「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスと新興団体ノワール・ゲートによる、若手交流を目的とした合同興行の団体対抗戦。会場を包む熱気は、もはや飽和状態を超えて爆発せんばかりの圧を放っていた。照明に照らされたリングは、ここまでに流された汗と涙、そして執念を吸い込み、異様なまでの輝きを放っている。宮川三郎太は、入場口の暗がりに立ち、深く、重い呼吸を繰り返していた。肺に送り込まれる空気さえも、観客の絶叫と熱気で熱を帯びているように感じる。ゆっくりと一歩を踏み出し、リングへと続く花道を歩み始めた。その足取りは覚悟の重さを映すように確かな力強さを伴っている。彼の脳裏には、ここまで精一杯の試合を繰り広げた仲間たちの姿が、鮮明に焼き付いている。下馬評を覆して先鋒戦を制した雫の期待の眼差し。副将戦で泥臭い勝利をもぎ取ったベスの血塗れの笑顔。そして、反則負けという形にこそ終わったが、それでも団体、ひいては自分たちのために次鋒戦を戦うと決めて対抗戦への出場を引き受けた御子柴のバツの悪そうな沈黙。
三郎太は、彼らの戦いを順に思い起こしながら、胸の奥で静かに火が灯るのを感じていた。ここから先は、繋いでもらった自分が全力を尽くす番だ。
(みんなが……繋いでくれたんだ。このバトンを、僕が無駄にするわけにはいかない……!)
三郎太は、気を引き締め直し、リングサイドへ到達すると、勢いよくエプロンを駆け上がった。コーナーに立ち、客席を見渡す。そこには再興の兆しを見せ始めた太平プロレスに期待するファンたちの、悲鳴にも似た声援があった。自分の肩には、太平プロレスの誇りが、そして仲間たちの想いがすべて乗っている。ここで自分が勝てば、団体としての勝ち越しが決まる。負ければ、せっかくの仲間たちの奮闘が、痛み分けという中途半端な結果に終わってしまう。三郎太は、その事実を真正面から受け止め、胸の奥で熱がさらに強く燃え上がるのを感じていた。いまの自分には、迷いなど一片もない。
「よし、勝つぞ……!」
声に出した言葉は、自分自身を鼓舞するためのものだったが、それはまるで鋭さをつきつめすぎた刃のような危うさの香る「願い」でもあった。
一方、反対側のコーナー。そこに立つ「ノワール・ゲート」でファン達に「天狐」と異名される若手エース、ジェニー・葛葉の振る舞いは、三郎太とはあまりにも対照的だった。ブロンドのショートボブを軽やかに揺らし、ライラック・アイと称される澄んだ薄紫色の瞳をキラキラと輝かせている。ピンクとスカイブルーを基調とした華やかなセパレートタイプのコスチュームに身を包んだ彼女は、まるでお祭りに遊びに来た子供のように、リングの上でぴょんぴょんと跳ねていた。
「あはは! いいねいいね! 今日はお客さん、いっぱーい!」
ジェニーは無邪気な声を上げ、三郎太のまっすぐな視線の圧など、そよ風ほどにも感じていない様子で手を振っている。
「ボク、今日は門脇のおっさんから三郎太くんと遊べるって聞いて、ずっと楽しみにしてたんだ。せっかくだし、最高の時間にしようね!」
「あ、遊び……?」
三郎太の頬が微かに引き攣った。自分たちが、そして仲間たちが血を吐く思いで繋いできたこのリングを、彼女は「遊び場」と呼んだ。その悪意のない、透明なまでの無邪気さが、三郎太の心に冷たい戦慄を走らせる。彼女の精神構造は、この極限状態の勝負の場において、あまりにも浮世離れしていた。
放送席では、この異様な空気感を伝えるべく、実況と解説がマイクを握っている。
『さあ、ついに迎えました大将戦! 今夜の熱狂を締めくくるに相応しい、魂の激突を期待したい所ですネ! さて、ここまでのスコアは太平プロレスが2勝、ノワール・ゲートが1勝。この最後の一戦で太平プロレスが堂々の勝ち越しを決めるのか、それともノワール・ゲートが引き分けへと持ち込むのか……まさに正念場です! ここまでの各試合、エディさん、どのようにお感じになりましたか?』
解説席に座るのは、太平プロレスの友好団体「オトギプロレスリング」の社長兼レスラー、エディ・ダンテスだ。彼女は腕を組み、鋭い眼光でリング上の二人を見つめていた。
