた前髪を掻き上げる。その顔は鼻血と涙、そして神宮寺の血で赤く汚れていたが、瞳だけは異様なほど澄み渡っていた。
「次はカウントを取るぞ。警告だ」
レフェリーが指を突きつけ、厳しい口調で通告する。しかし、ベスはその警告を一顧だにしない。彼女の視線は、マットの上で顔面を押さえてのたうち回る神宮寺だけに注がれていた。ルールや反則、そんな些末なことはどうでもいい。ただ、目の前の男を完全に屈服させ、その魂ごとへし折ること。それだけが、今の彼女を動かす唯一の動機だった。
「……あ、ぐ……ッ、野蛮な……!」
神宮寺がうめき声を上げながら、這って逃げようとする。計算高い彼の脳内には、もはや「勝つためのロジック」など存在しなかった。あるのは、理解不能な生物に対する根源的な恐怖だけだ。ベスがゆっくりと、しかし逃げ場のない圧力を伴って近づいてくる。
「ひっ……!」
神宮寺は反射的に身をすくませた。だが、その動きこそが命取りだった。ベスは逃げようとする神宮寺の左足首をむんずと掴むと、そのまま自身の脚を絡ませ、マットへと引き倒した。
「捕まえたわ……もう、離してあげない」
低く、甘く、そして凍えるような声が神宮寺の耳元で囁かれる。ベスは倒れた神宮寺の背中に覆いかぶさると、彼の首を自身の腕で抱え込んだ。STF。ステップ・オーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック。足首を極め、同時に顔面を締め上げる複合関節技だ。だが、ベスが繰り出したそれは、教科書通りの美しいフォームとは程遠かった。自身の胸を神宮寺の背中に強く押し当て、全身の体重を浴びせるようにして密着する。顔面を締め上げる腕には、血管が浮き出るほどの力が込められ、神宮寺の頭蓋を砕かんばかりに絞り上げる。洗練された技術ではない。雫が使っていたような、なりふり構わず相手の自由を奪い、じわじわと命を削り取る泥臭い拷問技だった。
「がぁぁっ!? こ、こんなっ……僕の計算が……!?」
神宮寺の口から悲鳴が漏れる。呼吸ができず、背骨が軋み、足首が限界を超えて悲鳴を上げる。物理的な苦痛以上に彼を打ちのめしたのは、自分の背中に張り付いている「熱」だった。汗と血、そして激情が入り混じった生々しい体温。それが、彼が信奉していた冷徹なデータを焼き尽くしていく。
ベスは神宮寺の耳元で、恍惚とした表情で囁き続ける。
「お前の言うとおりになったわね。今、こんなにも抱きつきたくて堪らない……お前を仕留めるために!」
彼女は自身の頬を、血で汚れた神宮寺の後頭部に押し付けた。かつて神宮寺が彼女に対して行ったセクハラまがいの接触。それを遥かに凌駕する、殺意という名の愛撫。腕に込める力をさらに強める。メリメリと音がしそうなほどの締め上げに、神宮寺の顔色がどす黒く変色していく。
「ぎゃあああっ……!? こ……こんなのシロオニ・ベスじゃない……誰だ、お前は!?」
神宮寺は混乱の極みにあった。彼のデータベースにある「シロオニ・ベス」は、高潔で、プライドが高く、理詰めでパワーを振るう実力者だったはずだ。こんな、獣のように食らいつき、痛みも恥も捨てて襲いかかってくるような存在ではなかった。データが通用しない。予測ができない。未来が見えない。その事実は、彼にとって死の宣告に等しかった。
ベスはふと、動きを止めずに、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「……いいえ。これが、今の私よ」
綺麗に勝とうとしていた自分。理想の自分に酔って、良いところを見せたくて、華麗にと振る舞っていた自分。それらすべてを脱ぎ捨てた先に残ったのは、ただ勝利を渇望する一匹の鬼だった。泥にまみれ、血を流し、それでも相手の喉笛を食いちぎるまで離さない。それが、太平プロレスで彼女が学び、そして覚醒させた本性だったのだ。
「さようなら、データ屋さん。あなたの計算式には、この『痛み』は入力されていなかったようね」
ベスは渾身の力で、最後の締め上げを行った。首と腰、そして足首が同時に限界点を超える。
「ギ、ギブ! ギブアップだあぁっ!!」
神宮寺の手が、マットを激しく叩いた。一度、二度、三度。これ以上は壊される、死ぬという本能的な恐怖に突き動かされた、無様な敗北宣言だった。
カンカンカンカン!
試合終了を告げるゴングが会場に鳴り響く。だが、ベスは技を解かなかった。ゴングの音など聞こえていないかのように、神宮寺を絞め続ける。レフェリーが慌てて二人の間に割って入り、ベスの腕を強引に引き剥がしにかかった。
「勝負あった! 離れろ! ベス、離れるんだ!」
僅かな抵抗の後、ベスはようやくゆっくりと腕を解いた。解放された神宮寺は、咳き込みながらマットの上を転がり、這うようにしてコーナーへと逃げていく。その姿には、試合前のキザで余裕のある態度は微塵も残っていなかった。
「勝者、シロオニ・ベス!」
リングアナウンサーの声が響き渡り、ベスの手がレフェリーによって掲げられた。会場は一瞬の静寂の後、噴き上がる歓声に包まれた。それは、いつもの優雅な勝利に対する賞賛ではない。凄惨な死闘を制した勝者に対する、畏怖と興奮がない交ぜになった咆哮だった。ベスは荒い息を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。アッシュブロンドの髪は汗で張り付き、ボサボサに乱れている。顔は鼻血と涙でぐしゃぐしゃに汚れ、美しいコスチュームもあちこちが着崩れていた。だが、その立ち姿は、どんな着飾った姿よりも圧倒的な存在感を放っていた。
リングを降りようとロープを潜り、ふと顔を上げる。そこには、固唾を飲んで彼女を見つめる観客たちの顔があった。かつての彼女なら、こんな汚れた顔を見られることを恥じ、顔を隠して走り去っていただろう。だが今の彼女は違った。
「……不愉快ね。本当に」
ベスは誰に聞かせるでもなく、ポツリと吐き捨てた。右手の甲で、鼻の下の血を乱暴に拭った。赤い筋が頬に広がるが、気にする素振りすら見せない。そして、観客席に向かって、ニヤリと不敵に笑ってみせた。その笑顔は、お嬢様の仮面が剥がれ落ちた下にある、獰猛で、それでいてどこか清々しい「白鬼」の素顔そのものだった。
「す、素敵……」
最前列にいた女性ファンの一人が、呆然とした声で漏らした。
「かっこいい……」「お姉さま……抱いて……!」
その声はさざ波のように広がり、やがて会場中から「ベス! ベス!」という熱狂的なコールへと変わっていった。泥臭く、なりふり構わず勝利をもぎ取った彼女の姿は、観客の心に強烈なカタルシスと、新たなカリスマの誕生を刻みつけたのだ。
ベスは鳴り止まない歓声を背に、肩で風を切るように花道を引き揚げていく。その背中は、試合前よりも一回り大きく、そして何倍も美しく見えた。データも、計算も、小賢しい理屈もすべてねじ伏せた彼女の前には、もはやどんな障害も意味をなさないだろう。
彼女は今日、ただの「シロオニ・ベス」から、真の「鬼」へと脱皮を果たしたのだ。