『うん、新興団体が天下の太平プロレスによく食らいついている……と言いたい所だが、取ってる1勝が御子柴の反則負けだからな……。この大将戦がノワール・ゲート側の真価を見せられるかの鍵になるだろう』
エディの声には、どこか言い淀むような硬さがあった。どうやら御子柴戦の裁定のことをまだ気にしているらしい。
『厳しいお言葉ですわネ。さて、宮川三郎太と言えば太平プロレスの若手エースの呼び声も高い方、しかも彼はかつて一世を風靡し世界大会であるアースクラッシュ・トーナメントで優勝したあのモモタロウの弟分的存在でもあるそうですネ。公式戦でデビューから無敗のジェニー・葛葉が彼相手にどこまで通用するのかが見どころでしょうか?』
ニコニコ笑って話を振る影山に、しかし、エディはなにやら思う所があるのか返答まで一拍の間があった。
『……。……そうだな』
三郎太の顔を見つめ、そしてここに居ない誰かを見るかのように目を僅かに一瞬細めてエディはゆっくり息をつくように同意する。
『視聴者のコメント欄でも、「三郎太の地力が勝る」「モモタロウの後継が負けるわけないだろ、勝ったな風呂入ってくる!」「おいばかやめろ」という意見や、「ジェニーの底が知れない」「可愛いは正義」「ぺろぺろしたい」という声で、皆さんどちらが強いかは真っ二つに判断が割れているようですわネ。さあ、運命のゴングは間もなくです! 興味深く試合を見守りましょう!』
『いや、今地味に変なの混じってなかったか?』
エディは影山の手元を二度見する。完全に「変なコメント」の方に意識を持っていかれた顔だった。
試合開始を告げる乾いたゴングの音が、超満員の会場に鳴り響いた。
その音と同時だった。宮川三郎太は、その身に纏った想いをすべて推進力に変えるかのようにマットを蹴った。弾丸のような突進。最短距離を突き進むその勢いのまま、低い姿勢から肩を突き出し、ジェニー・葛葉の懐へと飛び込む。
「行くぞ、うおおぉっ!」
渾身のショルダーブロックがジェニーの胴体を捉えた。衝撃で宙に浮くジェニーの体。だが、三郎太の予想に反して、彼女は無様に吹き飛ぶことはなかった。空中で猫のようにしなやかに身を翻すと、驚異的な平衡感覚で四肢をマットにつき、音もなく着地してみせたのだ。
「……ッ! 強いね、三郎太!」
着地したジェニーが、弾むような声で笑う。その瞳は不安や恐怖ではなく、未知の玩具を見つけた子供のような喜色を湛えていた。三郎太に立ち止まる余裕はない。着地したばかりのジェニーを逃がすまいと、すぐさま追撃のドロップキックを放つ。動きを止めず慣性をそのまま乗せた鋭い一蹴。しかし、ジェニーは遊ぶような軽やかさでマットを横に転がり、その攻撃を紙一重で回避した。標的を失った三郎太の体は空を切り、無慈悲に硬いマットへと落下自爆を喫する。鈍い衝撃が三郎太の背中を打つ。すぐさま起き上がろうとするが、そこへジェニーの反撃が襲いかかった。彼女はバネのように跳躍し、空中で独楽のように身を翻すと、三郎太の首筋を右足で鋭く薙ぎ払った。放たれたのは、鮮やかなレッグラリアート。
「あはっ、いい突進! でも、重すぎ! もっと肩の力抜きなよ!」
ジェニーの言葉が、衝撃と共に鼓膜を叩く。首を刈られた三郎太は激しくよろめき、視界が火花を散らす。彼女にとっては、この極限の攻防さえも「重苦しいクソ真面目さ」に映っているのか。仲間の想いを背負い、一歩も引けない自分を否定されたような感覚に、三郎太の心に熱い怒りがこみ上げた。
「……っ、ふざけるな!」
三郎太は朦朧とする意識を根性で繋ぎ止めると、着地したばかりのジェニーの背後へと回り込む。その細い腰を強引に抱え上げ、荒々しいアトミックドロップで膝を突き立てるようにしてマットへ叩きつけた。
「きゃんッ!?」
ジェニーの口から、可愛らしいが苦悶の混じった悲鳴が漏れる。三郎太は攻撃の手を緩めない。間髪入れずにジェニーをロープへと突き飛ばす。跳ね返ってくる彼女をエルボーで迎撃しようと、自らも対面のロープへと走った。
だが、二人がリング中央で交差する刹那、ジェニーの動きが加速した。三郎太のエルボーが届くより一瞬早く、彼女の膝が突き刺さる。鋭いキッチンシンクが、三郎太の無防備な鳩尾をえぐった。
「へへ、ボクの勝ちぃ♪」
「うぐっ……!?」
肺の空気をすべて吐き出させるような一撃。呻きを上げる三郎太に対し、ジェニーは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。三郎太が呼吸を整える暇さえ、彼女は与えない。屈み込んだ三郎太の顔面を両手で掴むと、自らの両膝を突き出しながらその首に飛びついた。
「きっついのいくよぉっ!」
落下加速を加えたコード・ブレイカーが、三郎太の顔面をジェニーの膝へ叩きつける。
「がっ!?」
鼻腔を突くマットの匂いと、脳を揺らす衝撃。意識が遠のきかけるが、三郎太の肉体はまだ死んでいなかった。経験が、執念が、無意識が彼の体を突き動かす。
「うへ、倒れないのぉッ!?」
目を丸くするジェニー。顔面を打ち付けられた反動を利用するようにして、三郎太は鼻血をわずかに垂らしつつも、逃さずジェニーの腰を抱えたまま強引に立ち上がった。三郎太は荒い呼吸を乱しながら、自分に言い聞かせるように叫んだ。
「ここで……負けるわけにはいかない!」
体が覚えた基本の投げが、条件反射のように動きへと変わる。流れるように放たれたバックドロップが、ジェニーの華奢な体を高く舞わせ、垂直にマットへと叩きつけた。三郎太は止まらない。ダウンしたジェニーの脚を逃さず掴み取って、そのままひっくり返し、どっしりと腰を落とした。
「これで……どうだ、ギブアップしろっ!」
全体重を乗せ、彼女の背骨を極限まで反らせていく。三郎太の得意技、逆エビ固めだ。
「ぎゅぅぅぅぅっ……!? な、なんのまだまだっ!」
ギリギリと音を立てて絞り上げられる腰の痛みに、ジェニーは顔を歪めて呻き声を上げた。しかし、その瞳は絶望に沈んではいない。むしろ、この苦境をどうやって攻略するか、どうやってこのプロレスの試合の勝利への道筋を楽しむかという、純粋な興奮にギラギラと輝いていた。腰が砕けそうなほどの激痛が走っているはずだった。だが、ジェニー・葛葉の動きには、生物として当然あるはずの焦りや恐怖といったノイズが一切混じっていなかった。
「ぎ……、くぅ……っ!」
ジェニーはマットを爪で引っ掻きながら、匍匐前進のようにじりじりと体を動かし始めた。三郎太はそれを許すまいと、さらに腰を落として締め上げる。しかし、ジェニーの体は驚くほど柔軟だった。彼女は痛みを逃がす角度を瞬時に見極め、三郎太の拘束をわずかに緩ませると、その一瞬の隙を突いて腕を限界まで伸ばした。指先が、ロープに触れる。
「ブレイク! ロープブレイク!」
レフェリーの鋭い制止の声。三郎太は舌打ちを一つ漏らし、不本意ながらもロックを解除して両手を挙げた。解放されたジェニーは、這うようにしてロープの下へ逃れると、荒い息を吐きながらも、どこか楽しげに口元を綻ばせた。
その軽薄なまでの明るさに、三郎太の眉間には深い皺が刻まれる。こちらは命を削る思いで技を仕掛けているというのに、彼女にとってこれは単なる「セーフ」か「アウト」かの遊びに過ぎないのか。三郎太は休む間を与えまいと背後から迫る。だが、ジェニーは三郎太の心理さえも利用した。彼女はロープを背に立ち上がると、反動をつけて勢いよく倒立した。三郎太の追撃をかわすように身を翻し、バネのような全身の筋肉を躍動させる。
逆立ち状態で回転しながら繰り出された肘が、三郎太の顔面を正確に捉える。
「お返しだぁっ!」
ハンドスプリング・エルボーによる予期せぬ角度からの打撃に、三郎太の顎が跳ね上がる。その一瞬の硬直を、天才少女は見逃さない。彼女はリングを遊び場のように駆け回り、コーナーポストへと疾走した。トップロープへ軽やかに駆け上がると、そこから重力をあざ笑うかのように宙へと舞う。三郎太が顔を上げた瞬間、視界を覆ったのはジェニーの両脚だった。肩口に飛び乗られ、その両脚が三郎太の首を強固にホールドする。
「ほーら、いくぞぉ♪」
三郎太の首を両足で挟み込み、遠心力を利用して旋回する。フランケンシュタイナーにより世界が回転した。三郎太の巨大な体が宙を舞い、脳天からマットへと叩きつけられる。会場が大きなどよめきと歓声に包まれた。
受け身をとったものの、首へのダメージは深刻だ。それでも三郎太は、這いつくばることを自分に許さなかった。すぐに立ち上がり、追撃に備える。ジェニーはすでに次の攻撃体勢に入っていた。獲物を見つけた猛禽類のように、真正面から飛びかかってくる。
(速い……だが!)
三郎太は重心を極限まで低く沈めた。迫りくるジェニーの速度と軌道を冷静に見極め、自身の内側にある「気」を練り上げる。まるで居合いの達人が刀を抜く寸前のような、静謐かつ爆発的な溜め。ジェニーが間合いに入った瞬間、三郎太はバネのように体を弾けさせた。下から上へ、突き上げるような鋭利な肘打ち。
「おおおおおっ!」
渾身の気迫を纏ったファイナルエルボーの淡く輝きを帯びた右肘が、ジェニーの腹部に深々と突き刺さる。ドゴォッ、という重い打撃音と共に、ジェニーの小さな体がくの字に折れ曲がった。その威力は凄まじく、彼女は吹き飛ばされ、背中からコーナーポストへと激突する。
「ごふっ……ス、スゴ……あんな姿勢からこの威力! さすがだね三郎太!」
肺から空気を絞り出され、咳き込みながらも、ジェニーの瞳は称賛の色を湛えて輝いている。その余裕が、三郎太の闘志にさらに油を注いだ。まだだ。まだ足りない。三郎太はコーナーに詰まったジェニーを逃がすまいと、鬼の形相で距離を詰めた。ぐらつく彼女の胴を両腕でガッチリと抱え上げる。
「逃がさないぞ……!」
その瞬間、三郎太の脳裏をよぎったのは、先月の試合で死闘を繰り広げた相手である御子柴の姿だった。彼女にリベンジマッチを挑むにあたって練習を重ねた記憶に体が瞬時に反応し、繰り出すべき技を選択する。放たれるのはスパインバスター、三郎太は自らも倒れ込むように体重を浴びせ、ジェニーの背中をマットへと叩きつけた。
「かはっ!?」
マット全体が悲鳴を上げるような轟音。御子柴の「アビスキャットドライバー」に威力こそ及ばないがそのフォームを彷彿とさせる一撃だった。さすがのジェニーも、これにはたまらず苦悶の表情を浮かべるはずだ。三郎太は追撃の好機と確信し、次の一手へ繋げようと動く。しかし。常識という概念は、ジェニー・葛葉の前では無力だった。彼女はダウンするどころか、マットの反動を利用したかのような速度で瞬時に上半身を起こしたのだ。片膝をついて立ち上がろうとしていた三郎太の目の前に、彼女の影が落ちる。
「……立て膝、みーっけ♪」
無邪気な声と共に、ジェニーが宙を舞った。三郎太が突き立てていた膝を、あろうことか踏み台にしたのだ。全体重を乗せた踏み切りから、至近距離で放たれる閃光のような膝蹴り。すなわち、シャイニングウィザードである。
「がっ!?」
側頭部を擦るような鋭い一撃。まともに食らっていれば意識を刈り取られていたかもしれない。三郎太は首を捻って直撃を避けたが、それでも衝撃で視界が揺らいだ。だが、三郎太の体は倒れない。脳裏に浮かぶ、血まみれで笑うベスの姿。彼女の不屈の闘志が、三郎太の背中を支えていた。朦朧とする意識の中で、着地したジェニーの体を本能的に求めた。ふらつく足取りで、それでも正確に、立ち上がろうとするジェニーの体を捉える。
「……凌いだ! 今だ!」
脇の下に腕を差し込み、手首をクラッチする。この形は、ベスの得意技。
「おぇっ!?」
ジェニーが慌てて逃れようともがくが、三郎太の腕力は万力のように固い。雄叫びと共に、三郎太は体を反らせてジェニーをエクスプロイダーで後方へとブン投げた。
「きゃうっ!?」
ジェニーの体が放物線を描き、マットに叩きつけられた。三郎太は荒い呼吸を繰り返しながら、よろめくようにして間合いを詰める。今の連撃で、ジェニーの動きは確実に止まったはずだ。これですべてを終わらせる。仲間たちが繋いでくれたこのバトンを、勝利というゴールへ叩き込むために。三郎太はふらつくジェニーに正面から組み付くと、その脇に頭を突っ込み、両腕で腰をがっちりとクラッチした。太平プロレスの至宝、数々の戦いで頼りにしてきた三郎太のフェイバリット。
「……畳みかける。今しかない! くらえぇ!」
三郎太は全身全霊を込め、後方へと反り投げようと踏ん張った。ノーザンライトスープレックス。美しいブリッジと共に、ジェニーはマットに沈み、3カウントを聞くことになる。その未来を疑わなかった。
「……ここだぁ!」
投げの頂点に達する寸前、ジェニーの声が、耳元で響くと同時に異変が起きた。ジェニーの両脚が、まるで蛇のように三郎太の右脚に絡みついたのだ。
(なっ……ロックされた!?)
三郎太の脚が固定され、ブリッジのための踏ん張りが利かなくなる。同時に三郎太自身の右脚が鎖のようにジェニーの身体を通じて反り投げの可動域を制限し、投げの軌道が強引に逸らされてしまう。投げの途中の体勢ではいかんともしがたく、三郎太はバランスを崩してしまうしかない。そのまま二人の体はもつれ合うようにして崩れ、ただの重たい転倒となってマットへ落ちた。必殺の一撃は、完全に不発に終わった。
「……!?」
三郎太は何が起きたのか理解できなかった。もつれた体勢のまま、三郎太はジェニーの顔を見る。そこにあったのは、苦痛に歪む表情ではなかった。あったのは、難解なパズルを解き明かした時のような、純粋で残酷な「攻略完了」の笑顔だった。
『返したぁ! なんとここで宮川三郎太の必殺の一撃、ノーザンライトスープレックスがジェニー・葛葉に破られました! 完璧に読まれていたのでしょうか!? 誰もが決まるかと思っていた勝利の方程式がまさかの崩壊!』
場内は悲鳴にも似た歓声と、どよめきに包まれた。必殺のフルコースが完成し、あとはメインディッシュを平らげるだけだと思われていた矢先の出来事。マット上で同体となってもつれ合う二人を見て、観客もまた状況を飲み込めずにいる。
『ノーザンライトスープレックスは別に彼の専売特許ではない。本来、破られたからといって驚くほどの事ではないんだが……今のは完全に対三郎太用の動きだったな。事前にあらかじめ対策を組んでいたのは間違いない』
解説席のエディ・ダンテスが冷静に分析する。その言葉通り、ジェニーの動きには迷いがなかった。三郎太がブリッジで反り投げようとする力のベクトルを、脚のロック一つで完全に殺し、必殺を不発へと解体してみせたのだ。それは即興のひらめきというよりは、幾度もシミュレーションを重ねた者だけが持つ、確信に満ちた防御だった。三郎太はマットに大の字になったまま、瞬きすら忘れていた。
(防がれた? いや、対策されていた……初対戦で?)
数々の強敵を沈めてきた絶対の切り札。それが、いともたやすく、まるで子供騙しの手品を見破るかのように無効化された。思考が真っ白に染まり、次の動作への命令が脳から送られない。戦いの最中にあるまじき完全な停止。
『両者もつれあって同体でマットを転がったぁ! この結果に宮川三郎太、放心状態! かなりのショックを受けているようですネ! あぁ~っと、ジェニー・葛葉が呆けている宮川三郎太を捕まえた!?』
『経験不足か気負い過ぎか、ここでの隙のツケは高くつくぞ、三郎太……!』
その隙を、天真爛漫な捕食者が見逃すはずもなかった。ジェニーは三郎太の動揺など意に介さず、ぴょんっと軽やかに起き上がると、呆然とする三郎太の体を無理やり引き起こした。
「……くッ!」
三郎太がようやく現実に意識を引き戻した時には、すでに天地が逆転していた。ジェニーが三郎太の巨体を肩に担ぎ上げたのだ。変形のファイヤーマンズキャリー。小柄な彼女のどこにこれほどのパワーがあるのか、三郎太の体は抗う間もなく宙に浮いていた。
「あは! 神宮寺クンの言ってた攻略法、効果てきめんだね! ほらほら呆けてると大ピンチだよ!」
担がれた三郎太の耳元で、ジェニーが無邪気な声を弾ませる。
(神宮寺……!?)
「ノワール・ゲート」の参謀格、副将戦でベスの必殺技への返し技を繰り出し追い詰めながらも獣のように覚醒した彼女によって敗北したあの男の差し金か。三郎太がその事実に戦慄する暇もなく、ジェニーは担ぎ上げた三郎太を勢いよく回転させながらマットへ叩きつけた。その軌道は、まるで背中に揺れる狐の尻尾を振り下ろすかのようにしなやかで、残酷だった。背中を強打し、肺の空気が強制的に排出される。三郎太が苦悶に顔を歪めるのと同時に、ジェニーはすでに次の遊び場へと向かっていた。彼女は獲物を仕留める歓びに瞳を輝かせながら、コーナーポストを駆け上がる。トップロープの最上段、リングという世界で最も高い場所へ。会場の照明を背に受けた彼女は、まるで光の精霊のように見えた。観客の視線が一点に集中する中、ジェニーは迷いなく宙へ身を投げた。身体を極限まで伸展させ、空中で美しい一回転の捻りを加える。重力と遠心力を味方につけ、流星のごとき速度で落下していく。シューティングスタープレス。
「ぐはぁっ……!!」
回転の勢いを乗せた全体重が、三郎太の腹部に深々と突き刺さった。内臓が潰れたかのような衝撃。三郎太の口から声にならない悲鳴が漏れる。意識がブラックアウトしかける中、ジェニーはそのまま三郎太の体を押さえ込み、レフェリーがマットを叩き始めた。
「ワン! ツー!」
(終わる……? ここで、僕が……?)
薄れゆく意識の中で、三郎太の脳裏に仲間の顔がフラッシュバックした。
「……まだ、だぁ……っ!」
三郎太は本能だけで背中を弾いた。レフェリーの手が三度目のマットを叩く寸前、カウント2.9でのキックアウト。会場が割れんばかりの歓声に包まれる。首の皮一枚繋がった。誰もがそう思い、三郎太の驚異的な粘りに息を呑んだ。しかし、ただ一人、ジェニー・葛葉だけは違った。彼女は自分の必殺級の技を返されたというのに、悔しがる素振りすら見せなかった。むしろ、「あは、やっぱりね!」とでも言いたげな満面の笑みを浮かべ、当然のように三郎太の髪を掴んで引き起こしにかかる。自分が三郎太の立場なら、まだ遊べる。だから三郎太も、まだ遊べるはずだ。彼女にとって、このキックアウトは計算外の抵抗ではなく、続きを楽しむための過程でしかなかった。
「すごいや、三郎太! でもボク、まだ必殺技があるんだ♪」
ジェニーの声には、純粋な称賛と、それを上回る興奮が混じっていた。彼女はふらふらと立ち上がった三郎太の正面に立つと、その頭を下げさせ、胸で後頭部を押さえるようにして両腕を脇の下から差し込んだ。変形のフロント・フルネルソン。三郎太の腕と首が完全にロックされ、逃げ場が塞がれる。
(しまっ……これ、は……!)
三郎太が抵抗しようと力を込めるが、ジェニーのクラッチは鋼鉄の鎖のように解けない。
「……これでおしまいだよ、スターダストスープレックス!」
ジェニーは大きく息を吸い込むと、全身のバネを使って後方へと反り投げた。美しいブリッジが描かれる。三郎太の体は頂点から垂直に近い角度でマットにその背を叩きつけられた。
「が……ッ」
もはや受け身など取れる角度ではなかった。腰を強打され、首と背骨に破壊的な衝撃が走る。これまでで最も重い衝撃音が、会場の喧騒を強引に黙らせた。 ――しん、と静まり返った世界の中心で、三郎太は自分の心臓が跳ねる音だけを、耳の奥で酷く大きく聞いていた。 その鼓動が一つ打つたびに、体から力が、熱が、急速に失われていく。もはや指先一つ、動かすことさえ叶わない。
三郎太の意識は急速に闇に包まれていく。そのまま美しいブリッジで固められる。レフェリーの手がマットを叩く音が、三度虚しく響いた。
「ワン! ツー! ……スリー!」
カンカンカンカン!
試合終了を告げるゴングが、残酷なまでに高らかに鳴り響く。場内の熱気は最高潮に達し、勝者ジェニー・葛葉を称える大歓声が爆発する。だが、太平プロレスの陣営だけは、凍りついたように静まり返っていた。
「先輩……っ!! 嘘……!?」
控え室でモニター前にかじりついていた雫が、信じられないものを見る目でリングを見つめていた。今日の三郎太のコンディションは決して悪くなかった。あの日、襲来したベスと戦った試合後半の動き以上だったはずだ。同年代の若手が相手なら、絶対に負けるはずがない。そう信じて疑わなかった雫の心は、目の前の凄惨な結末を拒絶するように激しく震えていた。
その隣で、ベスもまた険しい表情で立ち尽くしていた。
「……まさか。三郎太さんのノーザンライトをあんな形で破るなんて。ジェニー・葛葉……あの女、強い……」
ベスの背筋を、冷たいものが走り抜ける。ただの天真爛漫な小娘だと思っていた。だが、あの土壇場での対応力、そして相手の技を受けきった上で上回る底知れないスタミナ。ひょっとしたら、自分よりも……。ベスはリング上で無邪気に勝ち名乗りを受けるジェニーの姿を凝視したままだ。努めて冷静さを装おうとするその声は、隠しきれない戦慄に震えていた。
そして、御子柴。いつもなら三郎太の無様な敗北を嘲笑ってもおかしくないはずの女。だが、彼女はただ静かにリングを見つめていた。
「…………」
その瞳には、いつもの嗜虐心も愉悦もなかった。腕を組み、沈黙を守ったまま、打ち砕かれた三郎太という存在を見つめている。
リング中央。大歓声の渦の中心で、宮川三郎太は仰向けになったまま動けずにいた。視界いっぱいに広がるのは、眩しすぎる天井のライト。耳の奥で、実況の声や観客の熱狂が、まるで水中にいるかのように遠く、歪んで聞こえる。体は岩のように重く、指一本動かす気力が湧かない。それ以上に、心の中が空っぽになっていた。
虚無。
団体を背負うという重い責任。仲間たちが繋いでくれた熱い想い。そして何より、絶対に勝つという自分自身への誓い。そのすべてを注ぎ込み、全霊を懸けて挑んだ結果が、この乾いたマットの感触だった。
(負けた……。僕は、負けたのか……?)
敗北の味は、苦いというよりも、味がしなかった。ただひたすらに、自分が積み上げてきたものが崩れ落ちた後の、空虚な更地が広がっているだけだった。
そんな彼の視界に、ふいに金色の髪が入り込んできた。ジェニー・葛葉が、上から三郎太の顔を覗き込んでいたのだ。汗に濡れた肌をキラキラと輝かせ、彼女は最高の笑顔を向けてきた。
「三郎太、今日はすっごく楽しかったね! また、遊ぼうね♪」
無邪気で、どこまでも透き通った声。悪意など微塵もない、心からの言葉。だが、その言葉こそが、三郎太の心を最も深く抉った。自分にとっての「死闘」は、彼女にとっての「楽しい遊び」に過ぎなかった。その事実は、全力を尽くして敗れた三郎太にとって、どんな罵倒よりも重く、残酷な「拒絶」として心に刻まれた。彼女の輝くような笑顔と対照的に、三郎太の瞳から光が失われていく。
太平プロレスの若手エース、宮川三郎太。彼はこの日、熱狂する会場の真ん中で、初めての挫折という名の暗く深い闇の中に、たった一人、置き去りにされた。